行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

中国の学生の前で語った「独立記者」

2016-09-20 17:01:16 | 日記
記者の登録が義務付けられている中国では、「独立記者」という言葉は違法性を帯びてしまう。大学や研究機関に属さない「独立学者」や、雑誌に寄稿する「自由撰稿人(フリーライター)」はいるが、「独立記者」はご法度である。だから日本の独立記者の存在を伝えたくて、戦場で命を落としたフリージャーナリストを、「戦争の反省」をテーマにした授業の中で取り上げた。9・18(柳条湖事件)の翌日である。



戦争時の言論統制で報道機関の総数が抑制され、戦後もその体制を継承した日本のメディア界は、少数の主流メディアが言論の寡占状態にしがみつき、その結果、とかくフリーランスには冷淡な態度を取る。特に戦場取材では、人質事件を含め、世論を先導するかのように犠牲者に「自己責任論」をおいかぶせ、大局的な問題から目をそらせることが習い性となっている。

そこにはメディアの保守主義、官僚主義、横並び意識、事なかれ主義が巣食っている。自己規制によって世論を誤導した反省を忘れ、報道の自由がよってたつ人道主義を忘れ、真相から目をそらせる報道の繰り返しの果てに、ダッカの日本人人質殺害事件が起きている。

フリーランスは、戦地から避難したメディアの穴を埋めるように現地に入り、気高い職業意識、高邁な理想主義をもって現実に向き合おっている。経済的には安定しない身分で、リスクも大きいが、インターネット時代にあって世界に発信できるチャンスも広がっている。だが生命の代償はあまりにも大きい。

中東で人質事件(ジャーナリストとは限らないが)が起きるたび、世論は人命と国益との間で揺れ動く。悩み、苦しむのが人間の姿であるが、自己責任論はいとも簡単にそうした感情を封印し、人々を政治的な正しさの逃げ道に追いやってしまう。もっともらしい顔をして、「自業自得だ」という人々が鏡に映った姿は、人間の最も醜悪な一面を見せているに違いない。人への関心や共感、想像力を欠いたところには、愛も良心も生まれない。

前回も引用したテッサー・モリスースズキ『過去は死なない メディア・記憶・歴史』(岩波現代文庫 田代泰子訳)には、次の言葉がある。

「歴史理解との関わりにおいては、政治との関わりと同じく、漠然とした無関心と、メディアによって操作された大衆向けパフォーマンスにたいする狂信的熱狂とは、ひとつのコインの表裏に過ぎない」

授業では「模糊的冷漠,以及被媒体操作的狂热的信奉是一个硬币的两面」と翻訳して伝えた。ある男子学生が質問してきた。

「人命と国益のバランスは簡単には答えが出ない、非常に難しい問題だ。先生はどう思うのか?」

私は答えた。

「私にも簡単には答えが出ない。でも考えることをやめて、記憶を残さない道を選んだから、人に操られ、洗脳された人間になるしかないではないか」

そして、「だから記憶し、次の世代にも伝えたい言葉があるのだ」と言って、2人の独立記者の言葉を伝えた。



2012年、シリアで命を落とした山本美香さんはこう言い残している。

「戦争は突然起きるわけではないと、私はいつも言っています。必ず小さな芽があります。その芽を摘んでしまえばいいわけです。そうすれば戦争は起こらないわけですから。その芽を摘めるかどうかがすごく重要だと思います」(『ザ・ミッション』)



2015年、人質になった知人を救おうとして逆に人質として捕らえられ、殺害された後藤健二さんはツイッターでこう語った。

「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。-そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」

私が「戦場にあって、ここまでの心境に到達できた精神は称賛すべきではないか」「いや、戦場だからこそ、この境地があったのかも知れない」と問いかけると、質問をした学生が深くうなづいてくれた。

中国の大学で迎えた9・18記念日

2016-09-18 13:52:27 | 日記
9・18といっても日本人にはピンとこないが、中国人は小さいころから9・18は、1931年9月18日、日本の関東軍が瀋陽の柳条湖で南満州鉄道の爆破事件を自作自演し、中国への侵略に乗り出した「国恥日」として回顧される。歴史の授業で「柳条湖事件 1931年 満州事変の発端 関東軍の謀略」と教えられるだけの日本人には「国恥」の実感が沸かない。歴史認識を教える中国と、個別事件の暗記にとどまる日本との違いである。

歴史は人間社会の変化に対する解釈を研究するために知識を探究する。その一方、ある集団に一体化(identification)を生み、育てるための核ともなる。テッサー・モリスースズキが『過去は死なない メディア・記憶・歴史』(岩波現代文庫 田代泰子訳)の中で次のように述べているのが参考になる。

「わたしたちと過去の関係は、原因や結果についての事実の知識や知的理解だけではなく、想像力や共感によってもかたちづくられる」
「過去の人びとの経験や感情を想像し、彼らの苦しみを偲び死を悼み、彼らの勝利を祝う。過去に生きた他者とのこうした一体化は、しばしば、現在におけるわたしたちのアイデンティティの再考あるいは再確認の基盤になる」

だとすれば、過去の記憶を捨て、過去との共感を絶った人々は、情報の氾濫する現代の大海において、定まらないさすらいの旅を続けるしかない。歴史を問うことは、閉ざされた過去に逃げ込むことではなく、今を確かに生きるためのものである。この一点において認識を共有することから第一歩が始まる。

汕頭大学新聞学院で受け持っている現代メディア・テーマ研究では最初のテーマに「戦争報道の落とし穴」を選んだ。最も困難な問題をまず最初に提起すべきと考えた。



「戦争の最初の犠牲者は真実である」

これは、古代ギリシャの三大悲劇詩人の一人、アイスキュロス(Aeschylus 紀元前525-456)が残した言葉と言われるが、第一次世界大戦後の1918年、米国のハイラム・ジョンソン上院議員(Hiram Johnson)が語った「The first casualty of war is truth」としても知られる。

読んで字のごとくである。いつの時代にも争いや衝突がある場面では、目的によって手段が正当化され、デマやプロパガンダ、アジテーションがあふれる。無理が通れば道理が引っ込むのだ。

われわれが平時において目にしているいわゆる「事実」も、実は非常にもろいものであること。編集され、加工され、元の姿からはゆがんでしまっている可能性もあること。だからこそ注意深く、大切にしなければならないこと。そのためには独立した思考、相対的なアプローチ、懐疑的な精神が必要であること。われわれはそのためにこそ学ぶのだということ。

そんな問いかけを学生たちにした。自分で作った日本の主要紙発行部数のグラフを示しながら9・18にも言及した。



メディアは戦争に動員されるだけでなく、戦争を利用して利益を拡大してきた。アメリカの広告業界が戦争のプロパガンダをルーツとし、CNNが湾岸戦争で、FOXテレビがイラク戦争で、一躍名をはせたを経緯も振り返った。メディアが軍の検閲を受けながら、一方で、過剰な自己規制に陥る実態も指摘した。それがみなが共有すべき過去の記憶であり、今に生きるわれわれが歴史と対話する意義もここにある。

終業のチャイムが鳴ったが、学生たちは「先生、続けて、続けて!」と声をかけてくれた。明日の授業もまた、戦争の話を続ける。戦地で命を絶った日本のフリー・ジャーナリストについて語り合おうと思う。

中秋節三連休 最後の日に身辺雑記

2016-09-17 11:07:31 | 日記
毎朝、鳥のさえずりで目を覚ます。すでに働き始めている人々がバイクや自転車で湖畔を走り抜ける。昨日は、以前、読売新聞広州支局の助手をしていた女性が夫と1歳の男の子を連れて中秋節のあいさつに来てくれた。広州の月餅も手土産に。一つ食べただけで一食分に相当するぐらいのボリュームがある。彼女たちも豊かな自然を十分楽しんでくれた。ワンダーフォーゲルのサークルで知り合った彼女たち若夫婦は、大学の背後にそびえる山を見上げ、「是非、登ってみたい!」と叫んだ。子どもをおんぶしてでも行きそうな気配だ。

今の季節はしばしばにわか雨がある。バケツをひっくり返したような雨の後、まぶしい青空が広がる。女子学生は雨と日よけを兼ねた傘が必携だ。雨上がりは足元にとてつもなく大きなカタツムリが動いていたりする。海辺で見かけるような巻貝を背負っている、見たこともないカタツムリだ。日が暮れると、カエルが堂々と道中を飛び回る。暗闇を歩くのにも、小さな生命に気を付けなければならない。

数日前、このブログで汕頭は潮州文化圏に属すると書いたが、汕頭そのものが潮州市の一部だった。清朝が英仏に攻められたアロー号事件で、1858年、台湾などとともに開港を迫られたのが海に面した潮州(現在の汕頭)である。改革開放後は深圳やアモイと並ぶ経済特区に選ばれたが、経済発展は不調に終わり、広東省の主要都市から大きく水を開けられることとなった。自然環境と経済は無関係ではないのだ。

改革開放政策がスタートして間もない1981年、大学の創設・運営資金を提供した李嘉誠は潮州出身だ。彼の故郷への思いが汕頭大学を支えている。日本軍が潮州を侵攻する戦火を逃れるように、1939年、李嘉誠(当時11歳)の一家が香港に逃れた。この歴史を思えば、彼がかつて戦火に見舞われた故郷に創設した大学に今、初の日本人教授が迎えられていることの深い意味も、自覚せずにはいられない。小さな大学の中で、さまざまな時間と空間が交錯する。

当地の言葉は、潮汕語とも呼ばれる。広州や香港で話されれる広東語とは異なる。広州人が聞いても聞き取れないという。言葉は人を結ぶ橋であり、文化の核である。そして広東文化圏とは区別され潮州文化圏を形成する。団結心が強く、独立心も強いとされる。ただ学内には汕頭を中心に広東各地の学生が集まっているので、ふだんの会話は共通語が用いられている。

学生は一学年1700人ほどで、クラスは30人前後。学生対教員の割合が12対1に保たれ、師弟関係が密なことでも知られる。ほぼ全員が寄宿生で3~6人で部屋を共有するが、あえて学年や学部の異なる学生を一緒に住まわせ、多様な人間関係を築くよう配慮がされている。4年間、ベッドの上下で苦楽を共にした「室友」が一生の友達となる。

インターネット時代で人間同士の直接的な接触が希薄になる中、寄宿舎生活は人間関係を築く貴重な学習の場を提供してくれる。人の目を見ながら、表情を感じながら話し、聞く原初的な交わりの尊さを知る体験は、メディア論からも重要である。昨今、記者が電話やインターネットに安易に頼り、底の浅い金太郎あめのような記事を書き、時には十分な確認を怠って誤報を生むのも、基本にはこうした人間教育の実践が欠けているからにほかならない。

国際関係に対する認識もしかりである。メディアに報じられる政治家の対外的な宣伝文句ばかりがフレームアップされ、国家間で現に起きている等身大の交流が見失われている現状は嘆かわしい。歴史、文化を踏まえた他者に対する幅広い把握がなければ、浅薄な理解しか生まれない。日本のメディアが気にしているのは「他者」ではなく、「他社」への過剰な横並び意識にほかならない。

国際報道にかかわる記者は、政治や経済に限定するとパターン化されているので、記事が書きやすいからそうしているだけである。自国の大衆に受け入れられやすいステレオタイプの外国観にあてはめ、過去記事のスクラップを傍らに置き、あたかもマニュアル通りに作られるファーストフードのように原稿が出来上がる。困難な努力を要せず、不必要な責任を負うこともない。記者や編集者が目の皿のようにして注意するのは原稿の内容ではなく、誤字脱字、「てにをは」のたぐいでしかない。だが血の通わない、相手国の人々に対する同情や共感、想像力を書いた記事はしょせん、狭い閉鎖空間でしか受け入れられない。小さな孤島でのみ流通する、普遍性を書いた国際ニュースがこうして量産される。

私が月刊誌『Will』に連載を始めたコラム「東風メール便」の次回号には、次のような一文を送った。

中南海の政治闘争だけでこの国が成り立っているのではない。中央の統計で公表される平均値はそれだけでは何も物語らない。現地にほとんど足を運ばず、香港を中心とする外電に寄りかかりながら堂々と「中国は・・・」と語る、日本のいわゆる“中国ウオッチャー”が話すことを鵜呑みにしてはいけない。

「事実を重んじるコラムを書いてほしい」という立林編集長の求めに共感し、寄稿を始めたコラムである。とかく「反中・嫌中」の保守的論調が際立つ雑誌だが、独立記者は媒体を選ばず、「主義」ではなく「事実」にこだわればよい。人との接触を土台にした価値ある文字を届け続ける。「客観報道」の隠れ蓑から脱し、「健全な主観」を批判に晒すことを選びたい。

台風が逸れ、ようやく顔をのぞかせた明月・・・中秋節の夜に

2016-09-16 01:18:01 | 日記


今日は中秋節の夜だ。日中、にわか雨が降り、夜になっても曇り空だったが、午後10時過ぎ、雲間に満月が顔をのぞかせた。それに呼応するように、遠くで爆竹が鳴っている。大都市にはない情景だ。そのあとの静寂を、虫の音が運んでくる。佳き中秋の晩である。住まいに近いバーから持ち帰ったJAMESONをちびりちびり楽しみつつ。

今日は微信(ウィー・チャット)で各人各様のお祝いメッセージがやり取りされた。おそらく最も多く引用されたのは、蘇東坡の『水調古頭』にある「但願人長久、千里共嬋娟」ではないか。1076年、山東省密州に赴任中、実弟を想って詠んだ詩だ。「嬋娟(チャンジュエン=せんけん)」は妖艶な美女をたとえる言葉だが、月の別称となった。

「今はただ、遠くに住むあの人がつつがなく長生きをし、千里の彼方にあっても共有できるこの名月(嬋娟)を一緒に楽しみたい」

蘇東坡は、「明月はいつになったら出てくるのか?酒の盃をかざして青空に聞いてみよう」と呼びかける。明月の晩に酒は不可欠なのだ。李白が有名な詩『月下独酌』を残している。

花間一壺酒(花間 一壺の酒)
独酌無相親(独り酌みて 相親しむもの無し)
挙盃邀明月(盃を挙げて名月を迎え)
対影成三人(影に対して三人となる)

盃に注いだ酒に月を映しとり、我が影と合わせて三人の酒宴となる。影は自分を相対化させる。影が自分で自分が影なのではないか。目の前にある現実は幻ではないのか。人生はそんな不確かさに包まれている。だが厭世的ではない。あくまで今宵は明月を享受し、とことん楽しもうという心持なのだ。そう考えれば孤独さえも憂うに及ばない。同僚の先生からは微信でドボルザークの『月亮頌(月に寄せる歌)』が送られてきた。アメリカの名バイオリニスト、ジョシュア・ベル(Joshua Bell)の演奏だ。酒と月の次にはやはり音楽なのだ。

「海上生明月 天涯共此時」(海の上にかかる名月を、はるか遠くにいるあの人も見ていることだろう)
「海内存知己 天涯若比隣」(気心の知れた仲間がいれば、どこにいてもすぐそばにいるように感じられるものだ)

こうメッセージを送ってくれた仲間たちにも感謝したい。

昨日、過去最大級の台風が汕頭に上陸するとの天気予報があり、午後からすべて休講となった。私は午前中に「ニュース事例研究」の第一回目の授業を終えていたので、影響はなかった。また20人以上の学生が集まってくれた。これまでは試聴講義で、来週から本講義がスタートする。聴講希望の締め切りが迫っているが、私が受け持っているもう一つの科目「現代メディア・テーマ研究」は30人の定員が一杯になり、漏れた4年生の受講希望者が連絡をしてきた。担当教師が合意すれば追加が認められるというので、それをお願いしたいという。こういう積極的な学生には好感が持てる。「もちろん大歓迎です」と答えた。

三連休は始業の準備に追われそうだ。




若者たちのまっすぐな目に勇気をもらった最初の授業

2016-09-12 18:47:40 | 日記
本日が最初の授業だった。科目は「現代メディア課題研究」。実は、私の到着がギリギリで、すでに科目登録が終了していたため、教務主任の教授から前夜、「学生が少なくても失望しないように。次の学期からしっかりやればいい」と聞かされた。私の科目が校内サイトで閲覧可能となったのは、つい数日前だという。私は「1人でもいれば全力を投じる」と答えたが、内心は不安もあった。確かに8日、汕頭大学に着き、翌日から雇用契約や居留証明にかかわる諸手続きを取り始めたばかり。校内のホテルから宿舎に引っ越したのが昨日だ。

あまりにも早い中国式に引っ張られ、ここまで来たが、走りながら、時には歩きながら考えるのもまた中国式だ。流れに任せすべてを受け入れよう。授業の準備は十分すぎるほどやってきたので、何も心配することはない。

朝8時~10時の授業だったが、教室を確認するため7時には到着した。門を開ける守衛の男性が、「先生、まだ早いよ」と驚いた様子だった。
「新米なもので、早めに来たんです」
「学生よりまじめだね」
こんなやり取りをして、とりあえずは教室に腰かけた。ガランとした教室が、これからの未知の世界につながっていると思うと、ワクワクしてきた。



30分前に1人の女子学生が教室に来て、「先生、おはようございます」と声をかけてくれた。小柄で、眼鏡をかけた聡明そうな学生だった。正直言って、少なくとも1人は来てくれた、授業は成立する、とホッとした。すると始業間近、次々と学生が入ってきた。入学したての1年生には見えない。たちまち20人を超え、通常クラス並みの学生がそろった、後で聞いて分かったが、聴講に来たのは2、3年生で、先週末から私の授業日程が校内サイトで通知され、「元記者の日本人教授」に興味を持ったのだという。

この日は、「最も真実が犠牲になる」戦争報道の歴史、現状をテーマに選んだ。一番に困難な問題をまず最初に提起しようと思ったからだ。その前に、自己紹介を兼ね、「自由とは何か?」について語った。内容は以前、このブログに書いたとおりだ。

独立した思考、人格の独立があってこそ、人の真似ではない、独自の視野を広げることができる。視野を広げ、相対的に物事を比較することができて初めて、バランスの取れた判断をすることができる。常に懐疑の精神を忘れないことで、盲信を避けることができる。こうした土台の上に、自由を語り、享受することができるのではないか。「自由」が未解決の課題であることは、中国もまた同じではないのか・・・。1限目の授業の最後、私はこう問いかけて締めくくりとした。熱心に質問をしてくる学生たちがいた。

「自由とパンの関係はどうなるのか?」「知識人は自由という概念を理解したのに、どうして庶民まで伝わらなかったのか?」

真剣なまなざしを見て、選んだテーマに誤りはなかったと感じた。中国であれ、日本であれ、「自由」の訳語について正しい回答を求める営みは続いている。沈黙し、大勢に流される人々と、自由を求めて奮闘する人々と、どちらが尊いかを語るのに国境はない。

汕頭大学では、他の大学でも同様だろうが、初回の授業はあくまで試聴であって、合わなければ別の授業に切り替えが可能で、2回目からが正規の授業になる。この日の学生とこのまま付き合いが続くかどうかはわからないが、出席した学生全員に名前を書いてもらった。最後、「この名簿は私が最初に授業をした記念の品だ」と言うと、拍手が起こった。

後で学生助手を通じ、「大学のサイトで紹介されている授業の内容は以前の古いものなので、加藤先生の最新の授業計画を送ってほしい」とリクエストがあった。おそらく日本ではまずあり得ないのではないか。こんなしたたかで正直な学生たちが、とてもいとおしく思えてきた。