行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

現場に足を運ばなければわからない多様性がある。

2016-09-11 11:34:32 | 日記
日本を離れる前、私が「中国でメディア論を語りに行く」と告げると、多くの人が目を丸くした。確かに、日本でもしばしば中国人記者や知識人の拘束が報じられている通り、中国ではイデオロギーに基づく厳しいメディア統制が敷かれ、メディア学界においても政治的に敏感なテーマがあることは事実だ。しかも、過去に例を見ない範囲、規模で反腐敗キャンペーンを継続している習近平体制下で、イデオロギー面の規律強化は一層浸透している。

そんな場所で外国人が、しかも元記者が何を教えるというのか---。そう受け止めるのも無理はない。だが、中国のような複雑さを抱えた大国をウオッチする場合に気を付けなくてはならないのは、一面的な見方に陥ることである。均質な日本の社会からは想像もつかない多様性がある。だが北京発で伝えられるメディアのニュースが、この大国のすべてを伝えていると考えるのは誤りである。

共産党があらゆる生活の隅々だけ統制しているという見方は正しくない。私が今、ここに来ていることは、中国には常に人が生きていくための隙間があるということを物語る。大国ゆえの隙間であると同時に、長い歴史がはぐくんできた「中庸」の知恵と言ってもよい。

汕頭大学に来て数日だが、まず地方事情、地方文化の多様性に驚かされた。広東省だから「広東語」を話していると勘違いしていたが、汕頭周辺は潮州文化圏に属し、現地の方言は「潮州語」という。省都・広州を中心とする「広東語」こそ正統な「粤語」(粤は広東省の別称)で、「白話」とも呼ばれるが、それとは区別されている。考えてみれば広東省は人口が1億を超え中国最大の省だ。面積も日本の半分近い。一国に匹敵する規模を持っている以上、それを一つの概念でくくることなどできない。



だから「中国」といったところで、対象はあまりも拡散し、つかみどころがなくなる。しかも改革開放後、社会の階層化は一段と進んでいる。どこに視点を定めるかによって、まったく異なる国の姿が現れることに留意する必要がある。たとえばこんなこともある。

「一人っ子政策」は中国の代名詞のようになっているが、当地の学生と話していて驚いた。ほとんどが3、4人の兄弟姉妹なのだ。「これは伝統だから簡単には変えられない」「どの家庭もみな罰金を払って生むのが当たり前になっている」「政府もうるさく言わない」「汕頭では中央の政策が実行されていないだけ」。農村ならまだしも、都市部でさえそうなのか・・・。あっけらかんと話す彼らを見ていて、認識を改めざるを得なかった。

中国においていかに全国統一の政策を実行するのが難しいか、地方の独立性、つまりは中央に対する抵抗がいかに強いか、そういうことを念頭に置かず、北京で新華社の記事を転電しているだけの中国報道は底が非常に浅くなる。中南海の政治闘争だけでこの国が成り立っているのではない。中央の統計で公表される平均値はそれだけでは何も物語らない。現地にほとんど足を運ばず、香港を中心とする外電に寄りかかりながら堂々と「中国は・・・」と語っている、日本のいわゆる「中国ウオッチャー」たちが話すことを鵜呑みにしてはいけない。