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国宝「金印」の謎?(@_@)

2021-05-14 00:02:30 | 古代史
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NHK番組「諸説あり!」で江戸時代に志賀島で発見された金印「漢委奴国王印」が本物かどうかが疑われています。下の図は金印が発見された時期を挟んで改鋳された小判です。1601年に作られた慶長小判は純度86%で重さ18gでしたが、時代が下るとどんどん小判の質が落とされていきます(「小判の重量と金の成分比率」より)。



金印は発見された当時の江戸時代の小判の純度と比べると、ほとんど純金製です。わざわざこのような高品位の偽物の金印を亀井南冥という学者が中国に特注で作らせたとしたら、一体いくらになるのでしょうか?偽物ならばもっと安く上げるために純度を落すはずだというのが最初の疑問です。ですから、福岡市埋蔵文化財課大塚紀宣先生の「金印は駱駝紐から蛇紐に改造されたものであって、そのような偽物が作られることはない」というご見解も説得力があり、国宝金印は紛れもなく本物であって、廣陵王璽とは別の工房で、異なる技法の工人が1世紀に作ったものと考えるのがよいと思います。

しかし万が一、国宝金印が江戸時代に作られた偽物であったとしても、

後漢書に記された金印が西暦57年に後漢光武帝から奴国王に贈られた事実を否定することは誰もできないと思います。

つまり、印面の漢字の読み方に対する疑問についてはすでに解消しているのです。以下のコメントをしましたので最後までよろしくお願いします(^_-)-☆

刮目天 一
委奴国をイトコクとは読むのは間違いです。
3世紀末に書かれた魏志倭人伝には奴(ナ)国が存在することが明確に書かれ、5世紀に書かれた後漢書には倭奴国と書かれ、倭の奴(ナ)国なのです。

金印の紐(つまみ)がヘビで、ナーガと呼んだ蛇神(龍蛇神)を信仰していた江南系の倭人の国が奴国です。地名も那珂、那賀とあります。女王に従うこの出身者が造った国も魏志倭人伝には○奴国と書かれており、中や長のつく現在の地名もその名残りです。日本の最初の神が天御中主(アメニミナカヌシ)とありますから、倭人の最初の王です。福岡県の吉武高木遺跡の日本で最初の王墓が天御中主のものです。

そして、永観元年(九八三)入宋した東大寺の僧奝然(ちょうねん)が、太宗に日本の「王年代紀」を献上し、天御中主から二十三代の王が筑紫の日向の宮に居たことが書かれています。神話の高天原が奴国であることを中国が理解したことにより、「新唐書」から日本は古の倭の奴国と認知され、倭国が日本という国号に正式に改められています。

ですから、委(ワ)の奴(ナ)国という読み方が正しいのです。

その他にも、魏志倭人伝の伊都国の男王は後漢書から回土(ウィト)国王師升の子孫と分かります。これについても面白い事実が判明しています。勿論卑弥呼のことも墓も、ヤマト王権の成立過程から全部判明しています。ご興味ある方は、刮目天のブログ「古代史を推理する」へどうぞ。お邪魔しました(*^-^*)


もうひとつ、オマケです(*^-^*)
飯島俊幸さん 1 週間前
金印の意義・価値を考慮すると、発見された場所・状況にとても違和感を覚えます。金印が古墳や建物跡から発見されたとか、神社に伝えらていた、というなら腑に落ちるのですが。


刮目天一
墓でもないので不自然ですから、何かの原因でとっさに隠したのだと推理できます。
時代は江戸時代ではないと思います。実は、弥生時代中期から後期前葉まで奴国が福岡平野から筑紫平野、もちろん糸島平野の伊都国も奴国王族が支配していました。伊都国王の三雲南小路遺跡王墓からガラス璧の破片が出土しています。これは銅鏡よりも格上です。春秋の呉王・周の子爵の印章なのです。須玖岡本遺跡のD地点王墓と朝倉の王墓から見つかっていますので、呉王族であったことが分かります。宮崎県の串の山古墳からも完形の璧が発見されていますが、奴国王のものを後世の混乱時に手に入れたものと考えられます。

その奴国が2世紀初頭に宮廷楽師師升らのクーデターで滅びます。そのときに奴国王の配下の安曇族(江南系倭人)が逃走途中で志賀島に埋めたと推理しています。

師升の墓が井原鑓溝遺跡の王墓だと考えています。伊都国の東側の室見川河口で青銅製の文鎮のような漢字などの文字の書かれた室見川銘板が発見されています。「延光四年」(一二五年)と書かれていますので、師升王かその次の王が伊都国を永遠の都と定めて祭祀を整えたと記されていますから、この事実を示しています。

詳しくは刮目天のブログに在りますので、よろしければどうぞ( ^)o(^ )


古代史が難しいのは、

ある一つの事象だけを取り上げると、

このように色々な説が出て来て、

疑問がなかなか解消されないというところです。

ですから刮目天はアブダクションを用いた仮説推論を

様々な考古学の成果で検証することによって、

各事象に関する諸説のどれが最も正解らしいということが判断できるようになることを示したわけです。

つまり、従来のように諸説が氾濫して収拾がつかなかった古代史の解明は、

このような科学的手法によって解決できるということなのです。


【参考記事】<倭王帥升の謎>
倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)<人気記事>
【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆<お勧め記事>やっぱり師升は奴国の司祭だった。
伊都国が鬼払いの発祥地か?(^_-)-☆<お勧め記事>


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