カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

アメリカ・ワシントンD.C.(その1)

2013-07-10 | アメリカ(東海岸)
アーリントン国立墓地(Arlington National Cemetery)に、開園時の午前8時にやってきた。1864年に、南北戦争の戦没者のための墓地として、南軍のロバート・E・リー将軍の住居周辺の土地に築かれたのが始まりで、その後、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争等の戦没者が祀られ、現在でも戦没者やテロ犠牲者などのアメリカ合衆国のために尽くした人物の墓地が存在している。


昨夜、午後5時41分にアメリカ・ワシントン国際空港に到着後、市内のユースホステル(Hostelling International-Washington, DC)に宿泊し、今朝、最寄りのメトロセンター駅からブルーライン(地下鉄)に乗り、西側、アーリントンセンター駅(5駅目)に下車しやってきた。

6本の円柱が並ぶポルチコがあるウェルカムセンターから建物内に入ると、ガラス張りの樽型天井から、明るい光が差し込むエントランス・ロビーになっている。インフォメーションコーナーがあり、ロビー中央にはラッパを吹く衛兵姿の人形がガラスケース内に飾られている。向かい側に見える扉口に向かう。


ウェルカムセンターから、右に続く通りを西に向けて歩いて行くと、周囲には見渡す限りの墓石が広がっている。


ウェルカムセンターから5分ほどでY字路となり、Kennedy Grave site書かれた標識に沿って右側を進むと、再びY字路が現れ、右側の緩やかな丘のサークル通路への階段がある。階段を上りサークル通路を上り半円形の石畳の広場の先の中央階段の先に、第35代大統領ジョン・F・ケネディ(左)と夫人ジャクリーン(右)が眠る場所がある。墓の前には、消えることなく燃え続ける「永遠の炎(Eternal Flame)」がある。高台には、かつてロバート E リーが暮らしていたギリシャ神殿風の大邸宅アーリントンハウスが見える。


サークル通路から階段を下りた先のY字路から左側の通路を通り南方向に墓地を眺めながら歩いて行く。丘の上には、円形劇場のあるギリシャ神殿風の建物が建ち、正面には白い墓石「無名戦士の墓」(Tomb of the Unknowns)がある。身元が不明な戦没者を祀った墓地で、各国の元首や首相、要人が公式訪問した際に訪れ、献花するのがこちらの場所である。この時間、衛兵交代式が行われており、無名戦士の墓の手前に敷かれた黒いシートに衛兵が往復し行われる。
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アーリントン国立墓地は、観光客など多くの訪問者で常に混雑しているが、開園と同時に訪れた今朝は、静謐な雰囲気に包まれていた。50分ほど周囲を見学した後、ウェルカムセンターまで戻り、メモリアルアベニューを東に歩きアーリントンセンター駅がある陸橋に到着した。しかし、爽やかな天気なので地下鉄は利用せずこのまま歩くことにする。

先のポトマック公園を過ぎると、ポトマック川に架かる「アーリントン記念橋」(Arlington Memorial Bridge)があり、対岸となる東正面に「リンカーン記念堂」(Lincoln Memorial)が見える。
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アーリントン記念橋(659メートル)を渡り終えると、通りはリンカーン記念堂の手前から左右に分かれて行く。右側の通りを東方向に歩いて行くと、右側は、大統領夫人による植樹式や、さくら女王のパレードなどで日本でもニュースとなる「桜まつり」で知られる「ウエスト・ポトマック公園」が広がる。

ウエスト・ポトマック公園を通り過ぎると、右側に大きな白い岩のゲートが見えてくる。そのゲートを通り過ぎた先には、公民権運動の黒人指導者「マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の記念碑」(Martin Luther King, Jr. Memorial)が建っている。「私には夢がある(I Have a Dream)」と発言した歴史的なスピーチからちょうど48年目にあたる2011年に牧師の偉業を讃えて完成したもので、高さは約9メートルある。


キング牧師の記念碑の周りにも、多くの桜の木が植えられている。そして、キング牧師が見つめる先には「タイベル・ベイスン池」が広がり、対岸(南東方面)には、アメリカ合衆国第3代大統領「ジェファーソンの記念碑」が望める。
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ところで、リンカーン記念堂からアメリカ合衆国議会議事堂までの東西約4キロメートルは「ナショナル・モール(National Mall)」と呼ばれ、この中に、複数のスミソニアン博物館群と、国有の美術館や記念館、庭園、緑地が広がり、多くの観光客が訪れるオープンな国立公園となっている。これから、タイベル・ベイスン池の対岸にあるジェファーソンの記念碑まで歩いた後、スミソニアン博物館群を見学する予定にしている。

タイベル・ベイスン池の最北端に架かる「クッツ記念橋」(Kutz Bridge)を渡る。コロンビア特別区(D.C.)の技術長官チャールズ・W・クッツに因んで1954年に開通した記念橋である。左前方には、ナショナル・モールの中心にそびえ立つ「ワシントン記念塔」が望める。高さ169メートル(約555フィート)の巨大な白色のオベリスクだが、2011年の地震で亀裂などの被害が発生したため、現在は修復工事が続けられている。


クッツ記念橋を渡り終えた後は、池畔に沿って大きく右にカーブしながら続く遊歩道を歩いて行く。クッツ記念橋から約1キロメートルほどで、タイダル・ベイスン池の南畔に到着する。北側の対岸には、ワシントン記念塔が望める。右側に見える建物は、手前から、連邦政府庁舎、アメリカ合衆国製版印刷局、アメリカ合衆国ホロコースト記念博物館になる。
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遊歩道の終点の広いテラスの中央に建つ白い建物が、最初の目的地「ジェファソン記念碑」(Thomas Jefferson Memorial)になる。アメリカ合衆国第3代大統領トーマス・ジェファーソンを記念して建立された記念建造物で、1939年から1943年にかけてニューヨーク市の建築家ジョン・ラッセル・ポープの設計で建てられた。大理石の階段、柱廊、イオニア式柱の円形の列柱、浅いドームから構成された新古典主義様式の建物である。
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記念碑の中央には、ジェファーソン像が飾られている。こちらはコンペティションで応募があった101件の中から、選ばれた地元の彫刻家ルドルフ・エヴァンス(1878~1960)によるもの。高さ5.8メートル、重さ4,500キログラムのブロンズ像である。完成は、第二次世界大戦中に生じた資材不足が影響し1947年であった。後方のパネルには、アメリカ合衆国独立宣言からの抜粋が記されている。


次に、ナショナル・モールの東側にあるスミソニアン博物館群に向かう。こちらは「製版印刷局」(Bureau of Engraving and Printing)の西側エントランスでワシントン記念塔から南に400メートルほどに位置している。アメリカ政府の様々な機密印刷物をデザインし印刷する米国財務省内の政府機関で、最も代表的な製造物は連邦準備の為の連邦準備券(ドル紙幣)である。それに加えて、米国債、軍士官や賞の証明書、入場許可証、多くの種類の身分証明書など様々な文書を製造している。


先隣りが「ホロコースト記念博物館」(United States Holocaust Memorial Museum)になる。土地は連邦政府から寄贈され、民間からの約1600万ドル(183億円)の寄付で設立された。ジェームズ・インゴ・フリードによって設計され、1988年に第40代大統領ロナルド・レーガンが礎石の設置を手伝った。開館は1993年4月で、最初の訪問者はダライ・ラマ14世であった。


そして、こちらの円形ファサードが、ホロコースト記念博物館の東口で、先ほどの西口と反対側の入口になる。左側の三翼の建物が製版印刷局になる。これから、こちらの14thストリートを通ってスミソニアン博物館群へ向かう。
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南北に延びる14thストリートを北に進み、先の交差点を右折し、連邦政府庁舎前を東に進むと前方に高架陸橋が見えてくる。その高架陸橋の先の左側が、スミソニアン博物館群の一つ「フリーア美術館(Freer Gallery of Art)」になる。


こちらは、アジアの美術品を収集していたデトロイトの実業家、チャールズ・ラング・フリーアにより設立され、建築家チャールズ・プラットの設計で1923年に一般公開された。日本を含む中国やインドを中心としたアジアの古美術品を収蔵する美術館である。隣には、古代のアジア・中東諸国の作品が展示される「アーサー・M・サックラー・ギャラリー」があり、地下通路で双方は繋がっている。このことから、フリーア美術館は、フリーア&サックラー・ギャラリー等と統合して「FSG」と称されることもある。

入口は、北側で入館は無料である。それでは中国美術から鑑賞する。こちらは殷王朝後期(紀元前11世紀)の青銅器で「兕觥(じこう)」と呼ばれる怪獣の身体を模した注酒器である。儀式的な酒の水差しとして使用された。殷王朝時代の青銅器は、個性的な文様が駆使され複雑で様々な器形があり世界中で愛好者が多い。
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他にも、周の趙王(周昭王、在位:紀元前977~957)の治世中に成州で開催された3日間の会議と儀式を記念する碑文が刻まれた、四角い箱形の器身に屋根形の蓋を持つ方彝(ほうい)や、酒を温めるための器「斝(か)」などが展示されている。3つの脚、側面の把手、口縁には2本の突起が付いた特徴がある。

こちらは「玉琮」(ぎょくそう)と呼ばれる玉器で、紀元前3500年頃から紀元前2200年頃、中国の長江の下流域に栄えた良渚文化(新石器時代後期の文化)の玉器である。翡翠(ネフライト)を擦切や穿孔し、形を切り出し、磨きあげて光沢を出している。玉琮はさまざまなサイズがあるが、表面には浮彫や線刻が施され、神人マスクなどの文様があるものもある。古い時代のものほど、丁寧に仕上げられた例が多い。墓で頻繁に発見されており、宗教儀礼に使用された考えられるが詳細は不明である。
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11段チューブは、高さ28.5センチ×幅7.5センチ×奥行き7.6センチで、左前面のマスク付き1段チューブは、高さ4.5センチ×幅7.2センチ×奥行き7.2センチとなっている。手前の丸みを帯びた形状のものはブレスレットを思わせる。

他にも、様々な形状の作品が展示されているが、こちらは、まっすぐなベースにアーチ状の丸みを帯びた形状で、中央部がわずかに膨らみがある「玉琮」で、表面には、棒状の口、隆起した楕円形の目、くぼんだ丸い瞳孔の神人マスクの浮彫が施されている。

翡翠(ネフライト)を素材にした作品では、中国・戦国時代(紀元前475~紀元前221)(秦の始皇帝が中原統一する前)の東周で製作された「ペンダントビーズとゴールドチェーン」なども展示されている。

「コズミックブッダ(The Cosmic Buddha)」(北斉(550~577)時代、石灰岩、河南省出土)と名付けられた立像で、高さ151センチメートル、ほぼ等身大の像である。1923年に北京のコレクターから購入したもので、頭部と両手は失われているものの、がっちりとした体躯で、簡素な僧衣をまとっている。注目すべきは、僧衣の隅々まで施された細かい浮彫である。
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像が製作された北斉時代とは、頻繁に政権交代が起こった中国・南北朝時代(420~589)の政権の一つだが、国内では、広く仏教が流行し、価値ある仏教美術作品も多く排出されている。西域の、ガンダーラ美術やグプタ朝などのインド仏教美術の様式から、北魏様式と呼ばれる中国独自のものと転換していく時代でもあった。ちなみに世界的に知られる雲岡石窟や竜門石窟の造営もこのころである。

コズミックブッダは、宇宙仏の意味で、万物の慈母であることから真言密教の大日如来と考えられる。一方、衣に刻まれた世界は、衆生が生死を繰り返しながら輪廻する三界(欲界・色界・無色界)であり、法華経の譬喩品からの仏陀、或いは、華厳経の三界唯心の教えとしての信仰対象、摩訶毘盧舎那仏とも考えられる。

衣の前胸には、天と地を繋ぐと信じられる欲界の頂点として「須弥山(スメール山)」が刻まれ、2匹の蛇(ナーガ)が絡みつき、須弥山頂上の忉利天(三十三天)では、守護神として多腕の天部を従えた仏陀が説法している。その下に天、人、畜生、餓鬼と続き、足元の裾となる最下部には、人々が苦しむ地獄が刻まれている。

衣の背面にも、浮彫が施されており、こちらには、歴史的な仏陀の生涯の場面などが刻まれている

次に日本美術を見学する。こちらは、江戸初期の狩野派の絵師 狩野探幽(1602~1674)による6曲「韃靼人狩猟・打毬図屏風(1668)」で、狩猟をする場面や、打毬杖(だきゅうづえ)をふるって毬( たま)を奪い合う姿などが力強く、生き生きと描かれている。
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江戸時代後期の浮世絵師 葛飾北斎(1760~1849)による「屏風図」である。こちらは、向かって左から右に、僧正遍昭、大友黒主、小野小町、在原業平の4曲が展示されている。しかし、これらは、もともと6曲の屏風を切り離したもので、残り2扇には、文屋康秀と喜撰法師が描かれていた。
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四天王(東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天)(鎌倉時代(1185~1333))は、もともと、奈良・興福寺の収蔵仏だったが、明治初期の神仏分離令以降、荒廃した寺院修復の為の資金調達を目的に破損仏像77体を譲渡し、1906年に実業家の益田孝が購入している。その後、益田は17体のみを手元に残し、他の蒐集家に転売している。
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現在では、興福寺の収蔵仏のほとんどは所在が確認されており、アメリカでは、こちらフリーア美術館の四天王像の他、メトロポリタン美術館、フィラデルフィア美術館、ボストン美術館などに収蔵されている。

こちらの「菩薩坐像」は、仏像表面には金泥塗が施され、高い髻(もとどり)や、切れ長の目尻等から、鎌倉時代を代表する「快慶(1185~1220)」或いは、快慶一派の特徴があると評価されている。快慶の作品は、日本では、ほとんどが国宝か重要文化財に指定されており、アメリカでの快慶作品としては、ボストン美術館の弥勒菩薩像、メトロポリタン美術館の地蔵菩薩像・不動明王像などが挙げられる。
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ガンダーラ美術から「四相図のうちの誕生」(クシャーナ朝、パキスタンまたはアフガニスタン出土(ガンダーラ地方)、2世紀後半から3世紀初頭)。四相図とは、仏陀の生涯の四出来事のことで、誕生、成道初転法輪涅槃を指す。仏陀の母親マーヤー(摩耶)は、ルンビニー(現ネパール)園の無憂樹の下で休息していたが、無憂樹に咲く深紅の花に気づき、その一枝を取ろうと手を伸ばすと、右腕の脇から男子が出生した。パネルでは、その誕生の瞬間を捉えている。これは、仏陀が、他の人間と異なり性と無縁であることを示している。
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インド美術から「王が仏陀を訪ねる(シュラーヴァスティーの大いなる奇跡)」(シュンガ朝、BC2世紀、バールフット出土)(インド中部にある仏教遺跡)で、欄楯に刻まれた浮彫の一部である。中央には、花が敷き詰められた空の玉座の上に車輪があり、厚い花輪がかけられている。シュラーヴァスティーは祇園精舎のことで、仏陀が、千仏化現や、双神変などの奇跡を見せ、異教を論破し、教えを説いて人々を仏教へと改宗させた逸話に基づいている。
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仏陀の入滅後、芸術家たちは何世紀にもわたり、仏陀を人間としての姿では表現せず、仏舎利塔での礼拝、仏陀が座った玉座、瞑想した木、歩いた道を示すことで、仏陀の存在を表現し、仏陀の教えを広めてきた。

こちらは「玉座の脚」(東ガンガ朝、13世紀、インド・オリッサ州)で、悪魔の戦士を逆さまに抱えた「ガジャシンハ」が、象牙を素材に玉座の脚に彫刻されている。ガジャシンハとは、インド神話で登場する神獣で、知恵の象徴としての象(ガジャ)の頭と、王を表わす獅子(シンハ)の両方を併せた姿で表現される。カンボジアでは国章のシンボルとして使用されている。
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象牙の滑らかな表面と悪魔を逆さにぶら下げるガジャシンハの力強さが、巧みな曲線で表現されている。岩山の頂きに跨いだ足で体を固定しており、その岩山には、様々な動物や瞑想する隠者などの姿を見ることができる

こちらはネパールの「白い観音菩薩(アヴァローキテーシュヴァラ)」(Amoghapasha Lokeshvara)(マッラ朝前期、14世紀、ネパール、木材とポリクロミー(多彩色)、高さ162.5センチメートル)である。沙羅双樹の木片から製作された1木造である。像は、白い漆喰を用い、滑らかな層で像を覆った後、さまざまな色やパターンで装飾し、ヒマラヤの特産品である宝石の象嵌細工を施した。しかし、現在、宝石と腕2本が失われている。完成当時は、仏教僧院の祠堂で崇められ、敬虔な仏教徒により毎月特別なプージャ(儀式崇拝)が行われていたと考えられている。
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像は、カトマンズ渓谷の非常に人気のある守護神で、しなやかなトリバンガ(三重に曲がる)の姿勢で立ち、楕円形の顔の美しさの中に、若さと慈悲を体現している。特に、頭部の繊細な浮彫技術や、太腿付近の巧みな多色装飾が素晴らしい。

こちらは、アメリカ生まれで、主にロンドンで活動したアーティスト、ジェームズ マクニール ホイッスラー(1834~1903)による「磁器の国のプリンセス」(1865)である。作品は、着物を着たヨーロッパ人女性が、絨毯、日本の屏風、大きな装飾的な磁器の壺などを背景に、扇子を手にし物憂げに前方を見つめる様子を捉えている。
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作品は、その後、美術品収集家に売却され、ロンドン・ケンジントン近郊のタウンハウスで、景徳鎮磁器などで装飾されたダイニングルーム「ピーコック・ルーム(孔雀の間)」に飾られたが、1903年、チャールズ・ラング・フリーアにより部屋ごと購入されたため、当時の環境のまま展示されている。

次に、東に500メートルほど行った「国立航空宇宙博物館」(Smithsonian National Air and Space Museum)にやってきた。スミソニアン地区の博物館の中でも、屈指の人気を誇る博物館であり、この日も、入口付近には大変多くの見学者が集まっていた(写真は南口)。


セキュリティ・ゲートをくぐると、ガラスカーテンウォールの天井から明るい光が差し込む開放的な吹き抜けのエントランスホール「マイルストーン・オブ・フライト・ホール」(108)に至る。その天井からは、高高度極超音速実験機X-15、スピリット・オブ・セントルイス、スペースシップワン、パイオニア10号、スプートニク1号など、歴史上、名だたる航空機、輸送機、宇宙船、人工衛星等が吊り下げられている。
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ピンクのテネシー大理石が敷き詰められたフロアには、アポロ11号のコロンビア司令船や、左側には、1962年のジョン・グレンのマーキュリー6号(フレンドシップ7号)のカプセルなどが展示され、その隣に、月の石に触ってみよう!との表示がある。
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こちらが、月の石で、1972年にアポロ17号が持ち帰ったもの。着陸地点のタウラス・リトロー渓谷近くで採取されたもので、玄武岩で鉄分を含むきめの細かい火山岩で、約40億年前のもの。三角形のピースにカッティングされており、手で直接触れることができる。この日は、特に混雑することもなく、直ぐに触れることができた。


「マイルストーン・オブ・フライト・ホール」を2階から見下ろしてみる。まず、奥に見える戦闘機が「P-59 エアラコメット」で、ベル社が開発し、第二次世界大戦後にアメリカ陸軍航空軍等で使用された双発単座ジェット戦になる。左側には、世界初の木星探査機パイオニア10号が吊り下げられているのが見える。
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そして、目の前の大型機が、高高度極超音速実験機「X-15」66670(1959~1968)(ノースアメリカン社)で、3機製作された内の1号機になる。X-15は自力で離陸せず、母機となるB-52の主翼下に吊り下げられ上空に運ばれた後に切り離され、空中発進する仕組みであった。

ちなみに1号機は、1960年にマッハ3.31、飛行高度41,605メートル、1963年には高度107,960メートルに達し、その後、1967年ウィリアム・J・ナイト(1929~2004)により、2号機で最高速度7,274キロメートル毎時(マッハ6.7)を記録している。
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そして、1階左端の壁際に見える赤い構造物は、「ブライトリング・オービター3号」で、1999年3月、初の世界一周無着陸飛行に成功したロジエール気球(ガス気球と熱気球の機能を一体化した複合気球)になる。

左側には、ベル社の有人実験機で、世界で初めて水平飛行で音速を突破した有人航空機「X-1」(グラマラス・グレニス)(1946~1958)が展示されている。その音速を超えたのが、アメリカ陸軍・空軍軍人チャック・イェーガー(1923~)で、映画「ライトスタッフ」(1983)では、サム・シェパードが演じている。
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中央は、「スペースシップワン」(2003~2004)で、スケールド・コンポジッツ社により開発された有人宇宙船である。2004年に高度約100キロメートルの宇宙空間に向けた弾道飛行を成功させ、世界で初めての民間企業による有人宇宙飛行を実現させた。降下時に尾翼を立て、スピードを抑え機体の過熱を防ぐ等、特徴的な設計となっている。右手前は「スピリット オブ セントルイス号」で、1927年にチャールズ・リンドバーグ(1902~1974)により、ニューヨーク~パリ間を飛び、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した、ライアン・エアラインズ社製の単葉単発単座のプロペラ機「NYP-1」の愛称である。

2階通路の後方(南側)展示室(208)には、チャールズ・リンドバーグと彼の妻アン・モローの写真パネルがあり、後ろに黒い機体の「ロッキード・シリウス」(NR-211)(チンミサトーク)が展示されている。こちらは、1931年に北太平洋航路調査(パンアメリカン航空より依頼)のためニューヨークからカナダ、アラスカ州を経て、日本と中華民国まで飛行した水上機である。
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同展示室(208)にある真っ赤なボディは、1927年に初飛行したロッキードの民間用飛行機「ロッキード ベガ」(NR-7952)である。1931年には、隻眼の飛行士ウィリー・ポスト(1898~1935)により世界一周飛行に使用され、翌年には、アメリア・イアハート(1897~1937)により女性初の大西洋単独横断飛行が成し遂げられている。もともと、旅客機として設計されたが、座席数が少なかったため、記録飛行機として、名を残すことになった。
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東隣の展示室(209)には「ライトフライヤー号」が展示されている。ライト兄弟は1903年12月17日に計4回の飛行を行い4回目で59秒間、260メートルの飛行を達成した。こちらは、アメリカ航空宇宙学会ロサンゼルス支部のボランティアにより製作された複製機で、1999年には、NASAのエイムズ研究センターにより実験飛行がなされ、歴史的な飛行のデータの収集が行われた。
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次に、2階通路を左方向(西側)に進むと、航空輸送の展示室(102)が見下ろせる。下が初期のアメリカの旅客機「ボーイング247-D」(1934)で、全金属(陽極酸化アルミニウム)セミモノコック構造、片持ち梁の翼、格納式着陸装置などの当時の先端技術を取り入れた最初の航空機の一つである。黒と黄色のボディは「ピトケアンPA-5」(1927)で、イースタン航空(1926~1991)を構成するピトケアン航空会社のメールウィング単発機で、ニューヨーク市とジョージア州アトランタ間の郵便機として運行していた。
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上は、「ダグラスDC-3」(1936)で、1930年代から1940年代、第二次世界大戦の航空業界に永続的な影響を与えたダグラス・エアクラフト・カンパニーによって製造されたプロペラ駆動の旅客機である。

2階通路の西端を左折すると、第二次世界大戦軍用機の展示室(205)になる。展示室には階段があり見下ろすことができる。左側が、日本の「零式艦上戦闘機(ゼロ戦)五二型」である。五二型は、二一型、三二型に続いて、速力と防弾性能の向上を図ったタイプとして、太平洋戦争の中盤に後期型のゼロ戦として生産された。最高速度は時速565キロメートル、主翼内の燃料タンクに自動消火装置を装備しており、被弾で火災が発生しても二酸化炭素を噴射して鎮火させることができた。ゼロ戦は各型合計で1万機以上が製造されたが、その内の半数が五二型である。
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零式艦上戦闘機(ゼロ戦)五二型の右奥に見えるのが、イギリスのスーパーマリン社で開発された単発のレシプロ単座戦闘機「スピットファイア」のMk.VIIになる。格闘戦を重視し、旋回性能を向上させるため楕円形で薄い主翼を採用しているのが特徴である。1936年初飛行後、第二次世界大戦のさまざまな状況で活躍した。基本設計が優秀であったことと、戦況に応じたエンジンの出力向上により長期間にわたり活躍し23,000機あまりが生産され1950年代まで使用された。

右端が、イタリアのマッキ社が開発し、第二次世界大戦期にイタリア空軍で運用された戦闘機「MC.202 フォルゴーレ」で、その下のレシプロ単発単座戦闘機は、「P-51」(マスタング)で、アメリカ合衆国のノースアメリカン社が開発しアメリカ陸軍航空軍などで運用された。
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左下が、ドイツ空軍の主要レシプロ戦闘機Bf109(メッサーシュミット)で、約33,000機が生産された。後期には世界初となるジェット戦闘機メッサーシュミットMe 262の実用化にも成功している。
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2階通路の東端からは、「アポロ月着陸船」(Apollo Lunar Module )が見下せる。アポロ計画において、2名の宇宙飛行士を月面に着陸させ、かつ帰還させるための宇宙船で、グラマン社により開発された。こちら(シリアルナンバーLM-2)は、2回目の無人飛行用だったが、最終的に地上テスト用で使用されている。総重量は14,696キログラムある。
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2階のアポロ月への旅の展示室(210)(Apollo to the Moon)には、アポロを打ち上げる巨大なサターン5ロケットの5基あるF1エンジン(サターン1Bのメインエンジン:H-1エンジン?)。ノズル直径は約3.8メートル、推力約680トン(5基で3,400トン)は破格の大きさである。 他にも司令船のコックピットパネルや、地球へ帰還で使用されるアポロ宇宙船の司令船(3名が2週間を過ごす。直径約3.9メートル、質量約5.9トン)を始め、アポロ11号の司令船のハッチなどが展示されている。

アポロ月着陸船の西隣となる展示室スペース・レース(114)の大きなロケットは「V2ロケット」(1944~1952)で、第二次世界大戦中にドイツが開発した世界初の軍事用液体燃料ミサイルであり、弾道ミサイルでもある。隣のペンシル型のロケットは、「RTV-G-1 WACコーポラル」(ワック・コーポラル、WAC Corporal)(1945~1950)で、コーポラル計画の一環としてアメリカで開発された最初の気象観測用ロケットになる。
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大きな構造物は「スカイラブ宇宙ステーション」(The skylab orbital workshop)で、アメリカ初の宇宙ステーションとして建造されたもの。3人の乗組員を支えるための居住区、作業場、保管場所、研究機器など必要な設備が備えられている。当時2基が製造され、1基が1973年5月に周回軌道に打ち上げられたが、その後スペースシャトル計画に伴い本計画が終了したことから、もう1基が博物館に移管されることになった。

天井から吊り下がる飛行機は「V1飛行爆弾」で、第二次世界大戦時にドイツ空軍が開発したミサイル兵器になる。左端のロケットは「ヴァイキング」(1949~1955)で、アメリカ海軍研究所(NRL)の監督下で設計、製造された一連の観測ロケット。その右隣のUEのロゴは、「ジュピターC(Jupiter-c)」(1956~1957)で、アメリカの観測ロケットとして使用されたもの。そして、すぐ右奥の細く黒い先端のロケットは「ヴァンガード(Vanguard)」(1955~1959)で、アメリカが開発した衛星打ち上げ用のロケットになる。
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多色のロケットは「LGM-30 ミニットマン(Minuteman)」(1959~) でアメリカ空軍の大陸間弾道ミサイル(ICBM)で、核弾頭を搭載した戦略兵器になる。右端が「スカウト(Scout-D)」(1961~1994)で、小さな人工衛星を地球の軌道に載せるための打ち上げロケットになる。1時間半ほど見学し、国立航空宇宙博物館を後にした。

その後、Big Bus Toursに乗り、Night Tourに出かけることにしていたが、疲れて諦め、夕食を食べて、宿(Hostelling International-Washington, DC)に帰った。明日も、スミソニアン博物館群を中心に見学することにしている。
(2013.4.24)
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