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【わかった!】隅田八幡神社人物画像鏡のなぞ(^_-)-☆

2024-07-09 00:00:04 | 古代史
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和歌山県橋本市隅田八幡神社所蔵の青銅製で径19.9cmの人物画像鏡です。その周縁部の漢字48字の銘文に古代大王名などの人名が記されています。古代史解明のための重要な資料ですので国宝に指定されています。

金石文の内容はwiki「隅田八幡神社人物画像鏡」によると、
癸未(きび、みずのとひつじ)の年八月 日十大王の年、男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて開中費直(かわちのあたい)、穢人(漢人)今州利の二人らを遣わして白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る。」です。

癸未年を443年とするか503年とする説がありますが、諱に「斯麻(三国史記・三国遺事では斯摩)」を持つ百済の武寧王(在位:502年 - 523年)が作らせたと見るのが妥当ですので、503年説が正解だと思います。

「日十」を「日下(くさか)」つまり日本(ヤマト)と読み替えると、「ヤマトの大王の癸未の年八月」と読めます。「男弟王」を継体天皇の諱「乎富等、袁本杼(ヲホド)」とする説がありますが、「男弟」は「ヲオト」であり完全に一致しません。また、日本書紀によれば、継体天皇の在位は507年ー531年ですので該当しません。そして継体天皇は越前などに本拠地があり、新羅系と考えられますので反百済の大王のはずですから、百済王から鏡を贈られる理由が分かりません。単なる外交儀礼なのかも知れませんが、それにしては河内直(かわちのあたい)は百済王権に仕えた倭系百済官僚です。河内は物部氏と強い関わりがありますので親百済ではない継体天皇に贈る銘文に書く内容でもないと思います。

武烈天皇の在位が499年ー506年になり該当します。「三国史記」によれば502年に倭軍が新羅を攻め、その結果新羅王が薨去したとありますので、百済武寧王は武烈天皇に感謝の意味で鏡を贈ったと考えるのが妥当と思われます。

また、「中国の史書『梁書』武帝紀では、武烈天皇4年にあたる壬午年(502年)4月、(天監元年4月戊辰条)に「鎮東大将軍 倭王」の武が「征東将軍」を進号されたと記載されている」とありますので、この「三国史記」の記事を裏付けるものでしょう。

wiki「倭の五王」によれば、倭王「武」は478年(昇明2年)に宋に『上表して、自ら「開府儀同三司」[注 5]と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする』と記録されています(『宋書』順帝紀、夷蛮伝)。また翌年479年(建元1年)には南斉の高帝の『王朝樹立に伴い、倭王の武を「鎮東大将軍」(征東将軍)に進号』(『南斉書』東南夷伝)とあります。

この時の倭王「武」は雄略天皇ですが、489年に崩御しています(【関連記事】「空白の世紀と倭の五王の謎(その3)」図参照)。

武烈天皇の和風諡号は「小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)」ですので、雄略天皇(大泊瀬幼武天皇)と仁徳天皇(大鷦鷯天皇)の和風諡号から作られたものになっています。これはよく分かりませんが、武烈天皇が倭王「武」として朝貢したか、シナの王朝に朝貢していた雄略天皇と似た名前なので「梁」の武帝が武烈天皇を倭王「武」と解釈したのではないかと思います。

それから「男弟(ヲオト)王」という名称ですが、魏志倭人伝の卑弥呼の政治を補佐する人物を連想します。武烈天皇も姉の姫巫女が発する太陽神の神託に基づく政治形態でしたので、男弟王と呼んだのではないかと思います。父仁賢天皇には七人の皇女がおり、武烈天皇が唯一の男子だったのですが、武烈天皇の同母姉に手白香皇女(継体天皇后)と橘仲皇女(宣化天皇后)がいましたので、どちらかが姫巫女だったのではないかと思います(琉球神道のヲナリ神、詳細は「誤解と幻想の卑弥呼」参照)。

武烈天皇は日本書紀では泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや、桜井市出雲に比定)を都として、悪逆非道の異常行動が記録されていますが、古事記には一切ありませんので、継体天皇を登場させるための日本書紀のデマのようです。「意柴沙加(おしさか)の宮」は桜井市忍阪と考えると、桜井市出雲とは1kmも離れていませんので、神社を探しました。

忍坂坐生根神社(おしさかにますいくねじんじゃ)は式内大社で、旧社格は村社です。創建年代は不詳ですが、天平2年(730年)の『大和国正税帳』に「生根神戸」とあります。現在の祭神は少彦名神とされていますが、延喜式神名帳などに祭神が「生根神」とあり不詳です。

桜井市出雲の泊瀬列城宮跡付近に十二柱神社があり、境内には武烈天皇社の祠と「泊瀬列城宮跡」の石塔がありますが、古い形式でもなさそうです。武烈天皇(男弟王)が「意柴沙加の宮」に居たとすると、悪逆非道とされた武烈天皇ゆかりの忍坂の村民が朝廷に憚って「生根神」として祀ったのかも知れません。(;^ω^)

武烈天皇の父は億計天皇(仁賢天皇)で、履中天皇の長子市辺押磐皇子の第二子です。安康天皇が暗殺された後の後継者争いで父市辺押磐皇子が雄略天皇に殺されたため、弟弘計天皇(顕宗天皇)と共に身を隠しています。従って、武烈天皇は親新羅派の雄略天皇と敵対する親百済派の天皇と考えられますので、銘文に不明な個所はありますが、武烈天皇として矛盾はないようです。

ですから武烈天皇は実在人物と見ていいと思います。億計天皇・弘計天皇と同母姉の飯豊女王の話は作り話っぽいので、はっきりとは言えませんが、雄略天皇崩御から武烈天皇即位までの十年間はヤマトの大王は空位だったのかも知れません。高句麗が台頭し、半島情勢が不穏だったので、半島の鉄資源を確保するためにヤマトの豪族らが合議で、反雄略天皇の勢力と和睦するために武烈天皇をヤマトの大王に即位させたのではないかと思います。だから、和邇氏系の雄略天皇と尾張系(ニギハヤヒ大王系)の仁徳天皇の名前を武烈天皇に付けたではないでしょうか(#^.^#)

【関連記事】
【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?
馬韓の伯済国の倭人斯摩(百済武寧王)が502年に百済を乗っ取ったのは武烈天皇と強いつながりがあり、事前の盟約があって、倭国軍が支援したのかも知れませんね(^_-)-☆

「三国史記」によれば、高句麗の長寿王が475年9月に百済の首都漢城(ソウル特別市)に攻め入った際に、百済の蓋鹵王の命令で子の文周が新羅に救援(羅済同盟)を求め、兵1万を率いて都に戻った時には蓋鹵王は処刑されていたので、直ちに王位につき熊津(忠清南道公州市)に遷都したとあります。「日本書紀」では、雄略天皇21年(477年)3月に久麻那利(こむなり、熊津を指す)を百済の汶洲王に下賜して百済を復興をさせた、と記しているので、ヤマトの親新羅派も百済を支援していました。百済と新羅が本格的に反目しだすのは、この後のようです。武寧王の百済乗っ取り事件(502年)が関係しているのではないかと考えています。

空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その3)




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