気儘に書きたい

受験勉強よりもイラストを書くのが好きだった高校生の頃---、無心に絵を描く喜びをもう一度味わえたらいいのだが。

四国旅行Ⅳ

2013-05-30 00:38:31 | 写真
私の曽祖父の伴蔵は、井伊直弼が暗殺された桜田門外の変の翌年、アメリカで南北戦争の始まった年の文久元年6月28日に藤井カメの長男として生まれた。昭和11年2月8日午前9時42分に没しているので私は会ったことはないが、藤井家具店の創業者なので親近感を持っている。
私が中学生の頃、藤井家の先祖は爺さんの方は呑百姓だけど、婆さんの方は武士だと、父から自慢げに何度も聞かされた。封建社会でもないのに武士も百姓もないが、爺さんが婆さんよりも大人しかったのはそのせいだったのかもしれない。
 二十年ほど前になるが、思うところがあって各地の役所から除籍簿を取り寄せて自分の家系を調べた。その時に分かったのだが、曽祖父は私生児で、曽祖父の母親のカメは今でいうシングルマザーだったようだ。藤井カメは明治30年5月14日に亡くなっているが、除籍簿の限界で、カメが藤井惣三郎の長女であったことまでしか分からなかった。惣三郎の本籍地の徳島県板野郡撫養堂浦村を訪ねれば他に何か分かるかもしれないとずっと機会を待っていた。

大塚美術館から左手に波の穏やかなウチノ海を見ながら県道183号を20分ほど走ると堂浦(ドウノウラ)に入った。堂浦は門司でいえば柄杓田のような小さな漁港だ。浜で漁師らしい60代の男たちが談笑していた。私は挨拶をして、北九州市から自分のルーツを訪ねてきたことを話した。曽祖父の転籍前の本籍地の「堂浦437番」の場所を聞いたが誰も知らなかった。その場を立去ろうとした時、男の一人が村で唯一の食堂に行って聞くことを勧めた。食堂は開いていたが、買出しに行っているのか声をかけても誰も出て来なかった。諦めかけた時、先ほどの男が再び現れて「居らんやったんか。じゃあ、藤井丸の船長の家に行ってみい。」
 数十メートル先の右手に「藤井」の表札のかかった家があった。声をかけると70代のご婦人が応対に現れた。私から経緯を聞くと奥に入ってご主人を呼んできた。80代のご主人は藤井惣三郎を知らなかった。「でも同じ苗字なので先祖が繋がっているかもしれませんね。記念に家の写真を撮らせてください。」と言ってその家を出ると、さっきの男が外で待っていた。「何か分かったかね」「ここのご主人のお祖父さんの時代のことなので分からないそうです。」「じゃあ、お寺に行ったらいい。」
男に教えられた道順を走ったが迷ってしまい、漁業組合の前の住居案内板を見ていると、どこまでも親切な男が現れた。「自分に着いてきな」と言って、軽快に自転車を走らせた。お寺入り口の上り坂でお礼を言いながら自転車を追い越した。
お寺は「吉祥寺」と言い、妻の実家の寺と同じ名だった。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
つづきがきになる! (YamaNanaPapa)
2013-05-31 00:17:15
まるで小説みたいな展開。
自分のルーツ、その先知りたいね。どんな先祖だったんやろー
自分もいつか訪ねてみたい
返信する
確かめる必要があるけど… (九州ジイ)
2013-06-05 02:02:30
惣三郎の父が藤蔵で、その父が天明4年(1784年)に亡くなった菊平、その先は続柄は不明だけど元文3年(1738年)没の勘次郎となっている。
返信する

コメントを投稿