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カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

スペイン・カスティーリャ イ レオン(その2)

2013-03-01 | スペイン(バスク)
前方に見える像は、11世紀後半、レコンキスタで活躍したカスティーリャ王国の英雄「エル シッド像」で、愛馬(バビエカ)にまたがり、剣(ティソーナ)を前方に突き出し戦場を駆け抜ける姿が表現されている。ここは、セゴビアから150キロメートル北に位置する、カスティーリャ イ レオン州ブルゴス県都ブルゴス(Burgos)の中心部で、騎馬像は市内の東西に流れるアルランソン川に架かる「サン パブロ橋」の右岸(北詰め)に、南方向を向いている。
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エル シッドは、本名をロドリーゴ ディアス デ ビバール(1045頃~1099)と言い、ブルゴスの北にある小さな町ビバールにカスティーリャ王国の軍人の子として生まれ、カスティーリャ王国サンチョ2世(1040~1072、在位:1065~1072)の下で活躍した。チャールトン ヘストン主演の映画「エル シド」(伊・米1961年)でも有名である。

先ほど、200メートルほど東のアルランソン通り沿いに面したホテル(シルケン グラン テアトロ、Silken Gran Teatro)でチャックインを済ませたところ。次に、エル シッド像の後方から西側の石畳の路地を60メートルほど進み、市民の憩いの場、マヨール広場(Plaza Mayor)に出て、広場の南側に見える時計のあるブルゴス市役所に向かう。
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その市役所の1階はアーケード型のロッジアで、通り抜けて右折すると、右側にレストランが並び、左側には、アルランソン川沿いに続く遊歩道が並行するエスポロン通り(歩行者専用)となる。正面に城壁門の一つ「サンタ マリア門」が見えてくるが、手前の右への通り先に、ライトアップされた「ブルゴス大聖堂」の南翼廊サルメンタル門(Puerta del Sarmental)(やや南東側)が見えたので右折して向かう。
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南翼廊の前は、50メートル四方ほどの「サン フェルナンド王広場」となっている。その広場から聖堂に沿って西側に周りこむと、30メートル四方ほどの「サンタ マリア広場」となり、中央にマリア噴水像が飾られている。
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南側を向いて建つマリア噴水像の背後には、高い位置にフェルナン ゴンサレス通りと、その通りに面した「バリの聖ニコラス教会」の身廊が見える。ちなみに、聖ニコラス教会の後方は、急な上り斜面の丘となり、頂部にはブルゴス城の遺構がある。

マリア像に向かって右側(西南向き)がブルゴス大聖堂のファサードになる。聖堂は正式名「サンタ マリア デ ブルゴス」といい、聖母マリアに捧げられた大聖堂で1984年、ユネスコにより世界遺産に登録された。スペイン・ゴシック様式の傑作で、トレド、セビリアに続く三大カテドラルの一つとされている。
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聖堂の建設は、1221年、カスティーリャ王(併レオン王)フェルナンド3世(在位:1217年~1252年)と、イングランド出身のブルゴス司教マウリシオの命で始まった。司教はフランスを旅した時に、盛んに建設されていたゴシック様式の聖堂を目にし、ブルゴスにも壮麗なゴシック聖堂を作りたいと思い立ったと言われている。 大聖堂は長きにわたり工事が続けられてきたが、建物の交差部分上部のランタン尖塔が完成した1567年に完成した。
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ポータルは13 世紀に建設(17~18世紀に再建)された3つの尖塔アーチと小像のある2つの小アーチから構成されている。 左右のティンパヌムには、受胎告知と聖母戴冠式の浮彫が施されている。その上の中央には、六芒星(ソロモンの紋章)のトレーサリーを備えた窓があり、その上に8つのアーチに、レオンのレオンのフェルナンド1世からフェルナンド3世まで、8人のカスティーリャ王の像が配置されている。

階段を上ったフェルナン ゴンサレス通りから聖堂を眺めると、ファサードの奥に交差部のランタン尖塔が見える。
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この時間、既に午後10時を過ぎている。昼食が重かったので、バルで軽く食べることにし、サン フェルナンド王広場に戻り、南東方向に延びる「パロマ通り(Calle Paloma)」に向かった。パロマ通りは、レストランやバル、ショップ、地元産の食材やお土産物店が並ぶ賑やかな通りである。
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タパスをいくつか頼み、飲む量も少なめにしてホテルに戻った。
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翌朝、昨夜に続き「ブルゴス大聖堂」の見学に向かうこととし、ホテルの裏手にあるリベルタ広場の向かい側にあるリストランテ(Restaurante Polvorilla)で軽い朝食を食べる。そして、すぐ西側のエル シッド像の建つサンタンデール通りを渡り、マヨール広場に向かう。
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マヨール広場からは、昨夜通った市役所側ではなく、西側の路地を入り、先の交差路を左折したパロマ通りから「ブルゴス大聖堂」に向かう。
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パロマ通りは、昨夜とは異なり、通り沿いの店舗の大半はシャッターが下りている。右側に尖塔アーチに装飾鉄格子が施された回廊のある建物の外観を過ぎると、サン フェルナンド王広場に到着する。聖堂へはサン フェルナンド王広場の南翼廊サルメンタル門から入場する。中央のティンパヌム(タンパン)にはイエスの説教が、そして扉の中央にはマウリシオ司教が表現され、側面柱には、モーセ、アロン(モーセの兄)、聖ペテロ、使徒パウロなど6人の人物が刻まれている。
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南翼廊サルメンタル門に対する北翼廊は、フェルナン ゴンサレス通り沿いに面した「コロネリア門(Puerta del la Coroneria)」で、ロマネスクの伝統を引き継いだ素晴らしい浮彫(1250~1257)がある。フェルナン ゴンサレス通りは、サンティアゴ デ コンポステーラの巡礼路でもあり、巡礼者はコロネリア門から大聖堂を訪れることができたが、18世紀の改装工事以降から入退場することはできなくなっている。

サンティアゴ デ コンポステーラはスペイン北西部のガリシア州に位置する街で、聖ヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の遺骸がある地とされ、ローマ、エルサレムと並びキリスト教の三大巡礼地に数えられている。フランスの主要な4つの道を起点としてスペインのナバラ州からラ リオハ州、カスティーリャ イ レオン州の北部を西に横切って通過する巡礼路が続いている。

聖堂内は鉄柵で仕切られた一方通行になっている。南側廊から拝廊を回り込み北側廊を通り、交差部から内陣に向かう。途中々に15の礼拝堂がある。
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北側廊交差部手前には、細密彫刻で知られたスペインの天才彫刻家ヒル デ シロエ(Gil de Siloe、1440代~1501)による聖アンナ(Santa Ana)礼拝堂の木彫祭壇がある。聖ヨアキム、聖アンナを中心に、キリスト教の過去、現在、 未来が象徴される「エッサイの木」が2人を取り囲んで表現されている。
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交差部北側には、ヒル デ シロエの息子で建築家ディエゴ デ シロエ(Diego Siloe、1495~1563)作の「黄金の階段(Escalera Dorada)」がある。彼は多くの聖堂作品を手掛けているが、イタリア・ルネッサンスの影響を受け1523年に完成したこの階段が最高傑作と言われている。この階段を上りきった扉の向こうが、コロネリア門になる。中世の頃は今と違いこちらの門が入口として利用されていた。
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身廊にある中央祭壇は、ロマニズム(ローマ主義)様式のスペインの彫刻家ロドリゴ デ ラ ハヤ(1520~1577)が1562年に依頼を受け制作を始め、兄のマルティンによって完成している。祭壇はクルミ材を3段に別け彫刻が施され、黄金色で仕上げている。フランドル・ゴシック様式の銀色の聖母マリアを中心に聖母被昇天と聖母戴冠を主題としている。左右には、聖母の誕生、受胎告知、エリザベス訪問などのレリーフが縦に続き、柱間や頂部には使徒、伝道者、守護大天使、磔刑像などが表されている。
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交差部から天井を見上げると、8つの先端を持つプラテレスコ様式(スペイン・ルネッサンス建築様式)のリブが星形円蓋を形成している。緻密なデザインはレース編みの様に見える。
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そして交差部の足元には、縞大理石製の「エル シッドと妻ヒメーナの墓石」がある。エル シッドの主君は、カスティーリャ王サンチョ2世(在位:1065~1072)で、王は父王の死後、分割された王国を統一すべく戦いに明け暮れたが、達成直前に暗殺されている。犯人は、次弟のアルフォンソ6世と姉サモラのウラカ(2人は近親相姦の関係にあったとの噂がある)とされるが定かではない。カスティーリャ王アルフォンソ6世(在位:1072~1109)は、その後も、エル シッドに窮地を救われるが、次々と武勲を立てるエル シッドの武勲に民心が移ることを恐れてシッドを数度にわたり追放している。
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エル シッドは、アルフォンソ6世の所領からは遠い、バレンシアの征服に乗り出し、1094年にイスラム教徒から奪回し、妻ヒメーナを呼び寄せ、5年間に渡り統治を続けた。しかし死期が近づいたシッドは、死後も生きた当時の姿のまま台座に座り続けるが、数年後には領地をイスラム教徒に奪われてしまう。その後100年以上の間、キリスト教徒がバレンシアの地を奪還することはできなかった。

墓標の拝廊側にある鉄柵を抜けると、「聖歌隊席(クワイヤ)(103席(上段59席、下段44席))」が並んでいる。1506年、フェリペ ピガルニとアンドレス デ ナヘラによる制作で、クルミ材を使い聖書や聖人伝などが緻密に彫刻されている。そしてその中心には、聖堂の建造に尽力したブルゴス司教のマウリシオの墓が置かれている。
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再び北側廊に出て、後陣側に進むと周歩廊があり、礼拝堂が並んでいる。その周歩廊の中央部から更に先に、六角形の礼拝堂が直結している。天井には2か所のスクィンチのある八角形の丸天井で、中央に星形のステンドグラスと周囲に8か所にアーチ窓がある。こちらは、プラテレスコ様式の装飾が施された「元帥の礼拝堂(Capilla de Condestable)」で、スペインの建築家兼彫刻家ケルンのサイモン(シモン デ コロニア)(1450頃~1511)の設計により1482年から1496年に建設された。その後も、サイモンの息子のフランシスコ デ コロニア(1470頃~1542)により手が加えられている。彼は、トレドのサン フアン デ レイェス教会やセビリア大聖堂などにも携わっている。

黒と白の大理石を交互に配した階段の先には、黄金色の木祭壇の主催壇が飾られ、左右にも細長の木祭壇が飾られ、それぞれの祭壇間の壁面には、元帥の盾の浮彫装飾が施されている。これら木祭壇の制作には、ヒル デ シロエと息子のディエゴ デ シロエなどが携わっている。
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元帥とは、1492年レコンキスタ最後の戦いとなったグラナダ陥落において指揮を執ったカスティーリャ王国の総司令官「ベラスコ元帥」(ペドロ フェルナンデス デ ベラスコ)(1425~1492)のことで、彼を名誉を記念して、妻のメンシア デ メンドーサ(1421~1500)の依頼により作られた。妻はブルゴスの貴婦人で芸術家のパトロンでもあった。

礼拝堂の中央には、入口側を頭にして、ベラスコ元帥と妻のメンシアを刻んだカララ大理石の横臥像が安置されている。足の裏側には墓碑銘が刻まれており、2人の遺体は地下室に祀られている。
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中央祭壇は、キリストが聖母マリアと夫ヨセフによって神殿に連れて来られた際の「聖燭祭」を主題にしている。プレデッラには、聖母の生涯が表現されている。3つの祭壇の中では、一番最後に制作されたもので、ディエゴ デ シロエと、スペイン・ルネサンスの彫刻家フェリペ ビガルニー(Felipe Bigarny、1475頃~1542)による共同作品と言われている。
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中央祭壇の上部には、キリストの磔刑を主題にした場面が表現されている。
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中央祭壇に向かって左側には「聖ペテロの生涯」を主題にした祭壇画が飾られている。
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そしてその左の祭壇画の側面壁には、15世紀フランドルの画家ハンス メムリンク(1440頃~1494)を思わせる「聖母子像」の絵画が掲げられている。
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対して、中央祭壇に向かって右側には、ヒル デ シロエと息子のディエゴ デ シロエによるである「聖アンナ(聖母マリアの母)」を主題にした祭壇画があり、その側面壁には、見どころの一つ「マグダラのマリア」の絵画が掲げられている。レオナルド ダ ヴィンチの「最後の晩餐」の模写で知られる弟子のジョヴァンニ ピエトロ リッツォーリ(Giovanni Pietro Rizzoli)の作だが、ダビンチ本人の作品説もある。
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周歩廊の裾周りにも素晴らしい彫像が多く並んでいる。
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周歩廊の南側には「聖具室」がある。長方形の部屋で、天井は石膏細工で覆われた楕円形のドームで構成されている。聖母の戴冠式や受胎告知などの主題に周囲に多数の天使や音楽を奏でる天使たちが配された多色装飾となっている。18世紀にロココバロック様式で改装されたもの。
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周歩廊沿いの「聖具室」を見学した後、南側にある「回廊」を左回りで一周(パロマ通り沿い)して「元帥の礼拝堂」手前南隣まで戻った先にある出口から退出した。概ね50分ほどの見学を終え、マヨール広場まで戻り、次に北側に延びる「サン ロレンソ通り」(Calle de San Lorenzo)に向かった。
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サン ロレンソ通りにあるバルの一軒で食事をする。カウンター席と丸い小さなハイテーブル席が数席あるだけの狭い店内だったが、カウンターにあるショーケースに並んだタパスを指先で注文できるのが良かった。カウンター席に座り美味しく頂けた。食事後、ホテルに戻りブルゴスを後にした。
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(2008.9.21~22)
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スペイン・カスティーリャ イ レオン(その1)

2013-03-01 | スペイン(バスク)
スペイン・セゴビア(Segovia)から、約8キロメートル北東に位置するティスネロス(Tizneros)村のホテル(Casa Rural Alqueria)で、朝を迎えた。窓からは眩しいスペインの大地が広がっている。昨夜は、マドリード国際空港(アドルフォ スアレス マドリード=バラハス空港)から高速道路 (A-6)に乗り、セゴビア方面行の高速道路(AP-61)を経由して、北に約110キロメートル離れたこちらティスネロスに深夜到着している。


現在、朝の8時。ホテルのオーナー夫婦から、昨夜は到着が遅かったため、ゆっくり朝食をしてはどうかと勧められたが、今日のスケジュールを考え丁重にお断りし、急ぎセゴビアに向けて出発する。


セゴビアは、カスティーリャ イ レオン州セゴビア県の県都で、ユネスコの世界遺産「セゴビア旧市街と水道橋」として登録(1985年)されるなど、歴史的な見どころが多い。マドリードから日帰り(鉄道で2時間)で行けることからも、人気の観光スポットとなっている。

目的地のセゴビア旧市街は、東西1キロメートル、南北500メートルの岩山の上に広がっている。まずは、岩山の北東側から、北麓沿いを西に向けて走る「サント ドミンゴ デ グスマン通り」に入り、ラウンドアバウトから、標識「Casco Historico」(旧市街)に従い、左前方の石畳の坂道を上る。すぐに現れる城門をくぐり、道なりに大きく左に回り込みながら上っていくと、前方に「聖エステバン教会」の広場となり、駐車場がある。

聖エステバン教会(Segovia Iglesia de San Esteban)は、12世紀創建のロマネスク教会で、ファサードがある南側には、10のアーチが続くポルチコを形成している。そのアーチを支える二重の円柱の柱頭には細かい浮彫が施されている。
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ファサードに向かって右隣には、イベリア半島では、最も高い(56メートル)ロマネスク様式の鐘楼と言われた「塔の女王」が聳えている。身廊の屋根を過ぎた高さから四角柱の四隅の角を落とし円柱が取り付けられ、側面には、頂部にかけて2連の浮彫アーチが2層、2連のアーチ窓が2層、最上部の3連のアーチ窓と続き、それぞれのアーチは、複数の側柱が支える弧帯と、大変手の込んだ造りとなっている。
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ここからは、歩いて旧市街を観光する。最初に、ファサード前の広場から、狭い「エスクデロス通り」を南東に100メートルほど歩くと、長方形の敷地を持つ「マヨール広場」に到着する。このあたりが、旧市街の中心で、広場の周辺には、セゴビア大聖堂、市庁舎、ファン ブラボー劇場、サンミゲル教会などの重要な建物や、コーヒーショップ、ホテル、ブティックなどの店舗も立ち並んでいる。

正面(西南側)に見える教会が「セゴビア大聖堂」(Catedral de Segovia)(カテドラル)で、ドレスを広げた形から「カテドラルの貴婦人」との愛称で呼ばれている。この聖堂は1525年~1577年にかけて後期ゴシック様式で建造された。多くの小さな尖塔が建っているのが印象的な聖堂である。
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聖堂に向かって右側の2棟のバルコニーの建物の間が、聖エステバン教会からのエスクデロス通りで、その先隣りの聖堂沿いに延びる「マルケス デル アルコ通り」を北西方面に向けて歩くと、北袖廊(やや北東向き)があり、側廊沿いにも多くの尖塔が確認できる。もともとはロマネスク様式の聖堂だったが、当時の回廊、洗礼盤、ステンドグラス等の部材を再利用して現在のゴシック様式の聖堂が建てられた。
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マルケス デル アルコ通りは、緩やかな下り坂で、聖堂は丘の斜面に建てられていることが分かる。ファサード前(やや北西向き)の広場へは、通りから階段を上った先となるが、鉄扉と塀で囲まれており、開場時間外は立ち入ることができない。広場の向かい側に回り込み、塀の外から眺めるファサードは、見上げる位置にあり、かなりの高低差を感じる。ファサードに向かって右隣には約90メートルに達する石造りの尖塔が聳えているが、こちらは雷雨で破壊した後の1614年に再建されたもの。
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マルケス デル アルコ通りを下って行くと、左側に「ラ メルセー広場」(公園)があり、その先隣に「サン アンドレス教会」が建っている。ムデハル様式(イスラム建築様式とキリスト建築様式が融合したスペインの建築様式)の鐘楼を持つ12世紀のロマネスク教会である。
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サンアンドレス教会の後陣横から、ダイオス通りとなり、更に狭い下り坂になっていく。


更に200メートルほど歩くと、駐車場があり、その先の「レイナ ビクトリア エウヘニア広場」への入口門に到着する。遊歩道に囲まれた美しい楕円状の公園で、中央にはスペイン独立戦争の英雄記念碑がある。広場の先に「アルカサル」(セゴビア城)が見えてくる。
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右側(北側)は、眺めの良い景色が広がっている。手前の東西に延びる通りとの間にエレスマ川が流れており、このことで、周囲が侵食され、段丘崖となり、岩山は天然の要塞となった。川と段丘面となる岩山上までの高低差は100メートルある。


アルカサルは、岩山にあるセゴビア旧市街の西端に位置しており、古くはケルト人の居城があったが、紀元前1世紀に、ローマ帝国がセゴビアの地を占領し、岩山全体を城壁都市として整備した。その後、キリスト教国の西ゴート王国が収めていたイベリア半島は、8世紀初頭、イスラム教勢力の侵略によりほぼ全域が支配され、このアルカサルの基礎もイスラム教徒のウマイア朝により築かれた。

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半島北端と北東部のピレネー山脈の山麓周辺に追いつめられていたキリスト教勢力は、1035年に建国したカスティーリャ・レオン王国フェルナンド1世(在位:1037~1065)により、イベリア半島の再征服活動(レコンキスタ)を推進する。そして1083年、セゴビアの地は、カスティーリャ王アルフォンソ6世(在位:1072~1109)により奪回される。アルカサルは、カスティーリャ王アルフォンソ8世(在位:1158~1214)治世時に改築され、城砦を築くなど、カスティーリャ王国歴代君主のお気に入り居城の一つとなっていく。その後も増改築が繰り返され、王国防御のための重要な要塞としての役割を担っていった。

なお、ディズニーは、白雪姫を映像化する際、アルカサル城をモデルにしたと言われている。

正面の長方体の建物は「フアン2世の塔(Torre de JuanII)」と呼ばれる15世紀にゴシック様式で建てられたもの。フアン2世は、カスティーリャ王フアン2世(在位:1406~1454)のことで、エンリケ4世(不能王)とイサベル1世の父にあたる。下から2層目にある、2連のアーチ窓は、王の全身を外から見ることができる様に作られた。屋上に直接上ることができる156 段の急な螺旋階段が2つ設置されている。王宮がマドリードに移った後は、2世紀以上にわたり牢獄として使われ、窓には格子柵が残されている。
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ここで、ウィキメディアの画像を借り、セゴビア旧市街を俯瞰してみる。右端の6層の鐘楼の聖エステバン教会前を見学後、中央やや左の「セゴビア大聖堂」(カテドラル)手前を経由して、先端(奥に見える)のアルカサルに到着したことが一目で確認できる。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

では、フアン2世の塔の右下にある入口門先の吊り橋を渡って入場する。吊り橋から右側を覗き込むと深い谷底となっており、緊急時には吊り橋を壊して敵の進入を防ぐ仕組みとなっていた。また秘密の地下通路があるとされ、現在も残されているとのこと。城は、1862年に発生した火事により大部分が焼失したが、その後修復され、現在は博物館として公開されている。


最初の展示会場は「旧王宮の間(The Old Castle Hall)」で、馬にも甲冑をつけた騎馬像が置かれている。15世紀のものだが、甲冑の表面は良く磨かれ輝いている。
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中庭には、スペイン王、カルロス1世の息子、フェリペ2世(在位:1556~1598)の肖像が飾られている。彼は、スペイン黄金最盛期に君臨した王で、絶対主義の代表的君主の一人とされている。
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こちらは、「暖炉の間(The Fireplace Hall)」と言い、1862年の火事で部屋の大部分は消失してしまったが、調度品は16世紀のものが残されている。壁にはフェリペ2世の肖像画と、フェリペ2世の末子のフェリペ3世の胸像画が飾られている。
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暖炉の上には、16 世紀のフランドル製タペストリーが飾られており、聖母マリアの結婚が描かれている。
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こちらはカスティーリャ王エンリケ4世(在位:1454~1474)の命により造られた「王座の間(The Throne Hall)」で、中央には、TANTO MONTA(イサベル、フェルナンド両王は相等しい権限を持つ)と書かれた天蓋付の玉座が飾られている。また、1570年にはスペイン王フェリペ2世がオーストリア・ハプスブルク家のアナ デ アウストリアとこの部屋で結婚式を挙げている。
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こちらの部屋を入ると左右に甲冑の騎士像が置かれている。甲冑は指先の関節に至るまで細かく組み合わされ作られており、一体一体の制作に掛けた労力と技術の粋が覗える。
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この部屋はガレー船の船底形状を模した天井に因んで「ガレー船の間」と呼ばれている。黄金色で覆われたムデハル様式の幾何学文様装飾が何とも豪華な天井だ。エンリケ3世(病弱王)(在位:1390年~1406年)の王妃カタリナ デ ランカステルの命により造られた。
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壁画には、カスティーリャ王国の女王イサベル1世の戴冠式の様子が描かれている。
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1212年、カスティーリャ王国を中心としたキリスト教勢力とムワッヒド朝イスラム勢力との「ナバス デ トロサの戦い」でキリスト教勢力が大勝した後、大きく形勢は逆転し、それ以後、イスラム教勢力は後退を重ねていくこととなる。レコンキスタの達成にはグラナダ王国のナスル朝の打倒を残すのみとなった。

その後、アンダルシア地方も併合したカスティーリャ王国は、1469年に、王女イサベルとアラゴン王国の太子フェルナンド(後のフェルディナンド5世)と結婚を経て、より強固なものとする。そして、1474年、異母兄エンリケ4世の訃報を聞いたイサベル1世は、2日後、マヨール広場にあったサン ミゲル教会でカスティーリャ王国の女王として即位した。
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1479年、フェルナンドがアラゴン王に即位すると同時に両国は統合されスペイン王国となった。これにより、イサベル1世はフェルディナンド5世と共同統治しカトリック両王となるのである。

カスティーリャ王国は、アラゴン王国との対立が解消されたことを受けてイスラム教勢力のナスル朝に対する攻勢を強めた。そして1492年、ナスル朝の都グラナダが陥落し、キリスト教国の念願であったレコンキスタは遂に達成したのである。

折しも、この時代、大航海時代を迎えており、同年、イサベル1世はジェノヴァ人、コロンブスを支援して、スペイン王国のアメリカ大陸進出の第一歩が始まった。

ステンドグラスは、セゴビアの現代作家カルロス ムニョス パブロスによるもので、病弱王と呼ばれたエンリケ3世(在位:1390年~1406年)が描かれている。
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こちらは「諸王の間(The Hall of Monarchs)」言い、8世紀から16世紀までの歴代のスペイン国王(アストゥリアス王国、カスティーリャ王国 、レオン王国)のレリーフが飾られている。天井は黄金で縁どられた六角形とひし形を組み合わせた豪華な作りとなっている。
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窓からは、レイナ ビクトリア エウヘニア広場からも見えた「ラ ベラ クルス教会(Iglesia de la Vera Cruz)」が良く見える。十二角形の中央核(エルサレム墳墓教会が基本形とされる)の身廊を持つ珍しいロマネスク様式の建物である。1208年ロマネスク終期の建造で、騎士修道会(テンプル騎士団)のお墓を目的として建設された。ファサード右側の鐘楼とその右奥の3つの放射状後陣などは、後年ゴシック様式で建てられたもの。
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伝説によると、テンプル騎士団への入会儀式の場所であったとされる。教会内の2階で甲冑と刀剣を帯びた後、1階に降りて何度も懺悔して初めて入会が許されるという。荒野の中に佇む風景も手伝ってなんとも神秘的な気分になる。

こちらは礼拝堂(Capilla)で、フェリペ2世とアナ デ アウストリア王妃の婚礼ミサが挙げられた。
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この天井もムデハル様式の嵌め木細工。主祭壇はパルトロメ カルドゥチョの東方三賢者の礼拝(1600年)が飾られている。
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この部屋には、大砲や甲冑が展示されている。ところで、全身を覆う金属板で構成された甲冑をプレートアーマーと呼ぶ。中世ヨーロッパにおいては、チェインメイル(鎖帷子)が主流だったが、十字軍以降、異教徒との戦いは、より過酷なものとなり、より防御力を追求した装備の必要性に迫られていた。キリスト教徒同士の戦闘であれば、クロスボウなどの兵器を使わず、命を奪わず捕虜にするなどの約束事もあったが、異教徒との戦闘ではそうはいかず、自らの命を守るためにより安全な甲冑が求められたのである。
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14世紀頃は鎖帷子と板金を重ね着ぎしていたが、15世紀頃に板金でほぼ全身を覆うプレートアーマーが完成する。全ての装備を着用すると、最低でも20kg以上の重量になったが、十分に着て戦えるバランス配分はなされていたようだ。しかし、一番の問題は、全身を覆うことから来る通気性の悪さにあったようで、戦闘中に鎧の下の衣服を調節する訳にも行かないため、暑さ、寒さという点でかなり体力を削るものであったらしい。

「時計のパティオ(中庭)」名付けられた中庭に出て、壁面上部を見上げると日時計が設置されている。
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2時間近く見学していたようだ。再びマヨール広場に向かう。朝と異なり、多くのお店が開いて観光客が買い物をしている。


マヨール広場に戻った。お昼時間になり、多くのテーブルが並べられている。
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お腹が空いてきたが、昼食は新市街でセゴビアの名物料理「コチニージョ アサド(子豚の丸焼き)」を食べることにしているので予約のお店に移動する。


さて、ここは、セゴビア外周道路の西側を通っているエセキエル ゴンサレス通り沿いにあるリストランテ(Restaurante La Cocina de Segovia)。


お店の入口横の掲示板には、丸焼きの写真が飾られている。子豚や子羊を、丸ごと焼いたものを大皿に載せて提供されるようだが、とてもこんな量は食べられないが。。
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前菜を食べた後、切り分けたものを頂いた。姿がリアルなので、やや抵抗感を感じる。味は、国内で食べる豚肉より、匂いが強い印象。


リストランテから100メートル北のラウンドアバウトを右に行くと歩行者専用道路のフェルナンデス ラドレダ通りに出る。
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通りの左側には、セゴビアで最も古い教会の一つ、ロマネスク様式の「サン ミリャン教会」(Parroquia de San Millan)が建っている。この教会はアラゴン王国アルフォンソ1世(在位:1104~1134)とカスティーリャ女王ウラカ(1080~1126)の結婚を記念して建てられた。
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アラゴン王国は、ナバラ王サンチョ3世(在位:1004~1035)を起源とし、レコンキスタ(再征服運動)の進展とともにエブロ川流域に進出していた(1118年には、サラゴサをイスラム教徒から奪回する。)。ウラカとの結婚は、カスティーリャ王アルフォンソ6世(在位:1072~1109)が後継者の息子サンチョが戦死したため、娘ウラカを後継者とし、アラゴン王国アルフォンソ1世と1109年に再婚させたもの。しかし、カスティーリャ貴族の反対も多く、2人の仲も悪かったことから1111年には離婚している。

教会は、三廊式のバジリカ形式で、後陣には三つの半円形祭室が突出して形成している。柱頭彫刻は外の柱廊に数多くあるが損耗が激しい。
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この通りを進むと、前方に水道橋のあるアソゲホ広場が見えてくる。周りにはオープンカフェなどが並んでいる。
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水道橋は、紀元1世紀後半、ローマ帝国により築かれたもので、全長776メートル、最高地は28.5メートルにも及び、計2万個以上の積み石が使用されている。橋脚は最も太い部分で2.4メートルしかない上に30メートル近く石を積み上げ(高所へとつり上げるため小さな穴が開けられている)、更にアーチを2重に構成していることから空洞部分も目立ち非常に不安定に見える。

イスラム教勢力に占拠された際、一部が破壊され使用できなくなったが、カスティーリャ王国の女王イサベル1世により修復され、その後も生活の中心としての役割を果たし19世紀末まで使用されていた。現在でも水を流すことができ、世界的にも保存状態が良い水道橋の一つである。
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左側(北側)を見上げると、水道橋の端に旧市街地の城壁が見える。当時の技術では圧力をかけて高台へ給水することはできないので、岩山上の城壁と同じ標高の給水源を探して水を引いてくる必要があった。そこで16キロメートルも離れたアセベダ川の取水堰から給水し、この高層の水道橋を造ることとなった。なお、城壁先から供給地の最後のアルカサルまでは地下水路が通っている。
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中央の橋脚柱に見える白い像は、マリア像である。水道橋は、現代建築のように鉄骨や接着剤など使用されていないにも関わらず、2000年以上も変わらぬ姿を見せてくれる古代の土木技術の凄さに感心してしまう。
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その後、旧市街の外周道路(サント ドミンゴ デ グスマン通り)を通りセゴビアを後にした。
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(2008.9.21)
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