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邪馬台国はヤマタイコクと読まない?(*^。^*)

2023-07-15 01:31:02 | 古代史
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2018-05-06 00:53:05に記事にしたものですが、少しだけ追加して掲載します。お付き合いください(#^.^#)

【邪馬台国】2邪馬台国はヤマト国と読む
まあちゃん 2018/02/03 に公開 YouTube

邪馬台国から続く日本の成立を探求しています。邪馬台国を「やまたいこく」とよんだところから日本の成立場所が分からなくなったと思っています。邪馬台国は、「やまとこく」と呼びます。日本の始まりは邪馬台国であり、邪馬台国の場所は九州北部でしかありえません。それを立証するのがこのチャンネルの目的です。このシリーズを見ていただくと納得していただけると思います。

邪馬台国(やまたいこく/やまとのくに)は、2世紀 - 3世紀に日本列島に存在したとされる国(くに)のひとつ。邪馬台国は倭女王卑弥呼の宮室があった女王国であり、倭国連合(邪馬台国連合)の都があったとされている。古くから大和国(やまとこく)の音訳として認知されていたが[注釈 1]、江戸時代に新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づき音読した[注釈 2] ことから「やまたいこく」の読み方が広まった。日本の文献には邪馬台国や卑弥呼の存在は一切記載は無く日本では存在は立証されていない。所在地について、今も議論が続いている。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/04 02:00 UTC 版)


邪馬台国の「台」は「ト」と読め、山門(ヤマト)ではないかという説がありますが、大和(ヤマト)を日本書紀では「耶麻騰」「夜摩苔」と記され、古事記でも「夜麻登」と書かれて、「トゥ」に近い「ト」の音なのです。つまり、奈良時代の日本語では「ト」が甲類、「トゥ」が乙類と明確に区別されたと考えられるので、邪馬台は「ヤマト」ではなく「ヤマトゥ」の発音だったわかります(安本美典「倭人語の解読」勉制出誠 2003 pp.176-195)。

山門という地名は日本書紀神功皇后紀山門県に現れ、柳川市・みやま市にあった筑後国山門郡と比定されています。また、「和名抄」に肥後国菊池郡山門郷が見られ、播磨国風土記にも播磨国山門領(やまとのみやつこ)という役職が登場し、その場所は特定されていませんが、播磨国に山門があったと思われます。

また、寺院の山門(さんもん)はもと山に建てられ、普通、山号で呼ばれることが多い。滋賀県伊香郡西浅井町山門(やまかど)という地名も見られ、地形由来の山門(やまかど)という姓も「三重県熊野市有馬町に分布あり。三重県多気郡大台町栃原では江戸時代に農業、林業に従事していたと伝える。栃木県宇都宮市に安土桃山時代にあった。」とあります。

一方、類語で水門(ミナト)が記紀に見られます。これらのことから、山門(ヤマト)は地形を表す一般名詞として使われたと考えられます。

これらのことを考えると、邪馬台国は普通名詞の山門のことではないと考えられます。

それではどうして、奈良県大和盆地で大和と書いて「ヤマト」と呼ぶのか?については、山地への入り口という地形からという説もありますが、大和をそのように読むことはできないので、理由は別にあったと考えられます。

記紀や万葉集などで倭・大倭・日本・大日本がすべて「ヤマト、オオヤマト」と読まれています。これは纏向にあった狗奴国が列島を統一したのですが、ある理由で纏向遺跡の地を邪馬台国(ヤマトゥ)と呼ぶ必要があったのだと推理していますが、詳細は「何故、大和をヤマトと呼ぶのか?」を参照してください(^_-)-☆

そして邪馬台の台(臺)の字の意味を考えると邪馬台国の謎が解けます。

三省堂 大辞林に依れば、以下のとおりです。

【 台 ( 臺 ) 】 [音] ダイ ・タイ
①高い建造物。 「 台閣 ・灯台 ・番台 ・楼台 ・露台 ・舞台(ぶたい) 」
②物を置いたり人が上ったりする道具。 「 台座 ・縁台 ・鏡台 ・燭台 ・茶台 ・飯台 ・平均台 」
③高く,平らな土地。 「 台地 」
④もとになるもの。 「 台帳 ・台本 ・土台 」
⑤役所。 「 鎮台 ・御史台 ・弾正台 」
⑥相手に対する尊称。 「 《 ダイ 》 貴台 ・尊台 ・老台 」 「 《 タイ 》 台翰(たいかん) ・台書 ・台墨 」
天子や皇族などに対する敬語。 「 《 タイ 》 台命 ・台覧 ・台臨 」
⑧天台宗のこと。仏教の宗派の一。 「 台密 」 〔本来,「台」は我(われ)の意。物見櫓(やぐら)の意の「臺(だい)」とは別字〕


魏臺と書いて魏の明帝を指し、皇帝(王)そのものを指す場合もあるようです。

ここから、邪馬台は邪馬(ヤマ)国に住む女王で、

邪馬台国はその女王の都(クニ)という意味
と考えられます。

ちなみに、邪馬台国を宇佐市安心院町と推理しましたが(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」参照)、

宇佐市史(上巻P.324)によれば、和妙類聚抄宇佐郡野麻郷が安心院町に比定されており、当時から「ヤマ」国と呼ばれていた模様です。





安心院盆地の南側に聳える龍王山の南側の仙の岩耶馬渓と呼ばれてますよ(*^▽^*)。


ちなみに安心院(あじむ)の地名の由来は、YAHOO知恵袋に依れば、以下のとおりだそうです。

①大古、安心院盆地には広大な湖が在り、一面に葦の生い茂った
土地であったことから、「葦生」と書いて(あじぶ)→(あじむ)と転訛した。

②八幡大菩薩が各地遊化の途中、18番目に行幸したのが比咩大神(比売
神〈ひめがみ〉)の故地・都麻垣(宇佐宮八摂社の1つ妻垣社:現在の宇佐市
安心院町妻垣203=妻垣神社)において修行をし、利生を語り合った結果として、
安楽の御心を得られたため、安心院と言った。『八幡宇佐 宮御託宣集』

③筑前糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東区和白〜粕屋郡新宮町付近)を
本拠地として全国に移動した阿曇(あずみ)族がこの地に定住し、宇佐八幡
宮の奥の院であるこの地を守ったことから、あじみの院→安心院。


宇佐神宮本殿の応神天皇と神功皇后の間に挟まれた

二の御殿に祀られる比咩大神(比売神〈ひめがみ〉)が

宇佐嶋に降臨した奴国王族に繋がる縄文海人ムナカタ族の姫巫女「卑弥呼」

と考えています。


第一次倭国大乱期に海に面して危険な宗像の地(不弥(ウミ)国)から安全なヤマ国に疎開したわけで、

この地が、女院=三后・准后・女御・内親王などで、特に院号を与えられるような高貴なお方)のこころを安んじたという故事に因むのが正解ではないかな(^_-)-☆

九州での戦乱を終結させるために

伊都国に住む倭国王と玄界灘を支配したムナカタ族(和邇氏の祖)が和解して女王に立てた後も(注1)、

この安心院の宮室(三女神社)の下の河原に湧き出ている天然温泉に入って、コラーゲンたっぷりのすっぽん料理を食べて、どぶろく(濁り酒)を飲んで快適に暮らしていたんじゃないでしょうか(*^-^*)

(注1)魏志倭人伝には女王とされていますが、これは政治的な理由で書かれたものです(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。倭国王がムナカタ族を懐柔しましたが、ムナカタ族の族長の姫巫女(ヒメゴ)に太陽神が憑依して告げる神託に基づいて政治を行う条件でムナカタ族は狗奴国を裏切ったと推理しています(詳細は「【刮目天の古代史】宇佐八幡のなぞが真相へ導く!」参照)。

【関連記事】
【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!
卑弥呼について詳しく説明していますよ(^_-)-☆

【刮目天の古代史】邪馬台国の謎

詳細は「投馬国へ水行してみませんか?」参照。


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