行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

「独立記者」として中国でメディア論を伝える②

2016-09-04 07:35:29 | 日記


親身に私の教授就任を願ってくれた汕頭大学新聞学院の范東昇院長(学部長)は、中国のメディア関係者からより多くの推薦状を集めるよう求めた。権威があればあるほどよいという。元日本人記者を教授として推薦するのには、社会的立場が高ければ高いほどより大きな政治的リスクを伴う。いくら汕頭大学が開放的であるといっても、メディアはイデオロギーと直接かかわるすぐれて政治的な領域なのだ。

「果たして推薦状はうまく集まるだろうか?」

そんな不安が頭をよぎった。

権威があればあるほどよい・・・思いつくいくつかの顔を浮かべた。党機関紙から著名大学のメディア学部、そしてメディアを規制する党組織まで、仕事を離れ、個人として親しく付き合ってきた友人だ。一緒に講演会やフォーラムに参加し、腹蔵なく語り合い、酒を飲み交わしてきた仲間である。だが、大学の正式な話し合いの場に提出される文書である以上、公私の峻別はある。私事で迷惑をかけるのは本意でない。だが今、できるだけのことをやらなければ後悔する。范院長の好意にも背くことになる。

さんざん悩んだ末、現状をありのまま伝え、「力を貸してほしい」とお願いをした。悩んだことがバカバカしくなるほど、話をしたすべての友人が「喜んで加藤の推薦状を書かせてもらう」と言ってくれた。「楽意(leyi)」。中国では「喜んで」にあたる気持ちをこう表現する。しかも頼んだ翌日にはもう書き上げ、「こんな内容でいいのか?」と私に送ってくれる者もいた。私との出会い、付き合いの内容から、私の性格、仕事ぶり、中国で行ってきたことの評価に至るまで、誇張もなく、そして過不足なくありのままを書いてくれた。

1週間もたたないうちに、必要な推薦状はみな大学に届けられた。范院長から「これでいい!ありがとう!」と返事をもらった。感謝をしたいのはこちらの方だが・・・彼はそこまでも私の立場に立って考えてくれていた。彼の父、范長江(1909-1970)が中国新聞界の重鎮だったことは触れたが、母の沈譜(1917-2013)は、「抗日七君子」と呼ばれる沈均儒を父に持つ。日本人に対しての感情がよいとは言えない。范院長の熱意に頭が下がる思いで、大学側の結論を待った。大学からは6月末から7月初めに会議が開かれ、私の採用について話し合いの場が持たれるとのことだった。

実はある出来事が雑念として頭から離れなかった。新聞社の辞職を決意し、中国を離れるにあたり、現地にある日本人の組織から責任者のポストを打診されていた。熟慮の末、就任を決意し、そのため心の準備もした。中国から引き上げるべき荷物も、一部は倉庫を借りて残した。だが帰国後、最終的な結論について先延ばしが続いた。いったい組織内でどんな話し合いが行われているのもわからないまま、半年後、経費の都合で予定していたポストを置かないとの通知を受けた。「まあ、やむを得ない。別の道を探そう」とNPO活動に着手したのだった。前を向いて進むことだけを考えてきた。

それだけに汕頭大学の件は、すべての手続きが透明で公正に思えた。できることはすべてやる。でも限界はある。范院長は一連の過程を的確に伝えてくれた。日本に戻ってきた私は連日、図書館通いを続け、自分に欠けている学問的知識の吸収に努めた。どのような結果になるかはわからないが、彼の熱意が私の支えとなった。

6月末、汕頭大学に運営資金を提供している実業家の李嘉誠氏が同大の卒業式に出席し、恒例のスピーチをしたとのニュースが流れた。大学の指導部が集まり、重要事項を話し合う場が持たれたことを推測させた。「もうすぐ結論が出る」。そんな思いで待っていると、7月5日、范院長から携帯アプリの微信(ウィーチャット)で、「たった今、大学から採用を許可したとの通知が届いた。おめでとう!」と連絡があった。

履歴書を送ってから2か月余りのスピード決定ではある。だが、新学期スタートまでもう2か月を切っている。急いでビザ申請の手続きをしなければならない。健康診断を済ませ、必要書類をそろえ、大学に送った。すでに夏休みに入っていたが、担当者が責任をもって迅速な対応をしてくれたおかげで、ビザ取得もスピーディーだった。(続)