前方に見える像は、11世紀後半、レコンキスタで活躍したカスティーリャ王国の英雄「エル シッド像」で、愛馬(バビエカ)にまたがり、剣(ティソーナ)を前方に突き出し戦場を駆け抜ける姿が表現されている。ここは、セゴビアから150キロメートル北に位置する、カスティーリャ イ レオン州ブルゴス県都ブルゴス(Burgos)の中心部で、騎馬像は市内の東西に流れるアルランソン川に架かる「サン パブロ橋」の右岸(北詰め)に、南方向を向いている。

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エル シッドは、本名をロドリーゴ ディアス デ ビバール(1045頃~1099)と言い、ブルゴスの北にある小さな町ビバールにカスティーリャ王国の軍人の子として生まれ、カスティーリャ王国サンチョ2世(1040~1072、在位:1065~1072)の下で活躍した。チャールトン ヘストン主演の映画「エル シド」(伊・米1961年)でも有名である。
先ほど、200メートルほど東のアルランソン通り沿いに面したホテル(シルケン グラン テアトロ、Silken Gran Teatro)でチャックインを済ませたところ。次に、エル シッド像の後方から西側の石畳の路地を60メートルほど進み、市民の憩いの場、マヨール広場(Plaza Mayor)に出て、広場の南側に見える時計のあるブルゴス市役所に向かう。

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その市役所の1階はアーケード型のロッジアで、通り抜けて右折すると、右側にレストランが並び、左側には、アルランソン川沿いに続く遊歩道が並行するエスポロン通り(歩行者専用)となる。正面に城壁門の一つ「サンタ マリア門」が見えてくるが、手前の右への通り先に、ライトアップされた「ブルゴス大聖堂」の南翼廊サルメンタル門(Puerta del Sarmental)(やや南東側)が見えたので右折して向かう。

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南翼廊の前は、50メートル四方ほどの「サン フェルナンド王広場」となっている。その広場から聖堂に沿って西側に周りこむと、30メートル四方ほどの「サンタ マリア広場」となり、中央にマリア噴水像が飾られている。

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南側を向いて建つマリア噴水像の背後には、高い位置にフェルナン ゴンサレス通りと、その通りに面した「バリの聖ニコラス教会」の身廊が見える。ちなみに、聖ニコラス教会の後方は、急な上り斜面の丘となり、頂部にはブルゴス城の遺構がある。
マリア像に向かって右側(西南向き)がブルゴス大聖堂のファサードになる。聖堂は正式名「サンタ マリア デ ブルゴス」といい、聖母マリアに捧げられた大聖堂で1984年、ユネスコにより世界遺産に登録された。スペイン・ゴシック様式の傑作で、トレド、セビリアに続く三大カテドラルの一つとされている。

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聖堂の建設は、1221年、カスティーリャ王(併レオン王)フェルナンド3世(在位:1217年~1252年)と、イングランド出身のブルゴス司教マウリシオの命で始まった。司教はフランスを旅した時に、盛んに建設されていたゴシック様式の聖堂を目にし、ブルゴスにも壮麗なゴシック聖堂を作りたいと思い立ったと言われている。 大聖堂は長きにわたり工事が続けられてきたが、建物の交差部分上部のランタン尖塔が完成した1567年に完成した。

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ポータルは13 世紀に建設(17~18世紀に再建)された3つの尖塔アーチと小像のある2つの小アーチから構成されている。 左右のティンパヌムには、受胎告知と聖母戴冠式の浮彫が施されている。その上の中央には、六芒星(ソロモンの紋章)のトレーサリーを備えた窓があり、その上に8つのアーチに、レオンのレオンのフェルナンド1世からフェルナンド3世まで、8人のカスティーリャ王の像が配置されている。
階段を上ったフェルナン ゴンサレス通りから聖堂を眺めると、ファサードの奥に交差部のランタン尖塔が見える。

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この時間、既に午後10時を過ぎている。昼食が重かったので、バルで軽く食べることにし、サン フェルナンド王広場に戻り、南東方向に延びる「パロマ通り(Calle Paloma)」に向かった。パロマ通りは、レストランやバル、ショップ、地元産の食材やお土産物店が並ぶ賑やかな通りである。

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タパスをいくつか頼み、飲む量も少なめにしてホテルに戻った。

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*************************************
翌朝、昨夜に続き「ブルゴス大聖堂」の見学に向かうこととし、ホテルの裏手にあるリベルタ広場の向かい側にあるリストランテ(Restaurante Polvorilla)で軽い朝食を食べる。そして、すぐ西側のエル シッド像の建つサンタンデール通りを渡り、マヨール広場に向かう。

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マヨール広場からは、昨夜通った市役所側ではなく、西側の路地を入り、先の交差路を左折したパロマ通りから「ブルゴス大聖堂」に向かう。

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パロマ通りは、昨夜とは異なり、通り沿いの店舗の大半はシャッターが下りている。右側に尖塔アーチに装飾鉄格子が施された回廊のある建物の外観を過ぎると、サン フェルナンド王広場に到着する。聖堂へはサン フェルナンド王広場の南翼廊サルメンタル門から入場する。中央のティンパヌム(タンパン)にはイエスの説教が、そして扉の中央にはマウリシオ司教が表現され、側面柱には、モーセ、アロン(モーセの兄)、聖ペテロ、使徒パウロなど6人の人物が刻まれている。

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南翼廊サルメンタル門に対する北翼廊は、フェルナン ゴンサレス通り沿いに面した「コロネリア門(Puerta del la Coroneria)」で、ロマネスクの伝統を引き継いだ素晴らしい浮彫(1250~1257)がある。フェルナン ゴンサレス通りは、サンティアゴ デ コンポステーラの巡礼路でもあり、巡礼者はコロネリア門から大聖堂を訪れることができたが、18世紀の改装工事以降から入退場することはできなくなっている。
サンティアゴ デ コンポステーラはスペイン北西部のガリシア州に位置する街で、聖ヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の遺骸がある地とされ、ローマ、エルサレムと並びキリスト教の三大巡礼地に数えられている。フランスの主要な4つの道を起点としてスペインのナバラ州からラ リオハ州、カスティーリャ イ レオン州の北部を西に横切って通過する巡礼路が続いている。
聖堂内は鉄柵で仕切られた一方通行になっている。南側廊から拝廊を回り込み北側廊を通り、交差部から内陣に向かう。途中々に15の礼拝堂がある。

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北側廊交差部手前には、細密彫刻で知られたスペインの天才彫刻家ヒル デ シロエ(Gil de Siloe、1440代~1501)による聖アンナ(Santa Ana)礼拝堂の木彫祭壇がある。聖ヨアキム、聖アンナを中心に、キリスト教の過去、現在、 未来が象徴される「エッサイの木」が2人を取り囲んで表現されている。

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交差部北側には、ヒル デ シロエの息子で建築家ディエゴ デ シロエ(Diego Siloe、1495~1563)作の「黄金の階段(Escalera Dorada)」がある。彼は多くの聖堂作品を手掛けているが、イタリア・ルネッサンスの影響を受け1523年に完成したこの階段が最高傑作と言われている。この階段を上りきった扉の向こうが、コロネリア門になる。中世の頃は今と違いこちらの門が入口として利用されていた。

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身廊にある中央祭壇は、ロマニズム(ローマ主義)様式のスペインの彫刻家ロドリゴ デ ラ ハヤ(1520~1577)が1562年に依頼を受け制作を始め、兄のマルティンによって完成している。祭壇はクルミ材を3段に別け彫刻が施され、黄金色で仕上げている。フランドル・ゴシック様式の銀色の聖母マリアを中心に聖母被昇天と聖母戴冠を主題としている。左右には、聖母の誕生、受胎告知、エリザベス訪問などのレリーフが縦に続き、柱間や頂部には使徒、伝道者、守護大天使、磔刑像などが表されている。

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交差部から天井を見上げると、8つの先端を持つプラテレスコ様式(スペイン・ルネッサンス建築様式)のリブが星形円蓋を形成している。緻密なデザインはレース編みの様に見える。

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そして交差部の足元には、縞大理石製の「エル シッドと妻ヒメーナの墓石」がある。エル シッドの主君は、カスティーリャ王サンチョ2世(在位:1065~1072)で、王は父王の死後、分割された王国を統一すべく戦いに明け暮れたが、達成直前に暗殺されている。犯人は、次弟のアルフォンソ6世と姉サモラのウラカ(2人は近親相姦の関係にあったとの噂がある)とされるが定かではない。カスティーリャ王アルフォンソ6世(在位:1072~1109)は、その後も、エル シッドに窮地を救われるが、次々と武勲を立てるエル シッドの武勲に民心が移ることを恐れてシッドを数度にわたり追放している。

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エル シッドは、アルフォンソ6世の所領からは遠い、バレンシアの征服に乗り出し、1094年にイスラム教徒から奪回し、妻ヒメーナを呼び寄せ、5年間に渡り統治を続けた。しかし死期が近づいたシッドは、死後も生きた当時の姿のまま台座に座り続けるが、数年後には領地をイスラム教徒に奪われてしまう。その後100年以上の間、キリスト教徒がバレンシアの地を奪還することはできなかった。
墓標の拝廊側にある鉄柵を抜けると、「聖歌隊席(クワイヤ)(103席(上段59席、下段44席))」が並んでいる。1506年、フェリペ ピガルニとアンドレス デ ナヘラによる制作で、クルミ材を使い聖書や聖人伝などが緻密に彫刻されている。そしてその中心には、聖堂の建造に尽力したブルゴス司教のマウリシオの墓が置かれている。

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再び北側廊に出て、後陣側に進むと周歩廊があり、礼拝堂が並んでいる。その周歩廊の中央部から更に先に、六角形の礼拝堂が直結している。天井には2か所のスクィンチのある八角形の丸天井で、中央に星形のステンドグラスと周囲に8か所にアーチ窓がある。こちらは、プラテレスコ様式の装飾が施された「元帥の礼拝堂(Capilla de Condestable)」で、スペインの建築家兼彫刻家ケルンのサイモン(シモン デ コロニア)(1450頃~1511)の設計により1482年から1496年に建設された。その後も、サイモンの息子のフランシスコ デ コロニア(1470頃~1542)により手が加えられている。彼は、トレドのサン フアン デ レイェス教会やセビリア大聖堂などにも携わっている。
黒と白の大理石を交互に配した階段の先には、黄金色の木祭壇の主催壇が飾られ、左右にも細長の木祭壇が飾られ、それぞれの祭壇間の壁面には、元帥の盾の浮彫装飾が施されている。これら木祭壇の制作には、ヒル デ シロエと息子のディエゴ デ シロエなどが携わっている。

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元帥とは、1492年レコンキスタ最後の戦いとなったグラナダ陥落において指揮を執ったカスティーリャ王国の総司令官「ベラスコ元帥」(ペドロ フェルナンデス デ ベラスコ)(1425~1492)のことで、彼を名誉を記念して、妻のメンシア デ メンドーサ(1421~1500)の依頼により作られた。妻はブルゴスの貴婦人で芸術家のパトロンでもあった。
礼拝堂の中央には、入口側を頭にして、ベラスコ元帥と妻のメンシアを刻んだカララ大理石の横臥像が安置されている。足の裏側には墓碑銘が刻まれており、2人の遺体は地下室に祀られている。

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中央祭壇は、キリストが聖母マリアと夫ヨセフによって神殿に連れて来られた際の「聖燭祭」を主題にしている。プレデッラには、聖母の生涯が表現されている。3つの祭壇の中では、一番最後に制作されたもので、ディエゴ デ シロエと、スペイン・ルネサンスの彫刻家フェリペ ビガルニー(Felipe Bigarny、1475頃~1542)による共同作品と言われている。

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中央祭壇の上部には、キリストの磔刑を主題にした場面が表現されている。

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中央祭壇に向かって左側には「聖ペテロの生涯」を主題にした祭壇画が飾られている。

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そしてその左の祭壇画の側面壁には、15世紀フランドルの画家ハンス メムリンク(1440頃~1494)を思わせる「聖母子像」の絵画が掲げられている。

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対して、中央祭壇に向かって右側には、ヒル デ シロエと息子のディエゴ デ シロエによるである「聖アンナ(聖母マリアの母)」を主題にした祭壇画があり、その側面壁には、見どころの一つ「マグダラのマリア」の絵画が掲げられている。レオナルド ダ ヴィンチの「最後の晩餐」の模写で知られる弟子のジョヴァンニ ピエトロ リッツォーリ(Giovanni Pietro Rizzoli)の作だが、ダビンチ本人の作品説もある。

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周歩廊の裾周りにも素晴らしい彫像が多く並んでいる。

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周歩廊の南側には「聖具室」がある。長方形の部屋で、天井は石膏細工で覆われた楕円形のドームで構成されている。聖母の戴冠式や受胎告知などの主題に周囲に多数の天使や音楽を奏でる天使たちが配された多色装飾となっている。18世紀にロココバロック様式で改装されたもの。

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周歩廊沿いの「聖具室」を見学した後、南側にある「回廊」を左回りで一周(パロマ通り沿い)して「元帥の礼拝堂」手前南隣まで戻った先にある出口から退出した。概ね50分ほどの見学を終え、マヨール広場まで戻り、次に北側に延びる「サン ロレンソ通り」(Calle de San Lorenzo)に向かった。

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サン ロレンソ通りにあるバルの一軒で食事をする。カウンター席と丸い小さなハイテーブル席が数席あるだけの狭い店内だったが、カウンターにあるショーケースに並んだタパスを指先で注文できるのが良かった。カウンター席に座り美味しく頂けた。食事後、ホテルに戻りブルゴスを後にした。

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(2008.9.21~22)


エル シッドは、本名をロドリーゴ ディアス デ ビバール(1045頃~1099)と言い、ブルゴスの北にある小さな町ビバールにカスティーリャ王国の軍人の子として生まれ、カスティーリャ王国サンチョ2世(1040~1072、在位:1065~1072)の下で活躍した。チャールトン ヘストン主演の映画「エル シド」(伊・米1961年)でも有名である。
先ほど、200メートルほど東のアルランソン通り沿いに面したホテル(シルケン グラン テアトロ、Silken Gran Teatro)でチャックインを済ませたところ。次に、エル シッド像の後方から西側の石畳の路地を60メートルほど進み、市民の憩いの場、マヨール広場(Plaza Mayor)に出て、広場の南側に見える時計のあるブルゴス市役所に向かう。


その市役所の1階はアーケード型のロッジアで、通り抜けて右折すると、右側にレストランが並び、左側には、アルランソン川沿いに続く遊歩道が並行するエスポロン通り(歩行者専用)となる。正面に城壁門の一つ「サンタ マリア門」が見えてくるが、手前の右への通り先に、ライトアップされた「ブルゴス大聖堂」の南翼廊サルメンタル門(Puerta del Sarmental)(やや南東側)が見えたので右折して向かう。


南翼廊の前は、50メートル四方ほどの「サン フェルナンド王広場」となっている。その広場から聖堂に沿って西側に周りこむと、30メートル四方ほどの「サンタ マリア広場」となり、中央にマリア噴水像が飾られている。


南側を向いて建つマリア噴水像の背後には、高い位置にフェルナン ゴンサレス通りと、その通りに面した「バリの聖ニコラス教会」の身廊が見える。ちなみに、聖ニコラス教会の後方は、急な上り斜面の丘となり、頂部にはブルゴス城の遺構がある。
マリア像に向かって右側(西南向き)がブルゴス大聖堂のファサードになる。聖堂は正式名「サンタ マリア デ ブルゴス」といい、聖母マリアに捧げられた大聖堂で1984年、ユネスコにより世界遺産に登録された。スペイン・ゴシック様式の傑作で、トレド、セビリアに続く三大カテドラルの一つとされている。


聖堂の建設は、1221年、カスティーリャ王(併レオン王)フェルナンド3世(在位:1217年~1252年)と、イングランド出身のブルゴス司教マウリシオの命で始まった。司教はフランスを旅した時に、盛んに建設されていたゴシック様式の聖堂を目にし、ブルゴスにも壮麗なゴシック聖堂を作りたいと思い立ったと言われている。 大聖堂は長きにわたり工事が続けられてきたが、建物の交差部分上部のランタン尖塔が完成した1567年に完成した。


ポータルは13 世紀に建設(17~18世紀に再建)された3つの尖塔アーチと小像のある2つの小アーチから構成されている。 左右のティンパヌムには、受胎告知と聖母戴冠式の浮彫が施されている。その上の中央には、六芒星(ソロモンの紋章)のトレーサリーを備えた窓があり、その上に8つのアーチに、レオンのレオンのフェルナンド1世からフェルナンド3世まで、8人のカスティーリャ王の像が配置されている。
階段を上ったフェルナン ゴンサレス通りから聖堂を眺めると、ファサードの奥に交差部のランタン尖塔が見える。


この時間、既に午後10時を過ぎている。昼食が重かったので、バルで軽く食べることにし、サン フェルナンド王広場に戻り、南東方向に延びる「パロマ通り(Calle Paloma)」に向かった。パロマ通りは、レストランやバル、ショップ、地元産の食材やお土産物店が並ぶ賑やかな通りである。


タパスをいくつか頼み、飲む量も少なめにしてホテルに戻った。


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翌朝、昨夜に続き「ブルゴス大聖堂」の見学に向かうこととし、ホテルの裏手にあるリベルタ広場の向かい側にあるリストランテ(Restaurante Polvorilla)で軽い朝食を食べる。そして、すぐ西側のエル シッド像の建つサンタンデール通りを渡り、マヨール広場に向かう。


マヨール広場からは、昨夜通った市役所側ではなく、西側の路地を入り、先の交差路を左折したパロマ通りから「ブルゴス大聖堂」に向かう。


パロマ通りは、昨夜とは異なり、通り沿いの店舗の大半はシャッターが下りている。右側に尖塔アーチに装飾鉄格子が施された回廊のある建物の外観を過ぎると、サン フェルナンド王広場に到着する。聖堂へはサン フェルナンド王広場の南翼廊サルメンタル門から入場する。中央のティンパヌム(タンパン)にはイエスの説教が、そして扉の中央にはマウリシオ司教が表現され、側面柱には、モーセ、アロン(モーセの兄)、聖ペテロ、使徒パウロなど6人の人物が刻まれている。


南翼廊サルメンタル門に対する北翼廊は、フェルナン ゴンサレス通り沿いに面した「コロネリア門(Puerta del la Coroneria)」で、ロマネスクの伝統を引き継いだ素晴らしい浮彫(1250~1257)がある。フェルナン ゴンサレス通りは、サンティアゴ デ コンポステーラの巡礼路でもあり、巡礼者はコロネリア門から大聖堂を訪れることができたが、18世紀の改装工事以降から入退場することはできなくなっている。
サンティアゴ デ コンポステーラはスペイン北西部のガリシア州に位置する街で、聖ヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の遺骸がある地とされ、ローマ、エルサレムと並びキリスト教の三大巡礼地に数えられている。フランスの主要な4つの道を起点としてスペインのナバラ州からラ リオハ州、カスティーリャ イ レオン州の北部を西に横切って通過する巡礼路が続いている。
聖堂内は鉄柵で仕切られた一方通行になっている。南側廊から拝廊を回り込み北側廊を通り、交差部から内陣に向かう。途中々に15の礼拝堂がある。


北側廊交差部手前には、細密彫刻で知られたスペインの天才彫刻家ヒル デ シロエ(Gil de Siloe、1440代~1501)による聖アンナ(Santa Ana)礼拝堂の木彫祭壇がある。聖ヨアキム、聖アンナを中心に、キリスト教の過去、現在、 未来が象徴される「エッサイの木」が2人を取り囲んで表現されている。


交差部北側には、ヒル デ シロエの息子で建築家ディエゴ デ シロエ(Diego Siloe、1495~1563)作の「黄金の階段(Escalera Dorada)」がある。彼は多くの聖堂作品を手掛けているが、イタリア・ルネッサンスの影響を受け1523年に完成したこの階段が最高傑作と言われている。この階段を上りきった扉の向こうが、コロネリア門になる。中世の頃は今と違いこちらの門が入口として利用されていた。


身廊にある中央祭壇は、ロマニズム(ローマ主義)様式のスペインの彫刻家ロドリゴ デ ラ ハヤ(1520~1577)が1562年に依頼を受け制作を始め、兄のマルティンによって完成している。祭壇はクルミ材を3段に別け彫刻が施され、黄金色で仕上げている。フランドル・ゴシック様式の銀色の聖母マリアを中心に聖母被昇天と聖母戴冠を主題としている。左右には、聖母の誕生、受胎告知、エリザベス訪問などのレリーフが縦に続き、柱間や頂部には使徒、伝道者、守護大天使、磔刑像などが表されている。


交差部から天井を見上げると、8つの先端を持つプラテレスコ様式(スペイン・ルネッサンス建築様式)のリブが星形円蓋を形成している。緻密なデザインはレース編みの様に見える。


そして交差部の足元には、縞大理石製の「エル シッドと妻ヒメーナの墓石」がある。エル シッドの主君は、カスティーリャ王サンチョ2世(在位:1065~1072)で、王は父王の死後、分割された王国を統一すべく戦いに明け暮れたが、達成直前に暗殺されている。犯人は、次弟のアルフォンソ6世と姉サモラのウラカ(2人は近親相姦の関係にあったとの噂がある)とされるが定かではない。カスティーリャ王アルフォンソ6世(在位:1072~1109)は、その後も、エル シッドに窮地を救われるが、次々と武勲を立てるエル シッドの武勲に民心が移ることを恐れてシッドを数度にわたり追放している。


エル シッドは、アルフォンソ6世の所領からは遠い、バレンシアの征服に乗り出し、1094年にイスラム教徒から奪回し、妻ヒメーナを呼び寄せ、5年間に渡り統治を続けた。しかし死期が近づいたシッドは、死後も生きた当時の姿のまま台座に座り続けるが、数年後には領地をイスラム教徒に奪われてしまう。その後100年以上の間、キリスト教徒がバレンシアの地を奪還することはできなかった。
墓標の拝廊側にある鉄柵を抜けると、「聖歌隊席(クワイヤ)(103席(上段59席、下段44席))」が並んでいる。1506年、フェリペ ピガルニとアンドレス デ ナヘラによる制作で、クルミ材を使い聖書や聖人伝などが緻密に彫刻されている。そしてその中心には、聖堂の建造に尽力したブルゴス司教のマウリシオの墓が置かれている。


再び北側廊に出て、後陣側に進むと周歩廊があり、礼拝堂が並んでいる。その周歩廊の中央部から更に先に、六角形の礼拝堂が直結している。天井には2か所のスクィンチのある八角形の丸天井で、中央に星形のステンドグラスと周囲に8か所にアーチ窓がある。こちらは、プラテレスコ様式の装飾が施された「元帥の礼拝堂(Capilla de Condestable)」で、スペインの建築家兼彫刻家ケルンのサイモン(シモン デ コロニア)(1450頃~1511)の設計により1482年から1496年に建設された。その後も、サイモンの息子のフランシスコ デ コロニア(1470頃~1542)により手が加えられている。彼は、トレドのサン フアン デ レイェス教会やセビリア大聖堂などにも携わっている。
黒と白の大理石を交互に配した階段の先には、黄金色の木祭壇の主催壇が飾られ、左右にも細長の木祭壇が飾られ、それぞれの祭壇間の壁面には、元帥の盾の浮彫装飾が施されている。これら木祭壇の制作には、ヒル デ シロエと息子のディエゴ デ シロエなどが携わっている。


元帥とは、1492年レコンキスタ最後の戦いとなったグラナダ陥落において指揮を執ったカスティーリャ王国の総司令官「ベラスコ元帥」(ペドロ フェルナンデス デ ベラスコ)(1425~1492)のことで、彼を名誉を記念して、妻のメンシア デ メンドーサ(1421~1500)の依頼により作られた。妻はブルゴスの貴婦人で芸術家のパトロンでもあった。
礼拝堂の中央には、入口側を頭にして、ベラスコ元帥と妻のメンシアを刻んだカララ大理石の横臥像が安置されている。足の裏側には墓碑銘が刻まれており、2人の遺体は地下室に祀られている。


中央祭壇は、キリストが聖母マリアと夫ヨセフによって神殿に連れて来られた際の「聖燭祭」を主題にしている。プレデッラには、聖母の生涯が表現されている。3つの祭壇の中では、一番最後に制作されたもので、ディエゴ デ シロエと、スペイン・ルネサンスの彫刻家フェリペ ビガルニー(Felipe Bigarny、1475頃~1542)による共同作品と言われている。


中央祭壇の上部には、キリストの磔刑を主題にした場面が表現されている。


中央祭壇に向かって左側には「聖ペテロの生涯」を主題にした祭壇画が飾られている。


そしてその左の祭壇画の側面壁には、15世紀フランドルの画家ハンス メムリンク(1440頃~1494)を思わせる「聖母子像」の絵画が掲げられている。


対して、中央祭壇に向かって右側には、ヒル デ シロエと息子のディエゴ デ シロエによるである「聖アンナ(聖母マリアの母)」を主題にした祭壇画があり、その側面壁には、見どころの一つ「マグダラのマリア」の絵画が掲げられている。レオナルド ダ ヴィンチの「最後の晩餐」の模写で知られる弟子のジョヴァンニ ピエトロ リッツォーリ(Giovanni Pietro Rizzoli)の作だが、ダビンチ本人の作品説もある。


周歩廊の裾周りにも素晴らしい彫像が多く並んでいる。


周歩廊の南側には「聖具室」がある。長方形の部屋で、天井は石膏細工で覆われた楕円形のドームで構成されている。聖母の戴冠式や受胎告知などの主題に周囲に多数の天使や音楽を奏でる天使たちが配された多色装飾となっている。18世紀にロココバロック様式で改装されたもの。


周歩廊沿いの「聖具室」を見学した後、南側にある「回廊」を左回りで一周(パロマ通り沿い)して「元帥の礼拝堂」手前南隣まで戻った先にある出口から退出した。概ね50分ほどの見学を終え、マヨール広場まで戻り、次に北側に延びる「サン ロレンソ通り」(Calle de San Lorenzo)に向かった。


サン ロレンソ通りにあるバルの一軒で食事をする。カウンター席と丸い小さなハイテーブル席が数席あるだけの狭い店内だったが、カウンターにあるショーケースに並んだタパスを指先で注文できるのが良かった。カウンター席に座り美味しく頂けた。食事後、ホテルに戻りブルゴスを後にした。


(2008.9.21~22)