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古代史ランキング
前回の続きです。
第10話 考古学資料で解明/新・卑弥呼はここにいた【古代史探索の旅Ⅲ】
378 回視聴2022/03/23 これはどうでしょう様@YouTube
(2)邪馬台国・投馬国は佐賀平野・筑紫平野にあったか?
⑥筑紫平野・佐賀平野の人口
当時の日本列島の人口は60万人位だったとする推計がありますので、投馬国20万人、邪馬台国28万人は現実的ではない、と考える方が理にかなっていると思っています。
佐賀平野や筑紫平野は現在と違い当時は筑後川などの流域はかなり広い湿地帯だったようですから、50万人規模の人が居住していたとは考えにくいですね。現実的ではないと考えられているとのことですから、なぜ七万戸・五万戸のような数字が出てきたのか?魏志倭人伝の記述の理由を検討されているのかをお聞きしたわけです。わたしは、邪馬台国への行程記事は政治的な理由で魏使の報告書が書かれ、それに基づいて陳寿が書いたのだと推理しています。つまり、従来は漢字を読み書きできない倭人から聞き取り、韻書の筆頭の文字を当てたとなっていたのですが、最近、当時の倭人の中に漢字を読み書きできた人物が居た証拠が出てきて、従来の説が覆っていますので、この推理を裏付けています。拙ブログ「変わる弥生時代観!」「【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆」などをご参照ください。
⑦邪馬台国が投馬国の北側に隣接?
投馬国位置の提案は一つの案です。
あくまでも、筑紫平野=邪馬台国の南が狗奴国です。
ですから、邪馬台国の南に狗奴国があったというのもあてにならないということです。卑弥呼が共立される前は、纏向の狗奴国勢力の中の狗古智卑狗が率いる部隊が大分県大野川流域から阿蘇・熊本に軍事基地を作って佐賀平野・筑紫平野そして福岡平野から糸島平野まで襲撃した痕跡を鉄鏃の出土状況から発見しました。
ところが、狗古智卑狗が倭国側の軍勢に襲われて戦死した証拠として、糸島平野福岡平野の住居跡から銅鏃が見つかり、方保田東原遺跡とうてな遺跡の溝から倭国側のものと見られる銅鏃が見つかっていますので、倭国側に襲撃されたと推理しました。さらに、狗古智卑狗の墓まで分かりました。詳しくは拙ブログ「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その2)」をご参照ください!
(3)狗奴国の鉄はどこから?
⑧当時独自に鉄の入手ルートを持っていただろうと推測できる程の鉄製品製造地域は、伊都国・奴国以外では、ここ菊鹿盆地あたりと丹波の国だけだろうと思っています。
入手先は半島でしょう。
申し上げたとおり、卑弥呼が共立されるまでは半島南部への魏志倭人伝のルートは倭国側に抑えられていたので、北九州市付近から沖ノ島経由のルートで半島南部に渡り、鉄素材を入手していたと考えています。方保田東原遺跡には山陰・畿内の土器が出ており、倭国はその東側の狗奴国勢力と戦っていた模様が分かります。卑弥呼が登場してからは狗奴国側は半島南部に渡れなくなったので、纏向に政治都市を作り旧奴国の王族を集めたと突き止めました。拙ブログ「【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚)」などを参照ください。
(4)卑弥呼の正体は?
⑨卑弥呼共立前の連合体制は、伊都国連合、奴国連合、邪馬台国連合、そして狗奴国だろうと思っています。
魏志倭人伝では前者3連合が女王国連合になっていた訳ですので、狗奴国の北上しかないと考えました。
軍事的には邪馬台国優位での連合ですから、卑弥呼自身は元伊都国の女王だった人なのかなあ、とも。
そして軟禁状態だった可能性もあると見ています。
卑弥呼が共立される前の倭国は107年に後漢に朝貢した師升王の一族が伊都国を王都として、奴国・末盧国・筑紫平野・佐賀平野の国々を治めていたと考えています。それに敵対する狗奴国は倭国以東の国々ですが、上で述べた沖ノ島ルートを支配していたのは縄文海人ムナカタ族の赤坂比古一派(和邇氏の祖)だと分かりました。ムナカタ族が王と仰いでいた狗古智卑狗が戦死したので、伊都国の倭国王難升米に懐柔され、赤坂比古が狗奴国を裏切って倭国側に着いたと推理しました。卑弥呼はムナカタ族の姫巫女だと突き止めました。日本書紀では宗像三女神として隠しましたが、宇佐神宮の祭神比売大神イチキシマヒメがその正体です。大和朝廷が最も畏れた神々の一柱ですので、日本全国で祀られています。沖ノ島祭祀も卑弥呼を祀っていたと推理しています。魏志倭人伝では政治的な理由で女王としたと分かりました。魏に使いした大夫難升米は魏から直接軍旗を授かっていますので、倭国王だと分かります。師升王の子孫であることも分かりました。証拠も出てきました。拙ブログ「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」「【検証22】難升米という人物は?(その1)」をご参照ください。
(5)ヤマト王権との関係は?
⑩これからゆっくり解明していきたい所存です。
一つ言えるのは、畿内勢力が北部九州に侵攻してくるのはもっと後の話です。甕の話で誤解されている方も多いですが、庄内式甕の前から吉備甕も含めて、瀬戸内を広く東西に流通しています。主な製作地は吉備、播磨、河内などです。まだ纏向の出番はありません。広く流通している甕は政権・王権の進出の証しなどではありません。
その証拠に、当時それらの土器が入ってきていた、日本最大最新の都市ともいえる比恵・那珂遺跡の集落に、征服された痕跡は何一つなく、数百年間発展していき古墳時代にそのまま入っています。
是非、ご検討ください。
奴国は師升によって二世紀初頭に滅ぼされますが、その前は奴国の比恵・那珂遺跡が列島内の交易センターでしたから色々なところから人々が来ています。奴国が滅ぼされた当初は楽浪郡と倭国の交易が盛んで来たので、吉備の人たちだけでなく瀬戸内の人々は奴国の交易センターに出かけています。
後漢王朝が内部抗争の為に半島支配が弱体化して韓・濊人が暴れ、倭国は楽浪郡と交易できなくなって衰退します。一方、半島南部にコネのあった奴国最後の王スサノヲの子孫の狗古智卑狗が旧奴国に鉄素材や鉄製の武器を作って供給し、スサノヲの弟ニギハヤヒが吉備を平定して奴国を再興しました。楯築王墓の被葬者です。その子孫が河内から纏向に移り政治都市を築き、旧奴国勢を集めて、倭国討伐します。そこから少しややこしいのですが、最終的に九州を滅ぼし、列島全体も支配下に置いてヤマト王権が成立したと推理しました。これについても弥生終末期から古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて判明しています。よろしければこれも拙ブログ「鉄鏃・銅族の出土状況のデータ共有」「【検証19】日本建国のための戦いだ!」「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)」などをご参照ください。
最後に、甕棺墓が衰退したのは卑弥呼が登場してからだと推理しています。太陽神のお告げによって政治を行う様式に倭国の伝統祭祀による政治を難升米王が変えたことと関係あると思います。その時代から筑紫平野に縄文系の箱型石棺が多くみられるようになるのでそう推理できます。
いろいろと教えていただき感謝いたします。拙ブログにこのやり取りを掲載させていただきますので、何かお気づきの点がございましたら、コメントいただけると有り難いです。どうぞよろしくお願い致します。取り敢えず、どうもありがとうございました。
【関連記事】
卑弥呼の宮室が日田盆地だったのか?
まだのかたは、こちらを先にご参照ください(*^▽^*)
最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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⑥筑紫平野・佐賀平野の人口
当時の日本列島の人口は60万人位だったとする推計がありますので、投馬国20万人、邪馬台国28万人は現実的ではない、と考える方が理にかなっていると思っています。
佐賀平野や筑紫平野は現在と違い当時は筑後川などの流域はかなり広い湿地帯だったようですから、50万人規模の人が居住していたとは考えにくいですね。現実的ではないと考えられているとのことですから、なぜ七万戸・五万戸のような数字が出てきたのか?魏志倭人伝の記述の理由を検討されているのかをお聞きしたわけです。わたしは、邪馬台国への行程記事は政治的な理由で魏使の報告書が書かれ、それに基づいて陳寿が書いたのだと推理しています。つまり、従来は漢字を読み書きできない倭人から聞き取り、韻書の筆頭の文字を当てたとなっていたのですが、最近、当時の倭人の中に漢字を読み書きできた人物が居た証拠が出てきて、従来の説が覆っていますので、この推理を裏付けています。拙ブログ「変わる弥生時代観!」「【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆」などをご参照ください。
⑦邪馬台国が投馬国の北側に隣接?
投馬国位置の提案は一つの案です。
あくまでも、筑紫平野=邪馬台国の南が狗奴国です。
ですから、邪馬台国の南に狗奴国があったというのもあてにならないということです。卑弥呼が共立される前は、纏向の狗奴国勢力の中の狗古智卑狗が率いる部隊が大分県大野川流域から阿蘇・熊本に軍事基地を作って佐賀平野・筑紫平野そして福岡平野から糸島平野まで襲撃した痕跡を鉄鏃の出土状況から発見しました。
ところが、狗古智卑狗が倭国側の軍勢に襲われて戦死した証拠として、糸島平野福岡平野の住居跡から銅鏃が見つかり、方保田東原遺跡とうてな遺跡の溝から倭国側のものと見られる銅鏃が見つかっていますので、倭国側に襲撃されたと推理しました。さらに、狗古智卑狗の墓まで分かりました。詳しくは拙ブログ「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その2)」をご参照ください!
(3)狗奴国の鉄はどこから?
⑧当時独自に鉄の入手ルートを持っていただろうと推測できる程の鉄製品製造地域は、伊都国・奴国以外では、ここ菊鹿盆地あたりと丹波の国だけだろうと思っています。
入手先は半島でしょう。
申し上げたとおり、卑弥呼が共立されるまでは半島南部への魏志倭人伝のルートは倭国側に抑えられていたので、北九州市付近から沖ノ島経由のルートで半島南部に渡り、鉄素材を入手していたと考えています。方保田東原遺跡には山陰・畿内の土器が出ており、倭国はその東側の狗奴国勢力と戦っていた模様が分かります。卑弥呼が登場してからは狗奴国側は半島南部に渡れなくなったので、纏向に政治都市を作り旧奴国の王族を集めたと突き止めました。拙ブログ「【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚)」などを参照ください。
(4)卑弥呼の正体は?
⑨卑弥呼共立前の連合体制は、伊都国連合、奴国連合、邪馬台国連合、そして狗奴国だろうと思っています。
魏志倭人伝では前者3連合が女王国連合になっていた訳ですので、狗奴国の北上しかないと考えました。
軍事的には邪馬台国優位での連合ですから、卑弥呼自身は元伊都国の女王だった人なのかなあ、とも。
そして軟禁状態だった可能性もあると見ています。
卑弥呼が共立される前の倭国は107年に後漢に朝貢した師升王の一族が伊都国を王都として、奴国・末盧国・筑紫平野・佐賀平野の国々を治めていたと考えています。それに敵対する狗奴国は倭国以東の国々ですが、上で述べた沖ノ島ルートを支配していたのは縄文海人ムナカタ族の赤坂比古一派(和邇氏の祖)だと分かりました。ムナカタ族が王と仰いでいた狗古智卑狗が戦死したので、伊都国の倭国王難升米に懐柔され、赤坂比古が狗奴国を裏切って倭国側に着いたと推理しました。卑弥呼はムナカタ族の姫巫女だと突き止めました。日本書紀では宗像三女神として隠しましたが、宇佐神宮の祭神比売大神イチキシマヒメがその正体です。大和朝廷が最も畏れた神々の一柱ですので、日本全国で祀られています。沖ノ島祭祀も卑弥呼を祀っていたと推理しています。魏志倭人伝では政治的な理由で女王としたと分かりました。魏に使いした大夫難升米は魏から直接軍旗を授かっていますので、倭国王だと分かります。師升王の子孫であることも分かりました。証拠も出てきました。拙ブログ「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」「【検証22】難升米という人物は?(その1)」をご参照ください。
(5)ヤマト王権との関係は?
⑩これからゆっくり解明していきたい所存です。
一つ言えるのは、畿内勢力が北部九州に侵攻してくるのはもっと後の話です。甕の話で誤解されている方も多いですが、庄内式甕の前から吉備甕も含めて、瀬戸内を広く東西に流通しています。主な製作地は吉備、播磨、河内などです。まだ纏向の出番はありません。広く流通している甕は政権・王権の進出の証しなどではありません。
その証拠に、当時それらの土器が入ってきていた、日本最大最新の都市ともいえる比恵・那珂遺跡の集落に、征服された痕跡は何一つなく、数百年間発展していき古墳時代にそのまま入っています。
是非、ご検討ください。
奴国は師升によって二世紀初頭に滅ぼされますが、その前は奴国の比恵・那珂遺跡が列島内の交易センターでしたから色々なところから人々が来ています。奴国が滅ぼされた当初は楽浪郡と倭国の交易が盛んで来たので、吉備の人たちだけでなく瀬戸内の人々は奴国の交易センターに出かけています。
後漢王朝が内部抗争の為に半島支配が弱体化して韓・濊人が暴れ、倭国は楽浪郡と交易できなくなって衰退します。一方、半島南部にコネのあった奴国最後の王スサノヲの子孫の狗古智卑狗が旧奴国に鉄素材や鉄製の武器を作って供給し、スサノヲの弟ニギハヤヒが吉備を平定して奴国を再興しました。楯築王墓の被葬者です。その子孫が河内から纏向に移り政治都市を築き、旧奴国勢を集めて、倭国討伐します。そこから少しややこしいのですが、最終的に九州を滅ぼし、列島全体も支配下に置いてヤマト王権が成立したと推理しました。これについても弥生終末期から古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて判明しています。よろしければこれも拙ブログ「鉄鏃・銅族の出土状況のデータ共有」「【検証19】日本建国のための戦いだ!」「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)」などをご参照ください。
最後に、甕棺墓が衰退したのは卑弥呼が登場してからだと推理しています。太陽神のお告げによって政治を行う様式に倭国の伝統祭祀による政治を難升米王が変えたことと関係あると思います。その時代から筑紫平野に縄文系の箱型石棺が多くみられるようになるのでそう推理できます。
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