記者の登録が義務付けられている中国では、「独立記者」という言葉は違法性を帯びてしまう。大学や研究機関に属さない「独立学者」や、雑誌に寄稿する「自由撰稿人(フリーライター)」はいるが、「独立記者」はご法度である。だから日本の独立記者の存在を伝えたくて、戦場で命を落としたフリージャーナリストを、「戦争の反省」をテーマにした授業の中で取り上げた。9・18(柳条湖事件)の翌日である。
戦争時の言論統制で報道機関の総数が抑制され、戦後もその体制を継承した日本のメディア界は、少数の主流メディアが言論の寡占状態にしがみつき、その結果、とかくフリーランスには冷淡な態度を取る。特に戦場取材では、人質事件を含め、世論を先導するかのように犠牲者に「自己責任論」をおいかぶせ、大局的な問題から目をそらせることが習い性となっている。
そこにはメディアの保守主義、官僚主義、横並び意識、事なかれ主義が巣食っている。自己規制によって世論を誤導した反省を忘れ、報道の自由がよってたつ人道主義を忘れ、真相から目をそらせる報道の繰り返しの果てに、ダッカの日本人人質殺害事件が起きている。
フリーランスは、戦地から避難したメディアの穴を埋めるように現地に入り、気高い職業意識、高邁な理想主義をもって現実に向き合おっている。経済的には安定しない身分で、リスクも大きいが、インターネット時代にあって世界に発信できるチャンスも広がっている。だが生命の代償はあまりにも大きい。
中東で人質事件(ジャーナリストとは限らないが)が起きるたび、世論は人命と国益との間で揺れ動く。悩み、苦しむのが人間の姿であるが、自己責任論はいとも簡単にそうした感情を封印し、人々を政治的な正しさの逃げ道に追いやってしまう。もっともらしい顔をして、「自業自得だ」という人々が鏡に映った姿は、人間の最も醜悪な一面を見せているに違いない。人への関心や共感、想像力を欠いたところには、愛も良心も生まれない。
前回も引用したテッサー・モリスースズキ『過去は死なない メディア・記憶・歴史』(岩波現代文庫 田代泰子訳)には、次の言葉がある。
「歴史理解との関わりにおいては、政治との関わりと同じく、漠然とした無関心と、メディアによって操作された大衆向けパフォーマンスにたいする狂信的熱狂とは、ひとつのコインの表裏に過ぎない」
授業では「模糊的冷漠,以及被媒体操作的狂热的信奉是一个硬币的两面」と翻訳して伝えた。ある男子学生が質問してきた。
「人命と国益のバランスは簡単には答えが出ない、非常に難しい問題だ。先生はどう思うのか?」
私は答えた。
「私にも簡単には答えが出ない。でも考えることをやめて、記憶を残さない道を選んだから、人に操られ、洗脳された人間になるしかないではないか」
そして、「だから記憶し、次の世代にも伝えたい言葉があるのだ」と言って、2人の独立記者の言葉を伝えた。
2012年、シリアで命を落とした山本美香さんはこう言い残している。
「戦争は突然起きるわけではないと、私はいつも言っています。必ず小さな芽があります。その芽を摘んでしまえばいいわけです。そうすれば戦争は起こらないわけですから。その芽を摘めるかどうかがすごく重要だと思います」(『ザ・ミッション』)
2015年、人質になった知人を救おうとして逆に人質として捕らえられ、殺害された後藤健二さんはツイッターでこう語った。
「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。-そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」
私が「戦場にあって、ここまでの心境に到達できた精神は称賛すべきではないか」「いや、戦場だからこそ、この境地があったのかも知れない」と問いかけると、質問をした学生が深くうなづいてくれた。
戦争時の言論統制で報道機関の総数が抑制され、戦後もその体制を継承した日本のメディア界は、少数の主流メディアが言論の寡占状態にしがみつき、その結果、とかくフリーランスには冷淡な態度を取る。特に戦場取材では、人質事件を含め、世論を先導するかのように犠牲者に「自己責任論」をおいかぶせ、大局的な問題から目をそらせることが習い性となっている。
そこにはメディアの保守主義、官僚主義、横並び意識、事なかれ主義が巣食っている。自己規制によって世論を誤導した反省を忘れ、報道の自由がよってたつ人道主義を忘れ、真相から目をそらせる報道の繰り返しの果てに、ダッカの日本人人質殺害事件が起きている。
フリーランスは、戦地から避難したメディアの穴を埋めるように現地に入り、気高い職業意識、高邁な理想主義をもって現実に向き合おっている。経済的には安定しない身分で、リスクも大きいが、インターネット時代にあって世界に発信できるチャンスも広がっている。だが生命の代償はあまりにも大きい。
中東で人質事件(ジャーナリストとは限らないが)が起きるたび、世論は人命と国益との間で揺れ動く。悩み、苦しむのが人間の姿であるが、自己責任論はいとも簡単にそうした感情を封印し、人々を政治的な正しさの逃げ道に追いやってしまう。もっともらしい顔をして、「自業自得だ」という人々が鏡に映った姿は、人間の最も醜悪な一面を見せているに違いない。人への関心や共感、想像力を欠いたところには、愛も良心も生まれない。
前回も引用したテッサー・モリスースズキ『過去は死なない メディア・記憶・歴史』(岩波現代文庫 田代泰子訳)には、次の言葉がある。
「歴史理解との関わりにおいては、政治との関わりと同じく、漠然とした無関心と、メディアによって操作された大衆向けパフォーマンスにたいする狂信的熱狂とは、ひとつのコインの表裏に過ぎない」
授業では「模糊的冷漠,以及被媒体操作的狂热的信奉是一个硬币的两面」と翻訳して伝えた。ある男子学生が質問してきた。
「人命と国益のバランスは簡単には答えが出ない、非常に難しい問題だ。先生はどう思うのか?」
私は答えた。
「私にも簡単には答えが出ない。でも考えることをやめて、記憶を残さない道を選んだから、人に操られ、洗脳された人間になるしかないではないか」
そして、「だから記憶し、次の世代にも伝えたい言葉があるのだ」と言って、2人の独立記者の言葉を伝えた。
2012年、シリアで命を落とした山本美香さんはこう言い残している。
「戦争は突然起きるわけではないと、私はいつも言っています。必ず小さな芽があります。その芽を摘んでしまえばいいわけです。そうすれば戦争は起こらないわけですから。その芽を摘めるかどうかがすごく重要だと思います」(『ザ・ミッション』)
2015年、人質になった知人を救おうとして逆に人質として捕らえられ、殺害された後藤健二さんはツイッターでこう語った。
「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。-そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」
私が「戦場にあって、ここまでの心境に到達できた精神は称賛すべきではないか」「いや、戦場だからこそ、この境地があったのかも知れない」と問いかけると、質問をした学生が深くうなづいてくれた。