古代ローマの別荘「カザーレ荘」(ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ、Villa Romana del Casale)にやってきた。こちらは、敷地内の南エリアに建つ直径25メートルほどの楕円形の中庭「クスュストス」(見取り図33)(以下、カザーレ荘の見取り図を参照)で、「アトリウム大食堂」(見取り図36)前から北西方向に広がっている。クスュストスとは、競技選手が訓練するスポーツ施設(ギュムナシオン)に天井が付いたもので、主に冬や雨のときに使用された施設とされる。
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カザーレ荘は、エンナから約30キロメートル南の、エンナに次ぐ中堅都市ピアッツァ・アルメリーナから南西方向に6キロメートル離れた山間部にある。この地は、古代ローマ時代、幹線道路が通る農産物の出荷地点であったことから、数本の円柱が発見された19世紀には、農園経営者の邸宅と思われていた。しかし、その後、発掘作業が進められ、1950年代には3500平方メートルに及ぶ膨大な敷地であることが明らかになった。
建材には、様々な地域から運ばれた多くの大理石が使用されており、40室ほどある部屋には、古代ローマ最大規模の精巧で表現力豊かなモザイク床が残されていた。遺跡群は、現在ではローマ皇帝マクシミアヌス帝(在位:285~305)と、その家族のための別荘だったとされ、1997年にユネスコの世界遺産に登録されている。
カザーレ荘の駐車場は300メートルほど北側にあり、そこからは歩きになる。見学ルートは、プレフルニア(かまど)(見取り図6)前から、カルダリウム(高温浴室)(見取り図7)、テピダリウム(微温浴室)(見取り図8)、フリギダリウム(水風呂)(見取り図10)を過ぎ、アトリウムのある小建物(見取り図4)に入っていく。こちらはそのアトリウム内の二つ目の小部屋「浴場への玄関」(見取り図5)から北側に続く「体育室」(見取り図15)を眺めた様子である。
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「体育室」(見取り図15)の床には初代皇帝アウグストゥス(前63~14)によりエジプトからもたらされたオベリスクを中心とする大競技場「チルコ・マッシモ」を背景に、4頭の馬に引かせた戦車(クアドリガ)のモザイク画が残されている。ちなみに、357年にコンスタンティウス2世(317~361)が、2本目のオベリスクをチルコ・マッシモに建てたことから、こちらのモザイク床はそれ以前の制作と判断されている。
次に、再びフリギダリウム(水風呂)(見取り図10)前に戻り、南側の馬蹄形の中庭「ポリゴンコート」(見取り図2)の遺構を横断し、アトリウムの建物「玄関」(見取り図11)に入る。玄関には、燭台を持って客を迎える主人のモザイク画が残されている。
玄関の先には東西を長辺とする長方形の「ペリステュリウム」(ペリスタイル)(見取り図13)が中庭を取り囲んでおり、モザイクが回廊に施されている。見学通路は、そのモザイクを見下ろす様に設置され北側に続いている。モザイクは、網目模様の正方形の枠内に、リース状の円に覆われた愛らしい動物の顔が表現されている。
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「ペリステュリウム」(ペリスタイル)(見取り図13)を見学しながら北側に進むと、外の浴場に通じる「控室」(見取り図16)に到着する。こちらの床には5人の人物のモザイク画が残されている。このモザイク画の発見が、カザーレ荘がマクシミアヌス帝の邸宅とされた根拠の一つと言われている。
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マクシミアヌス帝は、ディオクレティアヌス帝(在位:284~305)の同僚だったが、当時、軍人皇帝時代と称された混乱と反乱が渦巻くローマ帝国において、単独で統治と防衛を行うのは困難との判断から共同皇帝として推挙された。2頭体制になった帝国は、ディオクレティアヌス帝がニコメディアを拠点に東方を治め、マクシミアヌス帝が、帝国の西方を担当することになり、それぞれの皇帝が、副帝を任命して、四分割統治(テトラルキア)時代となるのである。
中央の女主人と思われる人物が左右に子供と召使を従えて 浴場に向かう様子が描かれている。女主人は、ローマ皇帝マクシミアヌス帝の妃エウトロピアで、向かって右の少年がマクセンティウス、左の少女がファウスタとされている。マクセンティウスは、生まれながら斜視でこのモザイクにもそのように描かれているというがよくわからない。
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続いて「回廊ペリステュリウム」の北側にある「控室」(見取り図18)や、「幾何学模様の間」(見取り図21)などを見学していく。そして、「四季の間」(見取り図23)の北隣には、「魚釣りをするキューピット間」(見取り図24)がある。キューピットが漁師に扮して、2隻の船でひき綱を引っ張ったり、釣り竿を使った一本釣り、イルカと協力して漁をするなどの様子がユーモラスに表現されている。大小様々な種類の魚が表現されており、見ていて飽きない。
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「四季の間」(見取り図23)の東隣には、「狩猟の小集会場」(見取り図25)がある。収穫した肉を大きなフライパンで調理し、ワインを片手に、歓談する男たちを中心に、周囲には、当時の狩猟の様子が生き生きと表現されている。左下は、猪狩りの様子で、傷つき倒れた仲間を助け、槍で戦う人の姿がある。右下は、馬に乗り網で誘い込む鹿狩りの様子が見て取れる。
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上部中央には、狩りの際に安全を祈願した「狩りの女神ディアナ」の像が、円柱台の上に弓矢を持った姿で表現されている。そして、その手前には、コンロで肉を焼いている場面があるが、その肉から煙が立ち上っており、モザイク画の繊細なテクニックに関心させられる。
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通路は「狩猟の小集会場」(見取り図25)の北側を回り込むように進んで行く。その北側の通路からは、南側となる真下の「狩猟の小集会場」(見取り図25)の先に、円柱で支えられた回廊「ペリステュリウム」があり、更に、噴水や水盤の跡が残された中庭を一望できる。
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中庭の北側にあるいくつかの部屋のモザイク床を見学した後は、回廊ペリステュリウムの東側を南北に伸びる「大狩猟の廊下」(見取り図28)の見学となり、東回廊の円柱沿いに設けられた高架通路を南に向け通路を歩いていく。その廊下のモザイクは、港に停泊する2隻のガレー船を中心に、首都ローマに運び込むため、様々な珍しい動物等を捕獲・運搬する様子が2段構成で60メートルにわたり展開されている。
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こちらは、2隻のガレー船のうち左側(北側)の船には、捕獲されたダチョウとクジャクを1頭づつ抱きかかえ橋桁から運び込んでいる。
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ダチョウとクジャクの先には、2人に抱えられた長い角のあるカモシカを、甲板に立つ船員がロープを引き、隣の船員が檻に誘導している。舷には幾何学文様が装飾され、櫂が多く備えられている。ガレー船の周囲には、波立つ海に多くの魚が泳ぐ姿が見られる。
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南隣のある、もう一隻のガレー船には、象を積み込もうと鎖紐を引く乗組員の姿が表現されている。
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その象の南隣には、大型のサイに巻き付けたロープを引く3人の兵士と船に誘導する2人の兵士が表現されている。
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「大狩猟の廊下」(見取り図28)の三分の二ほどのところから、見学路は、回廊に沿って右に曲がり、直ぐに左に曲がる。幾何学文様のモザイク床の間があり、その先には「ビキニの少女の部屋」(見取り図30)がある。モザイク床は、2段構成でビキニ女性が様々な競技をしている。上段の左端は破損して足首から下だけが残っている。次に、ウエイトリフティング、円盤投げ、ランニングをする女性へと続いている。下段には球技をする女性、シュロの小枝と月桂樹を被る女性と続いている。
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下段の左端には、女神に扮する主催者の女性が、優勝者にシュロの小枝と月桂樹の冠を渡そうとしている。
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見学通路は左に曲がり「大狩猟の廊下」(見取り図28)を見下ろす場所に戻る。先ほどのサイを捕獲するモザイク床の南隣には、盾を持つ兵士を従えトガを纏い帽子を被る人物がいるが、こちらがローマ皇帝マクシミアヌス帝と言われている。身なりがベネチアにある四分割統治像に似ていることに起因しているとのこと。その皇帝が見守る先には、捕獲用の檻を乗せた牛車を引く兵士や、盾を持ち、ヒョウと格闘する兵士、長い角のあるカモシカを襲うヒョウなどの姿がある。
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次に、建物の外に出て、「アトリウム大食堂(冬の食堂)」(見取り図36)に向かう。アトリウム大食堂内は、南北東の三方に後陣があり、それぞれが食事の間として機能していた。見学通路は、建物の周囲に張り巡らされている。ちなみに大食堂の玄関前が、トップの画像で紹介した楕円形の中庭(クスュストス)(見取り図33)になる。
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三方に後陣のうち、東側の後陣の床には、オリュンポスの神々とのあいだで行われたギガントマキア対戦が描かれている。中央のヘラクレスが、まわりの巨人族ギガースを滅ぼす様子が描かれている。マクシミアヌス帝は、自分自身をヘラクレスの化身と意識していたと言う。
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最後に、バジリカ(見取り図43)の北側となる北東エリアを見学する。「フルーツの小部屋(見取り図45)」には、幾何学模様を背景に円があり中に様々な果実が表現されている。ブドウ、イチジク、スイカ、ザクロなどで、手作業のモザイク画とは思えないほど精密に表現されている。
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フルーツの小部屋の東隣は「オデュッセウスとポリュフェモス」(見取り図44)で、ホメーロスの叙事詩オデュッセイアー第9書から、洞窟に閉じ込められたオデュッセウスたちが巨人ポリュフェモスに酒を飲ませて酔い潰そうとする場面が表現されている。
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北隣に「愛の寝室」(見取り図46)がある。幾何学模様を背景に、メダイヨンに模られた中に愛し合う男女が表現され、周囲には、肖像画の様に女性の顔が取り囲んでいる。こちらも、モザイクと思えないほど、規則正しく配置され、色による陰影も見事である。
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あまりのモザイクの多さと素晴らしさに感服してしまった。1時間半ほどいただろうか。ランチ時間もなくなり、入口のショップで、ピザをテイクアウトして、急ぎ次の目的地、カルタジローネ(Caltagirone)に向かった。カルタジローネはカターニア県にある基礎自治体(コムーネ)で、ピアッツァ・アルメリーナから南東に30キロメートルに位置し、エレイ山脈の一つ、標高608メートルの丘の上に広がっている。カルタジローネとはアラビア語で、”花瓶の丘”を意味する。
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カルタジローネは、9世紀、アラブ人が砦を築いたことに始まり、中世前半には城や教会を中心に発展してきた。現在のカルタジローネのバロック様式の街並みは、1693年のシチリア地震で壊滅的な打撃を受けた後に再建されたもので、シチリア島の東南部にある8つ(ミリテッロ・イン・ヴァル・ディ・カターニア、カターニア、モディカ、ノート、パラッツォーロ・アクレイデ、ラグーザ、シクリ)の街並みと共に、2002年に「ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々」として、世界遺産に登録されている。
サン・ジュリアーノ大聖堂が建つウンベルト1世広場の北隣には、ムニチピオ広場(市庁舎広場)があり、南側にセナトリオ宮殿(Palazzo Senatorio)(15世紀)(現カフェ)、東側に市庁舎(19世紀後半)が広場に面して建っている。その市庁舎前から、北側を望むと、スカーラ(大階段)が続いている。
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こちらのスカーラは、「サンタ・マリア・デル・モンテの階段」と名付けられている。1606年に、頂上の街へのアクセスを容易にするために建設されたのが始まりである。130メートル(430フィート)を超える階段は、バルコニーの建物に挟まれており、今日では街のランドマークとなっている。最初の階段は途中に休憩所があり、合計150段の階段があったが、1844年に休憩所を廃止し、傾斜を低くして142段に改修されている。
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そして、1956年、マイオリチェ・アルティジャーナ・カルタジロネージ社のアントニーノ・ラゴナ(Antonino Ragona、1916~2011)により、階段の踏み板と踏み板との間の蹴込み部分に、手描きのマジョリカ・タイルが施され現在に至っている。蹴込みのマジョリカ・タイルは、下から上へ、段階的に、アラブ時代のシチリアのマジョリカの起源から、ノルマン、シュヴァーベン、ヴァロワ・アンジュー、アラゴン、キアラモンテ、スペイン、ルネサンス、バロック、18 世紀、19 世紀、現代スタイルと、時代の変遷を比喩的、花柄、幾何学的なデザインで表現されている。
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カルタジロネージのマジョリカ・タイルは、827年にシチリア島を征服したアッバース朝支配下のアグラブ朝時代に、マジョリカ焼きの製法が導入されたことから盛んに制作された。マジョリカ・タイルの制作が、最も繁栄を極めたのは、12世紀から13世紀にかけて繁栄した、ノルマン朝(オートヴィル朝)とシュヴァーベン大公(ホーエンシュタウフェン朝)時代である。
しかし、19世紀初頭、カルタジローネ陶磁器の伝統は、近代化の波に乗れず、危機に瀕していたが、カルタジローネの貴族で、司祭、政治家ルイジ・ストゥルツォが、1918年に「王立陶芸専門学校」を設立して産業の復興に取り組み、その流れを組むマイオリチェ・アルティジャーナ・カルタジロネージ社により、カルタジローネの伝統が引き継がれている。
カルタジローネのマジョリカ・タイルの特徴は、主に、青、緑、黄色を中心とした色合いとされる。
階段沿いにはマジョリカ・タイル工房・店舗があり、大小多くの陶磁器を売っている。こちらの店舗には、マスク型のサボテンの鉢植えや、巨大なフクロウの花瓶、宗教、歴史をテーマとした人物など立体像の彩色テラコッタが並んでいる。
こちらの壁面には、メドゥーサ、太陽の神ヘーリオス、北風の神ボレアース、聖母子などのメダリオンのマジョリカ・タイルが飾られている。
直線階段を上り切ると広場があり、その先にはマジョリカ・タイルを組み合わせて表現された歴史画が飾られている。「アルタヴィッラの鐘(campana d'Altavilla)の伝道」と名付けられたマイオリチェ・アルティジャーナ・カルタジロネージ社の制作で、1076年頃、シチリア島を支配していたイスラム勢力を次々と打ち破ってきたノルマン騎士のルッジェーロ・ロベルト兄弟が、カルタジローネ近郊のユディカの要塞にいたサラセン人との戦いのエピソードで、勝利を象徴するトロフィーとしてアルタヴィッラの鐘が運ばれる様子が表現されている。
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そして、右側に建つのが「サンタ・マリア・デル・モンテ教会」(Santa Maria del Monte)のファサードである。この場所はもともとカルタジローネの街の最も古い場所の一つで、街を代表する教会として、これまで多くの再建と改修を受けてきた(現:17世紀初頭)。しかし、現在では、階段下のウンベルト1世広場に建つサン・ジュリアーノ大聖堂が主要な教会として機能している。
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上ってきた階段方向を見下ろすと、見晴らしの良いパノラマが広がっている。この時間、既に午後3時半を過ぎており、日の入りも早いことから、あまりゆっくりはしていられない。次にシラクサ(シラクーザ)に向かうこととしている。
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カルタジローネの南側から環状道路を通って、北東方面に向かうと、階段状に折り重なる街の様相を正面に捉えることができる。右上には、サンタ・マリア・デル・モンテ教会の大きな鐘楼とドームが望め、左側に、スカーラ(大階段)頂部の広場前から眺めたファサードも確認できる。
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シラクサ(シラクーザ)は、シチリア島の南東部、シラクーザ県の東部に位置するコムーネでイオニア海に面した周辺地域を含め約12万人の人口を有する基礎自治体(コムーネ)である。カルタジローネからは、100キロ強の距離で、SS417号線で東に向かい、シチリアの東海岸を南北に走る「E45号線」(アウトストラーダ)で南下する。
シラクサに到着したのは、午後7時を過ぎたころ。宿泊ホテルは、シラクサ中心部の南側から狭い海峡を渡ったオルティージャ島にある。チェックインを終えて、200メートルほど歩いてトラットリア「シチリア・イン・ターヴォラ」(Sicilia in Tavola)にやってきた。
こちらのトラットリアは、多くのお店が立ち並ぶオルティージャ島の旧市街の中心部、カヴール通り(Via Cavour)沿いにあり、新鮮な魚介類を使った美味しいパスタなどが良心的な値段で頂けると評判のスパゲッテリアである。人気店でありながらテーブル席は少なく、すぐに満席になることから、予約は必須である。
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飲み物は、ドンナフガータ アンシリア (Donnafugata Anthilia)を注文した。フレッシュで奥ゆき深く、白桃のほのかな香りを持ち合わせたキリッとした白ワインで、ミネラル感も心地よいのが特徴。ドンナフガータとは、シチリアの名門ワイナリーの名前で、”逃げた女性”を意味する。そしてアンシリアとは、シチリアにあった古代都市名に因んでいる。
こちらは魚介の盛り合わせ。中でもムール貝が美味しく、冷えた白ワインとの相性も大変良い。
メニューにはパスタやスパゲッティを中心に30種類ほどが書かれている。ちなみに、メニューには書かれていないが、メインを食べたい場合は、スタッフに申し出れば対応してくれるとのこと。しかし、前菜とプリモで十分なので、スカンピ海老のラビオリ(Ravioli agli scampi)と、アサリと小エビのスパゲッティ(Spaghetti V-G-P)を頼んだ。自家製の生パスタとのことでコシがあり大変美味しい。
食後は、カヴール通りを南に歩き、途中にあったジェラート屋でアイスを買って、「ドゥオーモ広場」までやってきた。リストランテからは100メートルほど南に下ると、視界が広がり到着する。こちらは歩いてきたカヴール通り方面を振り返った様子。向かって右側に建つ豪華な建物は「ヴェルメキシオ宮殿」(Palazzo Vermexio)で、1629年から1633年にかけて建てられたバロック様式の元老院で、宮殿名称は設計者に因んでいる。現在はシラクサ市庁舎として使用されている。
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そして、左側の建物は「ベネヴェンターノ・デル・ボスコ宮殿」で、もともとは15世紀に貴族アレッツォ家によって建てられ、市の法的および行政機関が置かれていたが、1693年に地震により倒壊したことから、1779年に貴族ベネヴェンターノ家によりバロック様式で再建された。両シチリア王フェルディナンド1世 (1751~1825)や、アメリカ独立戦争・ナポレオン戦争などで活躍したイギリス海軍の提督ホレーショ・ネルソン(1758~1805)が滞在したことで知られている。現在も、シラクサでは最も優雅な宮殿として名高い。
そして、市庁舎の南隣で、ドゥオーモ広場の中心に「シラクサ(シラクーザ)大聖堂」が聳えている。ここは、紀元前5世紀に建設されたアテナ神殿があった場所で、現在の聖堂にも、当時の部材を多く使用している。現在のファサードは1753年に完成したが、20年の工事中断期間があったことから、後期バロック様式と、ロココ様式の2つの装飾様式が混在している。
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広場の南側にはシラクサのルチアに捧げられた「聖ルチア教会」(Chiesa di S. Lucia alla Badia)が建っている。現在の姿は、1693年の大地震の直後に建てられたもので、ファサードには、バロック様式とロココ様式が取り入れられている。中央入口のペディメントには、ルチアの殉教のシンボル(短剣)を表わした紋章が施され、両側にねじれた柱を配し、左右にスペイン王室の紋章が飾られている。上部には錬鉄の繊細な装飾手摺を備えたバルコニーがある。教会内には、バロック美術の礎を築いたカラヴァッジョ(1571~1610)の絵画「聖ルチアの埋葬」が飾られている。
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(2012.12.25)
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カザーレ荘は、エンナから約30キロメートル南の、エンナに次ぐ中堅都市ピアッツァ・アルメリーナから南西方向に6キロメートル離れた山間部にある。この地は、古代ローマ時代、幹線道路が通る農産物の出荷地点であったことから、数本の円柱が発見された19世紀には、農園経営者の邸宅と思われていた。しかし、その後、発掘作業が進められ、1950年代には3500平方メートルに及ぶ膨大な敷地であることが明らかになった。
建材には、様々な地域から運ばれた多くの大理石が使用されており、40室ほどある部屋には、古代ローマ最大規模の精巧で表現力豊かなモザイク床が残されていた。遺跡群は、現在ではローマ皇帝マクシミアヌス帝(在位:285~305)と、その家族のための別荘だったとされ、1997年にユネスコの世界遺産に登録されている。
カザーレ荘の駐車場は300メートルほど北側にあり、そこからは歩きになる。見学ルートは、プレフルニア(かまど)(見取り図6)前から、カルダリウム(高温浴室)(見取り図7)、テピダリウム(微温浴室)(見取り図8)、フリギダリウム(水風呂)(見取り図10)を過ぎ、アトリウムのある小建物(見取り図4)に入っていく。こちらはそのアトリウム内の二つ目の小部屋「浴場への玄関」(見取り図5)から北側に続く「体育室」(見取り図15)を眺めた様子である。
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「体育室」(見取り図15)の床には初代皇帝アウグストゥス(前63~14)によりエジプトからもたらされたオベリスクを中心とする大競技場「チルコ・マッシモ」を背景に、4頭の馬に引かせた戦車(クアドリガ)のモザイク画が残されている。ちなみに、357年にコンスタンティウス2世(317~361)が、2本目のオベリスクをチルコ・マッシモに建てたことから、こちらのモザイク床はそれ以前の制作と判断されている。
次に、再びフリギダリウム(水風呂)(見取り図10)前に戻り、南側の馬蹄形の中庭「ポリゴンコート」(見取り図2)の遺構を横断し、アトリウムの建物「玄関」(見取り図11)に入る。玄関には、燭台を持って客を迎える主人のモザイク画が残されている。
玄関の先には東西を長辺とする長方形の「ペリステュリウム」(ペリスタイル)(見取り図13)が中庭を取り囲んでおり、モザイクが回廊に施されている。見学通路は、そのモザイクを見下ろす様に設置され北側に続いている。モザイクは、網目模様の正方形の枠内に、リース状の円に覆われた愛らしい動物の顔が表現されている。
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「ペリステュリウム」(ペリスタイル)(見取り図13)を見学しながら北側に進むと、外の浴場に通じる「控室」(見取り図16)に到着する。こちらの床には5人の人物のモザイク画が残されている。このモザイク画の発見が、カザーレ荘がマクシミアヌス帝の邸宅とされた根拠の一つと言われている。
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マクシミアヌス帝は、ディオクレティアヌス帝(在位:284~305)の同僚だったが、当時、軍人皇帝時代と称された混乱と反乱が渦巻くローマ帝国において、単独で統治と防衛を行うのは困難との判断から共同皇帝として推挙された。2頭体制になった帝国は、ディオクレティアヌス帝がニコメディアを拠点に東方を治め、マクシミアヌス帝が、帝国の西方を担当することになり、それぞれの皇帝が、副帝を任命して、四分割統治(テトラルキア)時代となるのである。
中央の女主人と思われる人物が左右に子供と召使を従えて 浴場に向かう様子が描かれている。女主人は、ローマ皇帝マクシミアヌス帝の妃エウトロピアで、向かって右の少年がマクセンティウス、左の少女がファウスタとされている。マクセンティウスは、生まれながら斜視でこのモザイクにもそのように描かれているというがよくわからない。
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続いて「回廊ペリステュリウム」の北側にある「控室」(見取り図18)や、「幾何学模様の間」(見取り図21)などを見学していく。そして、「四季の間」(見取り図23)の北隣には、「魚釣りをするキューピット間」(見取り図24)がある。キューピットが漁師に扮して、2隻の船でひき綱を引っ張ったり、釣り竿を使った一本釣り、イルカと協力して漁をするなどの様子がユーモラスに表現されている。大小様々な種類の魚が表現されており、見ていて飽きない。
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「四季の間」(見取り図23)の東隣には、「狩猟の小集会場」(見取り図25)がある。収穫した肉を大きなフライパンで調理し、ワインを片手に、歓談する男たちを中心に、周囲には、当時の狩猟の様子が生き生きと表現されている。左下は、猪狩りの様子で、傷つき倒れた仲間を助け、槍で戦う人の姿がある。右下は、馬に乗り網で誘い込む鹿狩りの様子が見て取れる。
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上部中央には、狩りの際に安全を祈願した「狩りの女神ディアナ」の像が、円柱台の上に弓矢を持った姿で表現されている。そして、その手前には、コンロで肉を焼いている場面があるが、その肉から煙が立ち上っており、モザイク画の繊細なテクニックに関心させられる。
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通路は「狩猟の小集会場」(見取り図25)の北側を回り込むように進んで行く。その北側の通路からは、南側となる真下の「狩猟の小集会場」(見取り図25)の先に、円柱で支えられた回廊「ペリステュリウム」があり、更に、噴水や水盤の跡が残された中庭を一望できる。
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中庭の北側にあるいくつかの部屋のモザイク床を見学した後は、回廊ペリステュリウムの東側を南北に伸びる「大狩猟の廊下」(見取り図28)の見学となり、東回廊の円柱沿いに設けられた高架通路を南に向け通路を歩いていく。その廊下のモザイクは、港に停泊する2隻のガレー船を中心に、首都ローマに運び込むため、様々な珍しい動物等を捕獲・運搬する様子が2段構成で60メートルにわたり展開されている。
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こちらは、2隻のガレー船のうち左側(北側)の船には、捕獲されたダチョウとクジャクを1頭づつ抱きかかえ橋桁から運び込んでいる。
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ダチョウとクジャクの先には、2人に抱えられた長い角のあるカモシカを、甲板に立つ船員がロープを引き、隣の船員が檻に誘導している。舷には幾何学文様が装飾され、櫂が多く備えられている。ガレー船の周囲には、波立つ海に多くの魚が泳ぐ姿が見られる。
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南隣のある、もう一隻のガレー船には、象を積み込もうと鎖紐を引く乗組員の姿が表現されている。
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その象の南隣には、大型のサイに巻き付けたロープを引く3人の兵士と船に誘導する2人の兵士が表現されている。
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見学通路は左に曲がり「大狩猟の廊下」(見取り図28)を見下ろす場所に戻る。先ほどのサイを捕獲するモザイク床の南隣には、盾を持つ兵士を従えトガを纏い帽子を被る人物がいるが、こちらがローマ皇帝マクシミアヌス帝と言われている。身なりがベネチアにある四分割統治像に似ていることに起因しているとのこと。その皇帝が見守る先には、捕獲用の檻を乗せた牛車を引く兵士や、盾を持ち、ヒョウと格闘する兵士、長い角のあるカモシカを襲うヒョウなどの姿がある。
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三方に後陣のうち、東側の後陣の床には、オリュンポスの神々とのあいだで行われたギガントマキア対戦が描かれている。中央のヘラクレスが、まわりの巨人族ギガースを滅ぼす様子が描かれている。マクシミアヌス帝は、自分自身をヘラクレスの化身と意識していたと言う。
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最後に、バジリカ(見取り図43)の北側となる北東エリアを見学する。「フルーツの小部屋(見取り図45)」には、幾何学模様を背景に円があり中に様々な果実が表現されている。ブドウ、イチジク、スイカ、ザクロなどで、手作業のモザイク画とは思えないほど精密に表現されている。
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フルーツの小部屋の東隣は「オデュッセウスとポリュフェモス」(見取り図44)で、ホメーロスの叙事詩オデュッセイアー第9書から、洞窟に閉じ込められたオデュッセウスたちが巨人ポリュフェモスに酒を飲ませて酔い潰そうとする場面が表現されている。
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北隣に「愛の寝室」(見取り図46)がある。幾何学模様を背景に、メダイヨンに模られた中に愛し合う男女が表現され、周囲には、肖像画の様に女性の顔が取り囲んでいる。こちらも、モザイクと思えないほど、規則正しく配置され、色による陰影も見事である。
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あまりのモザイクの多さと素晴らしさに感服してしまった。1時間半ほどいただろうか。ランチ時間もなくなり、入口のショップで、ピザをテイクアウトして、急ぎ次の目的地、カルタジローネ(Caltagirone)に向かった。カルタジローネはカターニア県にある基礎自治体(コムーネ)で、ピアッツァ・アルメリーナから南東に30キロメートルに位置し、エレイ山脈の一つ、標高608メートルの丘の上に広がっている。カルタジローネとはアラビア語で、”花瓶の丘”を意味する。
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カルタジローネは、9世紀、アラブ人が砦を築いたことに始まり、中世前半には城や教会を中心に発展してきた。現在のカルタジローネのバロック様式の街並みは、1693年のシチリア地震で壊滅的な打撃を受けた後に再建されたもので、シチリア島の東南部にある8つ(ミリテッロ・イン・ヴァル・ディ・カターニア、カターニア、モディカ、ノート、パラッツォーロ・アクレイデ、ラグーザ、シクリ)の街並みと共に、2002年に「ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々」として、世界遺産に登録されている。
サン・ジュリアーノ大聖堂が建つウンベルト1世広場の北隣には、ムニチピオ広場(市庁舎広場)があり、南側にセナトリオ宮殿(Palazzo Senatorio)(15世紀)(現カフェ)、東側に市庁舎(19世紀後半)が広場に面して建っている。その市庁舎前から、北側を望むと、スカーラ(大階段)が続いている。
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こちらのスカーラは、「サンタ・マリア・デル・モンテの階段」と名付けられている。1606年に、頂上の街へのアクセスを容易にするために建設されたのが始まりである。130メートル(430フィート)を超える階段は、バルコニーの建物に挟まれており、今日では街のランドマークとなっている。最初の階段は途中に休憩所があり、合計150段の階段があったが、1844年に休憩所を廃止し、傾斜を低くして142段に改修されている。
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そして、1956年、マイオリチェ・アルティジャーナ・カルタジロネージ社のアントニーノ・ラゴナ(Antonino Ragona、1916~2011)により、階段の踏み板と踏み板との間の蹴込み部分に、手描きのマジョリカ・タイルが施され現在に至っている。蹴込みのマジョリカ・タイルは、下から上へ、段階的に、アラブ時代のシチリアのマジョリカの起源から、ノルマン、シュヴァーベン、ヴァロワ・アンジュー、アラゴン、キアラモンテ、スペイン、ルネサンス、バロック、18 世紀、19 世紀、現代スタイルと、時代の変遷を比喩的、花柄、幾何学的なデザインで表現されている。
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カルタジロネージのマジョリカ・タイルは、827年にシチリア島を征服したアッバース朝支配下のアグラブ朝時代に、マジョリカ焼きの製法が導入されたことから盛んに制作された。マジョリカ・タイルの制作が、最も繁栄を極めたのは、12世紀から13世紀にかけて繁栄した、ノルマン朝(オートヴィル朝)とシュヴァーベン大公(ホーエンシュタウフェン朝)時代である。
しかし、19世紀初頭、カルタジローネ陶磁器の伝統は、近代化の波に乗れず、危機に瀕していたが、カルタジローネの貴族で、司祭、政治家ルイジ・ストゥルツォが、1918年に「王立陶芸専門学校」を設立して産業の復興に取り組み、その流れを組むマイオリチェ・アルティジャーナ・カルタジロネージ社により、カルタジローネの伝統が引き継がれている。
カルタジローネのマジョリカ・タイルの特徴は、主に、青、緑、黄色を中心とした色合いとされる。
階段沿いにはマジョリカ・タイル工房・店舗があり、大小多くの陶磁器を売っている。こちらの店舗には、マスク型のサボテンの鉢植えや、巨大なフクロウの花瓶、宗教、歴史をテーマとした人物など立体像の彩色テラコッタが並んでいる。
こちらの壁面には、メドゥーサ、太陽の神ヘーリオス、北風の神ボレアース、聖母子などのメダリオンのマジョリカ・タイルが飾られている。
直線階段を上り切ると広場があり、その先にはマジョリカ・タイルを組み合わせて表現された歴史画が飾られている。「アルタヴィッラの鐘(campana d'Altavilla)の伝道」と名付けられたマイオリチェ・アルティジャーナ・カルタジロネージ社の制作で、1076年頃、シチリア島を支配していたイスラム勢力を次々と打ち破ってきたノルマン騎士のルッジェーロ・ロベルト兄弟が、カルタジローネ近郊のユディカの要塞にいたサラセン人との戦いのエピソードで、勝利を象徴するトロフィーとしてアルタヴィッラの鐘が運ばれる様子が表現されている。
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そして、右側に建つのが「サンタ・マリア・デル・モンテ教会」(Santa Maria del Monte)のファサードである。この場所はもともとカルタジローネの街の最も古い場所の一つで、街を代表する教会として、これまで多くの再建と改修を受けてきた(現:17世紀初頭)。しかし、現在では、階段下のウンベルト1世広場に建つサン・ジュリアーノ大聖堂が主要な教会として機能している。
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上ってきた階段方向を見下ろすと、見晴らしの良いパノラマが広がっている。この時間、既に午後3時半を過ぎており、日の入りも早いことから、あまりゆっくりはしていられない。次にシラクサ(シラクーザ)に向かうこととしている。
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カルタジローネの南側から環状道路を通って、北東方面に向かうと、階段状に折り重なる街の様相を正面に捉えることができる。右上には、サンタ・マリア・デル・モンテ教会の大きな鐘楼とドームが望め、左側に、スカーラ(大階段)頂部の広場前から眺めたファサードも確認できる。
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シラクサ(シラクーザ)は、シチリア島の南東部、シラクーザ県の東部に位置するコムーネでイオニア海に面した周辺地域を含め約12万人の人口を有する基礎自治体(コムーネ)である。カルタジローネからは、100キロ強の距離で、SS417号線で東に向かい、シチリアの東海岸を南北に走る「E45号線」(アウトストラーダ)で南下する。
シラクサに到着したのは、午後7時を過ぎたころ。宿泊ホテルは、シラクサ中心部の南側から狭い海峡を渡ったオルティージャ島にある。チェックインを終えて、200メートルほど歩いてトラットリア「シチリア・イン・ターヴォラ」(Sicilia in Tavola)にやってきた。
こちらのトラットリアは、多くのお店が立ち並ぶオルティージャ島の旧市街の中心部、カヴール通り(Via Cavour)沿いにあり、新鮮な魚介類を使った美味しいパスタなどが良心的な値段で頂けると評判のスパゲッテリアである。人気店でありながらテーブル席は少なく、すぐに満席になることから、予約は必須である。
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飲み物は、ドンナフガータ アンシリア (Donnafugata Anthilia)を注文した。フレッシュで奥ゆき深く、白桃のほのかな香りを持ち合わせたキリッとした白ワインで、ミネラル感も心地よいのが特徴。ドンナフガータとは、シチリアの名門ワイナリーの名前で、”逃げた女性”を意味する。そしてアンシリアとは、シチリアにあった古代都市名に因んでいる。
こちらは魚介の盛り合わせ。中でもムール貝が美味しく、冷えた白ワインとの相性も大変良い。
メニューにはパスタやスパゲッティを中心に30種類ほどが書かれている。ちなみに、メニューには書かれていないが、メインを食べたい場合は、スタッフに申し出れば対応してくれるとのこと。しかし、前菜とプリモで十分なので、スカンピ海老のラビオリ(Ravioli agli scampi)と、アサリと小エビのスパゲッティ(Spaghetti V-G-P)を頼んだ。自家製の生パスタとのことでコシがあり大変美味しい。
食後は、カヴール通りを南に歩き、途中にあったジェラート屋でアイスを買って、「ドゥオーモ広場」までやってきた。リストランテからは100メートルほど南に下ると、視界が広がり到着する。こちらは歩いてきたカヴール通り方面を振り返った様子。向かって右側に建つ豪華な建物は「ヴェルメキシオ宮殿」(Palazzo Vermexio)で、1629年から1633年にかけて建てられたバロック様式の元老院で、宮殿名称は設計者に因んでいる。現在はシラクサ市庁舎として使用されている。
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そして、左側の建物は「ベネヴェンターノ・デル・ボスコ宮殿」で、もともとは15世紀に貴族アレッツォ家によって建てられ、市の法的および行政機関が置かれていたが、1693年に地震により倒壊したことから、1779年に貴族ベネヴェンターノ家によりバロック様式で再建された。両シチリア王フェルディナンド1世 (1751~1825)や、アメリカ独立戦争・ナポレオン戦争などで活躍したイギリス海軍の提督ホレーショ・ネルソン(1758~1805)が滞在したことで知られている。現在も、シラクサでは最も優雅な宮殿として名高い。
そして、市庁舎の南隣で、ドゥオーモ広場の中心に「シラクサ(シラクーザ)大聖堂」が聳えている。ここは、紀元前5世紀に建設されたアテナ神殿があった場所で、現在の聖堂にも、当時の部材を多く使用している。現在のファサードは1753年に完成したが、20年の工事中断期間があったことから、後期バロック様式と、ロココ様式の2つの装飾様式が混在している。
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広場の南側にはシラクサのルチアに捧げられた「聖ルチア教会」(Chiesa di S. Lucia alla Badia)が建っている。現在の姿は、1693年の大地震の直後に建てられたもので、ファサードには、バロック様式とロココ様式が取り入れられている。中央入口のペディメントには、ルチアの殉教のシンボル(短剣)を表わした紋章が施され、両側にねじれた柱を配し、左右にスペイン王室の紋章が飾られている。上部には錬鉄の繊細な装飾手摺を備えたバルコニーがある。教会内には、バロック美術の礎を築いたカラヴァッジョ(1571~1610)の絵画「聖ルチアの埋葬」が飾られている。
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(2012.12.25)