4月22日(火) 曇 (新宮市・ビジネスホテル紀州に連泊)
6時35分、宿出発。新宮駅へ。
駅前に「熊野文化を彩る人たち」。
JR紀勢本線で、那智駅へ。
駅前に佐藤春夫の有名な「秋刀魚の歌」詩碑。
「あ八禮 秋可ぜよ 情あらば傳へてよ
――男阿りて 夕餉にひとり さんまをくらひて 思いにふけると ‥‥」
さらにバスで大門坂駐車場へ。
南方熊楠が3年間滞在したという旅館跡。
8時、神橋を渡って神域へ。
那智山案内図。
大門坂の杉並木と石畳を上り、熊野古道の写真を撮る。
多富気王子跡。
さらに。
振り返り。
実方院跡。
お土産屋が並ぶ路地を抜け、階段をあがり、
境内近し。
青岸渡寺の下を通り、
まず那智の滝(133m)を見るべく右手の三重塔の方へ。
滝を写そうとしたが、下部が樹木に隠れてしまうので、塔に上ることにした。拝観料300円。
その後、戻って青岸渡寺の方へ。振り返り1枚。
青岸渡寺。ここは西国33か所霊場の、第一番札所。
境内の大楠。
那智大社へ。
大社の隣の宝物殿では、特別展「熊野那智大社の至宝~熊野十二所権現古神像を中心に」を催しており、熊野十二所権現の古神像や那智山宮曼荼羅をはじめ多くの宝物が陳列されていた。入場料300円。
宝物殿を見に入っていたのは小生ひとりだけだったので、若い意欲的な女性の職員が丁寧に説明してくれた。古神像は、イザナミノミコトや天照大神がなぜか男神になっていた。彼女の説明では、織田信長による熊野の焼討ちの後、豊臣家による復興の際に、お抱え仏師に急いで作らせたため、とか。出来上がったのを見たら、依頼主もさぞ仰天だったろう、と。また、神々の顔が、いずれも目じりが吊り上がって怒ったような顔になっているのはなぜか、と一緒に考えたりした。
また、明治初期の廃仏毀釈の際にも災難があり、青岸渡寺の本尊は、那智山の下の村に一時隠された、とのこと。
那智権現の「権現」とは、神と仏とが一体となっているということを示していること。
西行の和歌「木のもとに住みけむ跡をみつるかな 那智の高嶺の花を尋ねて」の額があり、西行が 花山院の住まいの跡を訪ねた折の歌であること、等々。
次いで、参道を逆に下って、
那智の滝の直下(熊野那智大社別宮 飛瀧神社)にいってみた。
高浜虚子句碑。
「神にませばまことうるはし 那智の滝」
その後、バスで那智駅まで戻り、補陀落山寺へ。
浜の宮王子跡(浜の宮大神社)
ここは、『平家物語』で、平清盛の孫である中将平維盛の入水の旅立ちの地とされている。
大神社の境内の森は「渚の森」というのだそうだ。
「神武天皇頓宮跡」の碑あり。
その奥に、補陀落山寺。
補陀落船の模型が置かれていた。
補陀落渡海は、南の洋上に補陀落浄土を求めて、死を賭して漕ぎ出す信仰。碑によると、9世紀から18世紀まで25人の名が記されていた。補陀落渡海はここだけではないが、この地が最も盛んだった、とか。寿永3年(1184年)には、平維盛の名もあった。
その後、バスにて新宮へ戻り、熊野速玉神社に向かう。
新宮市案内。
神社への途中の民家の先に、明治末のでっち上げ事件である「大逆事件」に連座され処刑された12人の1人、「大石誠之助宅跡」の標石あり。
大石誠之助(1867~1911)は、社会主義者で、医者で、キリスト教徒で、偉大な人物である。2001年、新宮市議会により「非戦、廃娼を唱えた人権の先覚者として」名誉回復の決議が行われた。
熊野速玉大社へ。
神社の一隅に、佐藤春夫記念館があり見学。入館料310円。
佐藤春夫本人による詩の朗読のテープを聞いた。昔読んだ懐かしい詩もあった。
「少年の日」、
「秋刀魚の歌」、
「望郷五月歌」等々。
記念館の塀に記された「望郷五月歌」。
佐藤春夫句碑。
「秋晴れよ丹鶴城址児にみせむ」
熊野速玉神社。
熊野御幸の記録碑。
「後白河法皇御撰梁塵秘抄所載」碑。
「熊野へ参るには 紀路と伊勢路と どれ近し どれ遠し
廣大慈悲の道ならば 紀路も伊勢路も遠からず」
熊野速玉大社参詣曼荼羅。
熊野神宝館前の武蔵坊弁慶像。
新宮駅のそばには徐福の墓と公園があったが、今回は割愛した。
スーパーで食料を調達して、
16時30分、宿に戻る。宿泊、素泊まり 4000円。
宿で、今後の宿泊先の作戦を練った。尾鷲の先は「安い宿情報」の空白部で、本数の少ない紀勢本線をどう利用するか‥‥。「ポケット時刻表」とにらめっこした。
歩数 14445歩 (累計 2240033歩)
距離 記録外 (累計 1455.5km)
費用 7284円 (累計 235524円)
6時35分、宿出発。新宮駅へ。
駅前に「熊野文化を彩る人たち」。
JR紀勢本線で、那智駅へ。
駅前に佐藤春夫の有名な「秋刀魚の歌」詩碑。
「あ八禮 秋可ぜよ 情あらば傳へてよ
――男阿りて 夕餉にひとり さんまをくらひて 思いにふけると ‥‥」
さらにバスで大門坂駐車場へ。
南方熊楠が3年間滞在したという旅館跡。
8時、神橋を渡って神域へ。
那智山案内図。
大門坂の杉並木と石畳を上り、熊野古道の写真を撮る。
多富気王子跡。
さらに。
振り返り。
実方院跡。
お土産屋が並ぶ路地を抜け、階段をあがり、
境内近し。
青岸渡寺の下を通り、
まず那智の滝(133m)を見るべく右手の三重塔の方へ。
滝を写そうとしたが、下部が樹木に隠れてしまうので、塔に上ることにした。拝観料300円。
その後、戻って青岸渡寺の方へ。振り返り1枚。
青岸渡寺。ここは西国33か所霊場の、第一番札所。
境内の大楠。
那智大社へ。
大社の隣の宝物殿では、特別展「熊野那智大社の至宝~熊野十二所権現古神像を中心に」を催しており、熊野十二所権現の古神像や那智山宮曼荼羅をはじめ多くの宝物が陳列されていた。入場料300円。
宝物殿を見に入っていたのは小生ひとりだけだったので、若い意欲的な女性の職員が丁寧に説明してくれた。古神像は、イザナミノミコトや天照大神がなぜか男神になっていた。彼女の説明では、織田信長による熊野の焼討ちの後、豊臣家による復興の際に、お抱え仏師に急いで作らせたため、とか。出来上がったのを見たら、依頼主もさぞ仰天だったろう、と。また、神々の顔が、いずれも目じりが吊り上がって怒ったような顔になっているのはなぜか、と一緒に考えたりした。
また、明治初期の廃仏毀釈の際にも災難があり、青岸渡寺の本尊は、那智山の下の村に一時隠された、とのこと。
那智権現の「権現」とは、神と仏とが一体となっているということを示していること。
西行の和歌「木のもとに住みけむ跡をみつるかな 那智の高嶺の花を尋ねて」の額があり、西行が 花山院の住まいの跡を訪ねた折の歌であること、等々。
次いで、参道を逆に下って、
那智の滝の直下(熊野那智大社別宮 飛瀧神社)にいってみた。
高浜虚子句碑。
「神にませばまことうるはし 那智の滝」
その後、バスで那智駅まで戻り、補陀落山寺へ。
浜の宮王子跡(浜の宮大神社)
ここは、『平家物語』で、平清盛の孫である中将平維盛の入水の旅立ちの地とされている。
大神社の境内の森は「渚の森」というのだそうだ。
「神武天皇頓宮跡」の碑あり。
その奥に、補陀落山寺。
補陀落船の模型が置かれていた。
補陀落渡海は、南の洋上に補陀落浄土を求めて、死を賭して漕ぎ出す信仰。碑によると、9世紀から18世紀まで25人の名が記されていた。補陀落渡海はここだけではないが、この地が最も盛んだった、とか。寿永3年(1184年)には、平維盛の名もあった。
その後、バスにて新宮へ戻り、熊野速玉神社に向かう。
新宮市案内。
神社への途中の民家の先に、明治末のでっち上げ事件である「大逆事件」に連座され処刑された12人の1人、「大石誠之助宅跡」の標石あり。
大石誠之助(1867~1911)は、社会主義者で、医者で、キリスト教徒で、偉大な人物である。2001年、新宮市議会により「非戦、廃娼を唱えた人権の先覚者として」名誉回復の決議が行われた。
熊野速玉大社へ。
神社の一隅に、佐藤春夫記念館があり見学。入館料310円。
佐藤春夫本人による詩の朗読のテープを聞いた。昔読んだ懐かしい詩もあった。
「少年の日」、
「秋刀魚の歌」、
「望郷五月歌」等々。
記念館の塀に記された「望郷五月歌」。
佐藤春夫句碑。
「秋晴れよ丹鶴城址児にみせむ」
熊野速玉神社。
熊野御幸の記録碑。
「後白河法皇御撰梁塵秘抄所載」碑。
「熊野へ参るには 紀路と伊勢路と どれ近し どれ遠し
廣大慈悲の道ならば 紀路も伊勢路も遠からず」
熊野速玉大社参詣曼荼羅。
熊野神宝館前の武蔵坊弁慶像。
新宮駅のそばには徐福の墓と公園があったが、今回は割愛した。
スーパーで食料を調達して、
16時30分、宿に戻る。宿泊、素泊まり 4000円。
宿で、今後の宿泊先の作戦を練った。尾鷲の先は「安い宿情報」の空白部で、本数の少ない紀勢本線をどう利用するか‥‥。「ポケット時刻表」とにらめっこした。
歩数 14445歩 (累計 2240033歩)
距離 記録外 (累計 1455.5km)
費用 7284円 (累計 235524円)