気儘に書きたい

受験勉強よりもイラストを書くのが好きだった高校生の頃---、無心に絵を描く喜びをもう一度味わえたらいいのだが。

絵を描く楽しさは亡き父から教わった。

2019-07-30 23:27:08 | バイクの絵

私が幼い頃、店舗の一角が居住スペースだったので、売り場の通路は絵を描く(落書きのつもりではない)キャンパスだった。商品の裏に店名を記入するためにチョークを常備していたので、絵を描く道具には不自由しなかった。亡き父が偶に戦艦などの絵をチョークでリアルに描くのを傍でみて自分も描きたくなったのだと思う。

店にお客が入ってきて絵を描けなくなると、店前の道路に描いた。キャンパスが限りなく広いので、大きな絵を描くのが得意になり、幼稚園でクラスの園児が見守る中、先生に画用紙を何枚もつないでもらって長い汽車の絵を夢中で描いたのを憶えている。

小学4年生の頃、両親の似顔絵を家で描いてくる宿題が出た。提出した後、担任の先生の要望で、先生の似顔絵を描かされた。つい最近、傘寿を過ぎた恩師と会う機会があり、その時の似顔絵の話が出た。

中学生の頃、美術の教科書を見るのが好きで、絵画や彫刻の写真を真似てノートに鉛筆で描いた。美術部に入ればよかったのだが女々しく思われたくないので卓球部に入り、半年で退部した。美術の女の先生は、期末考査の試験問題に修学旅行で宿泊した旅館名を問うような型破りの教師で、芸術家肌だった。美術室には公募展に出品する描きかけの大きな油絵がイーゼルに掛かっていた。ある時、焼き物を作る授業があり、私がミロのヴィーナスのミニチュアを作ったことが職員室で問題になりかけたが、その先生のお陰で叱責を免れた。私は純粋にヴィーナスを作りたかっただけで、問題行動とは思わなかった。中三になりストーリー漫画を描く楽しさを知った。

高校に入学して芸術の授業を、美術、音楽、書道の中から選択しなければならなかった。私はこの順番で志望を届けたが、書道のクラスになった。二年間書道の授業を受けても私の字が上達しなかったのは、こっそり墨絵を描いていたせいだろう。高二でバイクを乗り回すようになると、墨汁でバイクのイラストを描く楽しさを知った。バイクの雑誌に「スズキ・ハスラー」と「ハーレーダビッドソン・エレクトラグライド」の二枚を投稿したが掲載されなかった。高3から浪人にかけて勉強もせず、バイクや車や俳優の絵をたくさん描いたが、すべて友人にあげたので、何も残っていない。

大学3年のとき、美大生だった妻が私の誕生日にスケッチブックをプレゼントしてくれた。しばらく絵から離れていたので、再びイラストを描く気になった。社会人になってから絵を描く機会がなくなった。数十年間に描いたのは、妻から油絵の手ほどきを受けた頃に描いた3枚だけだった。

母が亡くなったとき、心にぽっかり開いた穴を埋めるように母の肖像を描いた。絵画は癒しになると感じた。子供たちが成長して家を出て行き、妻がボタニカルアートを描き始めた。妻の道具を借りて私も水彩でイラストを描くようになった。携帯できる水彩道具を買ってからは、風景画も偶に描くが、奥が深くなかなか思うように描けない。十代や二十代の頃の集中力が最早なくなっているのだ。

 

 


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1 コメント

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墨絵復活希望 (長男)
2019-09-14 23:10:30
子どものころ、父さんに見せてもらったスケッチブックに書いてあった、バイクの絵やジミーペイジの絵、母さんの絵とか、うますぎて強烈に印象に残ってます。黒だけでこれだけ表現ができるのかと。
水彩画も素敵だけど、そっちもぜひまた書いてみてほしいです
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