カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

バスク(その2)

2013-03-01 | スペイン(バスク)
サン ジャン ピエ ド ポールから北西方面の港町サン ジャン ド リュズ(Saint-Jean-de-Luz)へ向かって街道(D918号線)を走行していたが、出発後、約30キロメートル地点となる「イチャスー」(バスク語で「エニシダ(マメ科の属の一つ)の地」を意味)(Itxassou)に立ち寄り、昼食を食べることにした。イチャスーは、ピレネー アトランティック県のコミューンで、バスク地方の概念ではラブール地方にあたる。


イチャスーの中心地は、D918号線から西に800メートルの位置にあるが、村の南側となる教会(Église Saint-Fructueux)案内に従ってやってきた。南に向かっていた通りから鋭角に右折して北側に向かうと右側に、ホテル&レストラン(Logis Hotel du Chene)の表示があったので、こちらで、昼食を頂くことにした。こちらは西隣の駐車場から眺めたホテルの様子で、教会は、すぐ左側(北隣)にある。


レストラン入口には、「ロジ ド フランス連盟」(Logis de France)を示す " かまどマーク " が掲げられている。庶民的な美味しいレストランを併設した低廉な宿を基準に審査しており、評価店舗はフランス全土に4,000軒以上となっている。その下に、小さなかまどマークが2つ付いているが、これは " まぁまぁおすすめで快適" を表わしている。かまどマークは1つから3つまでで評価される。。

この時間、午後1時半になっていたこともあり先客は3組ほどで空いていた。陽光が入り店内は穏やかで明るい雰囲気がある。
クリックで別ウインドウ開く

セットメニューは16ユーロ、25ユーロ、32ユーロの3種あり、16ユーロのセットメニューを選んで、ワイン(ヴァン ド ペイ、コート カタラーヌ)を頼む。最初にサラダが提供され、


次にバスク風スープ、


メインはブラック チェリーソースのかかった鶏肉だった。ここイチャスーの地は、ブラック チェリーの産地として知られている。ちなみにメインは、選べることができる。こちらは、バスク風サーモン ステーキ(ライス付き)。味は、概ね評価通りといったところ。ボリュームもあり、コスパが高いといった印象だった。
クリックで別ウインドウ開く

イチャスーからD918号線を離れ、西に向かい、アイノア(Ainhoa)を経由してサール(Sare)に抜けたところ。この後、北西方面に向かいアスカン(Ascain)を通ってD918号線に復帰する予定となっている。そのサールとアスカンの間で、通りの左側にある「ラ リューヌ登山鉄道」(プチトラン ド ラ リューヌ)サンイグナス峠(コル ド サン ティニャス)の鉄道駅に寄ってみる。

タイミング良く、ラ ルーヌ山から戻ってきた列車に遭遇した。車体は哀愁漂うベル エポック時代のもので、ホームは多くの人で混雑している。こちらは、サンジャンドリュズからは南東約10キロメートルに位置する始発駅「プチトラン ド ラ リューヌ」で、北西側の「ラ ルーヌ山」(ラルン)頂上(スペイン国境すぐのフランス側にあり、バスク湾を一望するバスクの聖なる山)まで4.2キロメートル間を35分かけて運行している(1924年に開通)。なお、サン ジャン ド リュズからこの場所まではバスの利用になるとのこと。
クリックで別ウインドウ開く

その後、30分ほどで、ビスケー湾に面した港町サン ジャン ド リュズ(Saint-Jean-de-Luz)に到着した。フランス南西部アキテーヌ地域圏のピレネー アトランティック県に属するコミューンで、歴史的にはフランス領バスクのラプルディ地方に属している。こちらは、市内中心部にある「ルイ14 世広場」で、広場中央には1メートルほどの高さの八角形のイベントステージがあり、周囲には夏の暑さを緩和するかの様に多くの木が植えられている。
クリックで別ウインドウ開く

広場の南側には、横長に連結された建物が広場の南面を占めて建っている。建物に向かって右端は役場で、中央にはレストラン、そして左端には、観光客が集まる「ルイ14 世の館」(Maison Louis XIV)の入口がある。フランス絶対王政全盛期の国王で知られる太陽王ルイ14 世(在位:1643~1715)が、1660年、スペイン王フェリペ4世の娘マリー テレーズ(1638~1683)との結婚式を控えて滞在した館とのこと。両者が結婚に至った経緯は、ルイ14 世の父ルイ13世(宰相はリシュリュー)治世時に始まったドイツ内の新旧両派の宗教対立による三十年戦争(1618年~48年)に遡る。


三十年戦争はスペイン・オーストリア(ハプスブルク家)とフランス(ブルボン家)という対立軸に発展し西ヨーロッパの新教国、旧教国が介入した大規模な国際紛争に拡大したのだが、1648年、神聖ローマ皇帝、ドイツの諸侯、フランス、スウェーデン、スペイン、オランダなどにより、講和が成立(ウェストファリア条約)する。しかし、フランスとスペインの2国間はその後も戦争を継続し、1659年のピレネー条約の締結でようやく講和へとたどり着くが、2人の結婚はこの条約で取り決められたのである。

ルイ14 世広場の西側は、通りを挟んで、ビスケー湾へ注ぐニヴェル川(スペイン北部のナバラ州北東端部から流れている)の船溜まりとなっている。埠頭の様に西に延びる北西側に連なる建物の先が河口で、南からの流れは北側の湾に注ぎ込んでいる。その一番手前に建つ、白とピンク色の煉瓦に2層の5つのアーチ窓、左右の2つの塔を持つイタリアンスタイルの建物が「マリー テレーズの館」(1640年頃建築)(La Maison de l'infante)である。
クリックで別ウインドウ開く

結婚後、マリー テレーズは、政治や文学に興味を持たず、義母アンヌや使用人と過ごし宮廷に出ることは殆どなかった。穏やかで信仰深い生活を送ったマリーは3男3女の子供を儲けるが、長男ルイ(グラン ドーファン、ルイ15世の祖父)以外は夭逝し、マリーも1683年に44歳で亡くなった。寵姫や愛人にうつつを抜かしていたルイ14世ではあるが、王妃の死の際には涙を流して別れを惜しんだという。

次に、ルイ14世広場の北東側から北に延びるレピュブリック通りを歩いてみる。通りには、レストラン、バスク リネン、バスク地方のお土産物、スイーツなど数多くのお店が立ち並んでいる。
クリックで別ウインドウ開く

100メートルほどで、階段のある防潮堤に到着する。防潮堤は河口方向の西側から続いているが、すぐ東側まで続いており、その上は通路になっている。防潮堤の上からレピュブリック通りを振り返ると建物の2階から見下ろす感覚になる。通り沿いの建物は、白壁にバスク風の赤い木組みが施されている。
クリックで別ウインドウ開く

防潮堤の上を東側に進むと、先に合流する通りとの高低差はなくなっている。海岸線は円状に北側に向かい、砂浜が広がっている。オフシーズンのこの時期は人は少ないが、夏場は多くの海水客で賑わうのだろう。
クリックで別ウインドウ開く

再びルイ14 世広場に戻って、こんどは東側に伸びるガンベッタ通りを進むと、すぐにサン ジャン バティスト教会(L'Eglise Saint Jean-Baptiste)が現れる。17世紀に建てられ、ルイ14世とマリー テレーズが結婚式を挙げた教会である。


***********************************

翌朝、サン ジャン ド リュズからA63号(高速道路)を20キロメートル北東に行ったバイヨンヌ(Bayonne)(フランス南西部アキテーヌ地域圏、ピレネー アトランティック県の郡庁所在地)にやってきた。フランス領バスクの概念では、ラブール地方の首都にあたる。バイヨンヌは、バスク語で「川」を意味し、アドゥール川とニーヴ川によって、大バイヨンヌと小バイヨンヌ、サンテスプリの3つの区域に分けられている。

アドゥール川左岸のサンテスプリ側からは、「サンテスプリ橋」対岸の大バイヨンヌ方面の街並みを一望できる。大バイヨンヌの丘に建つ双塔の教会が「サント マリー大聖堂」で、その丘の手前(東側)にニーヴ川が流れ、サンテスプリ橋の袂からアドゥール川に注ぎ込む。
クリックで別ウインドウ開く

バイヨンヌには、古くからバスク人の祖先と考えられるヴァスコン人が住んでいた。大西洋岸ビスケー湾にもほど近く、ヒスパニア北部とガリア南西部を結ぶ交通の要所でもあることから、紀元前3世紀には、ローマ軍の防衛拠点が置かれていた。840年、現在のデンマークからヴァイキングが到達し、その後も、9世紀から10世紀にかけてヴァイキングの侵攻を度々受けている。当時は、フランク王国が分裂し弱体化していたこともあり、フランス各都市も襲われ、ジブラルタル海峡を回って地中海側からローヌ川流域やイタリア半島まで侵攻されている。

最初にサンテスプリ橋を渡り、大(グラン)バイヨンヌ地区にあるゴシック様式の「サント マリー大聖堂」(ノートルダム ド バイヨンヌ)から見学することにする。85メートルもの高さのランドマーク的役割を持つ2つの尖塔が印象的である。
クリックで別ウインドウ開く

大聖堂は、13世紀から14世紀にかけて建設されたが、この時代、バイヨンヌはイングランド王国に属していた。もともとは、10世紀後半までアキテーヌ領だったが、相続人であるアキテーヌ伯の娘アリエノールが結婚した相手が、アンジュー伯アンリ(1154年にイングランド王ヘンリ2世になる。)だったことから、以後300年に渡りイングランドの支配下に置かれることになる。
クリックで別ウインドウ開く

主催壇には、ネオ ゴシック様式の至聖所が安置され、上部にキリストの受難具を持つ4人の天使を配置し、頂部にパリのゴシック建築「サント シャペル」(聖なる礼拝堂)のミニチュアが飾られている。その上には、ゴシック建築特有の鳥籠のような軽やかな空間が形成されており、窓には鮮やかなステンドグラスが並んでいる。
クリックで別ウインドウ開く

主祭壇の裏側には周歩廊があり、礼拝堂が並んでいる。ここ大聖堂には、ヴァイキング侵攻時代に殉教したノルマンディー地方カランタン出身の聖レオン(守護聖人)が祀られている。
クリックで別ウインドウ開く

礼拝堂にも美しいステンドグラスが並んでいる。
クリックで別ウインドウ開く

外に出て大聖堂の後陣側を見上げてみる。シュヴェ側から見ても多くのステンドグラスが配置されていることがわかる。上部には聖人像が並んでいる。更にその上には、ゴシック建築特有のフライング バットレス(飛び梁)が優雅に広がっているのが見える。
クリックで別ウインドウ開く

広場から東に伸びる路地には商店が連なっており、多くの買い物客や観光客で賑わっている。ここは、バスク リネンのショップのようだ。
クリックで別ウインドウ開く

店内には、帽子、エプロン、バック、 テーブルウエアやインテリア小物などカラフルなバスク リネンが並んでいた。
クリックで別ウインドウ開く

100メートルほど歩くとニーヴ川に架かるマレンゴ橋(Pont Marengo)が現れる。一旦、袂から右折して、川沿いを南に向かう地、右側に視界が広がり、モルザン カロー デ アール広場となる。この日は、特設の市場が開かれ、多くの人が訪れていた。広場に面した南側には、地元で人気のフレンチレストランである。
クリックで別ウインドウ開く

再び川沿いを北に戻り、ニーヴ川に架かるマレンゴ橋を渡ることにする。橋は東への一方通行で細い車道だが、歩道は車道より広い幅で両側にある。
クリックで別ウインドウ開く

マレンゴ橋上から150メートルほど北側は「マユー橋」(Pont Mayou)で、そのすぐ先でアドゥール川に注ぎ込む。マユー橋のすぐ右側に「サンテスプリ橋」が架かっている。
クリックで別ウインドウ開く

ニーヴ川の右岸(東側)から先のアドゥール川との間がプチ バイヨンヌ地区になる。河川沿いには、テラス席が数多く並んでいるのが見える。
クリックで別ウインドウ開く

テラス席の右隣で、橋を渡ったマレンゴ通り沿いには「バスク美術館」があり、バスクの文化や歴史に関する展示がされている。
クリックで別ウインドウ開く

マレンゴ橋を渡り終え、袂から河川沿い沿いを右折すると、こちら側にもレストランがあり、テラス席からニーヴ川対岸のグラン バイヨンヌ地区を眺めてみる。大聖堂の巨大な尖塔が見える
クリックで別ウインドウ開く

マレンゴ通りを東に進むと、正面に「サンタンドレ教会(聖アンデレ教会)」(l'Eglise St-Andre)が見えてくる。サンタンドレ教会は、概ねニーヴ川とアドゥール川との中間に位置している。
クリックで別ウインドウ開く

サンタンドレ教会は、19世紀半ばにゴシック様式で建てられた。ポール ヴェール広場に面して建っている。モンテクリスト城の設計で知られるフランスの建築家イポリット・デュラン(1801~1882)により1869年に建てられた。ラテン十字形の教会で、13世紀のゴシック様式の教会の影響を受けている。正面に2つの塔と、ポータル上の印象的なバラ窓がある。しかし、1895年、湿地帯だったことから一部オルガンギャラリーで崩壊が発生し、重すぎる尖塔も取り壊され、1903年に現在の2つの鐘楼に置き換えられている。
クリックで別ウインドウ開く

サンタンドレ教会の周辺は、拝廊側にリス通りが南北に延び、南身廊側には、斜めに、ラヴィニャン通りが横断している。こちらは、ラヴィニャン通り南側の、ヌフ城へ向かう坂道から、駐車場越しに聖堂を眺めた様子である。
クリックで別ウインドウ開く

タンパンには、キリスト像を中心に上下左右に表福音書記者が、三種類の動物と一人の人間の姿(伝統的キリスト教美術における象徴表現)で表現されている。扉口中央の像は聖アンデレ(St-Andre)だろうか。。聖アンデレはペトロの兄弟で、十二使徒の一人として崇敬されていたが、ギリシア アカイア地方でX字型の十字架(アンデレの十字架)で処刑され、殉教したとされている。
クリックで別ウインドウ開く

教会に入る。主祭壇は極めてシンプルな造りである。
クリックで別ウインドウ開く

そして、ポール ヴェール広場の南側で、アルセナル広場の東側から坂を上った丘の上に建つのが、13世紀、イングランド時代に建てられた「ヌフ城(Chateau Neuf)」である。
クリックで別ウインドウ開く

バイヨンヌがイングランド王国となって約200年が過ぎた1339年、フランスの王位継承をめぐり、イングランドとフランスとの百年戦争が始まっている。当初はイングランドが戦いを優位に進めていたが、1453年、カスティヨンの戦い(ボルドーを巡る争奪)において、フランス軍からの圧倒的な兵力と、猛烈な大砲や小火器の攻撃によりイングランド(ヘンリー6世治世)は大敗して百年戦争は終結する。そして、ボルドー、バイヨンヌを含めたアキテーヌ地方は、フランス王シャルル7世(在位:1422~1461)の支配下に置かれ、その際に改築したヌフ城が現在の姿であるとされている。

サンタンドレ教会からマレンゴ通りを50メートルほど西に戻った場所にある「レストラン ミウラ」でお昼を頂くことにする。ミウラと言う名称から最初、日本人が経営していると思ったが、ミュラと発音するバスク地方の名字とのこと。
クリックで別ウインドウ開く

店内にはバイヨンヌの地図(右側が北方面)が掛けられている。右に流れるアドゥール川にニーヴ川が注ぎ込んでいる。上部の大バイヨンヌ地区のサント マリー大聖堂から、マレンゴ橋(右から2番目の橋)を渡ってプチ バイヨンヌ地区のサンタンドレ教会までのルートが確認できる。
クリックで別ウインドウ開く

昼のコースメニューとして、前菜、メイン、デザートの「デ マルシェ」(21ユーロ)と、メインが2品となる「デ ラブール」(32ユール)があり、デ マルシェを注文する。前菜は、エビのすり身などを春巻き皮に巻いてカラリと揚げたクリスピーで、シェリー酒とシードルの爽やかな酸っぱいヴィネグレットソースに付けて頂く。シールドをソースに使用するのがバスク風の名物とのこと。
クリックで別ウインドウ開く

ムール貝のバスク風。バスク料理の特徴として魚介類の煮込んだ出汁スープにある。前菜には思えないほどのボリューム感がある。
クリックで別ウインドウ開く

バスク地方を代表する魚料理で、タラのバスク風。切り身は、皿からはみ出るほどの大きさがある。ソースは、魚のうま味が染み込んだやや甘いシチューで、付け合わせにピキージョや野菜を混ぜ込んだライスが筒状に添えられている。
クリックで別ウインドウ開く

鴨の切り身を蜂蜜系の甘いソースに付けこんだ一品で、ズッキーニのスライスを乗せたカブ入りマッシュポテト(マッシュポテト)を付け合わせに頂く。
クリックで別ウインドウ開く

イチジクのデザート。
クリックで別ウインドウ開く

かなり洗練された料理で、濃い目のソースにも関わらず、しつこくなく味わい深い。なんともコスパが高く、贔屓にしたいと感じるレストランだった。
クリックで別ウインドウ開く

次に、バイヨンヌから西に8キロほど離れたビスケー湾に面する港町「ビアリッツ」(Biarritz)にやってきた。ビアリッツは、フランス南西部アキテーヌ地域圏、ピレネー アトランティック県の基礎自治体で、フランス領バスクではラブール地方に属している。

北東から北西へ延びる真っすぐの海岸線から、嘴の様に西側に500メートルほど張り出す岬があり、その岬から内側に街が広がっている。最初に、その岬の高台にある「サント ウジェニー広場」にやってきた。広場の中心には、ドーム屋根の東屋があり、西側に「サント ウジェニー教会」が建っている。広場の北隣は、東西に延びるマレシャル ルクレール通りで、その先は20メートルほどの海食崖で、崖下は公園と船着き場となっている。
クリックで別ウインドウ開く

灰色石のネオゴシック様式のサント ウジェニー教会は、1898年から1903年にかけて建設されたが、鐘楼は1927年から、鐘は1931年に設置されるなど比較的新しい教会である。
クリックで別ウインドウ開く

教会内は、ステンドグラスからの陽光が差し込み眩いばかりに輝いている。教会名のウジェニー(ユージニアまたはエウゲニア)は、183年頃にローマまたはアレクサンドリアで生まれ257年にローマで殉教した聖女のことで、ナポレオン3世(在位:1852~1870)の妻ウジェニー ド モンティジョ皇后( 1826~1920)の守護聖人に因んでいる。
クリックで別ウインドウ開く

身廊中央には、海辺の教会を示すかのように船の模型が吊るされ、ステンドグラスには、十字架を備えた愛らしい小羊が表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

教会から、内側の「エドワード7世通り」(Avenue Edouard VII)に入り、海岸線のアンペラトリス(女帝)通り(Avenue de l'Imperatrice)を北東方面に1キロメートルほど行くと、豪華な「オテル デュ パレ」(Hôtel Du Palais)がある。ホテルは" E "の形で、こちらは南翼にあたり、西側が砂浜が続く海水浴場になる。1854年、ウジェニー ド モンティジョ皇后により建てられた別荘で、後にイギリス王家の定宿となり、各国からも王族貴族が集うなど、ビアリッツのリゾート化にも貢献した歴史的なホテルである。
クリックで別ウインドウ開く

再び、アンペラトリス(女帝)通りからサント ウジェニー教会の手前まで戻り、エドワード7世通りの歩道沿いから、ビスケー湾の方面を見渡してみる。左側にパブ、レストラン(テラス席)、右側にアールデコ様式の「カジノ バリエール」など、リゾートムード一杯の眺望が広っている。砂浜海岸は、この場所から2キロメートルほど北東方面まで続いており、夏には海水浴客や観光客が多く訪れ大変賑わう。
クリックで別ウインドウ開く

次に、サント ウジェニー教会から岬の突端側に向かう。このエリアを「ポール ヴュー」地区と言い、もともとは漁師の家屋が建つ場所だったが、現在は、多くのホテルが建ち並んでいる。ポール ヴュー広場から東側を眺めると、ホテルやレストランが通り沿いに建ち並んでいるのが確認できる。左側の高台に建つ宮殿を思わせる建物はVilla le Goelandである。
クリックで別ウインドウ開く

振り返った西側はビスケー湾を望める展望テラスで、左右階段を下りていくと幅80メートルほどの小さな入り江で、市民の憩いの場「ポール ヴュー ビーチ」になっている。
クリックで別ウインドウ開く

こちらのビーチの両側は岩で囲まれており、右側の岩の前方には、自然の岩塊「処女の岩(rocher de la Vierge)」があり、頂部に白い聖母像が立っているはずだが、この位置からは見ることができない。。
クリックで別ウインドウ開く

ところで、ビアリッツは、エリック ロメール監督によるフランス映画「緑の光線」(1986年)の舞台になっている。パリで働くデルフィーヌは、独りぼっちのヴァカンスを何とか実りあるものにしようと、8月1日、海水浴客で賑わうビアリッツに一人やってくるが、人付き合いが苦手な性格から、誰とも意気投合できない。ビアリッツの駅で、知り合った青年と話すうちに、太陽が沈む瞬間に放つ緑の光線を見たものは幸福を得られると老婦人が「処女の岩」で話していたのを思い出し、一緒に、処女の岩に引き返し、緑の光線が放たれるのを待つといったストーリー。デルフィーヌの繊細さや情緒不安定な様子がうまく表現されていた。

こちらは、角度を変えて処女の岩のある岬を眺めた様子。岸からは、海上橋が処女の岩まで架けられ、トンネルの先が岩の展望台となっている。頂部の白い聖母像は、かつて遭難した船乗りを聖母マリアが助けたという伝説に基づき建てられ、今も航行する船乗りたちに崇められている。
クリックで別ウインドウ開く
画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
(2008.9.25~26)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« バスク(その1) | トップ | バスク(その3) »

コメントを投稿