刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

卑弥呼の墓は今?(@_@)

2023-08-25 18:10:17 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

フォローしている古代ミステリー研究家の百畑キクリ様のブログ「古代史を探る」に「三柱山遺跡(安心院)を見て来た」という記事を見つけましたので早速、何度もコメントのやり取りをさせていただきました(合計35件)。丁度、三柱山古墳を見学する計画を立てていましたので、大変参考になりました。改めて御礼申し上げます。今回は、今年の7月末に表題のとおり卑弥呼の墓の現況を調べましたのでご報告いたします。お付き合いください(#^.^#)

宇佐市安心院町のレジャー施設家族旅行村「安心院」に入ってすぐ左側に管理棟があり、大きな駐車場が広がっています。この写真は駐車場内から撮影された、お借りしたものですが(GoogleMap 2016.11 omotenashi.com)、この右側(北側)に見える軽食・喫茶「真賀里」の後ろのケビンが見える小山が魏志倭人伝にある径百余歩(直径約150m)の卑弥呼の墓と推理した円墳「三柱山古墳」です。写真の左側の駐車場のロータリーに十数個の立石が置かれています。どこかで見たような景色ですね(^_-)-☆




1980年頃から始まった家族旅行村建設で偶然見つかった石棺群が広い施設内に8か所あります。報告書によれば、この第8石棺群ついては、『現在、喫茶「独歩」の裏に露出しているもので、造成中にも石棺が出土したと聞く。数基の石棺群であったようである。』とあります(安心院町教育委員会「宮ノ原・三柱山所在遺跡の調査報告書」1984年3月 p.94)。しかし、百畑氏の写真から見て1基分にも満たない様子です。そして、「以上8か所の石棺群について、配置や構成はすべて不明である。」となっていますので、家族旅行村の管理棟の中に宮ノ原遺跡の出土品を展示しているとのことで、職員の方に話を聞こうと思っていたのですが、マヌケな話、休日だったのか、閉鎖されていました。先日「宇佐は記紀が隠した秘密が満載だ」でご報告した米神山登山でかなりバテましたので、その後ここに来る予定を変更したからですね。残念!とりあえず、気を取り直して、管理棟の北側の登り口から古墳に入っていきました。下の図に要点を示します。



有難いことに百畑氏からダニ対策のアドバイスを受けていたので、米神山登山と同じ長袖・長ズボンの服装で、事前にダニ除けスプレーを足元を重点に、全体にたっぷりかけて入ったので汗もたっぷりかきましたが、水分補給を十分できたので、熱中症にもならず全く問題はありませんでした。所要時間も1時間未満でした。

墳頂に近づくにつれて笹などが身長くらいの高さまで繁茂して、深い藪になっており、行く手をかき分けながら進みました。図中に歩いた経路を示しましたが、かなりアバウトです。雑草が枯れる冬場に登るのが正解のようですね(;´Д`)

鎖の柵のある場所に行く前にコンクリートの基礎が二か所ありました。建設当初は長い滑り台が墳頂の北から南にある現在の滑り台まで設置されていた模様で、その基礎が残されていたのでしょう。

そして写真①で示した鎖の柵の内部の墳頂に石棺が配置されていたはずです。ここからは傾斜がきつくてとても墳頂まで上がれませんでした。写真②には、雑草に隠れてはっきりとは見えないのですが、石棺の蓋と考えられる厚さ20cm程度、幅1mくらいの石板が立てた状態で2個置かれています。ですから、後に石棺の蓋が開けられて、副葬品なども移されたと考えられます。そして写真③のとおり、大きな岩石が柵の内部に3個くらい、外にも3個くらいあったかな?いやもっとかも知れませんが、散乱しています。古墳上ですから、一見、謎ですが、もとは祭祀用の環状列石(ストーン・サークル)だったと推理しました。そうすると最初の写真の駐車場ロータリーに配置された多数の立石も、もとはこの古墳に置かれていたのかも知れません。建設工事の中で移動されたものかもしれません。小さいものがロータリーの中で利用されたのではないかと思います

このストーン・サークルですが、卑弥呼の死後の内戦に勝利した大国主久々遅彦が、まだ13歳くらいの女王台与を伴って卑弥呼の墓参に来たと推理していますから、大国主が卑弥呼の祭祀のために運び込んだものではないかと考えています。大国主は米神山や佐田京石など行くところ、至る所でストーン・サークルによる祭祀を行っていることを見ていますので、ここでもその可能性が高いと思います。

ここでの祭祀の後、岩石愛好家の大国主は安心院盆地を挟んで南側の妻垣神社奥宮の一柱謄宮(いっちゅうとうぐう)で再度、磐座祭祀を行っていると推理しています(「宇佐は記紀が隠した秘密が満載だ」参照)。「古事記」は真相を暴露する暗号書ですので、足一謄宮(あしひとつあがりのみや)と名前を変えているのは、何らかの理由で卑弥呼を二か所で弔う必要があったことを暗示しているようです。それは現在は謎ですが、大きな発見が潜んでいるのかも知れませんね。いつか分かるかも知れませんよ(^_-)-☆

なお、ここから北東約500mのところに第6石棺群「奥城古墳」が見つかっています。同報告書に「道路断面に3基が並んで口を開けている。」とありますが、状況がよく分かりません。現在はブドウ園の展望台になっています。

奥城古墳は、正始八年(247年)の卑弥呼の死よりも4年前の正始四年(243年)に亡くなったと推理している父赤坂比古(ムナカタ海人族和邇氏の祖)のもので、魏志倭人伝の大夫伊聲耆(いせぎ)とされた人物の墓と推理しています。お伊勢さんの語源は赤坂比古のような縄文系のシャーマン王からきたと思います。吉野ヶ里遺跡の謎のエリアの石棺の被葬者と推理した息長宿禰王(おきながすくねのみこ、記紀で神功皇后とされた女王台与の父、神話の少彦名命)と同様に、密室で太陽神が憑依した姫巫女からその神託を聞き取り、大勢の部下たちに声に出して託宣する役割なので、卑弥呼の父赤坂比古に難升米が伊聲耆(年寄りのシャーマン王の意味)と名付けたものと推理しています(詳細は、「卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?」参照)。

また、ここの遺跡で唯一、副葬品が見つかった第5石棺群「大平古墳」は、三角縁神獣鏡の欠片が出土していることなどから、日本書紀に残された伝承にあるとおり、卑弥呼の死後に日本を統一した狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)に卑弥呼の奉斎を命ぜられた筑紫の水沼君のものと推理しています(詳細は「本当に卑弥呼の墓なのか?」参照)。

何かお気づきのことがございましたら、お教えください(*^。^*)

【関連記事】
邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!
申し訳ないですが、従来考えられていたような大集落には卑弥呼はいませんでしたよ(^_-)-☆

【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!
卑弥呼のことを調べた記事を集めていますので、是非ご覧ください。

女王の居城(詳細は「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」参照)


通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング


2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (百畑キクリ)
2023-08-27 14:56:23
お役に立てて嬉しいです。
CMまで入れて頂きました。(-_-#)
涼しくなったら佐田右京に行こうと思います。見て欲しい所があればコメント入れて貰えば、可能なら見ますので遠慮無く。
返信する
Unknown (katumoku10)
2023-08-27 16:03:20
どうも有難うございます♪
スケッチは本当に助かりましたよ!
古墳上の大きな岩は外から運び上げたと思いますが、よく上げられたものですね😅
あの時代の人は今の人と比べたら超能力者ですね。

米神山に行くのは
涼しくなったらが正解ですね♪

そうですね、山ップで掲載された写真などを調べて行ったのですが、あの時期は登山者はほとんどいないことは分かってました!傾斜がキツく、ロープ場が5、6ヶ所あって、水分が足らなくてバテましたよ!だから他の石柱も測定できなかったのはチョンボでしたよ!^_^

またチャレンジしたい気持ちはありますが、
後期高齢者にあと数年ですから、遠いし、きっと無理でしょうね🤣

ちょっと大変かもしれませんが、月の神谷の上にも石柱がありますし、頂上の向こうの熊登山口へ降りる途中にも日の神谷があって、どこに向いているのかもしらべられませんでした😂
出来たらでいいですから方角を測って下さると有り難いです😁
ルートの赤いリボンが整備されているので大丈夫だと思いますが、
お気をつけて行って下さい。
またブログを楽しみにしています👍
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。