カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

フランス・ル ピュイ アン ヴレ(その1)

2013-07-19 | フランス(オーヴェルニュ)
今朝、リヨン・パールデュー駅を発ち、約130キロメートル南西に位置する「ル ピュイ アン ヴレ駅」(Le Puy-en-Velay)に到着した。乗車中に降っていた雨はこの時間止んでいる。駅前に降り立ち振り返ると、えんじ色に白のラインで彩られた真新しい2階建ての駅舎が建ち、頂部に飾られた時計は、正確に時刻(午後2時半)を指し示していた。早朝にリヨンを出立したにも関わらず「サン テティエンヌ駅」での乗り換えの待ち時間も長く、半日近くかかったことになる。。


駅前には、バス停やタクシー乗り場がある小さなロータリーがあるが、降車客のほとんどが右側奥にある駐車場に歩いて行った。左方向に向かう車道を歩いて行くと、緩やかに右に曲がった前方は丁字路で、正面に6階建てのオレンジ色の建物が建っている。こちらはアコーホテルズが展開する「ホテル・イビス(Ibis)」で、今夜はここに泊まることとしている。
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ホテルに向かって右側後方には「コルネイユ山」が望め、山頂には大きな聖母子像(ノートルダム・ド・フランス像)が飾られている。もともとコルネイユ山は、隆起した火山の名残りで、ル ピュイ アン ヴレ(以下:ル ピュイと言う)の街(標高630メートル)は、山頂(比高約70メートル)の南中腹に建つ「ル ピュイ大聖堂」から麓にかけて広がっている。そして、そのコルネイユ山の麓を周回する様に幹線道路(N102号線)が北東方面から緩やかに右に曲がりながらホテル・イビス前を通って西方面に延びている。

ホテルにチェックインし、部屋のベッドで横になっていると、疲れからか寝てしまった。1時間後に目を覚まし、ホテル前の幹線道路沿いの歩道を歩いて西方面に向かう。右側には、ファーストフードやカフェ、レストラン、ショーウインドーなどが建ち並ぶ賑やかな通りが続いており、南側(反対車線)には、広い平面駐車場、劇場、裁判所、庭園(アンリ・ヴィネ庭園)などが広がっている。

観光案内所方面の表示を右折して、石畳の北側に向かうなだらかな上り坂「ポルト・エギィエー通り(porte Aiguière)」を進む。左右にアーチ装飾や、オスマン風のバルコニー等、歴史的な建造物が建ち並ぶ旧市街の街並みが続き、前方の緑鮮やかな樹の遠く先に、山頂に立つ聖母子像が望める。
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前方の緑は傾斜地に造られた「メリー広場(Place de la Mairie)」の中心に立つ広葉樹で、その西側(左側)には、広場を見下ろす様に1766年に建築家ジャン・クロード・ポータルにより建てられた「ル ピュイ市役所(Mairie)」が建っている(歴史的記念物、1951年指定)。ちなみに観光案内所は広場の北側高台にある。

市役所の手前を左折し「サン・ジャック通り」を西に進み、右側の「プロ広場」を通り過ぎた先の交差点手前に「コキーユ・サン・ジャック(Coquille Saint-Jacques)」があり、店舗前には、ホタテ貝を表した看板が立っている。こちらは、お肉を中心としたデリ・ショップで、店内のガラスケース内には美味しそうな総菜が並んでいる。


サンジャックとは、キリストの使徒の一人「聖ヤコブ」のことで、ホタテ貝がヤコブのシンボルとなっている。9世紀に、ヤコブの遺体が、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラで発見されたことから巡礼路が整備され、ル ピュイが、巡礼地へ向かう出発地の一つとなっている。

交差点の先向かいには海をイメージしたマリンブルー外観のデリ・ショップ「ジャック・ファルゴー・マレ(Jacques Fargeau Marée)」があり、ガラスケース内にシーフード料理が並んでいる。


共に美味しそうだったので、夕食はホテルの部屋で食べることにし、それぞれのショップで総菜を買い、交差点の右奥にあるスーパーマーケット「カルフール」でワイン、ビール、ミネラルウォーターなどを買ってホテルに戻った。


ところで、もともと、ル ピュイでの滞在は1泊の予定で、翌日に移動する予定だったが、急遽やむを得ない事情が発生し、出発することができなくなった。。こちらのホテルの宿泊を延長するか思案しているところ。。

ホテルの部屋から夕暮れ前の通りを眺めながら飲んでいると、真下のホテルの看板に気が付いたので、明日訪ねてみることにする。テレビを付けるとドラゴンボールが放映されており、悟空を始め全員がフランス語をしゃべっていた。。


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翌朝、ホテル・イビスの向かい側にあるホテル(Le Régional)に行ってみた。1階のバーにいた女性オーナーに尋ねると宿泊は可能とのことで、部屋を見せてもらった。部屋は、オートロック付きの専用ドアから階段を上った2階で、廊下の左右に部屋が並んでいる。シャワーとトイレは共同だが、部屋は、北側の水路側で静かで、洗面所もあり、思ったより清潔だったので泊まることにした。


今日は、これから、コルネイユ山の山頂に建つ聖母子像と、その中腹にある「ル ピュイ大聖堂」の見学を予定している。ホテル・イビスのすぐ西側から旧市街に入り、東西に伸びる石畳のショサード通り(Rue Chaussade)を西方面に歩いて行く。通りは旧市街の目抜き通りといった様相で、衣料品、ドラッグストア、お土産、小物などのショップが数多く並んでいる。

しばらくすると広葉樹の「メリー広場(Place de la Mairie)」になり、後方に市役所のファサードが現れる。通りは、市役所を境に二股道になり西に向かっている。今日は市役所に向かって右側の「クールリ通り(Rue Courrerie)」を進むと、その先で交差路になり、右側にル ピュイ大聖堂への近道「シェヌブトゥリー通り(Rue Chenebouterie)」が延びている。そして左側に多くの買い物客でにぎわう「プロ広場」がある。広場中央には、13世紀(18世紀再建)に建てられた「プロ噴水」(歴史的記念物、1907年指定)が飾られている。
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「クールリ通り」はプロ広場から「パヌサック(Pannessac)通り」と名前を変え、引き続き、西に向け石畳が続いている。こちらは、そのパヌサック通りから東側のプロ広場方面を振り返った様子で、左右にはショーウインドーが並ぶ17世紀頃に建築された色とりどりの住宅が続いている。
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左側(北側)に視線を移すと、細い路地が北方向に延びており、洋服店と宝石店との建物がアーチで繋がっている(18世紀築)(歴史的記念物、1984年指定)。洋服店側の2階角には、聖母像のある龕(タベルナークロ)が見える。


右側の宝石店側の2階側面壁にも、龕か窓があった跡が見える。もともと、大聖堂に向かう通路の名残りで、巡礼や礼拝に向かう人々の安寧を祈って作られたものなのだろうか。通りは右に曲がりながらなだらかに上って行くが、途中で行き止まりになる。


すぐ西隣にも細い路地があるので、入って行くと、右側に幅広いアーチ扉が2つ並ぶ古い住宅が建っている。それぞれ上部に口を開けた男の頭部像が飾られ、「1689」と刻まれた石がはめ込まれていることから17世紀に建設されたことが分かる。当時、この場所には妻の不貞を知っていながら、それを大目に見る明るい夫たちが集っていたとのこと。
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再び「プロ広場」まで戻り、左折(北側)して「シェヌブトゥリー通り」を上って行く。すぐ右側には、リンテルに女性頭部像が飾られた中央扉があり左右に大きなアーチ戸を備えた古い建物がある。現在は女性服のショーウインドーだが、壁面上部の幕板そばに16世紀「メゾン・ドゥ・カジェール(Maison du Cagaire)」と書かれた小さなパネルが設置されている。
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更に、北に向かって200メートルほど坂道を上って行くと、西から東に延びる(参道)「ターブル通り(Rue des Tables)」との交差路に到着する。交差路の右角のレースショップを右折し、「ターブル噴水」(14世紀築)を過ぎ、東方向に急勾配の坂道を上って行くと目的地の「ル ピュイ大聖堂」に至る。こちらは、ターブル通りの途中から「ターブル噴水」方面を振り返った様子である。
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前方に「ル ピュイ大聖堂」が見えてきた。ノートルダム・ド・アノンシアション大聖堂(受胎告知の聖母大聖堂)とも呼ばれ、初代神聖ローマ皇帝シャルルマーニュ(カール大帝)(742~814)時代から、巡礼の中心地であった。建設の大部分は12世紀の前半に遡るが、古くは5世紀から始まり15世紀にかけて繰り返し改築され現在に至っている。また、スペインにある聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路への「ル ピュイの道」の出発地点にもなっている。
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大聖堂は西側を正面に、中央に大きな半円形アーチと左右に小アーチを備えた5層からなる12世紀建築のロマネスク様式のファサードで、60段ある大階段の上に建っている。
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日中は逆光になるため、美しいファサードを見学するためには、夕方来るのがお勧め。西日がファサードに反射し、明暗の火山石が組み合わさる壁のコントラストや、頂部のペディメントの細かいモザイク装飾などもはっきり確認することができる。
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ファサード前の階段を上って3つのアーチのある中央ポーチの下から振り返ると、ターブル通りの急勾配の坂と、朱色の屋根で統一された街並みを始め遠くの山々まで一望できる。大聖堂は、コルネイユ山の南中腹にあり、ル ピュイの街の建造物としては最高地点になる。
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見上げると、天井は4つのアーチ・ベイと交差ヴォールトで形成されている。1番目と2番目のベイを支える柱頭には、テトラモルフ(福音書記者)の浮彫が施されている。こちらの南側ベイは、人(マタイ)と獅子(マルコ)で、北側ベイには、雄牛(ルカ)と鷲(ヨハネ)が刻まれている。
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次の中央ベイ・アーチの下部には、預言者イザヤと洗礼者ヨハネが描かれたフレスコ画がある。
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フレスコ画は13世紀前半に描かれたもので、左右のタンパン(ティンパヌム)にも残っている。左側は「玉座に座る聖母子」で、両脇に天使を配した聖母マリアと幼子キリストが正面を見据えており、預言者エレミヤとエゼキエルが傅いている。
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右側のタンパンには「キリストの変容」が描かれている。タボル山(ガリラヤ湖南端)に立つ白く輝く姿のキリストが、左右の預言者モーセとエリヤと語り合う奇蹟を、三人の使徒ペトロ、ヤコブ、ヨハネに見せている。その上のアーチには、ヤシの葉を持つ聖ローレンス(聖ラウレンティウス)(225~258)と聖ステファノ(5~36頃)が描かれている。
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左右にはヒマラヤ杉の扉があり、表面には「キリストの生涯」を題材にした12世紀制作の浮彫パネルがある。パネルの周囲にはアラビア文字を模した装飾が施されている。損傷が激しいが、上部は比較的良く残っている。こちらは、北側扉の浮彫でキリストの幼少期が刻まれている。
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アーチベイの先には鉄柵が設置されたアーチ扉があり、この先の階段を60段上りきると身廊内部に到着する。初期の大聖堂は5世紀、ローマ時代にあった岩山の神殿跡地に建てられたが、当時はかなり小さい聖堂だった。その後、増加する巡礼者の受け入れのため、9世紀以降、当時の聖堂に継ぎ足をし斜面からせり出す形で拡張したことから、建物の支えが下がり、階段を内部に取り込む現在の姿になったという。
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階段は、左右に設置された会衆席の最前列付近に到着する。目の前には、照明が照らされ眩く輝く本尊「聖母子像」が祀られた主祭壇が現れる。逆に後ろを振り返ると、遠くの拝廊手前2階の木製のオルガン付近まで、20列ほどの会衆席が続いており、まるで、迫り(せり)で、舞台中央に押し上げられたように感じる特殊な構造である。

聖母子像は、受胎告知の浮彫が施された白の大理石の祭壇の上に、金で装飾された飾り台に備え付けられている。周りには、吊り下げ型の常明燈が数多く飾られている。
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聖母子像は「黒い聖母子」で、王冠と白いベールを被り、オレンジの百合の刺繍があしらわれた白いローブに身を包んだ聖母の胸元から王冠姿の幼子キリストが顔を出している。こちらの像は1856年、教皇ピウス9世の名でル ピュイ司教により戴冠されたもの。実はオリジナルは、フランス国王ルイ9世(在位:1226~1270)によって戴冠された高さ71センチメートルの杉の像だったが、1794年のフランス革命時に燃やされている。
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黒い聖母信仰は、フランスがガリアと呼ばれた時代、土着のガリア人はドルイド教を信仰していたが、ローマの属州になって以降、イシス(黒い肌を持つ)信仰などの地母神とも結びついたとされる。4世紀以降、キリスト教化が始まると、聖母と地母神とが結びつき盛んになったと言われている。ル ピュイでは、毎年8月15日に、黒い聖母子像を御輿の上に乗せ、多くの参加者とともに町を練り歩く「聖母被昇天祭」が開催され、多くの人で賑わう。

祭壇の左側には「熱病の石(la pierre des fievres)」と呼ばれる黒い石版がある。ここは病に苦しむある女性がこの石の上に聖母マリアの姿を目撃したことから病が治癒したという奇跡に始まる。その後も多くの奇跡が報告されたことから、現在もこの石の上で治癒を祈願する人の姿が見られる。


聖堂内は、濃いグレー色を基調にしており控えめな印象を与える。身廊には6本のアーチ・ベイが架けられており、身廊の中心付近から天井を見上げると、外光を浴びほんのり赤味がかった温かみのある色合いの丸天井が見える。アーチ・ベイの四つ角に、小円柱と八角形のアーチで支えられたドーム型天井で、ビザンチン建築の影響を強く受けている。


左側には身廊の柱を背景に、モンペリエ出身の木工師ピエール・ヴァノー(Pierre Vaneau、1653~1694)の代表作の一つ、説教壇が設置されている。中央には受胎告知の場面が浮彫で飾られ、頂部には、彫刻家フィリップ・カフィエリ(Philippe Caffieri、1714~1774)作のブロンズ像が飾られている。他にも、ピエール・ヴァノーの作品では、オルガンや拝廊に掲げられた彫刻と金色のパネル(聖アンドレの殉教)などがある。
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説教壇のすぐ左側後方に礼拝堂「聖遺物のチャペル」があり、この時間はちょうどミサが行われていた。右側の壁面に15世紀制作のフレスコ画「自由な芸術(L'arts Liberaux)」がある(作者不明)。リベラル・アーツ(人が持つ必要がある実践的な知識・学問の基本で、自由七科と言う)が主題で、向かって左から、文法、論理、修辞法、音楽を表す4人の女性が座り、そばにこれらの要素を象徴する人物として、左から、プリスキアヌス、アリストテレス、キケロ、トゥバルカインが描かれている。長年壁に覆われていたが、1850年に発見されたことから、まだ美しい色彩が残っている。
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ミサが終わり祭壇に近づいてみる。こちらにも黒い聖母子像が祀られている。近年のものだが、衣の柄といい、丸みを感じさせるつくりに、ふと日本のこけしを思い出した。
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大聖堂の北側廊に隣接し、聖母子像が望めるコルネイユ山の中腹に、煉瓦屋根が囲む長方形(約31メートル×約19メートル)の回廊が広がっている。大聖堂の建設と同時期の12世紀にロマネスク様式で建てられたものだが、現在の姿は1850年から1857年にかけて、建築家マレー(オーヴェルニュの歴史的建造物の修復で知られる)と、建築家ヴィオレ・ル・デュク(パリのノートル・ダム大聖堂等の修復で知られる)により修復されたもの。
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南北回廊に5つのアーチがあり、東西回廊には10のアーチがある。その南回廊を眺めると、背後に、大聖堂の側廊壁と身廊壁が階段状に続いて見て取れる。共に途中で建て増しした様なズレがあり、時代ごとに改築されたことが分かる。
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回廊のアーチは3重アーチで、支える柱は、中心に角柱、左右側面と中庭側に3本の円柱がそれぞれアーチを支え、さらに、回廊内側のヴォールト天井を支える円柱との合計4本の「複合柱」となっている。こちらは西側回廊から中庭方向を眺めた様子で、上部に大聖堂の北袖廊と鐘楼を一望でき、位置関係も理解しやすい。
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円柱の柱頭には、アカンサスの葉の浮彫が施され、その上のアーチは半円環にモザイク状に石材を積み重ねたスペイン・イスラム建築の影響が見られる。そして、アーチのキーストーン(要石)や、軒下に設置されたコーニス(庇)にも聖人、人物、動物、怪獣などの個性的な浮彫が施されている。ちなみに雨除けの役割があるコーニスは、劣化が激しく何度か取り替えられており、現在のものは19世紀に制作されたもの。
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南西角から3番目にある側面アーチは単柱でなく双円柱が支えている。そして柱頭にはアカンサスの葉の間から、互いに辺りを見渡すようなユニークな表情の人物が見て取れる。柱頭彫刻はキリスト教の説話図像の舞台となっている。
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こちらの回廊内のヴォールトを支える円柱の柱頭には、天使が乳児を抱えている様子が表現され、左右を怪しい人物が取り囲んでいる。ある聖人の説話を示しているのだろうか。
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そして、こちらも回廊内のヴォールトを支える円柱の柱頭で、司教杖を取り合う2人の聖職者の様子がロマネスク様式らしいデフォルメされた姿で刻まれている。
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こちらの柱頭では、雄ケンタウロスが伴侶の雌ケンタウロスを追いかけ、尻尾を掴んでいる。。
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北側回廊には聖人や聖職者の像が中庭先の大聖堂を見守る様に3体飾られている。そして回廊内を直線に眺めると、天井に当たる光の陰陽が作り出す美しいヴォールトラインと掃き清められた廊下とが静謐を湛えている。
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回廊の東側にある波打つ浮彫を施した角柱に幾何学模様で飾られたアーチ門を入ると、南側には、壁一面にキリスト磔刑像のフレスコ画が描かれ、周りに石の祭壇や石版等が置かれている。この部屋はもともと聖職者や教会関係者の葬儀や墓所として利用された礼拝堂で「死者のチャペル(Chapelle des Morts)」と呼ばれていた。


フレスコ画は、12世紀から13世紀にかけて描かれたもので、太陽、月、天使に囲まれ、痩せこけ苦痛にゆがんだ磔刑姿のキリストを中心に、左右に悲しみにうちひしがれる聖母マリアと聖ヨハネが描かれている。そして四隅には、キリストの受難について書かれた巻物を持つイザヤ、エレミヤなど預言者たちが描かれている。古い絵にも関わらず剥落が少ないのは、19世紀まで、モルタルに覆われていたためである。
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他にも大聖堂内には、宝物室があり、司教服、ミトラ(冠)、聖遺物箱などが展示されている。
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大聖堂の後陣は、11世紀に建築されたが、この場所には、建設当時の貴重な遺構が残されている。中央の動物は、古代の狩猟シーンを表している。ラテン語の碑文は、12世紀のもので、その上の螺旋状のフリーズはメロヴィング朝を起源としている。手前の呼水槽は、癒しの水として地下からくみ上げていた井戸の址である。大聖堂は19世紀に大幅に復元改修されたが、こちらの古いモチーフなどを参考にしたとされる。
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鐘楼の基部には、お棺が残されている。石棺の蓋には、衣装を着て横たわる女性の彫刻が刻まれ、側面には、ロマネスク様式で表した聖母子の浮彫がある。
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聖堂を出て、コルネイユ山頂上に立つ聖母子像(ノートルダム・ド・フランス像)に向かう。階段の先に見える鉄格子が入口になる。


岩山の周りに造られた道を上って行くと、聖母子像から見下ろされている場所に来た。早く上っておいでと言われているようだ。
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岩山頂上から「ル ピュイ大聖堂」を眺めると、右側(西側)のファサード、中央のドーム、左側(東側)の鐘楼や、手前に隣接している回廊も良く見える。街全体の屋根は、大聖堂と同じ朱色で統一されている。聖堂の南側には、幹線道路(N102号線)の南側にあった広い平面駐車場や、劇場、裁判所、「アンリ・ヴィネ庭園」などが広がっている様子も確認できる。
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ちなみに、こちらは西側から見たル ピュイの街の景観で、大聖堂ファサードを正面から捉えている。岩山上の聖母子像との位置関係も良く分かる。左端にも小さな岩山(奇岩)があり、山頂に「サン・ミシェル・デギュイユ礼拝堂」が建っている。

画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

コルネイユ岩頂上に立つ聖母子像(ノートルダム・ド・フランス像)は、頭に12の星の冠を戴き、丸い月の上に乗った「無原罪の御宿り」を題材として制作されている。ちなみに足元を見ると蛇を踏みつけている。像は、設計から完成まで5年の歳月をかけ、1860年9月に完成した。全長16メートル(台座含め22.7メートル)、重さは110トンある。
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聖母子像に向かって祈りを捧げるブロンズ像は、聖母子像設立に貢献したル ピュイ大聖堂の司教オーギュスト・ド・モルロン(Auguste de Morlhon、1847~1862)である。完成当日行われた式典には、聖職者を始め関係者を含めて12万人の人々が集まった。聖母子像を覆うヴェールが滑り落ちると、それまでの天候不順の空が急に晴れ始め、一筋の光が聖母子像を照らして全身を金色に染め上げたという。

当時、これだけの規模の像に必要な金属の調達が大きな課題だったが、ナポレオン3世に協力要請をしたところ、クリミア戦争時、セヴァストーポリ攻撃に使用されたロシア軍の大砲から鋳造することとなり、鉄150トン分に相当する213台の大砲が使用された。今も周囲には、実際に使われた大砲が置かれている。


聖母子像内は、空洞になっており、螺旋階段で上ることができる。実は、セキュリティの関係から長い間公開されていなかったが、昨年改修を終え、半年前から入場が許可されたとのこと。


内部はこのようになっており、上って行くと、ところどころに小窓があり、ガラス越しに景色を眺められる。しかし内部は狭くやや圧迫感もあり景色も見づらい(上れて有難いが。)ので、正直、岩山からの眺めの方が良いと思う。。
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(2013.7.19~20)

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