こちらのオベリスクは、「サン ジョバンニ イン ラテラノ大聖堂」(以下:ラテラノ大聖堂)前の「サン ジョバンニ広場」に建つ「ラテラノ オベリスク」で、もともとはトトメス3世によりカルナックに建てられたもの。357年にローマに運ばれ、大競技場チルコ マッシモに飾られていたが、その後、埋もれてしまい、1580年代後半に発掘・修復され、教皇シクストゥス5世(在位:1585~1590)の命により、頂部に十字架が取り付けられ現在の場所に設置されている。
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ラテラノ オベリスクの南東側に建つ三階建ての煉瓦色の建物が「ラテラノ宮殿」で、南側はラテラノ大聖堂の北身廊に直結している。そして、その右隣のサン ジョバンニ広場に面して建つロッジアのある大きな2層のポルチコは、ラテラノ大聖堂の北翼廊のサイドファサードで、教皇ピウス4世(在位:1559~1565)時代の2対鐘楼の前面に、教皇シクストゥス5世が、信頼する建築家ドメニコ フォンターナ(1543~1607)に指示し建設したもの。
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ラテラノ宮殿とラテラノ大聖堂の歴史は古く、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(在位:306~337)が、313年、元ラテラヌス家の邸宅をキリスト教徒に譲ったのが始まりとされている。その後、教皇の住まいがラテラノ宮殿となり、敷地内にあったバシリカが教皇の司教座聖堂(カテドラル)となり、その後は、歴代の教皇により増改築されていくのである。
ところで、このローマまでは、昨夜、成田空港から午後9時55分発のエールフランス航空に乗り、パリ・シャルル ド ゴール国際空港を経由して、今朝9時5分にイタリア・フィウミチーノ空港(ターミナル1)に到着している。日本との時差は-8時間であることから、トランジット時間を含め20時間弱の移動時間だった。その後は、空港から鉄道でテルミニ駅まで移動し、駅南の今夜宿泊するB&B_Railway24に荷物を預け、メトロに乗って最寄りのサンジョバンニ駅から歩いてきたところ。
最初に、サン ジョバンニ広場の西側に建つ「ラテラノ洗礼堂」から見学することにする。こちらは広場裏側となる西側駐車場から洗礼堂を眺めた様子である。ラテラノ洗礼堂は八角形の平面を持つ建物で、ラテラノ大聖堂から独立して建っている。最初に洗礼堂を建設したのは、コンスタンティヌス1世と言われ「コンスタンティヌス洗礼堂」とも呼ばれている。現在の洗礼堂は、教皇シクストゥス3世(在位:432~440)により再建されたもので、レンガ造りの外観は、教皇インノケンティウス10世(在位:1644~1655)が、バロックを代表する建築家フランチェスコ ボッロミーニ(1599~1667)に指示して、当初の八角形の形状を継承して1657年に建築したもの。
洗礼堂内は外観形状と同じ八角形になっている。中央には、大きなブロンズの洗礼槽が置かれ、周囲に八角形の柱を繋ぐ装飾環状と格天井を備えた豪華な洗礼場となっている。洗礼槽は、バスタブの様な造りで、洗礼の際には、装飾上蓋を取り外して行われる。周囲の壁面には多くの絵画や装飾が施され、間には周歩廊を形成している。洗礼堂はローマ最古から続く唯一のもので、八角形の構造自体が、他の洗礼堂のモデルとなっており、装飾写本「生命の泉」の象徴的なモチーフにもなっている。
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八角形の周歩廊の左側(南側)に見える開け放たれた扉の先は、アトリウムのある礼拝堂(両側に2つの祭壇がある)(こちらは、東側の木製の磔刑像がある祭壇のアプスの装飾)で、洗礼堂への入口にもなっている。洗礼堂内には、他に北、東、西、南東の壁面に扉があり、西の扉の柵の向こうには、ブロンズの洗礼者ヨハネが飾られた礼拝堂が見える。こちらの礼拝堂は、教皇ヒラルス(在位:461~468)の時代に追加されたもの。
東の扉を入ると、福音記者ヨハネの礼拝堂があり、南東側の扉を入ると「サンヴェナンツィオ礼拝堂」がある。こちらの礼拝堂は、教皇ヨハネス4世(在位:640~642)が、地元ダルマティア(現:クロアチア)で発生したスラヴ人によるキリスト教信者の捕縛事件を無事解決できたことに謝意を表し建てた礼拝堂で、40人ほどが座れそうな会衆席がある大きな礼拝堂である。
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こちらの祭壇には、初期キリスト教の壁画モザイクが美しい姿のまま残っており大変貴重である。まず、祭壇の上部後壁には、3つの窓と、福音記者の4つのシンボル、エルサレムとベツレヘムの都市が表現されている。その下の中央アプスには、天使を伴なったキリストが半身像の珍しい姿で、雲の中から現れる「キリスト昇天」が表されている。その下には、聖母を中心に聖人たちが表現されており、左端に教会模型を持つ聖人が寄進者となるヨハネス4世である。
ヨハネス4世の隣には、聖ヴェナンティウス、福音記者聖ヨハネ、聖パウロ、聖母、聖ペテロ、洗礼者聖ヨハネ、ドムニオーネ司教、教皇テオドルス1世(在位:642~649)が並んでキリストを讃えている。
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アプスの左右後壁には、8人の殉教者がモザイクで表現されている。向かって右壁の中央側からは、司教マウロ(vescovo Mauro)、執事セプティミウス(diacono Settimio)、アンティオキアヌス(Antiochiano)、ガイアヌス(Gaiano)と続いている。
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そして、向かって左壁の中央側からは、アナスタシウス(Anastasio)、修道士アステリウス(monaco Asterio)、テリオス(Telio)、パウリニアヌス(Paoliniano)と続いており、彼ら8人の殉教者の遺物は、このラテラノ洗礼堂に納められている。
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次に、 ラテラノ大聖堂に入り南翼廊に隣接する「ラテラノ回廊」にやってきた。大聖堂は無料だが、回廊見学は有料となる。イヤホンガイドが付いているが英伊仏独西の5国語のみとなる。こちらの回廊は、もともと大規模なベネディクト会修道院の一画だったが、現在は回廊のみが残っている。修道院の修道士たちは、共同生活をしながら、大聖堂での奉仕活動に取り組んでいたと言われている。
こちらは南回廊から北回廊を眺めた様子で、その上が、大聖堂の南翼廊になるが、広場に面した北翼廊とはだいぶ様相が異なっている。
回廊の壁面側は、16世紀以前に使用されていた調度品や美術品、部材などを展示するミュージアムとなっている。東回廊の中程には「マグダラのマリア祭壇」を飾っていた、三角形のスラブと三連アーチの装飾板(13世紀)が展示されている。ローマの大理石職人ヴァッサレット一族によるコスマテスク様式(ロマネスク様式とゴシック様式を兼ね備えたもの)によるもので、上記のスラブには一族のアデオダート ディ コスマ(Adeodato di Cosma、~1332)の名前が残されている。
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同じく東回廊のすぐ左側には、歴代のローマ法王が戴冠式の際に座った教皇座が展示されている。こちらは、1099年の教皇パスカリス2世(在位:1099~1118)から、1560年1月の教皇ピウス4世(在位:1559~1565)までの戴冠式で使用されていたもの。
回廊は、13世紀前半のもので、一辺が約36メートルあり、ローマの回廊では最大の規模を誇っている。こちらは、西回廊から東回廊を眺めた様子で、中庭中央には、かつて「サマリア人女性の井戸」と呼ばれた9世紀制作の井戸が飾られている。
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東西の回廊中央からは、中庭に出入りするためのゲートが設けらているが、柵で閉ざされており入ることはできない。その入口左右には、それぞれ自然発生した蔓が絡み合う様な不思議な柱と、左右にスフィンクスとライオンの像が飾られている。
すぐ、右側の先隣りにも、捻じられた2連の捻じり柱や、その隣には象嵌細工が施された円柱など、個性的な柱が並んでいる。南回廊を望むと、アーチ群の壁面には、コスマテスク様式の傑作装飾が残されている。多色の象嵌で縁取られた、赤、紺青などの斑岩と蛇紋岩の円形と正方形が交互に並ぶ優雅な装飾と、その上に、象嵌縁取りと螺旋状の葉にマスクが並ぶ装飾コーニスが施されている。
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では、最後にラテラノ大聖堂の内部を見学する。ラテラノ大聖堂は、ローマにおける古代ローマ様式の大聖堂(ローマ バシリカ)で、四大ローマ バジリカのうちの一つとされる。他に、サン ピエトロ大聖堂、サンタ マリア マッジョーレ大聖堂、サン パオロ フオーリ レ ムーラ大聖堂(城壁外の聖パウロ大聖堂)があり、更にサン ロレンツォ フオーリ レ ムーラ大聖堂(城壁外の聖ラウレンティウス大聖堂)を加えて五大バジリカと呼ぶこともある。
1580年代後半の教皇シクストゥス5世が行った改修工事の後、教皇インノケンティウス10世が、1646年に、さらなる改修を決定し、お気に入りの建築家フランチェスコ ボッロミーニに委ねている。ボッロミーニは、現在の5つの身廊(中央が格天井、左右がドーム天井、左右側廊が平天井)が並行する大規模な構造を完成させている。中でも、中央の身廊を支えるピラスター柱の間には、壁龕を設け浮彫彫刻を施し、交互にアーチを配置する姿は、見どころの一つでもある。
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ピラスター柱の間にある壁龕彫刻の下は空間だったが、1702年に、教皇クレメンス11世(在位:1700~1721)と大司教により、十二使徒像を配置することが決まり制作された。デザインスケッチは、教皇のお気に入りの画家カルロ マラッタ(1625~1713)が担当し、複数の著名な彫刻家が選ばれた。向かって主祭壇の左側には「ペトロ(1704~1711)」(フランス人彫刻家ピエール エティエンヌ モンノー作)の像が飾られている。
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そして、そのペトロからナルテックスにかけて、アンデレ(彫刻家カミーノ ルスコーニ作)、ヨハネ(彫刻家カミーノ ルスコーニ作)、アルファイの子ヤコブ(彫刻家アンジェロ デ ロッシ作)、バルトロマイ(彫刻家ピエール ルグロ作)、熱心党のシモン(彫刻家フランチェスコ モラッティ作)と並んでいる。
ペトロに対して向かい側の主祭壇右側には「パウロ(1704~1708)」(フランス人彫刻家ピエール エティエンヌ モンノー作)の像が飾られている。
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そして、パウロからナルテックスにかけて、ゼベダイの子ヤコブ(大ヤコブ)(彫刻家カミーノ ルスコーニ作)、トマス(彫刻家ピエール ルグロ作)、フィリポ(彫刻家ジュゼッペ マッツォーリ作)、マタイ(彫刻家カミーノ ルスコーニ作)、タダイ(彫刻家ロレンツォ オットーニ作)と続いている。
そのボッロミーニの身廊の後陣には、金を背景に鮮やかなモザイクで覆われたアプスがある。ただし、現在のモザイクは、1878年、教皇レオ13世(在位:1878~1903)の指示により修復されたもので、一部オリジナルタイルは使用されているが、大半は当時のモザイク職人によるリメイクである。
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オリジナルのモザイクは、1292年、教皇ニコラウス4世(在位:1288~1292)(歴史上最初のフランシスコ会教皇)の指示のもと、ヤコポ トリッティ(Jacopo Tritti)(左下に署名がある)とフランシスコ会の修道士ヤコポ ダ カメリーノ(Jacopo da Camerino)が制作している。
モザイクの中央にはキリストの十字架と聖霊の鳩が描かれ、向かって左側には、聖母、足元で跪く教皇ニコラウス4世、アッシジのフランチェスコ、ペテロ、パウロ、そして右側には、洗礼者ヨハネ、パドヴァのアントニオ、ヨハネ、アンデレが表現されている。
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中央交差部にあるゴシック様式のシボリウム(高祭壇)は、1367年にアヴィニョン捕囚時期にも関わらす、大聖堂の荒れ果てた姿を見かねて、一時的にローマに戻り大聖堂の修復を指揮した、教皇ウルバヌス5世(在位:1362~1370)が、シエナ出身の建築家ジョヴァンニ ディ ステファノ(~1391)に依頼した記念碑的な作品である。
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上部の金の格子の中には、聖ペテロと聖パウロの頭蓋骨の聖遺物が祀られた聖籠があり、その下に、聖人や磔刑図、善き羊飼い、幼子の玉座とマリアの戴冠式などが描かれたフレスコ画がある。しかし、現在の教皇祭壇は、1851年に教皇ピウス9世(在位:1846~1878)が、フィリッポ マルティヌッチ(~1862)に依頼して再構築したもの。ただし、フレスコ画はオリジナルのものを修復している。
教皇祭壇の手前には、ネオゴシック様式の金色の錬鉄製の欄干で縁取られ、階段下に大理石で囲まれた告白室がある。中央には洗礼者ヨハネ像が飾られ、手前には、教皇マルティヌス5世(在位:1417~1431)の墓がある。
大聖堂内には、他にも、右通路に、教皇セルギウス4世(在位:1009~ 1012)とアレクサンデル3世(在位:1159~1181)、左通路に教皇クレメンス12世(在位:1730~1740)、そして、後陣に向かって右翼廊には、強大な教皇権を実現した教皇インノケンティウス3世(在位:1198~1216)の墓がある。
こちらは、左翼廊にある教皇レオ13世(在位:1878~1903)の墓で、25年の長きにわたり教皇職を務め93歳で亡くなっている。サンピエトロ大聖堂に埋葬されたが、1924年にこちらに移された。以上の様に、現在ラテラノ大聖堂には、歴代の教皇のうち6人の墓が納められている。
ナルテックス側の右側廊にある左右の二連円柱に囲まれた額には、ジョット ディ ボンドーネ(1267頃~1337)による「ラテラノ大聖堂で聖年を宣言するボニファティウス8世」(1300年)が飾られている。
教皇ボニファティウス8世(在位:1294~1303)は、モザイクの後陣が完成し新しくなったラテラノ大聖堂において、1300年を「聖年」と定めて盛大な祭典(聖年祭)を挙行している。フレスコ画は、その聖年祭において、ラテラノ大聖堂の2階のロッジア中央に設けられた天蓋の下、左右に聖職者と枢機卿を配した教皇ボニファティウス8世が、群衆を祝福する様子が描かれている。更に左右には、多数の高位聖職者が見守り、階下の広場には多くの群衆が描かれていたが、そちらは失われている。
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この当時、フランス王フィリップ4世(在位:1285~1314)が、イングランドとの戦費調達のためフランス国内の教会課税を実施しており、収入源の重要な地位を占めていたフランスでの課税が大きな痛手となっていた教皇庁だったが、この聖年祭により教会財政は潤いを取り戻している。
1301年、ボニファティウス8世は、再び王権発動をし教会課税を推し進めようとしたフィリップ4世と争うが、1303年のアナーニ事件で屈辱を受けて憤死している。この影響から、ローマ教皇権の衰退が始まるが、追い打ちをかける様に、1305年に大聖堂に火災が発生し甚大な被害を受けている。1309年には、教皇クレメンス5世のアヴィニョン捕囚(1305~1377)が行われ、嵐や地震などの災害も頻発し、大聖堂はその後60年にわたり荒れ果ててしまう。
ジョットの作品のある側廊のナルテックス側が、大聖堂への出入口となる。こちらが、広場から見上げた正面東側ファサードになる。頂部に聖人たちが立ち並ぶ壮麗なファサードは、教皇クレメンス12世(在位:1730~1740)が、1732年、アレッサンドロ ガリレイ(1691~1737)に依頼し完成させたもので、後期バロック様式に古典的な要素を加味したものとなっている。中央ペディメントには、キリストの頭部の円形モザイク画が飾られているが、これは13 世紀後半にファサードを飾っていた大きなモザイク画の名残りである。
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ファサードは、風通しの良いロッジアで構成されており、1階中央には、教皇アレクサンデル7世(在位:1655~1667)が、建築家フランチェスコ ボッロミーニに依頼し、フォロ ロマーノのキュリア ジュリア或いは元老院から移設したブロンズの「キュリアの門」があり、大聖堂の中では、最も古い時代のものとされている。
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キュリアの門に向かって右隣りが、大聖堂への出入口で、更にその右隣りには、25年に1度の聖年にのみ開けられるブロンズの聖なる扉がある。そして、廊下の南側の突き当りには、高さ3.22メートルのローマ皇帝コンスタンティヌス1世の彫像が飾られている。もともとローマ時代の像を、彫刻家ルッジェーロ ベスカペ(~1600)が、下半身全体と台座を制作して復元したもの。
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ラテラノ大聖堂のファサードに隣接してラテラノ宮殿の東ファサードがある。現在の建物は、教皇シクストゥス5世が、1586年にラテラノ オベリスクや北翼廊のサイドファサードと共にドメニコ フォンターナに依頼したもので、ファルネーゼ宮殿に触発され再建された。その後、ラテラノ宮殿は教皇の夏の住居として再び使用され、19世紀まで行われたラテラノ大聖堂での戴冠式まで利用されている。
ラテラノ宮殿のファサードと向かい合う様に、道路の向かい側には、スカラ サンタ(聖なる階段)がある。(こちらは、ラテラノ宮殿の北側からの様子)。この階段は、ローマ総督ピラトによる裁判でキリストが死刑宣告を受けた時に上った階段とされ、後に皇帝コンスタンティヌス1世の母ヘレナが、エルサレムのピラト宮殿からローマに移送したものとされる。キリスト教徒にとっては最も神聖な場所であり、信者たちは決して足では踏まず、ひざまずいて祈りを捧げながら階段を上がって行くのである。
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今夜は、ジュゼッペ ヴェルディのバリトン ロールの最高峰のひとつ「二人のフォスカリ」を鑑賞するために、「ローマ歌劇場」にやってきた。場所は、テルミニ駅から南西方面に300メートルほどに位置している。日本ではローマ オペラ座とも呼ばれ、もともと、1880年11月に開場した「コスタンツィ劇場」が前身で、数度にわたる名称の変遷、改修工事をへて現在に至っている。
近年では、1958年にローマ市庁が、マルチェッロ ピアチェンティーニに設計を依頼し、改修・近代化が行われた。ファサード、入口、ロビーなど大規模な変更がなされている。現在の総席数は約1,600となっている。
演目の「二人のフォスカリ」は、イングランドの詩人で貴族のバイロン卿(1788~1824)が、ヴェネツィア共和国総督フランチェスコ フォスカリ(在任:1423~1457)の一生をもとに書いた作品をベースに、ヴェルディがオペラとして仕上げたもの。全三幕あり本日の公演は、リッカルド ムーティ指揮、ルカ サルシ(フランチェスコ フォスカリ)、フランチェスコ メーリ(ヤコポ フォスカリ)、そして、タチアナ セルジャン(ルクレツィア)が演じている(メッセージボード(当日プログラム))。
ストーリーは、1457年のヴェネツィア共和国ドゥカーレ宮が舞台である。総督フランチェスコ フォスカリの息子ヤコポ フォスカリが、殺人の疑いで引き立てられてくる。ヤコポは妻ルクレツィアとともに正当な裁判を要求するが、フランチェスコは十人委員会の決定は覆せないと拒絶する。その後、真犯人から自白があり、フランチェスコは、息子の無罪に喜ぶが、ルクレツィアから、既にヤコブが流刑中の船内で亡くなったと告げられる。更に十人委員会の決定により、フランチェスコは総督の地位を剥奪され、悲嘆と屈辱に耐えられず絶命してしまう。
指揮者のリッカルド ムーティは、2009年からローマ歌劇場の音楽監督となり、2011年には終身名誉理事となっている。最期に、ムーティが、舞台に登場すると、一層大きな拍手に包まれた。
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オペラ鑑賞後は、テルミニ駅近くにある「リストランテ テーマ」(Ristorante Tema)で食事をして一日を終えた。リストランテは、手ごろな値段で魚料理(お勧めはムール貝のワイン蒸しと、手長海老のクリームリゾット)が美味しいと評判のお店である。
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今日は、今朝6時55分テルミニ駅発に乗車し、午前10時7分にパドヴァ駅に到着した。パドヴァ(Padova)は、ヴェネト州にある都市で、周辺地域を含む人口約21万人の基礎自治体(コムーネ)、パドヴァ県の県都、経済・通信のハブ地である。ヴェネツィアのサンタ ルチア駅までは、東に40キロメートル(約30分)の距離である。
今夜はパドヴァ駅前のホテル(ホテル グランディタリア、Hotel Grand'Italia)を予約しているので、荷物を預けて、600メートルほど南に歩き、ブレンタ川を渡り、右岸沿いのアレーナ庭園の先にある「スクロヴェーニ礼拝堂」近くまでやってきた。
スクロヴェーニ礼拝堂には、午後1時45分から予約をしているが、まだ時間があるので、先に「エレミターニ教会」に向かう。南側に見える矩形の回廊を持つ建物が「エレミターニ市立美術館」で、その南側に隣接する鐘楼のある建物がエレミターニ教会となる。
エレミターニ教会は、1276年に、ベネチア建築の推進者として知られる建築家ジョヴァンニ デッリ エレミターニ(~1320)により、聖アウグスティヌス(聖オーガスティン)騎士団の修道院として建設された。その後、1806年まで修道院だったが、現在はパドヴァ教区教会となっている。
長い歴史のある教会は、多くの装飾品や美術品で豊かになっていたが、1944年の第二次世界大戦における英米軍による空襲で深刻な被害を受けている。中でも、ファサード、天井、後陣付近に大きな破壊を受け、特に、主祭壇の右側にある「ドット礼拝堂」と先隣りの「オヴェタリ礼拝堂」は完全に破壊されてしまう。当時、教会は軍事利用され、鉄道駅に近かったことなどが攻撃対象になった原因とも言われている。教会内部は単身廊で、船体天井で構成されているが、これは、空襲前も同じで、第二次世界大戦前に残されていた教会模型に基づいて再建されている。
主祭壇には、ヴェネツィアとパドヴァで活躍した画家ニコロ セミテコロ(~1370)による磔刑図が掲げられ、後陣左側面には、グアリエント ディ アルポ(1310~1370)によるフレスコ画(聖フィリップと聖アウグスティヌスの物語)が残されている。こちらは、19世紀以前に既に劣化が激しかったため、1880年頃に壁から剥がされ別の場所で保管され破壊を免れている。
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主祭壇前から、右先隣りに「オヴェタリ礼拝堂」がある。礼拝堂内には、初期ルネサンスを代表する画家で、パドヴァ派の「アンドレア マンテーニャ」(1431~1506)が、弱冠17才で作品に取り組み9年の歳月を費やして完成させたフレスコ画が残されている。
後陣の後壁の窓に囲まれた中央には、使徒たちが聖母を見上げる「聖母被昇天」のフレスコ画が細長いサイズで残されている。そして、向かって左側面には左右2面、上下3段に渡り「聖ヤコブの物語」が描かれている。これらのフレスコ画の大半も、1880年頃に剥がされ別の場所で保管されていたため大きな破壊は免れているが、かなり劣化している。
最上段には「聖ヤコブとヨハネの召命」、「聖ヤコブの説教」の場面があり、2段目の左側は「ヘルモゲネスの解放」(ヤコブが、魔術師ヘルモゲネスを改宗させ洗礼を授ける)で、右側は「聖ヤコブの裁き」(ヤコブは、台座の前で天蓋のある椅子に座ったヘロデ アグリッパ1世により判決を受ける)となっている。
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最下段の左側が「聖ヤコブの奇跡」(ヤコブの足元に跪く信者に手を掲げている)だが、多くが剥離して白絵で代用されている。そして右隣には「聖ヤコブの殉教」(うつぶせにされたヤコブに対し処刑人が斧を振り上げる)が描かれている。
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対となる右側面には「聖クリストフォロスの物語」が描かれているが、最上段と二段目は、マンテーニャではなく、パドヴァの画家アンスイノ ダ フォルリによる作品で、「王との別れ」「悪魔の王との出会い」「幼子キリストを船で運ぶ」「説教」が描かれているが、二段目は破壊され、ほとんどが白絵となっている。
そして、最下段は、アンドレア マンテーニャの作品になる。クリストフォロスは、キリストとの出会いの後、旅に出て、多くの異教徒をキリスト教に改宗させるが、やがて捕えられ、数々の拷問を受ける。炎も、降り注ぐ矢も彼を苛むことはできなかったが、その矢の一本が拷問を命じた王の眼に命中してしまう。結局、クリストフォロスは、首をはねられ殉教するが、クリストフォロスの血を塗った王の眼は回復し、王はキリスト教に改宗したと言われている。
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左側が「聖クリストフォロスの殉教」だが、劣化が激しく、左端の柱に立つクリストフォロスの姿は、僅かに見える右足だけになっている。上部の建物から外を眺めている王に矢が刺さる姿が描かれている。
そして、最下段の右隣は「聖クリストフォロスの遺体の移送」で、殉教後、横たわったクリストフォロスの巨体(「黄金伝説」では5メートルを超える大男だったとされる)を兵士が抱えて運ぼうとする場面が描かれている。後方から連なる建造物や人物が遠近法で表現されており、横たわるクリストフォロスも建物とリンクする様に描かれていることから、大きな足が、眼の前に迫って来る様な迫力がある。後年の大作「死せるキリスト(1480頃)」に繋がる表現方法を既に取り入れている印象がある。
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次に、予約時間が近づいてきたので、スクロヴェーニ礼拝堂に向かう。隣接するアレーナ公園は、もともと古代ローマの円形劇場(アンフィテアトルム)があった場所で、礼拝堂は、その跡地近くに、1305年、高利貸で財産を築いた一族出身のエンリコ デッリ スクロヴェーニにより建てられた。このスクロヴェーニ礼拝堂には、1305年にジョット ディ ボンドーネ(1267頃~1337)が、彼の画家としての名声が高まる一方だった30代後半に描いたフレスコ画がある。
ジョットは、イタリア・ルネサンスへの先鞭を付けた偉大な芸術家と見なされており、中でも、スクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ画は、ジョットの代表作であり、初期ルネサンス絵画の中でも最高傑作の一つといわれている。入口は、後陣の北側にあり、多くの見学予定者が集まっている。そのジョットの代表作を見るためにこのように世界中から愛好家たちがやってくるのである。
スクロヴェーニ礼拝堂の壁面には、四面全ての壁に、上中下の三段に分割された37のフレスコ画画と、最下部に装飾画(七つの美徳と悪徳)がそれぞれ描かれている。礼拝堂は、受胎告知と聖母マリアの慈愛に捧げられ、人類の救済におけるマリアの果たす役割を祝福するものになっている。ジョットは、連作開始にあたり、南壁にある6つの窓を基準とし、反対側の北壁のスペースの配置を計算することで、全体のレイアウトを決定している。
連作は、内陣中央部の凱旋門ルネットの高いところ、父なる神が大天使ガブリエルにマリアへの受胎告知を行うように指示する場面から始まっている。そして「ヨアキムとアンナの物語」(上段、南壁)、「マリアの物語」(上段、北壁)と続き、凱旋門に戻り、「受胎告知」の場面となる。アーチ左側のガブリエルが受胎を告知すると、アーチ右側のマリアがガブリエルからのお告げを受ける配置となっている。
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続いて「キリストの物語」(中段、南壁と北壁)が始まる。再び、凱旋門に戻って、「ユダの裏切り」(ユダがキリストを裏切るためのお金を受け取る)の場面となり、下段、南壁から「最後の晩餐」の場面へと続いている。
「最後の晩餐」の先隣りの南壁の中央部に描かれるのが、キリストを処刑に追いやる裏切りの第一歩となる「ユダの接吻」で、評価が高い場面の一つとされる。キリストと光輪を失った裏切り者ユダとの厳しいアイコンタクトは、武装した群衆とも合わさり、暴力的なドラマの効果を生み出している。
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下段、北壁の最後のパネルは「聖霊降臨」(ペンテコステ)で、西壁(カウンターファサード)には「最後の審判」が描かれている。審判、天国、地獄全体を1つの場面とし、すべての人物を単一の空間に含める伝統的な手法が取られている。中でも、裁判官キリストのマンドルラのオーラから発する4筋の炎の川が流れ込む地獄の阿鼻叫喚の表現はインパクトが強い。
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ジョットと同世代の、共にフランチェスコ会の信者で友人でもあったフィレンツェ生まれの詩人ダンテ アリギエーリ(1265~1321)は、スクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ画制作のためパドヴァに滞在していたジョットのもとを訪れている。ダンテは、1304年から1308年頃に「神曲」(地獄篇)を執筆していることから、ジョットのフレスコ画から大きな影響を受けたかもしれない。
文化財保護の観点から、控室でビデオを見ながら温度を安定させた後の見学だったため、滞在時間30分のうち、実際の見学時間は、15分から20分と短い時間だった。。写真撮影は禁止だったので、画像はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)からお借りした。
アレーナ公園から、500メートルほど南に行ったパドヴァ大学の西側のエルベ広場北側には「パラッツォ デッラ ラジョーネ」(ラジョーネ宮)がある。このエリアは、中世の頃、市庁舎兼裁判所として、パドヴァの政治、経済の中心地で、街のシンボルとして親しまれている。もともと12世紀に着工し14世紀には、現在のポルチコのある外観になったと言われている。
内部は、アーチ型の天井が2種組み合わされた構造で、船底をひっくり返した様な形状となっている。エレミターニ教会を設計した建築家ジョヴァンニ デッリ エレミターニによるものである。1階には「ソット イル サローネ」と呼ばれる食料品店を中心とした商店街となっており、地元民の食生活を支える場として多くの人が訪れている。
夕食は、ホテル近くのリストランテを利用した。
最初に、フリッタティーネと、タコのグリルを注文した。ワインはヴェネトの赤で、コッリ エウガネイ ロッソ リゼルヴァを注文する。
次に、ニョッキを頼み、最後にデザートとしてプリンを食べ、パドヴァの一日を無事終えた。
(2013.3.16~17)
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ラテラノ オベリスクの南東側に建つ三階建ての煉瓦色の建物が「ラテラノ宮殿」で、南側はラテラノ大聖堂の北身廊に直結している。そして、その右隣のサン ジョバンニ広場に面して建つロッジアのある大きな2層のポルチコは、ラテラノ大聖堂の北翼廊のサイドファサードで、教皇ピウス4世(在位:1559~1565)時代の2対鐘楼の前面に、教皇シクストゥス5世が、信頼する建築家ドメニコ フォンターナ(1543~1607)に指示し建設したもの。
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ラテラノ宮殿とラテラノ大聖堂の歴史は古く、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(在位:306~337)が、313年、元ラテラヌス家の邸宅をキリスト教徒に譲ったのが始まりとされている。その後、教皇の住まいがラテラノ宮殿となり、敷地内にあったバシリカが教皇の司教座聖堂(カテドラル)となり、その後は、歴代の教皇により増改築されていくのである。
ところで、このローマまでは、昨夜、成田空港から午後9時55分発のエールフランス航空に乗り、パリ・シャルル ド ゴール国際空港を経由して、今朝9時5分にイタリア・フィウミチーノ空港(ターミナル1)に到着している。日本との時差は-8時間であることから、トランジット時間を含め20時間弱の移動時間だった。その後は、空港から鉄道でテルミニ駅まで移動し、駅南の今夜宿泊するB&B_Railway24に荷物を預け、メトロに乗って最寄りのサンジョバンニ駅から歩いてきたところ。
最初に、サン ジョバンニ広場の西側に建つ「ラテラノ洗礼堂」から見学することにする。こちらは広場裏側となる西側駐車場から洗礼堂を眺めた様子である。ラテラノ洗礼堂は八角形の平面を持つ建物で、ラテラノ大聖堂から独立して建っている。最初に洗礼堂を建設したのは、コンスタンティヌス1世と言われ「コンスタンティヌス洗礼堂」とも呼ばれている。現在の洗礼堂は、教皇シクストゥス3世(在位:432~440)により再建されたもので、レンガ造りの外観は、教皇インノケンティウス10世(在位:1644~1655)が、バロックを代表する建築家フランチェスコ ボッロミーニ(1599~1667)に指示して、当初の八角形の形状を継承して1657年に建築したもの。
洗礼堂内は外観形状と同じ八角形になっている。中央には、大きなブロンズの洗礼槽が置かれ、周囲に八角形の柱を繋ぐ装飾環状と格天井を備えた豪華な洗礼場となっている。洗礼槽は、バスタブの様な造りで、洗礼の際には、装飾上蓋を取り外して行われる。周囲の壁面には多くの絵画や装飾が施され、間には周歩廊を形成している。洗礼堂はローマ最古から続く唯一のもので、八角形の構造自体が、他の洗礼堂のモデルとなっており、装飾写本「生命の泉」の象徴的なモチーフにもなっている。
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八角形の周歩廊の左側(南側)に見える開け放たれた扉の先は、アトリウムのある礼拝堂(両側に2つの祭壇がある)(こちらは、東側の木製の磔刑像がある祭壇のアプスの装飾)で、洗礼堂への入口にもなっている。洗礼堂内には、他に北、東、西、南東の壁面に扉があり、西の扉の柵の向こうには、ブロンズの洗礼者ヨハネが飾られた礼拝堂が見える。こちらの礼拝堂は、教皇ヒラルス(在位:461~468)の時代に追加されたもの。
東の扉を入ると、福音記者ヨハネの礼拝堂があり、南東側の扉を入ると「サンヴェナンツィオ礼拝堂」がある。こちらの礼拝堂は、教皇ヨハネス4世(在位:640~642)が、地元ダルマティア(現:クロアチア)で発生したスラヴ人によるキリスト教信者の捕縛事件を無事解決できたことに謝意を表し建てた礼拝堂で、40人ほどが座れそうな会衆席がある大きな礼拝堂である。
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こちらの祭壇には、初期キリスト教の壁画モザイクが美しい姿のまま残っており大変貴重である。まず、祭壇の上部後壁には、3つの窓と、福音記者の4つのシンボル、エルサレムとベツレヘムの都市が表現されている。その下の中央アプスには、天使を伴なったキリストが半身像の珍しい姿で、雲の中から現れる「キリスト昇天」が表されている。その下には、聖母を中心に聖人たちが表現されており、左端に教会模型を持つ聖人が寄進者となるヨハネス4世である。
ヨハネス4世の隣には、聖ヴェナンティウス、福音記者聖ヨハネ、聖パウロ、聖母、聖ペテロ、洗礼者聖ヨハネ、ドムニオーネ司教、教皇テオドルス1世(在位:642~649)が並んでキリストを讃えている。
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アプスの左右後壁には、8人の殉教者がモザイクで表現されている。向かって右壁の中央側からは、司教マウロ(vescovo Mauro)、執事セプティミウス(diacono Settimio)、アンティオキアヌス(Antiochiano)、ガイアヌス(Gaiano)と続いている。
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そして、向かって左壁の中央側からは、アナスタシウス(Anastasio)、修道士アステリウス(monaco Asterio)、テリオス(Telio)、パウリニアヌス(Paoliniano)と続いており、彼ら8人の殉教者の遺物は、このラテラノ洗礼堂に納められている。
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次に、 ラテラノ大聖堂に入り南翼廊に隣接する「ラテラノ回廊」にやってきた。大聖堂は無料だが、回廊見学は有料となる。イヤホンガイドが付いているが英伊仏独西の5国語のみとなる。こちらの回廊は、もともと大規模なベネディクト会修道院の一画だったが、現在は回廊のみが残っている。修道院の修道士たちは、共同生活をしながら、大聖堂での奉仕活動に取り組んでいたと言われている。
こちらは南回廊から北回廊を眺めた様子で、その上が、大聖堂の南翼廊になるが、広場に面した北翼廊とはだいぶ様相が異なっている。
回廊の壁面側は、16世紀以前に使用されていた調度品や美術品、部材などを展示するミュージアムとなっている。東回廊の中程には「マグダラのマリア祭壇」を飾っていた、三角形のスラブと三連アーチの装飾板(13世紀)が展示されている。ローマの大理石職人ヴァッサレット一族によるコスマテスク様式(ロマネスク様式とゴシック様式を兼ね備えたもの)によるもので、上記のスラブには一族のアデオダート ディ コスマ(Adeodato di Cosma、~1332)の名前が残されている。
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同じく東回廊のすぐ左側には、歴代のローマ法王が戴冠式の際に座った教皇座が展示されている。こちらは、1099年の教皇パスカリス2世(在位:1099~1118)から、1560年1月の教皇ピウス4世(在位:1559~1565)までの戴冠式で使用されていたもの。
回廊は、13世紀前半のもので、一辺が約36メートルあり、ローマの回廊では最大の規模を誇っている。こちらは、西回廊から東回廊を眺めた様子で、中庭中央には、かつて「サマリア人女性の井戸」と呼ばれた9世紀制作の井戸が飾られている。
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東西の回廊中央からは、中庭に出入りするためのゲートが設けらているが、柵で閉ざされており入ることはできない。その入口左右には、それぞれ自然発生した蔓が絡み合う様な不思議な柱と、左右にスフィンクスとライオンの像が飾られている。
すぐ、右側の先隣りにも、捻じられた2連の捻じり柱や、その隣には象嵌細工が施された円柱など、個性的な柱が並んでいる。南回廊を望むと、アーチ群の壁面には、コスマテスク様式の傑作装飾が残されている。多色の象嵌で縁取られた、赤、紺青などの斑岩と蛇紋岩の円形と正方形が交互に並ぶ優雅な装飾と、その上に、象嵌縁取りと螺旋状の葉にマスクが並ぶ装飾コーニスが施されている。
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では、最後にラテラノ大聖堂の内部を見学する。ラテラノ大聖堂は、ローマにおける古代ローマ様式の大聖堂(ローマ バシリカ)で、四大ローマ バジリカのうちの一つとされる。他に、サン ピエトロ大聖堂、サンタ マリア マッジョーレ大聖堂、サン パオロ フオーリ レ ムーラ大聖堂(城壁外の聖パウロ大聖堂)があり、更にサン ロレンツォ フオーリ レ ムーラ大聖堂(城壁外の聖ラウレンティウス大聖堂)を加えて五大バジリカと呼ぶこともある。
1580年代後半の教皇シクストゥス5世が行った改修工事の後、教皇インノケンティウス10世が、1646年に、さらなる改修を決定し、お気に入りの建築家フランチェスコ ボッロミーニに委ねている。ボッロミーニは、現在の5つの身廊(中央が格天井、左右がドーム天井、左右側廊が平天井)が並行する大規模な構造を完成させている。中でも、中央の身廊を支えるピラスター柱の間には、壁龕を設け浮彫彫刻を施し、交互にアーチを配置する姿は、見どころの一つでもある。
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ピラスター柱の間にある壁龕彫刻の下は空間だったが、1702年に、教皇クレメンス11世(在位:1700~1721)と大司教により、十二使徒像を配置することが決まり制作された。デザインスケッチは、教皇のお気に入りの画家カルロ マラッタ(1625~1713)が担当し、複数の著名な彫刻家が選ばれた。向かって主祭壇の左側には「ペトロ(1704~1711)」(フランス人彫刻家ピエール エティエンヌ モンノー作)の像が飾られている。
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そして、そのペトロからナルテックスにかけて、アンデレ(彫刻家カミーノ ルスコーニ作)、ヨハネ(彫刻家カミーノ ルスコーニ作)、アルファイの子ヤコブ(彫刻家アンジェロ デ ロッシ作)、バルトロマイ(彫刻家ピエール ルグロ作)、熱心党のシモン(彫刻家フランチェスコ モラッティ作)と並んでいる。
ペトロに対して向かい側の主祭壇右側には「パウロ(1704~1708)」(フランス人彫刻家ピエール エティエンヌ モンノー作)の像が飾られている。
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そして、パウロからナルテックスにかけて、ゼベダイの子ヤコブ(大ヤコブ)(彫刻家カミーノ ルスコーニ作)、トマス(彫刻家ピエール ルグロ作)、フィリポ(彫刻家ジュゼッペ マッツォーリ作)、マタイ(彫刻家カミーノ ルスコーニ作)、タダイ(彫刻家ロレンツォ オットーニ作)と続いている。
そのボッロミーニの身廊の後陣には、金を背景に鮮やかなモザイクで覆われたアプスがある。ただし、現在のモザイクは、1878年、教皇レオ13世(在位:1878~1903)の指示により修復されたもので、一部オリジナルタイルは使用されているが、大半は当時のモザイク職人によるリメイクである。
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オリジナルのモザイクは、1292年、教皇ニコラウス4世(在位:1288~1292)(歴史上最初のフランシスコ会教皇)の指示のもと、ヤコポ トリッティ(Jacopo Tritti)(左下に署名がある)とフランシスコ会の修道士ヤコポ ダ カメリーノ(Jacopo da Camerino)が制作している。
モザイクの中央にはキリストの十字架と聖霊の鳩が描かれ、向かって左側には、聖母、足元で跪く教皇ニコラウス4世、アッシジのフランチェスコ、ペテロ、パウロ、そして右側には、洗礼者ヨハネ、パドヴァのアントニオ、ヨハネ、アンデレが表現されている。
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中央交差部にあるゴシック様式のシボリウム(高祭壇)は、1367年にアヴィニョン捕囚時期にも関わらす、大聖堂の荒れ果てた姿を見かねて、一時的にローマに戻り大聖堂の修復を指揮した、教皇ウルバヌス5世(在位:1362~1370)が、シエナ出身の建築家ジョヴァンニ ディ ステファノ(~1391)に依頼した記念碑的な作品である。
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上部の金の格子の中には、聖ペテロと聖パウロの頭蓋骨の聖遺物が祀られた聖籠があり、その下に、聖人や磔刑図、善き羊飼い、幼子の玉座とマリアの戴冠式などが描かれたフレスコ画がある。しかし、現在の教皇祭壇は、1851年に教皇ピウス9世(在位:1846~1878)が、フィリッポ マルティヌッチ(~1862)に依頼して再構築したもの。ただし、フレスコ画はオリジナルのものを修復している。
教皇祭壇の手前には、ネオゴシック様式の金色の錬鉄製の欄干で縁取られ、階段下に大理石で囲まれた告白室がある。中央には洗礼者ヨハネ像が飾られ、手前には、教皇マルティヌス5世(在位:1417~1431)の墓がある。
大聖堂内には、他にも、右通路に、教皇セルギウス4世(在位:1009~ 1012)とアレクサンデル3世(在位:1159~1181)、左通路に教皇クレメンス12世(在位:1730~1740)、そして、後陣に向かって右翼廊には、強大な教皇権を実現した教皇インノケンティウス3世(在位:1198~1216)の墓がある。
こちらは、左翼廊にある教皇レオ13世(在位:1878~1903)の墓で、25年の長きにわたり教皇職を務め93歳で亡くなっている。サンピエトロ大聖堂に埋葬されたが、1924年にこちらに移された。以上の様に、現在ラテラノ大聖堂には、歴代の教皇のうち6人の墓が納められている。
ナルテックス側の右側廊にある左右の二連円柱に囲まれた額には、ジョット ディ ボンドーネ(1267頃~1337)による「ラテラノ大聖堂で聖年を宣言するボニファティウス8世」(1300年)が飾られている。
教皇ボニファティウス8世(在位:1294~1303)は、モザイクの後陣が完成し新しくなったラテラノ大聖堂において、1300年を「聖年」と定めて盛大な祭典(聖年祭)を挙行している。フレスコ画は、その聖年祭において、ラテラノ大聖堂の2階のロッジア中央に設けられた天蓋の下、左右に聖職者と枢機卿を配した教皇ボニファティウス8世が、群衆を祝福する様子が描かれている。更に左右には、多数の高位聖職者が見守り、階下の広場には多くの群衆が描かれていたが、そちらは失われている。
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この当時、フランス王フィリップ4世(在位:1285~1314)が、イングランドとの戦費調達のためフランス国内の教会課税を実施しており、収入源の重要な地位を占めていたフランスでの課税が大きな痛手となっていた教皇庁だったが、この聖年祭により教会財政は潤いを取り戻している。
1301年、ボニファティウス8世は、再び王権発動をし教会課税を推し進めようとしたフィリップ4世と争うが、1303年のアナーニ事件で屈辱を受けて憤死している。この影響から、ローマ教皇権の衰退が始まるが、追い打ちをかける様に、1305年に大聖堂に火災が発生し甚大な被害を受けている。1309年には、教皇クレメンス5世のアヴィニョン捕囚(1305~1377)が行われ、嵐や地震などの災害も頻発し、大聖堂はその後60年にわたり荒れ果ててしまう。
ジョットの作品のある側廊のナルテックス側が、大聖堂への出入口となる。こちらが、広場から見上げた正面東側ファサードになる。頂部に聖人たちが立ち並ぶ壮麗なファサードは、教皇クレメンス12世(在位:1730~1740)が、1732年、アレッサンドロ ガリレイ(1691~1737)に依頼し完成させたもので、後期バロック様式に古典的な要素を加味したものとなっている。中央ペディメントには、キリストの頭部の円形モザイク画が飾られているが、これは13 世紀後半にファサードを飾っていた大きなモザイク画の名残りである。
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ファサードは、風通しの良いロッジアで構成されており、1階中央には、教皇アレクサンデル7世(在位:1655~1667)が、建築家フランチェスコ ボッロミーニに依頼し、フォロ ロマーノのキュリア ジュリア或いは元老院から移設したブロンズの「キュリアの門」があり、大聖堂の中では、最も古い時代のものとされている。
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キュリアの門に向かって右隣りが、大聖堂への出入口で、更にその右隣りには、25年に1度の聖年にのみ開けられるブロンズの聖なる扉がある。そして、廊下の南側の突き当りには、高さ3.22メートルのローマ皇帝コンスタンティヌス1世の彫像が飾られている。もともとローマ時代の像を、彫刻家ルッジェーロ ベスカペ(~1600)が、下半身全体と台座を制作して復元したもの。
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ラテラノ大聖堂のファサードに隣接してラテラノ宮殿の東ファサードがある。現在の建物は、教皇シクストゥス5世が、1586年にラテラノ オベリスクや北翼廊のサイドファサードと共にドメニコ フォンターナに依頼したもので、ファルネーゼ宮殿に触発され再建された。その後、ラテラノ宮殿は教皇の夏の住居として再び使用され、19世紀まで行われたラテラノ大聖堂での戴冠式まで利用されている。
ラテラノ宮殿のファサードと向かい合う様に、道路の向かい側には、スカラ サンタ(聖なる階段)がある。(こちらは、ラテラノ宮殿の北側からの様子)。この階段は、ローマ総督ピラトによる裁判でキリストが死刑宣告を受けた時に上った階段とされ、後に皇帝コンスタンティヌス1世の母ヘレナが、エルサレムのピラト宮殿からローマに移送したものとされる。キリスト教徒にとっては最も神聖な場所であり、信者たちは決して足では踏まず、ひざまずいて祈りを捧げながら階段を上がって行くのである。
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今夜は、ジュゼッペ ヴェルディのバリトン ロールの最高峰のひとつ「二人のフォスカリ」を鑑賞するために、「ローマ歌劇場」にやってきた。場所は、テルミニ駅から南西方面に300メートルほどに位置している。日本ではローマ オペラ座とも呼ばれ、もともと、1880年11月に開場した「コスタンツィ劇場」が前身で、数度にわたる名称の変遷、改修工事をへて現在に至っている。
近年では、1958年にローマ市庁が、マルチェッロ ピアチェンティーニに設計を依頼し、改修・近代化が行われた。ファサード、入口、ロビーなど大規模な変更がなされている。現在の総席数は約1,600となっている。
演目の「二人のフォスカリ」は、イングランドの詩人で貴族のバイロン卿(1788~1824)が、ヴェネツィア共和国総督フランチェスコ フォスカリ(在任:1423~1457)の一生をもとに書いた作品をベースに、ヴェルディがオペラとして仕上げたもの。全三幕あり本日の公演は、リッカルド ムーティ指揮、ルカ サルシ(フランチェスコ フォスカリ)、フランチェスコ メーリ(ヤコポ フォスカリ)、そして、タチアナ セルジャン(ルクレツィア)が演じている(メッセージボード(当日プログラム))。
ストーリーは、1457年のヴェネツィア共和国ドゥカーレ宮が舞台である。総督フランチェスコ フォスカリの息子ヤコポ フォスカリが、殺人の疑いで引き立てられてくる。ヤコポは妻ルクレツィアとともに正当な裁判を要求するが、フランチェスコは十人委員会の決定は覆せないと拒絶する。その後、真犯人から自白があり、フランチェスコは、息子の無罪に喜ぶが、ルクレツィアから、既にヤコブが流刑中の船内で亡くなったと告げられる。更に十人委員会の決定により、フランチェスコは総督の地位を剥奪され、悲嘆と屈辱に耐えられず絶命してしまう。
指揮者のリッカルド ムーティは、2009年からローマ歌劇場の音楽監督となり、2011年には終身名誉理事となっている。最期に、ムーティが、舞台に登場すると、一層大きな拍手に包まれた。
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オペラ鑑賞後は、テルミニ駅近くにある「リストランテ テーマ」(Ristorante Tema)で食事をして一日を終えた。リストランテは、手ごろな値段で魚料理(お勧めはムール貝のワイン蒸しと、手長海老のクリームリゾット)が美味しいと評判のお店である。
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今日は、今朝6時55分テルミニ駅発に乗車し、午前10時7分にパドヴァ駅に到着した。パドヴァ(Padova)は、ヴェネト州にある都市で、周辺地域を含む人口約21万人の基礎自治体(コムーネ)、パドヴァ県の県都、経済・通信のハブ地である。ヴェネツィアのサンタ ルチア駅までは、東に40キロメートル(約30分)の距離である。
今夜はパドヴァ駅前のホテル(ホテル グランディタリア、Hotel Grand'Italia)を予約しているので、荷物を預けて、600メートルほど南に歩き、ブレンタ川を渡り、右岸沿いのアレーナ庭園の先にある「スクロヴェーニ礼拝堂」近くまでやってきた。
スクロヴェーニ礼拝堂には、午後1時45分から予約をしているが、まだ時間があるので、先に「エレミターニ教会」に向かう。南側に見える矩形の回廊を持つ建物が「エレミターニ市立美術館」で、その南側に隣接する鐘楼のある建物がエレミターニ教会となる。
エレミターニ教会は、1276年に、ベネチア建築の推進者として知られる建築家ジョヴァンニ デッリ エレミターニ(~1320)により、聖アウグスティヌス(聖オーガスティン)騎士団の修道院として建設された。その後、1806年まで修道院だったが、現在はパドヴァ教区教会となっている。
長い歴史のある教会は、多くの装飾品や美術品で豊かになっていたが、1944年の第二次世界大戦における英米軍による空襲で深刻な被害を受けている。中でも、ファサード、天井、後陣付近に大きな破壊を受け、特に、主祭壇の右側にある「ドット礼拝堂」と先隣りの「オヴェタリ礼拝堂」は完全に破壊されてしまう。当時、教会は軍事利用され、鉄道駅に近かったことなどが攻撃対象になった原因とも言われている。教会内部は単身廊で、船体天井で構成されているが、これは、空襲前も同じで、第二次世界大戦前に残されていた教会模型に基づいて再建されている。
主祭壇には、ヴェネツィアとパドヴァで活躍した画家ニコロ セミテコロ(~1370)による磔刑図が掲げられ、後陣左側面には、グアリエント ディ アルポ(1310~1370)によるフレスコ画(聖フィリップと聖アウグスティヌスの物語)が残されている。こちらは、19世紀以前に既に劣化が激しかったため、1880年頃に壁から剥がされ別の場所で保管され破壊を免れている。
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主祭壇前から、右先隣りに「オヴェタリ礼拝堂」がある。礼拝堂内には、初期ルネサンスを代表する画家で、パドヴァ派の「アンドレア マンテーニャ」(1431~1506)が、弱冠17才で作品に取り組み9年の歳月を費やして完成させたフレスコ画が残されている。
後陣の後壁の窓に囲まれた中央には、使徒たちが聖母を見上げる「聖母被昇天」のフレスコ画が細長いサイズで残されている。そして、向かって左側面には左右2面、上下3段に渡り「聖ヤコブの物語」が描かれている。これらのフレスコ画の大半も、1880年頃に剥がされ別の場所で保管されていたため大きな破壊は免れているが、かなり劣化している。
最上段には「聖ヤコブとヨハネの召命」、「聖ヤコブの説教」の場面があり、2段目の左側は「ヘルモゲネスの解放」(ヤコブが、魔術師ヘルモゲネスを改宗させ洗礼を授ける)で、右側は「聖ヤコブの裁き」(ヤコブは、台座の前で天蓋のある椅子に座ったヘロデ アグリッパ1世により判決を受ける)となっている。
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最下段の左側が「聖ヤコブの奇跡」(ヤコブの足元に跪く信者に手を掲げている)だが、多くが剥離して白絵で代用されている。そして右隣には「聖ヤコブの殉教」(うつぶせにされたヤコブに対し処刑人が斧を振り上げる)が描かれている。
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対となる右側面には「聖クリストフォロスの物語」が描かれているが、最上段と二段目は、マンテーニャではなく、パドヴァの画家アンスイノ ダ フォルリによる作品で、「王との別れ」「悪魔の王との出会い」「幼子キリストを船で運ぶ」「説教」が描かれているが、二段目は破壊され、ほとんどが白絵となっている。
そして、最下段は、アンドレア マンテーニャの作品になる。クリストフォロスは、キリストとの出会いの後、旅に出て、多くの異教徒をキリスト教に改宗させるが、やがて捕えられ、数々の拷問を受ける。炎も、降り注ぐ矢も彼を苛むことはできなかったが、その矢の一本が拷問を命じた王の眼に命中してしまう。結局、クリストフォロスは、首をはねられ殉教するが、クリストフォロスの血を塗った王の眼は回復し、王はキリスト教に改宗したと言われている。
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左側が「聖クリストフォロスの殉教」だが、劣化が激しく、左端の柱に立つクリストフォロスの姿は、僅かに見える右足だけになっている。上部の建物から外を眺めている王に矢が刺さる姿が描かれている。
そして、最下段の右隣は「聖クリストフォロスの遺体の移送」で、殉教後、横たわったクリストフォロスの巨体(「黄金伝説」では5メートルを超える大男だったとされる)を兵士が抱えて運ぼうとする場面が描かれている。後方から連なる建造物や人物が遠近法で表現されており、横たわるクリストフォロスも建物とリンクする様に描かれていることから、大きな足が、眼の前に迫って来る様な迫力がある。後年の大作「死せるキリスト(1480頃)」に繋がる表現方法を既に取り入れている印象がある。
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次に、予約時間が近づいてきたので、スクロヴェーニ礼拝堂に向かう。隣接するアレーナ公園は、もともと古代ローマの円形劇場(アンフィテアトルム)があった場所で、礼拝堂は、その跡地近くに、1305年、高利貸で財産を築いた一族出身のエンリコ デッリ スクロヴェーニにより建てられた。このスクロヴェーニ礼拝堂には、1305年にジョット ディ ボンドーネ(1267頃~1337)が、彼の画家としての名声が高まる一方だった30代後半に描いたフレスコ画がある。
ジョットは、イタリア・ルネサンスへの先鞭を付けた偉大な芸術家と見なされており、中でも、スクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ画は、ジョットの代表作であり、初期ルネサンス絵画の中でも最高傑作の一つといわれている。入口は、後陣の北側にあり、多くの見学予定者が集まっている。そのジョットの代表作を見るためにこのように世界中から愛好家たちがやってくるのである。
スクロヴェーニ礼拝堂の壁面には、四面全ての壁に、上中下の三段に分割された37のフレスコ画画と、最下部に装飾画(七つの美徳と悪徳)がそれぞれ描かれている。礼拝堂は、受胎告知と聖母マリアの慈愛に捧げられ、人類の救済におけるマリアの果たす役割を祝福するものになっている。ジョットは、連作開始にあたり、南壁にある6つの窓を基準とし、反対側の北壁のスペースの配置を計算することで、全体のレイアウトを決定している。
連作は、内陣中央部の凱旋門ルネットの高いところ、父なる神が大天使ガブリエルにマリアへの受胎告知を行うように指示する場面から始まっている。そして「ヨアキムとアンナの物語」(上段、南壁)、「マリアの物語」(上段、北壁)と続き、凱旋門に戻り、「受胎告知」の場面となる。アーチ左側のガブリエルが受胎を告知すると、アーチ右側のマリアがガブリエルからのお告げを受ける配置となっている。
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続いて「キリストの物語」(中段、南壁と北壁)が始まる。再び、凱旋門に戻って、「ユダの裏切り」(ユダがキリストを裏切るためのお金を受け取る)の場面となり、下段、南壁から「最後の晩餐」の場面へと続いている。
「最後の晩餐」の先隣りの南壁の中央部に描かれるのが、キリストを処刑に追いやる裏切りの第一歩となる「ユダの接吻」で、評価が高い場面の一つとされる。キリストと光輪を失った裏切り者ユダとの厳しいアイコンタクトは、武装した群衆とも合わさり、暴力的なドラマの効果を生み出している。
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下段、北壁の最後のパネルは「聖霊降臨」(ペンテコステ)で、西壁(カウンターファサード)には「最後の審判」が描かれている。審判、天国、地獄全体を1つの場面とし、すべての人物を単一の空間に含める伝統的な手法が取られている。中でも、裁判官キリストのマンドルラのオーラから発する4筋の炎の川が流れ込む地獄の阿鼻叫喚の表現はインパクトが強い。
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ジョットと同世代の、共にフランチェスコ会の信者で友人でもあったフィレンツェ生まれの詩人ダンテ アリギエーリ(1265~1321)は、スクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ画制作のためパドヴァに滞在していたジョットのもとを訪れている。ダンテは、1304年から1308年頃に「神曲」(地獄篇)を執筆していることから、ジョットのフレスコ画から大きな影響を受けたかもしれない。
文化財保護の観点から、控室でビデオを見ながら温度を安定させた後の見学だったため、滞在時間30分のうち、実際の見学時間は、15分から20分と短い時間だった。。写真撮影は禁止だったので、画像はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)からお借りした。
アレーナ公園から、500メートルほど南に行ったパドヴァ大学の西側のエルベ広場北側には「パラッツォ デッラ ラジョーネ」(ラジョーネ宮)がある。このエリアは、中世の頃、市庁舎兼裁判所として、パドヴァの政治、経済の中心地で、街のシンボルとして親しまれている。もともと12世紀に着工し14世紀には、現在のポルチコのある外観になったと言われている。
内部は、アーチ型の天井が2種組み合わされた構造で、船底をひっくり返した様な形状となっている。エレミターニ教会を設計した建築家ジョヴァンニ デッリ エレミターニによるものである。1階には「ソット イル サローネ」と呼ばれる食料品店を中心とした商店街となっており、地元民の食生活を支える場として多くの人が訪れている。
夕食は、ホテル近くのリストランテを利用した。
最初に、フリッタティーネと、タコのグリルを注文した。ワインはヴェネトの赤で、コッリ エウガネイ ロッソ リゼルヴァを注文する。
次に、ニョッキを頼み、最後にデザートとしてプリンを食べ、パドヴァの一日を無事終えた。
(2013.3.16~17)