カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

シチリア(その2)

2013-05-01 | イタリア(シチリア)
古代ローマの別荘「カザーレ荘」(ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ、Villa Romana del Casale)にやってきた。こちらは、敷地内の南エリアに建つ直径25メートルほどの楕円形の中庭「クスュストス」(見取り図33)(以下、カザーレ荘の見取り図を参照)で、「アトリウム大食堂」(見取り図36)前から北西方向に広がっている。クスュストスとは、競技選手が訓練するスポーツ施設(ギュムナシオン)に天井が付いたもので、主に冬や雨のときに使用された施設とされる。
クリックで別ウインドウ開く

カザーレ荘は、エンナから約30キロメートル南の、エンナに次ぐ中堅都市ピアッツァ・アルメリーナから南西方向に6キロメートル離れた山間部にある。この地は、古代ローマ時代、幹線道路が通る農産物の出荷地点であったことから、数本の円柱が発見された19世紀には、農園経営者の邸宅と思われていた。しかし、その後、発掘作業が進められ、1950年代には3500平方メートルに及ぶ膨大な敷地であることが明らかになった。

建材には、様々な地域から運ばれた多くの大理石が使用されており、40室ほどある部屋には、古代ローマ最大規模の精巧で表現力豊かなモザイク床が残されていた。遺跡群は、現在ではローマ皇帝マクシミアヌス帝(在位:285~305)と、その家族のための別荘だったとされ、1997年にユネスコの世界遺産に登録されている。

カザーレ荘の駐車場は300メートルほど北側にあり、そこからは歩きになる。見学ルートは、プレフルニア(かまど)(見取り図6)前から、カルダリウム(高温浴室)(見取り図7)、テピダリウム(微温浴室)(見取り図8)、フリギダリウム(水風呂)(見取り図10)を過ぎ、アトリウムのある小建物(見取り図4)に入っていく。こちらはそのアトリウム内の二つ目の小部屋「浴場への玄関」(見取り図5)から北側に続く「体育室」(見取り図15)を眺めた様子である。
クリックで別ウインドウ開く

「体育室」(見取り図15)の床には初代皇帝アウグストゥス(前63~14)によりエジプトからもたらされたオベリスクを中心とする大競技場「チルコ・マッシモ」を背景に、4頭の馬に引かせた戦車(クアドリガ)のモザイク画が残されている。ちなみに、357年にコンスタンティウス2世(317~361)が、2本目のオベリスクをチルコ・マッシモに建てたことから、こちらのモザイク床はそれ以前の制作と判断されている。

次に、再びフリギダリウム(水風呂)(見取り図10)前に戻り、南側の馬蹄形の中庭「ポリゴンコート」(見取り図2)の遺構を横断し、アトリウムの建物「玄関」(見取り図11)に入る。玄関には、燭台を持って客を迎える主人のモザイク画が残されている

玄関の先には東西を長辺とする長方形の「ペリステュリウム」(ペリスタイル)(見取り図13)が中庭を取り囲んでおり、モザイクが回廊に施されている。見学通路は、そのモザイクを見下ろす様に設置され北側に続いている。モザイクは、網目模様の正方形の枠内に、リース状の円に覆われた愛らしい動物の顔が表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

「ペリステュリウム」(ペリスタイル)(見取り図13)を見学しながら北側に進むと、外の浴場に通じる「控室」(見取り図16)に到着する。こちらの床には5人の人物のモザイク画が残されている。このモザイク画の発見が、カザーレ荘がマクシミアヌス帝の邸宅とされた根拠の一つと言われている。
クリックで別ウインドウ開く

マクシミアヌス帝は、ディオクレティアヌス帝(在位:284~305)の同僚だったが、当時、軍人皇帝時代と称された混乱と反乱が渦巻くローマ帝国において、単独で統治と防衛を行うのは困難との判断から共同皇帝として推挙された。2頭体制になった帝国は、ディオクレティアヌス帝がニコメディアを拠点に東方を治め、マクシミアヌス帝が、帝国の西方を担当することになり、それぞれの皇帝が、副帝を任命して、四分割統治(テトラルキア)時代となるのである。

中央の女主人と思われる人物が左右に子供と召使を従えて 浴場に向かう様子が描かれている。女主人は、ローマ皇帝マクシミアヌス帝の妃エウトロピアで、向かって右の少年がマクセンティウス、左の少女がファウスタとされている。マクセンティウスは、生まれながら斜視でこのモザイクにもそのように描かれているというがよくわからない。
クリックで別ウインドウ開く

続いて「回廊ペリステュリウム」の北側にある「控室」(見取り図18)や、「幾何学模様の間」(見取り図21)などを見学していく。そして、「四季の間」(見取り図23)の北隣には、「魚釣りをするキューピット間」(見取り図24)がある。キューピットが漁師に扮して、2隻の船でひき綱を引っ張ったり、釣り竿を使った一本釣り、イルカと協力して漁をするなどの様子がユーモラスに表現されている。大小様々な種類の魚が表現されており、見ていて飽きない。
クリックで別ウインドウ開く

「四季の間」(見取り図23)の東隣には、「狩猟の小集会場」(見取り図25)がある。収穫した肉を大きなフライパンで調理し、ワインを片手に、歓談する男たちを中心に、周囲には、当時の狩猟の様子が生き生きと表現されている。左下は、猪狩りの様子で、傷つき倒れた仲間を助け、槍で戦う人の姿がある。右下は、馬に乗り網で誘い込む鹿狩りの様子が見て取れる。
クリックで別ウインドウ開く

上部中央には、狩りの際に安全を祈願した「狩りの女神ディアナ」の像が、円柱台の上に弓矢を持った姿で表現されている。そして、その手前には、コンロで肉を焼いている場面があるが、その肉から煙が立ち上っており、モザイク画の繊細なテクニックに関心させられる。
クリックで別ウインドウ開く

通路は「狩猟の小集会場」(見取り図25)の北側を回り込むように進んで行く。その北側の通路からは、南側となる真下の「狩猟の小集会場」(見取り図25)の先に、円柱で支えられた回廊「ペリステュリウム」があり、更に、噴水や水盤の跡が残された中庭を一望できる。
クリックで別ウインドウ開く

中庭の北側にあるいくつかの部屋のモザイク床を見学した後は、回廊ペリステュリウムの東側を南北に伸びる「大狩猟の廊下」(見取り図28)の見学となり、東回廊の円柱沿いに設けられた高架通路を南に向け通路を歩いていく。その廊下のモザイクは、港に停泊する2隻のガレー船を中心に、首都ローマに運び込むため、様々な珍しい動物等を捕獲・運搬する様子が2段構成で60メートルにわたり展開されている。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは、2隻のガレー船のうち左側(北側)の船には、捕獲されたダチョウとクジャクを1頭づつ抱きかかえ橋桁から運び込んでいる。
クリックで別ウインドウ開く

ダチョウとクジャクの先には、2人に抱えられた長い角のあるカモシカを、甲板に立つ船員がロープを引き、隣の船員が檻に誘導している。舷には幾何学文様が装飾され、櫂が多く備えられている。ガレー船の周囲には、波立つ海に多くの魚が泳ぐ姿が見られる。
クリックで別ウインドウ開く

南隣のある、もう一隻のガレー船には、象を積み込もうと鎖紐を引く乗組員の姿が表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

その象の南隣には、大型のサイに巻き付けたロープを引く3人の兵士と船に誘導する2人の兵士が表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

「大狩猟の廊下」(見取り図28)の三分の二ほどのところから、見学路は、回廊に沿って右に曲がり、直ぐに左に曲がる。幾何学文様のモザイク床の間があり、その先には「ビキニの少女の部屋」(見取り図30)がある。モザイク床は、2段構成でビキニ女性が様々な競技をしている。上段の左端は破損して足首から下だけが残っている。次に、ウエイトリフティング、円盤投げ、ランニングをする女性へと続いている。下段には球技をする女性、シュロの小枝と月桂樹を被る女性と続いている。
クリックで別ウインドウ開く

下段の左端には、女神に扮する主催者の女性が、優勝者にシュロの小枝と月桂樹の冠を渡そうとしている。
クリックで別ウインドウ開く

見学通路は左に曲がり「大狩猟の廊下」(見取り図28)を見下ろす場所に戻る。先ほどのサイを捕獲するモザイク床の南隣には、盾を持つ兵士を従えトガを纏い帽子を被る人物がいるが、こちらがローマ皇帝マクシミアヌス帝と言われている。身なりがベネチアにある四分割統治像に似ていることに起因しているとのこと。その皇帝が見守る先には、捕獲用の檻を乗せた牛車を引く兵士や、盾を持ち、ヒョウと格闘する兵士、長い角のあるカモシカを襲うヒョウなどの姿がある。
クリックで別ウインドウ開く

次に、建物の外に出て、「アトリウム大食堂(冬の食堂)」(見取り図36)に向かう。アトリウム大食堂内は、南北東の三方に後陣があり、それぞれが食事の間として機能していた。見学通路は、建物の周囲に張り巡らされている。ちなみに大食堂の玄関前が、トップの画像で紹介した楕円形の中庭(クスュストス)(見取り図33)になる。
クリックで別ウインドウ開く

三方に後陣のうち、東側の後陣の床には、オリュンポスの神々とのあいだで行われたギガントマキア対戦が描かれている。中央のヘラクレスが、まわりの巨人族ギガースを滅ぼす様子が描かれている。マクシミアヌス帝は、自分自身をヘラクレスの化身と意識していたと言う。
クリックで別ウインドウ開く

最後に、バジリカ(見取り図43)の北側となる北東エリアを見学する。「フルーツの小部屋(見取り図45)」には、幾何学模様を背景に円があり中に様々な果実が表現されている。ブドウ、イチジク、スイカ、ザクロなどで、手作業のモザイク画とは思えないほど精密に表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

フルーツの小部屋の東隣は「オデュッセウスとポリュフェモス」(見取り図44)で、ホメーロスの叙事詩オデュッセイアー第9書から、洞窟に閉じ込められたオデュッセウスたちが巨人ポリュフェモスに酒を飲ませて酔い潰そうとする場面が表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

北隣に「愛の寝室」(見取り図46)がある。幾何学模様を背景に、メダイヨンに模られた中に愛し合う男女が表現され、周囲には、肖像画の様に女性の顔が取り囲んでいる。こちらも、モザイクと思えないほど、規則正しく配置され、色による陰影も見事である。
クリックで別ウインドウ開く

あまりのモザイクの多さと素晴らしさに感服してしまった。1時間半ほどいただろうか。ランチ時間もなくなり、入口のショップで、ピザをテイクアウトして、急ぎ次の目的地、カルタジローネ(Caltagirone)に向かった。カルタジローネはカターニア県にある基礎自治体(コムーネ)で、ピアッツァ・アルメリーナから南東に30キロメートルに位置し、エレイ山脈の一つ、標高608メートルの丘の上に広がっている。カルタジローネとはアラビア語で、”花瓶の丘”を意味する。
クリックで別ウインドウ開く

カルタジローネは、9世紀、アラブ人が砦を築いたことに始まり、中世前半には城や教会を中心に発展してきた。現在のカルタジローネのバロック様式の街並みは、1693年のシチリア地震で壊滅的な打撃を受けた後に再建されたもので、シチリア島の東南部にある8つ(ミリテッロ・イン・ヴァル・ディ・カターニア、カターニア、モディカ、ノート、パラッツォーロ・アクレイデ、ラグーザ、シクリ)の街並みと共に、2002年に「ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々」として、世界遺産に登録されている。

サン・ジュリアーノ大聖堂が建つウンベルト1世広場の北隣には、ムニチピオ広場(市庁舎広場)があり、南側にセナトリオ宮殿(Palazzo Senatorio)(15世紀)(現カフェ)、東側に市庁舎(19世紀後半)が広場に面して建っている。その市庁舎前から、北側を望むと、スカーラ(大階段)が続いている。
クリックで別ウインドウ開く

こちらのスカーラは、「サンタ・マリア・デル・モンテの階段」と名付けられている。1606年に、頂上の街へのアクセスを容易にするために建設されたのが始まりである。130メートル(430フィート)を超える階段は、バルコニーの建物に挟まれており、今日では街のランドマークとなっている。最初の階段は途中に休憩所があり、合計150段の階段があったが、1844年に休憩所を廃止し、傾斜を低くして142段に改修されている。
クリックで別ウインドウ開く

そして、1956年、マイオリチェ・アルティジャーナ・カルタジロネージ社のアントニーノ・ラゴナ(Antonino Ragona、1916~2011)により、階段の踏み板と踏み板との間の蹴込み部分に、手描きのマジョリカ・タイルが施され現在に至っている。蹴込みのマジョリカ・タイルは、下から上へ、段階的に、アラブ時代のシチリアのマジョリカの起源から、ノルマン、シュヴァーベン、ヴァロワ・アンジュー、アラゴン、キアラモンテ、スペイン、ルネサンス、バロック、18 世紀、19 世紀、現代スタイルと、時代の変遷を比喩的、花柄、幾何学的なデザインで表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

カルタジロネージのマジョリカ・タイルは、827年にシチリア島を征服したアッバース朝支配下のアグラブ朝時代に、マジョリカ焼きの製法が導入されたことから盛んに制作された。マジョリカ・タイルの制作が、最も繁栄を極めたのは、12世紀から13世紀にかけて繁栄した、ノルマン朝(オートヴィル朝)とシュヴァーベン大公(ホーエンシュタウフェン朝)時代である。


しかし、19世紀初頭、カルタジローネ陶磁器の伝統は、近代化の波に乗れず、危機に瀕していたが、カルタジローネの貴族で、司祭、政治家ルイジ・ストゥルツォが、1918年に「王立陶芸専門学校」を設立して産業の復興に取り組み、その流れを組むマイオリチェ・アルティジャーナ・カルタジロネージ社により、カルタジローネの伝統が引き継がれている。


カルタジローネのマジョリカ・タイルの特徴は、主に、青、緑、黄色を中心とした色合いとされる。


階段沿いにはマジョリカ・タイル工房・店舗があり、大小多くの陶磁器を売っている。こちらの店舗には、マスク型のサボテンの鉢植えや、巨大なフクロウの花瓶、宗教、歴史をテーマとした人物など立体像の彩色テラコッタが並んでいる。


こちらの壁面には、メドゥーサ、太陽の神ヘーリオス、北風の神ボレアース、聖母子などのメダリオンのマジョリカ・タイルが飾られている。


直線階段を上り切ると広場があり、その先にはマジョリカ・タイルを組み合わせて表現された歴史画が飾られている。「アルタヴィッラの鐘(campana d'Altavilla)の伝道」と名付けられたマイオリチェ・アルティジャーナ・カルタジロネージ社の制作で、1076年頃、シチリア島を支配していたイスラム勢力を次々と打ち破ってきたノルマン騎士のルッジェーロ・ロベルト兄弟が、カルタジローネ近郊のユディカの要塞にいたサラセン人との戦いのエピソードで、勝利を象徴するトロフィーとしてアルタヴィッラの鐘が運ばれる様子が表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

そして、右側に建つのが「サンタ・マリア・デル・モンテ教会」(Santa Maria del Monte)のファサードである。この場所はもともとカルタジローネの街の最も古い場所の一つで、街を代表する教会として、これまで多くの再建と改修を受けてきた(現:17世紀初頭)。しかし、現在では、階段下のウンベルト1世広場に建つサン・ジュリアーノ大聖堂が主要な教会として機能している。
クリックで別ウインドウ開く

上ってきた階段方向を見下ろすと、見晴らしの良いパノラマが広がっている。この時間、既に午後3時半を過ぎており、日の入りも早いことから、あまりゆっくりはしていられない。次にシラクサ(シラクーザ)に向かうこととしている。
クリックで別ウインドウ開く

カルタジローネの南側から環状道路を通って、北東方面に向かうと、階段状に折り重なる街の様相を正面に捉えることができる。右上には、サンタ・マリア・デル・モンテ教会の大きな鐘楼とドームが望め、左側に、スカーラ(大階段)頂部の広場前から眺めたファサードも確認できる。
クリックで別ウインドウ開く

シラクサ(シラクーザ)は、シチリア島の南東部、シラクーザ県の東部に位置するコムーネでイオニア海に面した周辺地域を含め約12万人の人口を有する基礎自治体(コムーネ)である。カルタジローネからは、100キロ強の距離で、SS417号線で東に向かい、シチリアの東海岸を南北に走る「E45号線」(アウトストラーダ)で南下する。

シラクサに到着したのは、午後7時を過ぎたころ。宿泊ホテルは、シラクサ中心部の南側から狭い海峡を渡ったオルティージャ島にある。チェックインを終えて、200メートルほど歩いてトラットリア「シチリア・イン・ターヴォラ」(Sicilia in Tavola)にやってきた。


こちらのトラットリアは、多くのお店が立ち並ぶオルティージャ島の旧市街の中心部、カヴール通り(Via Cavour)沿いにあり、新鮮な魚介類を使った美味しいパスタなどが良心的な値段で頂けると評判のスパゲッテリアである。人気店でありながらテーブル席は少なく、すぐに満席になることから、予約は必須である。
クリックで別ウインドウ開く

飲み物は、ドンナフガータ アンシリア (Donnafugata Anthilia)を注文した。フレッシュで奥ゆき深く、白桃のほのかな香りを持ち合わせたキリッとした白ワインで、ミネラル感も心地よいのが特徴。ドンナフガータとは、シチリアの名門ワイナリーの名前で、”逃げた女性”を意味する。そしてアンシリアとは、シチリアにあった古代都市名に因んでいる。


こちらは魚介の盛り合わせ。中でもムール貝が美味しく、冷えた白ワインとの相性も大変良い。


メニューにはパスタやスパゲッティを中心に30種類ほどが書かれている。ちなみに、メニューには書かれていないが、メインを食べたい場合は、スタッフに申し出れば対応してくれるとのこと。しかし、前菜とプリモで十分なので、スカンピ海老のラビオリ(Ravioli agli scampi)と、アサリと小エビのスパゲッティ(Spaghetti V-G-P)を頼んだ。自家製の生パスタとのことでコシがあり大変美味しい。


食後は、カヴール通りを南に歩き、途中にあったジェラート屋でアイスを買って、「ドゥオーモ広場」までやってきた。リストランテからは100メートルほど南に下ると、視界が広がり到着する。こちらは歩いてきたカヴール通り方面を振り返った様子。向かって右側に建つ豪華な建物は「ヴェルメキシオ宮殿」(Palazzo Vermexio)で、1629年から1633年にかけて建てられたバロック様式の元老院で、宮殿名称は設計者に因んでいる。現在はシラクサ市庁舎として使用されている。
クリックで別ウインドウ開く

そして、左側の建物は「ベネヴェンターノ・デル・ボスコ宮殿」で、もともとは15世紀に貴族アレッツォ家によって建てられ、市の法的および行政機関が置かれていたが、1693年に地震により倒壊したことから、1779年に貴族ベネヴェンターノ家によりバロック様式で再建された。両シチリア王フェルディナンド1世 (1751~1825)や、アメリカ独立戦争・ナポレオン戦争などで活躍したイギリス海軍の提督ホレーショ・ネルソン(1758~1805)が滞在したことで知られている。現在も、シラクサでは最も優雅な宮殿として名高い。

そして、市庁舎の南隣で、ドゥオーモ広場の中心に「シラクサ(シラクーザ)大聖堂」が聳えている。ここは、紀元前5世紀に建設されたアテナ神殿があった場所で、現在の聖堂にも、当時の部材を多く使用している。現在のファサードは1753年に完成したが、20年の工事中断期間があったことから、後期バロック様式と、ロココ様式の2つの装飾様式が混在している。
クリックで別ウインドウ開く

広場の南側にはシラクサのルチアに捧げられた「聖ルチア教会」(Chiesa di S. Lucia alla Badia)が建っている。現在の姿は、1693年の大地震の直後に建てられたもので、ファサードには、バロック様式とロココ様式が取り入れられている。中央入口のペディメントには、ルチアの殉教のシンボル(短剣)を表わした紋章が施され、両側にねじれた柱を配し、左右にスペイン王室の紋章が飾られている。上部には錬鉄の繊細な装飾手摺を備えたバルコニーがある。教会内には、バロック美術の礎を築いたカラヴァッジョ(1571~1610)の絵画「聖ルチアの埋葬」が飾られている。
クリックで別ウインドウ開く
(2012.12.25)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シチリア(その1)

2013-05-01 | イタリア(シチリア)
イタリア・シチリア島のパレルモ国際空港(ファルコーネ ボルセリーノ空港)から、ティレニア海に面した高速E90号線を、東に100キロメートルほど行ったパレルモ県チェファル(Cefalu)にやってきた。ここは、古代ギリシャ人の植民都市に起源を持つ港湾都市で、シチリアを代表するリゾート地の1つでもある。背後には、ロッカ ディ チェファル(チェファル要塞)と呼ばれる標高268メートルの岩山が聳えている。
クリックで別ウインドウ開く
画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

旧市街には、左右に2つの鐘楼を持つ「チェファル大聖堂」が建ち、その前庭となるドゥオーモ広場には、南国の雰囲気を感じさせるヤシの木が植えられている。こちらの聖堂は、1131年、シチリア王ルッジェーロ2世(1095~1154)により建設(1267年に正式に奉献)されたもので、彼はイスラム勢力下にあったシチリアを征服したノルマン騎士のロベルト・イル・グイスカルド(1015~1085)の弟ルッジェーロ1世(1031~1101)の息子で、シチリア伯を経た後、1130年に初代のシチリア王となっている。


ルッジェーロ2世がチェファルに聖堂を建設するきっかけとなったのは、遠征地アマルフィからの帰還途中、嵐に遭遇した際、助かったら漂着地に神の聖堂を献じると誓ったことによる。彼は九死に一生を得たが、その後の彼の治世は、強大化を快く思わない諸侯や神聖ローマ皇帝との抗争、更には教皇と対立教皇からの指示による分裂抗争などに明け暮れる日々だった。

聖堂は、アラブ様式とビザンティン様式に加え、ノルマン建築の影響を受けたアラブ・ノルマン様式で建てられている。正面には、4つの柱と3つのクロス ヴォールトで支えられた15世紀制作の柱廊玄関(ポルチコ)があり、ファサード上部には、アラブ風のデザインによる繊細なアーチ装飾等が施されている。そして鐘楼には、二重及び単一のランセット窓が設けられているが、上部の尖塔の胸壁やピラミッド部分などは、左右で異なった形状をしており興味深い。
クリックで別ウインドウ開く

時刻は午後3時半を過ぎたところ。この時間、聖堂の外壁には眩しい西日が当たり、積み重ねられた一つ一つの石材や、繊細に施された小さな装飾まではっきりと確認することができる。

今日はパレルモ国際空港を午後1時半に出発し、チェファルには、午後3時前に到着し、砂浜のビーチ近くの駐車場から旧市街を散策しながらここまでやってきた。12月は午後5時前には日の入りを迎えることから、聖堂内の見学は後ほどとし、先に、聖堂の後方に聳えるチェファル要塞の展望台へ向かうことにする。
クリックで別ウインドウ開く

聖堂に向かって右側に延びる通りを進んだ先の住宅の裏から、折り返しが続く険しい石階段を上っていくと、岩肌には雑草やサボテンが茂っている。振り返ると真っ青な空と眩い光に照らされたティレニア海が見えてくる。


登山開始後、10数分で、左側への”砦の展望台”と、右側への”山頂”への三叉路となる。山頂までは時間がないので悩むことなく展望台方面に向かった。三叉路を過ぎた後は、平坦な道となり、周囲に城塞の跡が現れ始めた。


城塞跡は、13~15世紀に建てられたものを中心に広範囲に広がっている。そんな中、古いものでは紀元前9世紀頃のディアナ神殿(Tempio di Dian)(おそらく異教の神々の崇拝を目的としていた)の遺構も残されている。
クリックで別ウインドウ開く

中世の城塞跡を通り過ぎると、左側に視界が開け、高さ数メートルの金属製の”十字架のある砦の展望台”が現れる(夜はライトアップされる)。展望台はやや前方に張り出した石畳の小広場で、その先には美しいティレニア海が広がっている。
クリックで別ウインドウ開く

十字架のある砦の展望台の左右には胸壁が続いており、内側を歩くことができる。その胸壁沿いを北に100メートルほど歩くと、もう一つの”展望エリア”に到着する。こちらは十字架のオブジェ等は設置されていないが、展望台と同じ小広場で、股下ほどの低い石垣で囲まれ、その先は、断崖絶壁となっている。足をすくわれそうで危険なため、跪いて恐る恐る覗き込む。
クリックで別ウインドウ開く

身を乗り出し、左側を見渡すと、先ほどまでいた大聖堂とその先の旧市街全体が見渡せる。聖堂はまるでミニュチュアの様で、3つの身廊に分かれたラテン十字形に、翼廊が身廊よりも高い垂直様式(イングランドに見られる)を採用するなどの外観構造が手に取る様に分かる。そして身廊と翼廊の北隣には回廊が併設され、更にその回廊の先隣りには、もう一つの新しい屋根の回廊が見える。こちらは教区教会で、ドゥオーモ広場に面している。
クリックで別ウインドウ開く

大聖堂の先に広がるチェファル旧市街には、日の入り時間が近づき、差し込む夕日(やや南側)で照らされている。砂浜が広がるチェファル湾からパレルモ方面に続く海岸線は逆光で確認できないが、パレルモ北側にあるモンテペレグリーノ(Monte Pellegrino)(標高550メートル)の稜線をうっすらと望むことができる。ちなみに、こちらチェファル要塞の北側は岩礁地で、東側(プレシディアナ地区)には、チェファル港がある。
クリックで別ウインドウ開く

再び、胸壁に沿って十字架のある砦の展望台まで戻ると、羊が石垣の上を歩いており、その石垣の南側に続く胸壁と崖との間の狭い場所には、数頭の羊が雑草を食んでいた。落下の危険性があるにも関わらず、牧草地の羊と変わらない行動に驚かされた。
クリックで別ウインドウ開く

大聖堂に戻って来ると、日の入り間近となり、周辺が赤く染まっている。遅くなったが聖堂に入ることにする。ドゥオーモ広場から3メートルほどの高さの階段を上り、司教座像の立つ鉄格子の扉を入ると、レンガ舗装の石畳がファサード正面の扉口まで続いている。
クリックで別ウインドウ開く

大聖堂内の見どころは、コンスタンティノープルから呼び寄せられた巨匠たちの手によるモザイク装飾である。概ね1145年から制作が開始され、1154年から1166年の間に完成したとされている。ビザンチン様式の金地モザイクで装飾されており、ヴォールト部分には、熾天使セラフィム、智天使ケルビムを配し、アプス部分には巨大な「万能の神キリスト」が表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

キリストの左手には、ラテン語とギリシア語で「我はこの世の光なり、我に従う者は闇の中を歩くことなく、生の光を持つであろう。」と書かれている。そして、キリストの下には、王室の座布団に立ち、両手を上げ祈りを捧げる聖母マリアと4人の大天使(ミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエル)が取り囲んでいる。
クリックで別ウインドウ開く

更にその下段には、窓の側面に、聖ペテロと聖パウロ、そして福音書記者のマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネが配され、最下層には、フィリポ、ゼベダイの子ヤコブ(大ヤコブ)、アンデレ、熱心党のシモン、バルトロマイ、トマスの使徒が表現されている。それぞれの使徒の傍らには、名前の碑文がラテン語とギリシャ語で書かれているため、人物を特定することができる。すでに外は薄暗く、聖堂内の光は、ライトだけとなっているが、金地のモザイクは眩いばかりに輝いている。
クリックで別ウインドウ開く

ルッジェーロ2世は、死後この大聖堂に葬られることを願って、自らの斑岩の棺をつくり、建設を続けていたが、聖堂の完成を見る前に亡くなってしまう。ただし後陣の金地モザイクが完成していたことは、救いだったかもしれない。最終的に、彼の亡骸は別の石棺に収められ、パレルモのカテドラルに葬られている。

ドゥオーモ広場には、土産物ショップ、カフェ、リストランテなどの店舗が並び、前面のテラス席では、既に飲んでいる姿も見られた。
クリックで別ウインドウ開く

ドゥオーモ広場の先の路地を進むと、チェファル出身の政治家、マンドラリスカ男爵(1809~1864)のコレクションを展示する「マンドラリスカ博物館」(Museo Mandralisca)がある。こちらは、その男爵家のオリーブ オイル倉庫のコンテナ跡で、この日は、手前に、降誕祭の華やかな飾り付けがされていた。


更に路地を進むと丁字路となり、左折すると南北に延びるヴィットリオ・エマヌエーレ通り(Via Vittorio Emanuele)になる。通り右側には地下に降りる階段があり、下にはチェファリーノ川から取り込んだ綺麗な水を利用した「中世時代の洗濯場」(Lavatoio Medievale)が残っている。最近まで、地元の人に利用されていたとのこと。


ヴィットリオ・エマヌエーレ通りを更に南に進むと、視界が広がりビーチのある海岸に到着する。この時間、既に日没は過ぎたが、わずかに夕焼けの名残を見ることができた。


次に、今夜の宿泊場所となる、シチリア島中部にあるエンナ(Enna)に向かった。チェファルからは約90キロメートルの距離になる。高速E90号線で、パレルモ方面に15キロメートルほど戻り、A19号線に乗り換えて、一路南に向かう。

エンナは、東西2キロメートル、南北1.5キロメートルほどの高地にある逆三角形の形状を持つ城塞都市で、A19号線のエンナ出口からは、一般道を東に向かい、街の南側に大きく回り込んで、ペルグーサ通りを北上して向かう。この時間、既に午後8時半を過ぎていたが、市内に向かうペルグーサ通りは、クリスマスイブで帰宅しようとする車でかなり混雑していた。今夜の宿泊ホテル(Bed & Breakfast Proserpina)は、ペルグーサ通りと、市内を東西に延びるローマ通り(エンナの目抜き通り)との交差点の北隣の路地(サンタガーサ通り)を右に入った場所にある。

ホテルに到着した後、夕食のためホテル東側のサン・フランチェスコ教会があるヴィットーリオ・エマヌエーレ広場に向かったが、周辺の店舗はほとんど休業していた。しかたがないので、広場の先まで足を延ばすと、やや暗い通りの右側に「Ristorante La Fontana」(フォンタナ)の看板があり、ガラス扉からは、仄かに明るい店内が見えたので、入ることにした。
クリックで別ウインドウ開く

店内は淡いピンク色とクリーム色を基調に、アール・ヌーヴォーの絵画や調度品が飾られている。10組ほどが座れるテーブル席に加え、アーチで区切られた先にも、バー・カウンターとテーブル席が並んでおり、店内はかなり広い印象。。この時間、店内には、他に客は誰もおらず、既に営業を終えているのかと思ったが、現れたスタッフは笑顔で席に案内してくれた。
クリックで別ウインドウ開く

どんな料理が提供されるのか、多少不安を感じたが、ホテルの周辺では、どこも営業している店舗がないことから選択の余地はない。注文は、飲み物として、シチリア産の赤ワインを頼み、料理は、最初に、前菜の盛り合わせを頼んだ。


次にパスタを頼んだが、アンチョビ特有の香りが食欲をそそる一品だった。


こちらは、トマトとチーズの香りが際立ったラザニア風の一品。料理は、洗練されたものではなく、素朴な家庭料理といった感じで、お腹が減っていたこともあり、普通に美味しくいただけた。


午後10時頃、リストランテを後にした。扉口前の道路向かいに小さな公園がある。その公園中央に「プロセルピナの噴水」があることから、店名のフォンタナは、この噴水から名付けられているのかもしれない。その噴水と左側のパブ(この日は休業)との間には、ライトアップ・ツリーとフラワー・ツリーが飾られているが、周囲の街灯は暗く、人通りもなく真夜中のようである。。ツリーの先は、石造りの手すりがある展望台(マルコーニ・ベルヴェデーレ)になるが、前方は暗闇が広がるだけだった。
クリックで別ウインドウ開く

ヴィットーリオ・エマヌエーレ広場を散策した後、ホテルに戻ってきた。イタリアのクリスマスは日本とは異なり、多くの店舗は休暇となり、中でも地方都市では食事の場所も少ないことから、エンナ到着の際は不安だったが、無事食事をすることができたのは良かった。
クリックで別ウインドウ開く

********************************

翌日、午前8時半、朝食会場では3組ほどの宿泊客が食事をしていた。ブッフェスタイルで、壁際のテーブルには、食パン、クロワッサン、プロシュート、スクランブルエッグ、ブラッドオレンジジュース等が並んでいる。昨夜、リストランテ(フォンタナ)にいる時はあまり感じなかったが、ホテルで寝ていると、深夜に冷え込み、かなり寒かった。カプチーノを飲みながら朝食を頂くと身体が暖かくなった。。
クリックで別ウインドウ開く

食後、ホテルを出て、少し散歩してみる。サンタガーサ通りは狭い西への一方通行で、ホテル先の交差点が、エンナへの麓から延びるペルグーサ通りになる。ホテルから東に50メートルほどのヴィットーリオ・エマヌエーレ広場に建つサン・フランチェスコ教会を見学した後、リストランテ(フォンタナ)向かい側にある公園まで散策してみた。昨夜何も見えなかった展望台の先は、目線より下に雲海が流れる絶景が広がっていた。エンナが標高931メートルに位置する天空都市であることを実感できる。
クリックで別ウインドウ開く

エンナの街並みは、右(東側)方向に続き、旗がたなびく2連アーチがある塔「エンナ県庁舎」付近が街の中心になる。その先には「ロンバルディア城(castello di Lombardia)」 があり、更に外れに「ロッカ ディ ケレス(Rocca di Cerere)」の遺跡を望むことができる。そして遠くには、雪を頂くヨーロッパ最大の活火山「エトナ山(Etna)」(標高3,326メートル)が聳えている。

再びホテルに戻り、チェックアウトして、石畳のローマ通りを東に向かう(東への一方通行)。途中、エンナ県庁舎前の広場を過ぎ、ホテルから500メートルで、左側に「大聖堂」が現れる。

大聖堂は、アラゴン時代の1307年に、シチリア王フェデリーコ2世(在位:1296~1337)の王妃エレオノーラ・ダンジョ(1289~1341)の要請で、長男ピエトロ(1304~1342)の誕生を祝って工事が始まった(1311年完了)。1446年には、深刻な火災で焼失後、再建され、スペイン統治時代の16世紀には身廊が大きく改修されている。なお上部の鐘楼は2度の崩壊を経て18世紀に建てられた。
クリックで別ウインドウ開く

バシリカを思わせる聖堂内部は、黒い玄武岩の列柱を持つ3つの身廊で構成されており、シチリアで活躍した彫刻家ジャンドメニコ・ガジーニ(Giandomenico Gagini、1503~1560)による浮彫装飾が施されている。そして上部には、”この地域で最も美しい木製の格間天井の一つ”と言われる天井装飾で覆われている。
クリックで別ウインドウ開く

後陣には、左右に小祭壇を持つ主祭壇がある。主アプスには、被昇天した聖母が三位一体の神から冠を授けられる「聖母戴冠」の細かい彫刻が施され、手前にはイタリアの画家ピエトロ・ルッツォローネ(Pietro Ruzzolone、15~16世紀)の手による「受難のキリスト」(クリストゥス・パティエンス)が掲げられている。祭壇中央には、フィリッポ・パラディーニ(Filippo Paladini、1544~1614)による5枚の聖母マリアの祭壇画があるが、この日はカーテンで覆われていた。
クリックで別ウインドウ開く

向かって左側の礼拝堂は、シチリア島ではゴシック様式の貴重な例の一つで、漆喰の天井リブには、精緻な浮彫が施されている。そして、右側は聖母礼拝堂で、多色大理石のねじり柱で飾られた「聖母の訪問」の祭壇画がある。こちらの祭壇画は、観音扉で、内扉には「聖母の降誕」が描かれ、内部には守護聖人の像が納められている。

ローマ通りを更に東に500メートル行くと、広い駐車場となり、すぐ先に「ロンバルディア城」の威容が現れる。1130年、チェファル大聖堂を建設したルッジェーロ2世が、古代の要塞の跡地に建築した城の遺構である。名前の由来は、ロンバルディアの駐屯地として、衛兵を配置されていたことによる。

現在の姿は、13世紀に、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(シチリア王フェデリーコ1世)(1194~1250)が、宮廷建築家リッカルド・ダ・レンティーニに指示し改築したもので、当時は20もの塔が建てられていたという。ちなみに、エンナには、フリードリヒ2世の遺構として、宮廷建築家リッカルド・ダ・レンティーニにより建てられた八角形の「フリードリヒ2世の塔」がある。昨夜宿泊したホテルからローマ通りを西に700メートル行った場所にある。

エントランス付近にある案内図を確認すると、城の様子が良くわかる。城全体はややいびつな矩形の敷地で、「聖ニコラス広場」、「マッダレーナ広場」、「サン・マルティーノ広場」の3区画で構成されている。エントランスは、駐車場からは近く、城壁の北西角の北壁沿いにある階段を上った先「A」になる。
クリックで別ウインドウ開く

入場する前に、城壁(北壁)を見ながら車道を北東方面に歩いてみた。北壁は「ピサの塔10」を過ぎ、北東角の「ゼッカの塔12」まで150メートルほど続いている。ゼッカの塔付近からは、ロッカ ディ ケレスの遺構が一望できる。こちらはローマ神話に登場する豊穣神ケーレス(ケレス)の聖域で、祭壇跡とされる。ケーレスとは、本来、ギリシャ神話におけるオリュンポス十二神の一柱である女神デーメーテール(デメテル)であるとされている。
クリックで別ウインドウ開く

共和政ローマ末期の政治家で、弁護士、哲学者のマルクス・トゥッリウス・キケロ(前106~前43)によると、ローマにはケレスに捧げられた神殿があるが、ローマ人の一部の司祭たちはエンナのケレスの聖域を目指して巡礼に出発したと述懐している。

振り返った城壁の北東角から、東壁を眺めると「東塔14」が建ち、手前に、城内のサン・マルティーノ広場からの出口階段が続いている。
クリックで別ウインドウ開く

再び城壁(北壁)に沿って戻り、城壁沿いの階段を上ったエントランス「A」から入場する。そして、西外壁と西内壁との間に設置された手摺付スロープを進み、西内壁のアーチ門をくぐると、城内の聖ニコラス広場に到着する。遺跡保護のため、柵で仕切られた砂地の見学通路があるが、城壁、地下室への入口、濠があるだけで周囲は雑草で覆われているだけだった。右側の塔が「ハーレムの塔8」で、左側の胸壁を持つ高い塔が「ピサの塔10」になる。
クリックで別ウインドウ開く

ピサの塔は、6つ現存する塔の中のメインタワーで、ロンバルディア城における主要な見どころの一つになる。名前の由来は、ノルマン人がピサ共和国(11世紀~1406)の同盟国で構成された守備隊に防御を委託したことによる。その後のアラブ人支配の時代は、周囲を飛び交っていた猛禽類から「鷲の塔」と呼ばれていた。

ピサの塔内には階段があり上ることができる。胸壁のある屋上テラスからはパノラマビューが楽しめる。真下のサン・マルティーノ広場の右端が「東塔14」で、左端の狭間窓のある開口部が「ゼッカの塔12」になる。そして、エンナの最東端となるロッカ ディ ケレスと赤い屋根の神話博物館(Museo del mito)の先には、麓から広がる大地や、遠方のエトナ山まで望むことができる。この日は、風が強く、雲が勢いよく流れる美しい景観を堪能できた。
クリックで別ウインドウ開く

以上で、エンナを後にする。帰りは、市内に戻らず、ロンバルディア城の南側から続くジグザグ道を通り、麓まで降りてきた。振り返ると、右側のお椀状の山の上にロンバルディア城の姿がはっきりと確認できる。左側のエンナ市内にかけて建物が立ち並んでいるのが見えるが、街の中心部付近には雲がかかっている。このように標高の高いエンナは、雲に隠れることがしばしばあるが、今日は眺めが良い方だったかもしれない。次にエンナ県南にあるピアッツァ アルメリーナに向かう。
クリックで別ウインドウ開く
(2012.12.24~25)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする