刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

古代妄想のすすめ!(^_-)-☆

2022-03-18 21:34:21 | 古代史
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以下の興味ある動画を見つけ、コメントしたところ、ご興味を持っていただいたウップ主様からとても有り難い回答を頂きました。さらに視聴者のYOさんという同好の士からとてもよいコメントを戴きましたので、ちょっとしつこい話かもしれませんが、どうぞお付き合いください(*^▽^*)




Y Oさん
刮目天一 様 私も刮目天様のブログをよく読んでいる者です。 古代史の分野だと、確定的な部分は少なくて推論の部分が多いと存じます。確定項目は今後も「無い」と思っております。 その中で、刮目天様のブログはまことに興味深いものだと思っております。

が、私の妄想とはちょっと違うかなぁと。 どちらかといえば妄想寄りの私なので、従来の説よりもぶっ飛んだ主張が好みです。 個人的には「支那の文書は間違ってない前提」の方が良いかと思っております。 これを間違いとしてしまうと、幅が広すぎになり自説に都合の良い解釈になってしまうからです。

陸行1か月を1日にしたり1年にしたり、南を東としたりすると、自分の思う場所に比定出来てしまうのでね。 ウプ主様や刮目天様も含め、いろいろな方々の論説を聞くのは非常に面白いことだと思っております。 確定の無い古代史において、柔軟な考え方を聞ける現在の状況は良い状況だと思っております。 (個人的には畿内説論者が何も言わないのがおかしいと存じます。畿内説で確定では無いのに、何余裕ぶってるのかと。) 今後も期待しております。


Y Oさん 拙ブログにご興味を持っていただき、なかなか本質を突いたいいコメントまで頂き、とてもうれしいです。有難う御座います。少し、回答が長文になりましたし、折角ですので、拙ブログでご回答させていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いします(*^▽^*)

まず、「妄想」という用語を明確にしてから議論すべきだと思いますのでそこから述べますね(*^。^*)
恐らく多くの方も同じだと思いますが、「妄想」は「空想」と同様で、ここでは「現実ではない、事実に基づかない想像」ということで良いかと思います。

それでは「事実」とは何かですが、それは「実際にあった事柄または現実に存在する事柄」と多くの人が考える客観的な概念ですね。一般的には「真実」も似たような概念ですので同じものとすることが多いですが、ここでは両者を区別した方が良いと思います。つまり、多くの人々が認知した「事実」にウソや偽りがある可能性もありますので、それがない絶対的なものを「真実」と考えるのが良いと思います。

そして、ある「事実」は検証によって「真実」ではないと客観的に分かる場合もありますが、多くの場合その「事実」が「真実」であるとは分からないかも知れません。でも、検証を繰返すことによりその「事実」が「真実」であるに違いないと思えるようになると、科学的な信念に変わるのだと思います。科学の要件には普通、客観性、実証性、再現性、論理性、予測性、反証可能性があげられますから、詳しくは説明できませんが科学的な手続きにこれらの性質が存在している必要があるのだと思います。

さて、古代史の分野ですが、おっしゃる通り推論の部分が多いのは事実ですし、確定事項は今後も「無い」というのは、厳密に考えるとその通りかと思われます。しかし、疑う理由も見あたらないか、確からしい事象はいくつもあり、それを事実と考えて検証を繰り返してアブダクションによる仮説形成手法から、そのような事実群をすべて矛盾なく説明できる仮説が得られると、その仮説が真実を説明している蓋然性が高いと考えるわけです。要するに、一つひとつの事実がどのように起こったのかの因果関係を推理し、その仮説を科学的に探求するということです。思い付きでも妄想でも想像でも何でも自由な発想で仮説を構築すればよいのです。それを事実によって検証して、全体を記述する物語にできるので、とても楽しい作業ですよ。

そして、ここが肝心なのですが、このような科学的な手法で得られた仮説によって、従来謎であったことが幾つも解き明かされることにより、その仮説への信頼がさらに高まります。

それによって逆に、取り敢えず事実と考えた確からしい事象群が真実であろうと考えることができます。

つまり得られた仮説もそこで考えた事実群も科学的な信念や確信にまでなるということなのです。

そして、従来、想像もできなかった大発見もできるのがこの手法の醍醐味というか、凄いところなのです!(^_-)-☆

さらに、ご指摘のシナの文献の件ですが、シナに限らず、疑う理由・根拠のあるもの以外は一応事実扱いしてよいと思います。検証の過程で虚偽と分かるかも知れません。そういうスタンスで、事実に基づく妥当な推論で仮説を組み立てると科学的ですので、説得力が出てきます。妄想や空想が好みの方は、自由にそうして構いませんし、空想であると断って他人に発表するのは、別に問題はないと思いますが、そのままではもったいないと思います。折角、考え着いた面白い、貴重なものですから、是非、検証をしていただくと大発見につながるかも知れませんので、お願いします(^_-)-☆

あ、それから、ご指摘の「陸行1か月を1日にしたり1年にしたり、南を東としたりすると、自分の思う場所に比定出来てしまうのでね。」の件ですが、全く同感です。

ですから、先に、考古学の成果による検証で日本建国の過程について仮説推論し、その結果、邪馬台国の位置を推定して、それに基づき行程記事のトリックを解明したということです。どうにでも解釈できる行程記事を根拠として邪馬台国の場所を推定しているわけではないので、この点が従来にない、ユニークで科学的な手法だとご理解いただけるとうれしいです。

これからも拙ブログにお付き合いいただき、刮目天の仮説を反証していただくのも良いし、仮説をさらに拡張して次の時代にも適合する仮説を構築していただくのを期待しています。これからもいいコメントを頂けると研究が進みますので、どうぞよろしくお願い致します(*^▽^*)

【関連記事】

アブダクションは科学的な信念形成の手法だ!( ^)o(^ )


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【刮目天の古代史】邪馬台国の謎(´ω`*)

2022-03-15 00:02:25 | 古代史
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魏志倭人伝は西晋の史官陳寿によって編纂された「三国志」の巻三十魏書第三十烏丸鮮卑東夷伝の最後の倭人の条のことです。約二千字の文章の中に三世紀の倭国の様子が記述されています。最初の段に帯方郡から女王の都である邪馬台国までの行程記事と倭国を構成する邪馬台国よりも南側にある二十一国の名前と、さらにその南にある倭国に敵対する狗奴国やその先の遠い国々の地理情報が書かれています。次が倭国の風俗で海南島のものと近いと書かれています。最後に、魏との外交関係について書かれています。

多くの研究者は魏志倭人伝を正しく読んで、正しく解釈すれば邪馬台国の所在が分かるはずだとして、多大な時間を費やしてその解明に熱心に取り組んできています。勿論、その研究から様々なことが分かったのも忘れてはならない事実です。元々は、江戸時代中期の学者で政治家の新井白石が著書の中で取り上げました。邪馬台国の正しい読みが「やまと(ぅ)」なので、最初は大和説を唱えましたが、後に九州の筑後国山門説にしたとされています。新井白石が、最初に「やまたいこく」と呼んだことから、現在も通常そのように呼ばれていますが、二十一世紀になってもその位置が確定していません。

その理由は、一言で言ってしまえば、考古学で比定される途中の国々への方角と距離が魏志倭人伝と合わないからです。行程記事では、帯方郡から邪馬台国まで東南方向に万二千里と書かれており、当時使われていた一里約450mで計算すると、九州も通り過ぎて赤道直下のパプアニューギニア付近という途轍もなく遠方に邪馬台国が在ったということになります。

そこで、多くの方は邪馬台国があるべき場所の条件から候補とする場所が先にあり、そこに持って行くための理屈を後で考えるというけったいなやり方のようです。ですから、研究者ごとにいくつもの説が生まれますが、それぞれに弱点があり、論争はとても決着がつきません。何か決定的な証拠が偶然降ってくるのを待っているような頼りない状況なのです。そこで、マスメディアを使って人々に納得してもらう努力も続けられていますが、弱点となる不都合な事実を無視すると科学的ではなくなります。

しかし、このような邪馬台国問題を冷静に見つめると、魏志倭人伝に書かれた内容が事実と違うことから起こっていることが分かりますから、一度、行程記事を頭の隅に置いて、先に考古学の成果からヤマト王権の成立過程を明らかにすることで、邪馬台国の場所を推理しようではないかという考えが起こります。

いや、そんなはずはない、邪馬台国の場所が分からなければ、ヤマト王権の成立過程も分かるはずないという考えもあり、魏志倭人伝を正しく解釈すればもう答えは出ているのだと自からの仮説を主張し続ける向きもあります。それでは、なぜ事実と違う内容が魏志倭人伝に記されているのかも合理的に説明する必要があります。そしてその仮説は、反証可能でないと科学的ではありませんが、多くの場合、考古学や民俗学などの成果によって検証して、その仮説の成否を議論できると思います。いや、書かれていることが正しいので、国々の比定の通説が間違いだと主張されると、これも科学的ではなくなりそうです。

千七百年以上も前のことなので明確な証拠がなかなか残っていないのも事実ですから、以下のような科学的な手法を使って、ある適当なスパンの事実や証拠の時系列から推理して、蓋然性の高い仮説を導くことができます。しかし、その証拠というモノは、見方によって様々な解釈ができるかもしれません。しかし、これまでの検証から構築した仮説に基づいて、妥当な推論をすることによって矛盾なくすべての証拠となるモノを説明できれば、このモノも証拠のひとつと考えることができます。つまり、設定したスパン内の証拠群を解釈すると、この時代に多分こういうことが起こった可能性が高いという主張ができるということなのです(「一つの事象にいくつもの解釈あり!」参照)。

この科学的な手法はアブダクションと呼ばれるもので、19世紀から20世紀初頭の哲学者で論理学者で科学者のチャールズ・サンダース・パースという偉人が提唱した仮説構築の手法なのです。刮目天が勝手に発明したものではありませんが、古代史の解明に適用して成功しました。そして、この手法の威力は、通説では考えられない大発見をいくつもできて、古代史を塗り替えることができるという驚異の手法なのです。ですから、ブレークスルーを目指す若い研究者に是非、チャレンジしてもらいたいのです。日本建国まではほぼ解明し、邪馬台国の位置も、卑弥呼の正体などもほとんど分かりましたので、この成果を使って、次の時代の解明をやって頂けると有り難いです。



いやあ、眉ツバじゃないのかなと疑い深い人もいるかと思います。それは構いませんので、是非、反証して教えていただけると、より蓋然性の高い仮説に改造することができるはずです。と言いますのも、今まで証拠や事実と思っていたモノの一部が証拠や事実ではないのが明確になれば、それに合わせた仮説に修正することもできるはずだからです。あり得ない話ですが、すべてがウソなら話は振出しに戻るだけですね(^_-)-☆

ということで、ご興味のある方は是非いろいろといじってみて、疑問点などを教えて下さい。どうぞよろしくお願い致します( ^)o(^ )

<邪馬台国の謎>

誤解と幻想の邪馬台国(´・ω・`)



景初三年問題が謎を解く鍵でした!
原文に忠実にという研究者が居ますが、現在残っているのは原文ではなく、12世紀に作られた版本です。結構、誤写のある写本を基にしたようで、いろいろと議論があります。これも混乱の原因です(*´Д`)

【検証22】難升米という人物は?(その1)
景初三年六月に帯方郡に出かけて太守劉夏と談合して行程記事を作ったこの人物が古代史解明のカギを握っていました(^_-)-☆


詳細は「投馬国へ水行してみませんか?」参照。

范曄だけが「魏志の筆法」を見抜いた(^_-)-☆
范曄の後漢書 巻八十五東夷列伝 倭人の条に邪馬台国と書かれていますし、女王国から東に千里、海を渡ると、魏志倭人伝には倭種とあるのを狗奴国と書き変えています。今の学術書ならば必ず参考文献を載せますが、残念ながら当時はそういう習慣がありませんでした。でも、勝手に想像で書くのでしょうか?( ^)o(^ )



邪馬台国はヤマタイコクと読まない?(*^。^*)
邪馬台国にはヤマコクに住む女王の統治する国という明確な意味がありますので、邪馬壹国を探しても見つからないと思いますよ(^_-)-☆

【邪馬台国問題】短里がダメな理由!(;一_一)
邪馬台国の話が収束しない理由は、予め自分が想定した場所になるように邪馬台国への行程記事を解釈しているからなんですよ。典型的な例がこの短里でした(´ω`*)



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神話に閉じ込められた史実(^_-)-☆

2022-03-13 11:30:19 | 古代史
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わたしがハマった関裕二さんの、とてもいい著書の紹介をしていただいたので、ついコメントさせていただきました。お付き合いください(*^▽^*)

【歴史本紹介】神武天皇 vs 卑弥呼 著関裕二 レビュー
2022/03/11 きーの歴史本プレゼンチャンネル@YouTube


また、いい本のご紹介です。実はこの本は本棚にあったのに、いつものとおり中を読まずつい買ってしまいましたので驚きました(´ω`*)

日本建国は縄文系海人が主役なのですが、「日本は古の倭の奴国】つまり、奴国が日本のルーツだということが、新唐書や宋史の日本伝の冒頭にあります。なぜかと言うと記紀神話の最初に高天原に現れた神が日本の最初の王天御中主という実在人物で、その16代目あたりの王が後漢から金印を賜った王、その息子の17代王が伊弉諾尊でその子が18代王素戔嗚尊、そして第23代王彦瀲尊までが筑紫の日向宮を都としていて、その4男神武天皇が大和州橿原宮に都を遷したという内容の日本の「王年代紀」が宋史に明確に書かれていているのです(【付録】参照)

第64代円融天皇の時代に東大寺の僧奝然が宋の太宗に献上しました。多くの歴史家は正史が正しい歴史という立場ですから、これを無視しますが、シナ人らは、日本という国のはじまりは、高天原神話の世界だったと遣唐使から説明されていたために、後漢光武帝が奴国に金印を贈った史実に合わないので、「旧唐書」では日本と倭国は別物だとしていました。しかし「王年代紀」によって実は奴国は天皇家のルーツで、日本が万世一系の天皇に統治されているということを事実だと理解したのです(「「日本国」へ、八百年も掛かったのか?(;´Д`)」参照)。

(左クリックで拡大)

この事実に気付くと、アマテラス女神と乱暴者の弟スサノヲの神話もデタラメだったと分かります。詳しい話は拙ブログ「日本神話の正体は?(その1)~(その3)」にありますので省略しますが、関裕二さんもこのことに気付いておられません。卑弥呼の正体が神功皇后紀に登場する田油津媛だと推理して、邪馬台国筑後山門説としていますので、まんまと神話の罠にかかっています(「邪馬台国筑後山門説ってどうよ?(#^.^#)」参照)。

正解は縄文海人ムナカタ族の姫巫女です(「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」参照)。これも関裕二さんからですが(「海峡を往還する神々」PHP文庫 2010,p.188)、伊弉諾尊のお相手伊弉冉尊が宗像大社の伝承「ムナカタの子がスミヨシ、その子がウサ」からムナカタ族であることが分かり、卑弥呼も台与も同じムナカタ族だったことも分かってきます(「【検証3】『神宿る島』宗像・沖ノ島の謎」参照)。顔に入れ墨のアズミ族は奴国王が支配した江南系の倭人です。奴国王はBC.473に滅亡して半島南部にアズミ族ら倭人の手助けで逃れた春秋の呉の王族でした。奴国王はナーガ=龍蛇神を奉祭する一族だから初代王が天御中主なのです。天は海を意味し、海人族ナーガの国の御主人という意味でした。金印のつまみはその民族の特徴を表すとされていますからこれが事実なのだと分かるのです(「国宝「金印」の謎?(@_@)」参照)。

そして17代奴国王が縄文系海人ムナカタ族と王族レベルで婚姻した話が国生み・神生み神話でした。さらにその子のスサノヲが母方のムナカタ族と共に半島南部に渡り、鉄素材を独占的に入手して、三国史記の新羅第4代脱解王のモデルになっています(「新羅の脱解王が奴国大王?(^_-)-☆」参照)。スサノヲは宮廷を留守にすることが多く、たまに帰還すると縄文系の祭祀様式を奴国の伝統的な祭祀に取り入れようとしたことで宮廷楽師の師升らが反発して殺され、北部九州の倭国が師升の一味に乗っ取られてしまいます。これがスサノヲが高天原を追放された神話とされています(「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)」参照)。

クーデターを逃れた弟ニギハヤヒがムナカタ族(王はスサノヲの王子イタケルの子孫、代々久々遅彦、狗奴国の官狗古智卑狗を襲名、「狗古智卑狗という人物?(^_-)-☆」参照)の助けを借りて吉備を平定して奴国を再興します。第19代王天照大神尊として、楯築王墓に葬られています。纏向でヤマト王権を成立させたのはニギハヤヒ大王直系の子孫で狗奴国のヒコミコ大王です(「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)」参照)。記紀では開化・崇神天皇に当たります。

このように記紀神話はすべて史実を誤魔化すために創作されたものです。天武天皇が日本書紀編纂を命じたので、多くの方が天皇家の歴史書だと思い違いをしていますが、関裕二さんが見抜いたとおり、藤原氏が権力を握り続けるために、建国で活躍した人々を祖先に持つ豪族を没落させるのが真の目的でした。九州遠征した景行天皇・日本武尊・仲哀天皇も実は創作です(「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」参照)。すべて考古学の成果から分かりました。二世紀末から三世紀の倭国大乱やその後の崇神紀の四道将軍の遠征に対応する戦跡を鉄鏃・銅鏃の出土状況からその痕跡を発見しましたので、よろしければ拙ブログ「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。

神武東征神話は、神功皇后による応神東征と同じ九州から大和に攻め上る神話ですが、考古学の成果と矛盾します(「なぜヤマト王権の始まりが分かるの?( ^)o(^ )」参照)。崇神紀にある大物主大神(大国主久々遅彦)の子大田田根子を纏向に呼び寄せて祭祀王とした史実を誤魔化すために作られたと関裕二さんも推理しています。南九州は神功皇后台与と子のホムダワケが落ち延びたところと推理されていますが、台与は伊都国で戦死し、平原王墓で葬られています(「【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?(^_-)-☆」参照)。恐らく壬申の乱で天武帝から宮崎県東臼杵郡美郷町に逃げた百済王の話から作られたのではないかと考えられます(荒木博之「百済王族伝説の謎―日向・百済・飛鳥はトライアングルだった」三一書房 参照)。出発地と到着地は逆ですが、同じルートではないかと思われます。長々と、失礼しました。(2022.3.14 紫字およびリンク先を追加訂正)



【付録】「宋史 王年代紀」
 其の年代紀に記す所に云う。
 初めの主は天御中主(あめのみなかぬし)と号す。
 次は天村雲尊(あめのむらくものみこと)と曰い、其の後は皆な尊を以って号と爲す。
 次は天八重雲尊(あめのやえくものみこと)。
 次は天彌聞尊(あめのににぎのみこと)。
 次は天忍勝尊(あめのおしかつのみこと)。
 次は贍波尊(みなみのみこと)。
 次は萬魂尊(よろずむすひのみこと)。
 次は利利魂尊(ととむすひのみこと)。
 次は國狭槌尊(くにさづちのみこと)。
 次は角龔魂尊(つのそむすひのみこと)。
 次は汲津丹尊(くみつにのみこと)。
 次は面垂見尊(おもだるみのみこと)。
 次は國常立尊(くにとこたちのみこと)。
 次は天鑑尊(あめのかがみのみこと)。
 次は天萬尊(あめのよろずのみこと)。
 次は沫名杵尊(あわなぎのみこと)。
 次は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)。
 次は素戔烏尊(すさのおのみこと)。
 次は天照大神尊(あまてらすおおみかみのみこと)。
 次は正哉吾勝速日天押穂耳尊(まさかあかつはやひあめのおしほみみのみこと)。
 次は天彦尊(あまつひこのみこと)。
 次は炎尊(ほむらのみこと)。
 次は彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)。 凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す。
 彦瀲の第四子を神武天皇と号す。 筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す。
 即位の元年甲寅は周の僖王の時に當る也。
 次は綏靖天皇。・・・・・
(2020.5.30 王の読みを『日本書紀が伝える「筑豊百余国の王たち」【連載 新説・日本書紀②】2018年02月07日』により追加)


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【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!

2022-03-09 18:25:01 | 古代史
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古代史ファンに一番人気の卑弥呼のことがすべてわかります。ゆっくりとお付き合いください(*^▽^*)


誤解と幻想の卑弥呼(*^▽^*)<お勧め記事>

卑弥呼の墓は意外なところにあった!
卑弥呼の墓は見つかってるよ(^◇^)<人気記事>
本当に卑弥呼の墓なのか?(^◇^)
卑弥呼の墓の伝承の謎だよ(^_-)-☆
卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?
卑弥呼の巨大円墳が日本最大だよ!
卑弥呼の墓は今?NEW
三柱山古墳の現状をリポートします(#^.^#)

卑弥呼の死の前後の様子を推理しました!
卑弥呼の日食が古代史の謎を解くカギ?
卑弥呼が見た日食はこれだ(*^▽^*)
卑弥呼の日食は珍しい日没帯食だったのか?(^◇^)

なぜ宇佐神宮に多くの謎があるのか?
卑弥呼は何故隠された?(´・ω・`)<お勧め記事>
卑弥呼を不比等から護った人物?(;一_一)
卑弥呼はどのように隠された?(;´Д`)

近江八幡は卑弥呼が日食で殺されたことを示唆するムナカタ族の神社だったのか(^_-)-☆
【大発見か?】卑弥呼が日觸神社で祀られていた(^_-)-☆
卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)

卑弥呼の名前で祀られる神社はないですよ( ^)o(^ )
卑弥呼神社?弁天様ですよ(^_-)-☆

卑弥呼の鬼道とは?NEW

いろいろと、卑弥呼の画像を探しましたが、この方のような、お目めパッチリのとても美人だったと思いますよ(^_-)-☆
 
滋賀県守山市から10kmほど北東に行くと卑弥呼を祀る日牟禮八幡宮がありますよ!琵琶湖のこのあたりは縄文系海人族の姫巫女で、卑弥呼の宗女の女王台与(神功皇后のモデル)の出身地ですから、台与もこんな感じの美人でしたよ( ^)o(^ )!


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古墳人が現代日本人に近いの?( ゚Д゚)

2022-03-07 23:18:02 | 古代史
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昨年9月、金沢大学の研究者のチームが、「日本列島の遺跡から出土した縄文人・弥生人・古墳時代人のパレオゲノミクス(※)解析を行い,現代における日本人集団のゲノムが3つの祖先集団で構成されていることを世界で初めて明らかにしました。」本研究では「日本列島の遺跡出土人骨から新たに12個体(縄文人9個体・古墳人3個体)のゲノムデータの取得に成功し」「その結果,縄文人の祖先集団はおおよそ20,000~15,000年前に大陸の基層集団から分かれ,初期集団は1,000人程度の小さな集団サイズを維持していたことが分かりました。そして,弥生時代には北東アジアに起源をもつ集団が,古墳時代には東アジアの集団がそれぞれ日本列島に渡ってきたことが明らかとなりました。本研究では,自然人類学においてこれまで主流であった『日本人の二重構造モデル』をさらに発展させた,『日本人の三重構造モデル』を新たに提唱しました。」という研究成果を発表されました。
※古い生物遺体から生物の全遺伝情報を抽出し,比較解析する研究領域,研究手法のこと。パレオゲノミクスによって,遺跡から検出された被葬者間の血縁関係や親族関係について直接的なデータに基づいて評価が可能である。


2021年9月21日 金沢大学 > 研究トピック > パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造 )

二重構造モデルに関しては、昨年12月に以下のような記事がありました。
日本人の起源めぐる「二重構造」説、ゲノム研究で検証
文化往来 2021年12月15日 5:00 日経新聞

日本人の起源を示す「二重構造モデル」は東南アジア系の縄文人に北方アジア系の渡来人が混血し日本人が形成されたとする。東京大学名誉教授、国際日本文化研究センター(日文研)名誉教授の埴原和郎(1927~2004年)がこの仮説を発表して30年。ゲノム(遺伝情報)解析を通じて日本列島(ヤポネシア)の人々の起源を探る「ヤポネシアゲノム」プロジェクトと日文研は11月下旬、二重構造モデルを問い直すシンポジウムを開いた。遺伝情報を担うDNAの分析は1990年代後半から急速に進展したが、そこでも二重構造モデルは支持されているという。ただ、北海道など地域の特性や弥生時代以降の長期的な渡来に目を向けるべきだ、などと課題を指摘する声も出た。

ヤポネシアゲノムを率いる国立遺伝学研究所教授の斎藤成也氏は二重構造モデルを「妥当」とする一方で「(弥生人を2つに分ける)『内なる二重構造モデル』を私は提唱する」と述べた。古代人骨のDNA分析を多数手がけた国立科学博物館館長の篠田謙一氏は「二重構造モデルは日本列島の成立を統一的に説明する。ただし、北海道に関してはオホーツク文化圏など周辺の遺伝的影響を受けている」などと語った。

弥生時代から古墳時代までの渡来人は最大で100万人以上に上るという説も埴原は発表した。「30年前は弥生時代は紀元前5~4世紀に始まると考えられていたが、近年は紀元前10~8世紀まで遡るという研究者が主流。それに伴い、日本列島に人が渡った大陸側の事情も変わってきた」と国立歴史民俗博物館(歴博)教授の藤尾慎一郎氏は指摘する。もっとも、「渡来100万人説」に関しては、パネル討論で歴博名誉教授の春成秀爾氏が「九州北部の遺跡の出土状況を見ると考えにくい」と反論した。いずれにしても二重構造モデルをめぐって様々な議論が交わされるのは、この仮説が刺激的であるからに他ならない。
(中野稔)

ということで、上の図に示された金沢大学の研究チームの成果は、弥生時代になって北東アジアをルーツとする人が縄文人と混血し、さらに古墳時代になって東アジアをルーツとする人と混血が進み、ほぼ古墳時代までで現代の本州の日本人が形成されたということのようです。

旧石器人、縄文人、弥生人、古墳人、・・・現代日本人というような時代ごとに、日本列島に住んだ人々を区別して呼んでいるわけですが、時代間の日本列島の住人を比較する場合には意味があると思われますが、例えば、縄文人と弥生人という区別は、弥生時代に縄文人はいなかったという誤解を生むことになるかも知れないので、使い方は注意が必要ですね。

それで、刮目天はすでにY染色体DNA解析の結果と弥生から古墳初頭の考古学などの成果に基づく日本建国過程の仮説から日本と周辺の国々の民族の父系のルーツを調べています。(2022.3.8 赤字追加)



縄文時代晩期(紀元前11世紀ころ)には半島にすでに縄文人がいましたし、揚子江河口付近(江南)の倭人が半島南部に訪れていた痕跡もありますから、このころにはすでに縄文人と江南の倭人が混血した可能性があります。

紀元前10世紀に北部九州で倭人の水田稲作技術が導入されています。紀元前473年に滅亡した呉の王族が半島南部を経由して弥生中期初頭(紀元前4世紀)には福岡市吉武・高木遺跡に居住していたと突き止めました。そして弥生中期の中ごろに徐福の約3千人のシナ人(O2)の一行が北部九州に来て、青銅器を北部九州で製造できるようになったと考えています。中期後葉(紀元前2世紀)にはシナ人の商人(華僑)が伊都国三雲遺跡番上地区に居住していました。つまり、江南系倭人(O-47z)と縄文系倭人(D-M55)とシナ人(O2)とが混血して弥生人となっていたとわかります。

ということは、二重構造モデルの弥生人が北東アジアをルーツとする人と縄文人が混血して形成されたという説は考古学の成果などと矛盾します。江南系倭人とシナ人は中国大陸からですから、東アジアの人々と縄文系倭人との混血が弥生時代には起っているということです。ちなみに、北方アジア人(C2)をルーツとする現代日本人男性は3%程度です。

さらに三重構造モデルの古墳時代になって東アジアの人々と混血して現代の本州日本人が形成されたという説も納得できません。古墳時代は3世紀後半から7世紀ごろまでを言いますので、今回の古墳人のデータがいつごろなのか、幅が広すぎてよくわかりませんが、すでに弥生時代には東アジアの人々(江南系倭人と華僑)と混血していると考えられます。金沢大学の研究で使用した古墳人のデータはわずか3個体ですし、縄文人が9個体とありますから弥生人のデータはなかったということです。もう少し、データを貯めてからでないと正確な議論はできないと思いますね。

また、ミトコンドリアDNAの解析から現代日本人の母系のルーツは以下のとおり分かっています。



M7aは列島に固有の縄文人の男性(D-M55)の祖と共に北東アジアで発生したハプロタイプの可能性がありますから、M7aとD4が北東アジア系ですかね。B4系統は縄文時代にはすでに列島にいて、台湾、フィリピン、太平洋島嶼を中心に分布しています。N9は東アジアから北東アジア系でしょう。残りのハプロタイプF1は東アジアで発生したものと考えられます(注)。

ですから、図1の縄文祖先、東北アジア先祖、東アジア先祖の割合は父系と母系の遺伝子によって起こっていますので、金沢大学の研究成果が正しいとしたら、素人考えかもしれませんが、混血を繰り返すたびに元の父系の遺伝子が母親の遺伝子に完全に置き換わった結果と解釈することができるのでしょうか?詳しい方にお聞きしたいと思います。いずれにしても、もっとデータを増やしてもらって、Y染色体やミトコンドリアのDNA解析結果と整合性がある必要がありますから、今後の研究に期待したいですね(#^.^#)(2022.3.8 赤字追加)


(注)日本列島にみられるmtDNA
「D4 (3010, 8414, 14668) :北東アジアでよくみられ、日本人、琉球人、朝鮮人、モンゴル人などでは最も高頻度で観察されるタイプであり、とりわけ日本人及び琉球人に於いてその頻度が高い。」ハプログループD (mtDNA)

Wiki「ハプログループM7a (mtDNA)」によると「約4万年以上前に誕生したアジア最大の母系グループ[1]である「M」型から分岐したM7より分岐したグループで、約2万5000年前に「スンダランド」で誕生し北上して日本列島に到達した系統にあたる[2]とする見方がある一方で、シベリア南部 - 極東あたりで発生したとする見方もある[3]。」

また、Wiki「ハプログループF(mtDNA)」によれば、「日本列島では、沖縄・宮崎をはじめ各府県にも分布し、北海道にも多少その痕跡が見られることから、縄文時代には既に南方諸島から北上したことがうかがえ、現在、日本人の約5.4%がこのハプログループFに属している[18][19][20]。」

ハプログループN9は、N9a、N9b、Yの3つの下位系統に分かれる。このうちYはアイヌを含むオホーツク海沿岸に多い(詳細はハプログループY (mtDNA)を参照)。ハプログループN9aは東アジア、東南アジア、中央アジアに広くみられるが、とくに中国南部や台湾先住民に比較的多く見出される[2]。一方のN9bは朝鮮半島や沿海州の先住民にもわずかに見られるが、基本的には日本にその分布が限られている[3]。Wiki「DNAハプログループN9 (mtDNA)」より)。

ハプログループB (mtDNA)の型の祖系の「R11'B」は、ヨーロッパの白人の母系などと祖を同じくする「N」型から分岐した系統にあたる[2]。ハプログループBは、約4~5万年前にアジアで分岐し、東南アジアやポリネシアなどといった南方に広まった代表的なグループである[3]。
縄文時代には既にこのB系統が日本列島にいたことが縄文人骨の解析などから明らかとなっており、現在では、特に東京と宮崎で多く検出される[9]。日本人に占める割合はB4(9.1%)、B5(4.3%)である[10]。



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