カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

フランス・オーヴェルニュ(その1)

2013-07-23 | フランス(オーヴェルニュ)
フランスの中央高地に位置するクレルモン フェランにやってきた。クレルモン フェランは、オーヴェルニュ地域圏ピュイ=ド=ドーム県の首府で、人口は約14万人、近隣都市を併せ約40万人の都市圏を形成している(以下、オーベルニュ周辺図を参照)。

こちらは、市内の中心地「ジョード広場(Place de Jaude)」(約35,000平方メートル)を、北西側から南方向を眺めた様子である。広場には、南北にトラム(路面電車)の軌道(上下線)が敷かれ、1本の軌道を金属車輪がV字型に挟み、両側にゴムタイヤを装着するトランスロール・システムを採用している。
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ジョード広場の東北東側には、市の建築家ジャン・テイラード(Jean Teillard、1854~1915)設計による「クレルモン フェラン歌劇場」(オペラ劇場)(600人収容、1894年築)が建ち、南隣りの黒いビルには、クレルモン フェランを本社とする、フランスの地域日刊新聞社、ラ・モンターニュ(la montagne)が入っている。

ジョード広場は、古代ローマ時代から続く歴史的な地域で、1095年には、ローマ教皇ウルバヌス2世(在位:1088~1099)がこの地で教会会議を開き、第1回十字軍(1096~1099)の派遣を訴えた場所として知られている。その後、沼沢地となり衰退するが、1630年、西北西側に、黒いファサードの「サン・ピエール・デミニム教会」が建設され、併せて周囲に噴水と池が整備されて現在の広場の礎となった。
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クレルモン フェランはかつての火山性の丘に位置しており、周辺には休火山群の山脈が連なっている。街には、その火山性の黒玄武岩(ヴォルヴィックの石)を材料に、多くの建物が建てられ「黒い街」とも呼ばれている。現在の広場は、2006年にリニューアルされており、高さ22メートルの7本のモニュメント街灯が、日没後に広場一帯を華やかにライトアップしてくれる。その広場の中央には豪華な円柱のある台座の上に「ウェルキンゲトリクス騎馬像」(1903年築)が飾られている。
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騎馬像は、紀元前1世紀、古代ローマのガリア(現在のフランス)侵略に対して、ガリア諸部族をまとめ、ゲリラ戦などを展開し抵抗したフランス最初の英雄と言われるウェルキンゲトリクス(前72~前46)で、ローマ兵を乗り越え、雄々しく駆け抜ける馬上の勇姿が表現されている。ニューヨークの「自由の女神像」を制作したフレデリク・バルトルディ(1834~1904)の手によるもの。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

これから、そのジョード広場をバックにしてエタ・ユニ通りを北に歩いて「大聖堂ノートル・ダム・ド・ラサンプション」(クレルモンの被昇天聖母大聖堂)(クレルモン フェラン大聖堂)に向かうこととしている。


最初に現れた交差点を右(東側)に曲がると、レストランやカフェ、ショップなどが立ち並ぶ「グラ通り」となるが、まだ午前9時半では、人通りも少ない。150メートルほど歩くと「クレルモン フェラン大聖堂」の尖塔が徐々に大きくなってきた。左右通り沿いには、中世時代の歴史ある建物が並んでおり、左側には、12世紀頃のロマネスク様式や16世紀頃のルネサンス様式で建てられ、18世紀にゴシック様式で改築された建物が続いている。
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迫りくるような巨大な黒いファサードが印象的な「クレルモン フェラン大聖堂」の歴史は古く、最初の聖堂は、司教座が置かれた5世紀のことで、10世紀には、クレルモン司教のエティエンヌ2世(942~984)により前身となるロマネスク様式の大聖堂が建設された。
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現在のゴシック建築の大聖堂は、1248年にクレルモン司教ヒューズ デ ラ トゥール司教(1227~1249)が、建築家ジャン・デシャン(Jean Deschamps、1218~1295)に依頼し着工、1273年頃に主要箇所の身廊、南北袖廊などが完成している。しかし、その後は遅々として進まず、1851年になって前身のロマネスク様式のファサードが取り壊され、1884年、高さ96メートルの2つの尖塔のある西側のファサードと身廊の接続が完了し、最終的に1902年に完成している。

グラ通りは、大聖堂のファサード前が突き当りとなり、南北に通りが延びる丁字路となっている。その突き当りを右折し、大聖堂の外観に沿って回り込んだ南側にはヴィクトワール広場があり、中心にローマ教皇ウルバヌス2世の彫像が飾られている。

今朝は朝食を食べていないため、ファサード前から左折した、角の緑色の外観のオリーブオイル店舗「オリヴィエ&コー(Oliviers&Co)」の先隣の赤いシェードのあるカフェ(temps Thé)で遅めの朝食を頂くことにした。店内でブルーベリータルト、クロワッサン、カプチーノなどを注文した。
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大聖堂ファサード前の階段の上から西側のグラ通り(歩いて来た方向)を見ると、下り坂になっている。クレルモン フェランは、ガリア戦争後は、ローマ皇帝アウグストゥスに因み「アウグストネメートゥム」と呼ばれ、グラ通りは、東西に貫く基幹道路(デクマヌス・マクシムス)であり、現在の大聖堂の場所のなだらかな丘の上にはフォルム(フォロ・ロマーノ) (公共広場)があった。
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そのグラ通り入口の右側の古い建物の2階の窓上には12世紀頃に製作されたロマネスク様式の浮彫が残っている。ヨハネによる福音書にある「弟子の足を洗うキリスト」で、もともとは別の場所にあったリンテル(まぐさ石)を移設したと言われている。浮彫彫刻の人物像は、3頭身サイズで手が大きく強調されている。
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大聖堂のファサードを見上げると、その威容に圧倒される。直近で見ると黒色と言うより、日本のいぶし瓦色に似ている。ティンパヌムには、中央にキリストと福音書記者、向かって左下には聖母被昇天、右下には怪物の口の中をイメージした地獄図が刻まれている。
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大聖堂内に入り、振り返った拝廊側の扉口に向かって右側(北塔)の礼拝堂には、多くの歴代司教や聖人像が並んでいる。歴史のあるクレルモン フェランだが、もともとは聖公会の都市「クレルモン」と、1120年にオーヴェルニュ家が創建した「モンフェラン」の別の2つの都市だった。それぞれの都市は、何世紀にもわたり対立し、1630年に、両都市の合併を命じる勅令が発布されるものの、完全に統合できたのは、20世紀になってからだった。
クリックで別ウインドウ開く多数の司教を輩出した

そして、拝廊側の扉口に向かって左側(南塔)の礼拝堂には、聖母マリア像が祀られている。マリアは、鮮やかなコバルトブルーにラメ糸を織り込んだショールを身に着けている。鮮やかなステンドグラスから差し込む光と重厚な黒の祭室が見事に調和し、劇的な効果を生んでいる。
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上部のバラ窓部分を拡大して見ると、4人の福音書記者に囲まれたキリストを中心に、周囲にそれぞれ3人の聖人が表現された8枚の花弁が取り巻いている。人物の背景にも繊細な装飾文様が取り入れらているなど職人の高度な技術に関心させられる。
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では、拝廊側から、身廊先の後陣の方向を眺めてみる。この時間、東側の後陣のステンドグラスから入る明かりが、黒い身廊の柱に反射し、独特の荘厳さを醸し出している。その後陣にある高祭壇の後部には周歩廊があり、それぞれ美しいステンドグラスで彩られた5つの放射状の礼拝室が設置されている。
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高祭壇の真裏となる中央の放射状礼拝室には、ル ピュイ大聖堂の聖母子像とよく似た黒い聖母子像が祀られている。聖母は、金のベールを被り、やや大人びた顔の幼子を膝に乗せて玉座に座っている。聖母の上腕部は長く、不均衡なつくりとなっているが、幼子を抱きかかえる手は大きく安定感がある。。
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背景のステンドグラスには、フランス王家のユリの苗木(青い背景に金)とカスティーリャの塔(赤い背景に金)を表したデザインが数多く組み込まれている。これは、1262年、フランス王ルイ9世(1214~1270)が、息子で王太子の、後のフィリップ3世(大胆王)(1245~1285)と、イザベル・ダラゴン(アラゴン王ハイメ1世と2番目の妃ビオランテの娘)(1248~1271)との結婚式のために制作を依頼されたと考えられている。

周歩廊のステンドグラスの多くは、ルイ9世の命により建設されたパリのシテ島にあるサント・シャペル(サント·シャペル·デュ·パレ)を模して造られたもの。手の込んだ作品が多く、見始めると時間がいくらあっても足りないほど。こちらは放射状礼拝堂(東南側)のステンドグラスで、左側は「キリストの受難と昇天」、中央の複合ガラスは「キリストの子供時代」、「聖母の眠り」、「聖カプライスの伝説」などが、右側には、クレルモンの司教の聖ボニトゥス(在位:691~701)の生涯が表現されている。
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こちらは、高祭壇北側にある「セントジョージ礼拝堂」のステンドグラスで、連続して並べられたメダイヨン内に細かく聖書の場面が描写され、更に周りには、色とりどりの花弁など細かい装飾などがちりばめられる鮮やかな作品である。
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クレルモン フェランに隣接するローヌ=アルプ地域圏の首府リヨンには、ステンドグラス芸術の中心地と言われ、多くの工房があったが、円形、三葉、四葉などの様々な形のメダリオンのスタイルは、パリの工房に近いとされている。


北袖廊にあるポータルの周囲には、十字架降下やピエタを題材にした絵画が飾られている。右側の柱にある尖塔アーチには16世紀制作の金箔のジャックマート(ハンマーで鐘を打って時間を表示するからくり時計)が飾られている。高さ1.7メートルほどの3人の彫像があり、中央の長いあごひげを生やした老人の足元の時計が時を表し、左右に、交互に時間を打つマース(火星)とファウヌスのオートマトンが配置されている。ユグノー戦争後の1577年にイソワールの修道院から移設された。
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次に北袖廊の両側に建つ塔のうち、東塔(バイエットタワー)の250段の階段を上り詰め、展望台に上ってきた。鋭い切妻屋根の先のファサードの2本の尖塔の間には、お椀型の「ピュイ・ド・ドーム(標高1,464メートル)」を望むことができる。9キロメートルほどの距離で、日本でも広く販売されているミネラルウォーターのボルヴィックはこのピュイ・ド・ドーム山の地下水を利用して生産されている。
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反対側を眺めると、鋭い切妻屋根の先端に聖母マリアが街を見守るように設置されている。右側(南東側)に見える尖塔は「サン ジュネス デ カルメル教会(Eglise Saint-Genès des armes)」(13~14世紀築)で、遠方に見える山々は「リヴラドワ・フォレ地方自然公園」になる。
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北西方向には、広さ26ヘクタールの小高い丘「モンジュゼ公園」が望める。公園からは「クレルモン フェラン大聖堂」を中心に市内の街並みが一望できることから市民や観光客の人気が高いスポットである。なお、手前の黒い尖塔は「サン・ユートロープ教会」で、最初の教会は5世紀に創建、その後12世紀に改築され、現在の姿は14世紀にボルヴィック石を使用しネオゴシック様式で再建されたもの。
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視線を東方面にずらしてみる。黒い壁面の建物が所々に見えるが、上から街を眺めると、むしろ統一された赤い屋根の印象の方が深い。右側に望める2つの尖塔は「ノートルダム・デュ・ポール教会」の鐘楼と尖塔で、これから見学予定としている。ところで展望台の手すりの外側にガルグイユ(雨樋の装飾)が不気味に、にゅっと伸びている。。
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時間は午後12時になった。大聖堂を出て、フィリップ・マルコンブ通りを北に向けて歩く。振り返ると、こちらは北袖廊側のファサードで、先程までいた展望台は、一際高い東塔(バイエットタワー)側にある。東塔はもともと、西側と南袖廊のファサード左右の合計4本が聳えていたが現在は失われている。東塔は高さ50メートルで、市の鐘楼として機能しており、現在も17世紀の鐘が飾られている。そして、中央のファサード上部には、14世紀に遡る直径8.50メートルのブルーローズのバラ窓があり、南側のポータルの上には、対となる様に、オレンジローズのバラ窓がある。
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フィリップ・マルコンブ通りを北に向けて歩くと、右側に、ボルヴィックの黒玄武岩で建てられた「クレルモン フェラン市庁舎」(L'hôtel de ville)がある。正面に大きな5つのアーチ門が並び、中央の3つが出入り口となっている。2階にはポルティコとペディメントがある古典スタイルが採用され、左右両側は半地下を持つ3層構造となっている。入口を入ると、上り階段になりその先には広い中庭となっている。


すぐに、目の前が広がり、左手に公園が現れる。公園には、16世紀に、ボルヴィックの黒い石を使用し、ルネサンス様式で建築された「アンボワーズの泉」が建っている。クレルモン司教ジャック・アンボワーズ(1445頃~1516)の依頼により造られたもので、完成時には、ヴィクトワール広場の西隣にあったデリエール・クレルモン広場に水場として設置された。その後、いくつかの広場に移転し、1962年に現在の場所に落ち着いている。
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噴水には、アカンサスの葉、マスク、グロテスクな怪物などルネサンス様式の装飾が施されている。上部には、ひげを生やし、フリースで覆われ、武装した野生の戦士がアンボワーズ家の盾を持って立っている。そして下部には、八角形に豪華な装飾が施されたパネルがあり、周囲4箇所のマスクからは勢いよく水を噴き出している。

次の目的地「ノートルダム・デュ・ポール教会」へは、「アンボワーズの泉」の公園手前の三叉路を東に延びる「ポール通り」を進む。ポール通りは、石畳の下り坂で、レストランやショップが並んだおしゃれな通りである。三叉路から250メートルほど下った左側に建つビルとビルの間にブロンズの聖母像を頂部に飾った鉄製のアーチ扉があり、敷地内を入った正面が「ノートルダム・デュ・ポール教会」の南ポーチ前となる。
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もともと、6世紀初め、クレルモン司教(18代目)の聖アヴィトゥス(アヴィット)(525~595頃)によって創建された代表的なロマネスク教会で、9世紀にノルマン人が侵入した際に焼失し、1185年に再建された。13世紀から教区教会となり、1477年と1490年には地震により深刻な被害を受け、交差廊の尖塔が、現在の球根状の姿に置き換えられている。

フランス革命時には、尖塔と鐘楼が倒され、教会内部にある大半の家具類、聖骨箱などが失われるなどの被害を受けている。これらの被害は、既存の宗教の存在を敵視しフランス各地で略奪や破壊が行われた。その後、教会は、市場として建て替えが決定されるが、関係者の請願により救われた。そして、何度かの改修工事の後、2003年からは、石の洗浄や交換、接合部のセメントから石灰に戻し、タイルも復元されるなど往時の姿り戻しており、特に黄金比を駆使した均整のとれた美しいフォルムは高く評価されている。
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教会を含めたクレルモン フェランの街並みは、1968年作のフランス映画「モード家の一夜」(エリック・ロメール監督)のロケ地として使用された。映画は、タイヤ会社の技師を務める主人公(ジャン=ルイ・トランティニアン)が、ノートルダム・デュ・ポール教会のクリスマスのミサで見かけた敬虔なクリスチャンのフランソワーズ(マリー=クリスティーヌ・バロー)に心惹かれるところから始まる。その後、自由思想家で解放的な女性モードと出会い、正反対な女性二人との間で心が揺れ動いていく。。といったストーリー。雪景色のクレルモン フェランの風景をモノクロの映像で美しく描いていた。

ノートルダム・デュ・ポール教会は、オルシヴァルのノートルダム教会、イソワールのサン・オストルモワヌ教会、サン・サテュルナンのノートルダム教会、サン・ネクテールの教会と共に、オーヴェルニュの5大ロマネスク芸術の至宝の1つとして知られている(こちらが、5大教会のリーフレット表、裏(英語版)と、ノートルダム・デュ・ポール教会の紹介ページ(英語版))。

東側の後陣の先には、シュヴェ(屋根組み)を持つ4つの礼拝堂の建物が放射状に張り出している。それぞれ、コーニス(モディロン)装飾や、外壁の美しいモザイク・タイル(星型、菱形、矩形など)など、オーヴェルニュのロマネスク芸術の一例を示す技法が駆使されている。
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4つの放射状礼拝堂の内、中央の2つの建物外観には円柱が2本づつ伸び、柱頭に浮き彫り彫刻が施されている。南東側の礼拝堂の左側の柱頭には、植物を掴む2人の人物が表され、右側はアカンサスの葉で装飾されている。
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北東側の礼拝堂の左側の柱頭には、鷲の頭・翼と獅子の胴、蛇の尾をもつ古代ギリシャ時代からの想像上の動物「グリフォン」で、右側は、やはりアカンサスの葉で装飾されている。グリフォンは、中世では、キリストの死の運命と神性を象徴する聖獣として、ロマネスク彫刻で度々登場する。
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再び、ポール通り側に面した南身廊壁に戻り、見どころの一つである南ポータルの彫刻を見学する。ポータル左右には、11世紀制作のキリストの再臨を告げる預言者イザヤと洗礼者ヨハネの彫刻が飾られている。そして上部には、キリスト幼少時代のエピソード(東方三博士、神殿奉献、洗礼)を表したティンパヌムと、セラフィム(熾天使)に囲まれ、獅子マルコと雄牛ルカに足を乗せる「全能者ハリストス」のレリーフアーチ、更に最上部左右に「受胎告知」と「キリスト降誕」の小レリーフが施されている。
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現在、ポータルの上には、劣化防止のための張り出し屋根が設置されている。彫刻は、多色の痕跡を確認できるが、残念ながら顔が全て失われている。これはフランス革命時に行われた破壊の爪痕で、修復されないまま後世への戒めとして伝えている。絶対に許されることではないが、現在も、歴史的遺産の破壊行為(ヴァンダリズム)は後を絶たない。。

南ポータルの右側にある南袖廊には、二連アーチの中心柱の柱頭に彫刻が施されている。
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「イサクの燔祭」で、燔祭の子羊として神に捧げるために、祭壇の上に横たわる息子イサクに、刃物を振りかざそうとする父アブラハムの様子が表現されている。
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教会内に入るには、ポール通りから交差点を右折し、通り沿いに面した西側ファサードからとなる。西側ファサードには、地震崩壊後の16世紀にヴォルヴィックの黒玄武岩を用いて再建された尖塔アーチのポルチコ型ポーチがある。上部の鐘楼は、フランス革命時に破壊されたロマネスクの鐘楼に替わって、1827年にヴォルヴィックの黒玄武岩を用い、ネオ・ロマネスク様式で建てられたもの。白黒の連続アーチと格子柄のモザイク装飾がある2層で形成されている。
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ポーチの壁面には、 世界遺産登録、フランス歴史的記念物、欧州地域開発基金の投資対象などのパネルが掲げられている。「ノートルダム・デュ・ポール教会」の世界遺産は、1998年「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」のオーヴェルニュ地域圏での建造物群として、ル ピュイ アン ヴレ大聖堂とともに登録されている。

教会内は周囲の窓からの採光により明るく照らされている。教会はラテン十字の平面図に基づき建てられており、シンプルな丸天井のある身廊と左右の狭い合計3身廊、6つのアーチ区分から形成されている。
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周歩廊先のステンドグラスの窓と放射状の礼拝堂は、フランス革命時に破壊されたため、中世時代のものは残っていない。現在のステンドグラスは、1844年に地元のガラス職人エティエンヌ・テヴェノ(1797~1862)により、新約聖書を主題として制作されている。


そして、一番の見所となっているのが、周歩廊手前と主祭壇との境とのアーチ群を支える8本の円柱の柱頭彫刻で、1150年代にサン・ネクテールの「ノートルダム教会」でも働いていたロベルトゥス(Robertus)による制作とされている。教会内は、2006年から2年をかけて、全ての石の清掃、20世紀の改修時のセメント接合部の除去、表面の漆喰修復、礼拝堂の修復が行われていることから、大変美しい姿を見せてくれる。
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主祭壇に向かって左端の柱頭は、アカンサスの葉で、隣の2番目の柱頭は①「悪徳と美徳との戦い」をテーマとしている(①から⑥は柱頭配置図を参照)。西北西面が、武装した貪欲と慈悲の2人が、盾を突き合わせて向かい合う「貪欲に対する慈善」で、
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時計回りに、自分の胸に剣を突きつける女性が表現される「怒りの自殺」、そして貪欲である悪徳を踏みつける「美徳の勝利」で、最後に、寄進者を表した「ドナーのステファヌス」へと続いている。

隣の3番目の柱頭は、アカンサスの葉で、次の4番めの柱頭は②「受胎告知」をテーマとしている。北北西面が、天使のガブリエルによりキリスト妊娠を告げられる「受胎告知」で、
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時計回りに、受胎告知を告げられたマリアが、エリサベトを訪ねる「マリアのエリザベト訪問」で、次が、大天使ガブリエルがマリアの従姉であるエリザベトの夫で祭司のザカリアに聖なる子(洗礼者ヨハネ)の誕生を告げる「ザカリアへのヨハネ誕生の告知」、最後に、主の天使がヨセフの夢の中に現れキリスト誕生を告げる「ヨセフの見た夢」で、天使は、ヨセフの舌を引っ張っている。

5番目の柱頭は③「失われた楽園の悲劇/原罪」をテーマとしている。南南西面が「蛇に誘惑されたイブ」で、
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時計回りに、エデンの園に現れた神がアダムの追放の決定を下す「神の裁き」で、次が、天使がアダムの顎髭を掴み、アダムがイヴの髪を引く「天使による追放」
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そして最後に、「禁断の庭」へと続いている。

6番目の柱頭は④「聖母の被昇天」をテーマとしている。南西面が、聖母マリアが、キリストにより墓から取り出される「聖母の復活」で、
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時計回りに、オリファント(象牙製角笛)の響きが聞こえてくるかのような「エルサレムの勝利」で、次が「天国の門を開く」、そして「生命の書のマリアの碑文」へと続いている。その隣の7番目と最後の8番目の柱頭にはアカンサスの葉が彫刻されている。

ナルテックスや身廊などにもアカンサスの葉、花、鳥などが施された柱頭彫刻が見られるが、こちらは、周歩廊の礼拝堂脇にある柱頭で、悪魔(サタン)の口の中にある地獄にとらわれる人々を表現する⑤「地獄の口」である。


そして、こちらには、霊により荒れ野に送り出されたキリストが、悪魔(サタン)の試みを受ける⑥「荒野の誘惑」が表現されている。


最後に、地下にあるクリプトの礼拝堂に向かった。聖遺物容器風の黄金祭壇があり、上部のアーチ内に30センチほどの小さい黒い聖母子像「ポートの聖母」が祀られている。黒檀色に塗られたクルミで作られており、聖母は胸の前に幼子を抱き、頬を寄せている。聖母像については、6世紀に記録があるものの、その後の詳細は不明で、現在の像は、1734年に制作されたもの。
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1時間ほど見学を終え教会を後にした。この日は見学者が少なくゆっくり見学できた。帰る道すがら、クレルモン・フェランの英雄3人のメダルを埋め込んだ石畳に気がついた。中央がウェルキンゲトリクスで、左上がパスカルの原理や「人間は考える葦である」など名言で知られるブレーズ・パスカル(1623~1662)で、右上がウルバヌス2世である。


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昨夜はル ピュイ アン ヴレ(以下:ル ピュイ)に宿泊し、今朝、スペインにある聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路への「ル ピュイの道」の出発地点、ル ピュイ大聖堂(ノートルダム・ド・アノンシアション大聖堂)にやってきた。これからオーヴェルニュ地域圏を中心に、周辺地域を含めて、ロマネスク様式などの歴史的建造物群を巡る旅に出発する(以下、オーベルニュ周辺図を参照)。


ル ピュイからは、午前11時半に県道589号線を南西方面に向けて出発し、1時間半ほどで、観光案内板が掲げられたソーグ(Saugues)の街並みを見下ろす展望台に到着した。ソーグは、標高960メートルにあり、オーヴェルニュ地域圏オート=ロワール県の人口2,000人ほどの小さなコミューンで、モンドゥラマルジェリドとアリエ渓谷の間にある。ル ピュイからは西に約45キロメートル、クレルモン フェランからは南に120キロメートルに位置している。
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展望台からはル ピュイでもお馴染みのオーヴェルニュ特有の赤い屋根が広がっている。ソーグ近郊と周辺の山々は、フランス革命前夜にジェヴォーダンの獣による被害が起きた地方で、市内にはジェヴォーダンの獣博物館がある。展望台からは、中心部に建つ「サン・メダール教会」(Collegiale Saint-Medard)や、13世紀にイングランド人パルチザンを取り除くために建てられた四角い塔トゥール・デ・ザングレ(イングランド人の塔)を望むことができる。

「サン・メダール教会」のポーチはロマネスク様式の分厚い半円アーチで、南側の広場に面している。広場にはブロンズ製の大きな十字架像が飾られている。教会は、ノワイヨンの聖メダルドゥス(メダール)(456頃~560)に捧げられ、12世紀に初期の小さな教会が建てられ、13世紀後半から14世紀始めにかけて拡張された。現在の姿は16世紀からで、19世紀には西側に身廊が拡張され、黒いヴォルヴィック石のファサードがネオゴシック様式で追加されている。
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教会内の南壁付近は、初期のロマネスク様式の痕跡を示しており、北壁と東側の後陣は、オジーブ(天井の対角線リブ)のアーチ型建築と古典建築の混合となっている。ル ピュイ出身の金細工職人による12世紀の威厳のある聖母や15世紀のピエタなどが飾られている。
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(2013.7.23~24)
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