行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

台風の朝に

2016-09-28 08:45:12 | 日記
朝から雨が降っている。台風17号が福建省泉州に上陸した。隣の省だ。すでに大学内の保育園、幼稚園、小中学校は本日の臨時休園、休校を決めている。大学は現在検討中で、最終結果を待っているところ。風は弱まっているので、是非、開講してほしい。

この日の研究発表「都市と農村の災害報道の差異について」のため、一生懸命PPTを作って準備をした学生がいる。かなり苦労したが、完成品に仕上がったので、発表の機会を延ばさないようにしてあげたい。来週は国慶節休暇で2週間も先延ばしになってしまう。

農村と都市の格差は今やすでにニュースではない。主として経済、戸籍の格差が取り上げられるが、教育、就業、医療、社会福祉など各領域に広がっている。だが情報格差、メディアの格差が生む不平等、不公正も見逃せない。常に弱者が犠牲となる自然災害においては、それがさらに際立って見える。そんな問題意識に基づく研究だ。

両親が出稼ぎに出て、田舎に取り残された子どもたちはいずれ、都市で同世代の者たちと交わることになるだろう。インターネットは見せかけの対等によって、あらゆるものを結びつけるが、特殊な環境で育った彼らは新天地で、同僚たちと分かち合う共通の言語を見つけることができるだろうか。

授業に行く際、必ず目に留まる木がある。根元から地面に水平に走り、やがて重力に逆らい天に伸びている。どこから力が湧いてくるのかと思わせる強靭さだ。





暴雨、暴風にさらされ、どんな自然の苦難を経ても、太陽と水があればまっすぐな元の姿に戻っていく。力を与えてくれる木だ。

台風17号は、アジアの国が順番に命名する慣行に従って、韓国が「Megi/メーギー」と名付けた。中国語では「鮎魚」だが、日本語の「アユ」ではなく「ナマズ」である。ナマズを見ると人は雨がもうすぐ来ることを予想する。そんな由来があるらしい。人間の知恵はおそらくそんなに進歩していないのだ。

もうすぐ始業のチャイムが鳴る。


あやしいニュースを見抜くための三つのアプローチ

2016-09-27 10:49:55 | 日記
ネットで流れた中国語翻訳版「日本企業集団撤退」の〝ニュース”については、昨日の授業でも「偽ニュースを見抜くためにはどうすればよいか」という文脈の中で言及した。ポイントは、①全貌を知りうる人物に直接聞く、②経験則から考える、③ロジックから判断する、の三つである。

①については、特別なルートを持っているメディアや専門家でなければ現実的でないので、ニュースの文脈から真実性を判断することになる。ソースが明記されているか、それが信頼できるか否か、表現が明確か、などに注意する。今回の場合、「日本経済新聞」であれば一定の信用度はあると言える。翻訳の問題につては別途、検討する。

②については、一般的、個別的なニュースの形式が問題となる。例えば、他のメディアも報じているのか、もし単独ならば特ダネなのか、特ダネであれば他メディアが追随しているかどうか。状況から見て公開情報と思われ、書き方も一般ニュースのスタイルなので、特ダネの可能性は極めて低い。だとすると「日本企業集団撤退」のニュース・バリューから考えて、他紙が書いていないのは不自然である。

③企業はそれぞれの私的利益を追求し、競争関係にあるので、戦争などの特殊状況を除いては、企業進出や撤退といった具体的な経営方針について統一した行動をとることはあり得ない。しかも、日系企業は中国に2万社あるとされ、それはつまり膨大な投資がすでに蓄積されていることを意味するので、集団撤退は経営のリスク管理からしても考えにくい。

この上、国際報道に常に付きまとう翻訳の問題がある。誤訳、誤解、さらには意図的な意訳まで、真意をそのまま伝えることには様々な障壁がある。それもまた、以上のポイントや、文脈全体の論理性から判断するしかない。たとえば、②③にも関連するが、「日本から来た230人の経済訪中団は史上最大規模とされ、中国で4、5日だけ活動し、こっそり去っていったのは常識にかなっていない。」との一文は逆に、「これほど多数の訪中団を送る以上、目的が撤退であるはずはなく、前向きな投資にあると考えるのが常識にかなっている」と読み替えなければならない。

翻訳には国情の違い、文化の違いも反映される。例えば、「ハイレベルの官僚(原文は「官」が団を組織し、抗議に来る」とあるが、「官」という解釈は、国有企業=政府を想定した中国的なくくり方だ。経済団体は確かに〝官僚的”ではあるが、私企業の個別利益を超越するような意思は持っていない。あくまで公共的な集合体に過ぎない。

興味深いのは、このニュースのスタイル、内容自体が、流言=デマを流布させる必要条件を備えていることである。『デマの心理学』で知られるG.Wオルポートは、デマの流布量(rumor)は、当事者にとっての内容の重要性(I=importance)と根拠のあいまいさ(A=ambiguity)との積に比例すると定式化している。

R~I×A

「日本企業集団撤退」の筆者は、中国経済の高い対日依存を訴えて重要性を強調し、中国側の報道がないことなどからあえて、報じられたニュース内容の不確かさにも注意喚起を呼びかけている。意識的にか無意識にか別にして、デマをさらに流布させる条件をしのびこませているのだ。私が「かなりの書き手」だと感じるのは、こうした仕掛けにもよる。

流言が流布する以上、それを招く土壌が社会にあることを裏付ける。流言を真実だと信じる、あるいはウソだとして無視できない社会心理がある。今回の場合うかがえるのは、中国経済に対する中国社会の不安、政治面における日中関係悪化への再認識を求める反省が、中国社会の深淵にあるということだ。こうした読み解きをすれば、日本もデマとして一蹴し、他人事として傍観するわけにはゆかない。

闇夜に突然、視界を広げる花火が打ち上げられたような後味を残した〝流言”騒動だった。

「日系企業撤退」のニュースに大沸騰!?

2016-09-26 21:03:51 | 日記
昨日から多数の問い合わせに遭い驚いている。

「日本企業の代表団が来て、中国政府に撤退させるよう掛け合っているというのは本当か?」

発端は日経新聞9月23日(ネットでは9月22日)の記事だ。25日になって中国語翻訳バージョンが出回った。



日本の財界主要メンバー230人が9月20~27日まで訪中し、商務省を訪れた際、中国から撤退する場合の手続きをスムーズにするよう要望したというものだ。記事は「同行筋によると、中国では撤退する際に行政の認可が必要。行政府の中で手続きが複数の部署にまたがるなどして撤退に長時間かかり、進捗状況を確認するのも難しい。雇用に悪影響が出ることを懸念して行政側が難色を示すケースが多いことが背景にある。中国経済の減速に伴い撤退を検討する日本企業も増えているが、現状のままでは実務に影響が出て、今後の新規投資にも慎重にならざるを得ないため、中国当局に改善を求めた。」とあり、特段、目を引く内容はないように思える。

(余計な話だが、私は記事中にある「同行筋」といった表現が大嫌いだ。ひどいものになると「中国筋」まである。中国人は14億人いるのだ!匿名にするほどの内容ではないのだから、きちんとソースを明記するのが常道である。不確かな表現は不要な誤解や憶測を生み、悪影響は甚だしい)

中国は倒産から清算手続きに至る法的手続きが整備されていないため、しばしば夜逃げするか、雇用を気遣う地元政府に引き留められ「引くに引けない」状況に追い込まれる外資が後を絶たない。中国の労働コストによる製造業の撤退は、日本どころか中国企業でも見られる現象だ。取り立てて騒ぐ必要はない記事内容なのだが、どうしてか。ネットで出回った翻訳版が元凶だ。

以下、中国語版(http://www.360doc.com/content/16/0925/16/33004824_593534245.shtml)を忠実に再翻訳してみる。騒ぎがあまりにも大きくなりすぎたため、最初の文書は削除されている。興味深い内容であり、かつ深謀を感じさせる記事なので記録する必要があると判断した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「不安な日系企業の撤退」

外資が中国を離れるのは、今やすでにニュースではない。特に広東省の原料加工型企業は、経済の不調で倒産している事例が多い。ただ9月25日、ネットでさかんに流れたニュースには、やはり不安になる。そのニュースは、日本の大企業経営者が経済訪中団を結成し、22日商務省を訪れて、中国が日本企業の撤退計画に協力し、すみやかに撤退し、中国を離れられるよう求めたというものだ。

ネットを調べて分かったのは、日本の経済訪中団が来たことは事実で、中国の公式メディアは、張高麗副首相が21日、日本経済界の代表団と会見し、懇談したと伝えているが、会見の具体的内容について、公式メディアは一切実質的な報道をしていない。

日本から来た230人の経済訪中団は史上最大規模とされ、中国で4、5日だけ活動し、こっそり去っていったのは常識にかなっていない。

日本の中国経済に対する影響は、他国をはるかにしのいでいる。華国鋒、鄧小平による改革開放当初、西側諸国の反応は鈍く、中国には一般的に関心がなかった。日本企業は率先して対中投資をし、無利子、低利の借款をし、中国経済のテイクオフを強く促進した。。これは日本人が中国に対し友好的であると考える重要な理由になっている。実際、日本企業もまた十分な見返りを受け、中国市場で長期間にわたって優位に立ってきた。特に電器分野は顕著である。

その後、西側諸国の企業が続々と中国にやってきて、中国の日本企業に対する依頼度は徐々に減ってきた。

1989年、西側諸国が集団で中国に経済制裁を行ったが、その後、日本は真っ先に制裁を解除した。一部の自由主義者からは批判されたが、このことから日本の功利主義戦略を見て取ることができる。

そして今、日系企業は本当に撤退するのだろうか?日系企業の撤退は、富士康(フォックスコン)などの企業が生産ラインをベトナムやインドに移すのとは全く意義が異なることを知らなくてはならない。富士康の撤退による中国への打撃は、すでに多くの中国人が気にかけていないが、今回の日本は一企業の撤退ではなく、大規模で、集団の撤退なのだ。

このような重大なニュースに対し、中国のメディアは全く報じていないが、あるいは報じにくいのかも知れない。

事実を確認する方法や確信がない状況下で、われわれが日本企業撤退のニュースについて得られる情報は断片的である。撤退の具体的な内容さえはっきりしない。伝えられるところによると、日本経済訪中団は、中国政府に専門の窓口を設け、日本企業撤退の手続きを簡素化するよう求め、かつ明確に、現在、地方政府が行政許認可の権限を用い、残った利益の送金を引き延ばさせる現象がしばしばみられことも訴えている。日本企業がこれに抗議しているが、企業レベルでの交渉では効果がないため、ハイレベルの官僚が団を組織し、抗議に来るしかないともいうのである。

ここで重要な問題が出てくる。【利益の送金なのか、撤退し閉鎖するのか?】もし日本企業が利益を国内に送ろうとして中国政府や銀行に阻止され、日本が今回、送金の自由を求めているだけなら大した問題ではない。中国はただ法と信用に基づき対応すればよいだけだ。当初、日本から資金を投入する際、中国サイドは取り決めの部分については利益を中国に残し、その他は契約によって自主的に認め合えばよいことになっていた。もし中国側がその後、日系企業の利益に目がくらみ、一方的に妨害を設け、利益の流出を阻止しようとしているのであれば、信義則違反ということになる。またもし日本企業が今回、全体で団を組んで撤退するというのであれば、非常に重大な事件となる。経済が下方に向かう中国経済にとって泣きっ面にハチとなる。”中国通”とみなされている日本であれば、日本企業の行為は西側諸国の追随を招くことになる。

外資が中国を離れる原因は基本的に一致している。中国企業のコピー能力がとても強く、中国企業の内部コストが低く、中国政府部門の権力がとても強く、税金が高いということだ。だが今回の日本企業撤退は、もう一つ、政治的苦境の要因もあるに違いない。

日本とアメリカは、この50年来、中国にとって最も友好的な国家だった。だがこの二か国に限って、多くの中国人からしばしば悪魔化されてきた。アメリカについていえば、一連の体系的ではない曲解だ。日本については非常に系統的で、侵略の歴史から経済搾取、さらには釣魚島領土紛争に集中されている。

弾薬の地である釣魚島は、ロシアが中国から奪った領土の一万分の一か十万分の一で、いわゆる関連する地下の石油資源もまたむやみに持ち出され、関係を混乱させている。だが両国の政治家は釣魚島を口実に、国内の民族主義的感情を扇動している。日本の政治家は民族主義を通じて選挙の票を得ようとし、中国ではある勢力が民族主義によって合法性を取り繕い、国内の矛盾に対する視線をそらそうとたくらんでいる。その結果、日中関係はたえず悪化しているのだ。

現在、もし日系企業が大量に撤退すれば、中国経済は必ず被害を受け、民族主義に走る「憤青」(憤る青年)は失業しても、おそらく自分に罪があることに気づかないだろう。それどころか、ある憤青たちは中国は日本から離れてもいいが、日本は中国から離れられないと騒ぎ立てているが、その知的能力は、100年以上前の欽差大臣、林××(ママ)と同じレベルで、愚昧極まりなく、外国人は中国の大黄(※漢方薬)と茶がなければ大便が出ないと考えているのと同じだ(※かつての故事にならった、中国人の外国に対する無知を風刺した表現)。

いったい誰が誰に対する依頼度が高いのか?日本の海外に対する主な投資比率をみてみる。日本の公式統計によれば、日本はここ数年、中国への投資比率が低下し、現在、中国への投資は7%しかなく、東南アジアが15%、アメリカが35%、EUが26%だ。これはプライベート・ファンドの候安揚経理が提供してくれたデータだ。彼の博識と見識、そして厳格な分析に従えば、このデータは信用できる。日本語がわかれば日本政府のサイトで調べればよい。

中国の日本のハイテク産業に対する依存は長期的なものだ。明らかなように、日中友好は中国こそ重要なのだ。

今のところわれわれが見ることのできるこのニュースに関する報道は、一枚の日本の新聞の切り抜きでしかない。この切り抜きが伝えている日本サイドの意味は二つある。一つは、中国の投資環境改善に対する要求、もう一つは、日本企業が中国を撤退する際、行政の障害をなくしてほしいというものだ。

日系企業は何としても撤退すると要求しているわけではない。彼らは中国政府と駆け引きをしているのだ。どうであれ、中国の公式メディアはすみやかに事実に即した報道をし、中国は誠意を示して日本企業を引き留めなくてはならない。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この文章の妙は、本来の意図が後半部分に隠されているのではないという点である。ニュース市場のツボを心得た、かつ政治状況に熟知した、かなりの書き手であることが看取される。振り回された人たち、私を含め、には迷惑なことだが。知れば知るほど、かかわればかかわるほど、深い国、深い人々であると感じる。

タイムスリップしたような汕頭の旧市街散策

2016-09-26 18:09:24 | 日記
昨日の日曜日、学生に案内されて汕頭の旧市街を歩いた。外地から来た学生なのだが、汕頭の古い町並みが好きで、歴史にも詳しい。すっかり地元の顔なじみで、歩きながら小さな人気レストランから歴史的建造物までを紹介してくれる。将来は芸術の展示にかかわる仕事をするのが夢だという。なんでそんなに詳しいのかと聞いたら・・・。

「気分が晴れないときとか、考え事があると、いつも授業をさぼってここに来るんです。古い街にいると、時間がたつのも忘れて、ホッとします。気が付くといやなことを全部忘れて、学校の宿舎に戻ることができるんです」

エスケープはよくないが、決して優等生ではなかった自分を振り返れば、彼に説教するのも空々しい。狭い大学村に押し込められた窮屈さも理解できる。古い文化に価値を見出す感覚は大事にしたい。「これからは週末、出かけるようにすれば」と話しかけると、「先生の授業はさぼりませんよ」と如才ない返事が返ってきた。授業の最初にジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を薦めたら、次から本を手にやってきて、次から次へと問いかけをしてくるような青年だ。曲がった人間にはならないだろう。

実に不思議な体験だった。時間が止まったままのような空間なのだ。商店がある一角の裏では、何十年も人の住んだ形跡がない廃墟がある。建物は西洋風のしっかりした作りだ。屋根が崩れ落ち、「危房」(危険家屋)と紙が貼られた家も多い。



「汕頭(シャントウ)」(日本では「スワトウ」)は、前にも書いたが、清朝が英仏に攻められたアロー号事件で、1858年、台湾などとともに開港を迫られた。以来、外国との通商が始まり、華僑も多く出た。こうして西洋風の建物が入り込んだ。あちこちにある空き家は、日本軍の攻撃から逃れ、海外で成功を収めた華僑の持ち物であるケースが多いという。当事者が国内にいないため、政府も簡単には壊すことができない。空き家はしばしの間、主が席を立っただけなのだ。いずれまた息を吹き返す時が来る。生き物を見るような目線で「危房」を見上げた。





旧市街の建物は、1階部分が通路になったいわゆる「騎楼(チーロウ)」と呼ばれる様式が用いられている。広東や福建省、台湾でよく見かけるものだ。スコールがあり、日差しの強い気候に応じた合理的な構造である。

中心部の「小公園」に面して、さび付いた縦長の看板に「百貨大楼」(デパート)と読める重厚な建物があった。







屋上には鐘楼が載せてあり、そこに伝わる橋が架けられている。周囲は植栽され、空中庭園を思わせる。上海の外灘(バンド)においてもおかしくない建築だ。1932年、インドネシア華僑の李柏恒がこの地の発展を見越し、海外での蓄財を投じた。彼がつくった南生公司という会社名にちなんで「南生百貨」と呼ばれた。このあたりは汕頭の銀座だったのだ。

共産党政権誕生後は国営化され、1989年まで使われた。汕頭は改革開放後、深圳やアモイと並ぶ経済特区に選ばれたが、経済発展は不調に終わり、同ビルも風雨にさらされ放置された。いったんは取り壊しが決まったが、保存を求める声が起き、修復事業がスタートした。すでに柵で囲われ、準備が進んでいる。改革開放初期、多くの都市で歴史的建造物が破壊された。発展が不調だったことは、汕頭の町にとって、必ずしも不幸だったとは言えない。

あと10年もいらないだろう。数年後、彼が町の再建プロジェクトにかかわり、小さいながらも、個性あるギャラリーを開いている時が来るかも知れない。この町に住む楽しみがたくさん増えた1日だった。


犬が人を噛んでもニュースになることがある・・・数字のトリック

2016-09-25 10:26:36 | 日記
「狗咬人不是新闻 人咬狗才是新闻」(犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛めばニュースになる)

ニュースの性格を表す際にしばしば引用される「When a dog bites a man that is not news, but when a man bites a dog that is news.」は、世界で引用されている。19世紀末、『ニューヨーク・サン』の編集者が残したとされる言葉だが、時代を超え、現代のインターネット社会においても、その定義は生きている。いわゆるニュース・バリューを定義する際の「異常性」「非日常性」をわかりやすく言い当てたのだ。

「ニュース事例研究」の授業でも、ニュースの定義について触れた際、この言葉を引用した。



だがニュースの定義はますますあいまいになっている。一週間後の同じクラスの前日、9月20日の昼間、この言葉を裏切る事件が北京で起きた。オフィスビルや外資系ホテルが立ち並ぶ北京朝陽区の中心部で、十数人が体長40センチほどの白い犬にかまれ、近くの疾病予防管理センターで狂犬病ワクチンの接種を受けたというのだ。



この重大ニュースはたちまち携帯で北京じゅうに広まり、噛まれた傷口を写した画像まで出回った。

犬が人間一人を噛んだだけではニュースにならないが、それが管理の行き届いた大都市のオフィス街で起きれば「非日常性」を生み、被害者が増えれば「異常性」につながり、ニュースに化ける。こう定義に但し書きを付け加えなければならない。

こんなことを考えながら授業に臨み、前日のニュースについて尋ねたところ、学生はみなポカンとしていた。早朝で寝ぼけていたのではない。そもそも知らなかったのだ。インターネット社会のニュース選択は、自分が関心を持つものに偏る傾向が強い。ニュース・バリューの分類で言えば、身近であること、「近接性」「親密性」が突出する。だから北京から2000キロ離れ、そもそも地方の独立性が強い汕頭には伝わらないのだ。

だがそれだけではない。授業の休憩時、ある学生が「先生、犬が人を噛むなんて珍しくないよ」と話しかけてきた。何気なく聞いていたが、調べてみると、目立たないが、犬に噛まれた事件がたくさんある。北京では昨年の国慶節休暇期間(10月1~7日)、犬に噛まれた被害者は4000人近くにのぼる、と『北京青年報』が伝えている(2015年10月9日)。



要するに、ふだんのニュースに気づいていない錯覚、あるいは意図的な無視もまた、新たなニュースを再生産する。日本の新聞が、他紙がすでに報道した目立たないニュースを、自分の新聞では報じられていないので、あたかも特ダネであるかのように記事を大扱いして読者を”だます”ことがあるが、それも似たようなものかも知れない。賞味期間切れの食品を再加工して出荷するようなものだ。

ニュースの定義はかくもあいまい、恣意的なものなのである。数字のトリックに騙されると、表層的なファーストフード化したニュースに振り回されることになる。

先日の北京の事件では、動物愛護人士が「犬の虐待に対する報復だ」とする根拠薄弱な”ニュース”を発信し、騒ぎを大きくした。結局はデマだと落ち着いたようだが、野放図な野良犬の繁殖に苛立つ市民が虐待に走るケースは多い。いずれにせよ、犬に噛まれる事件の多発に、野良犬の繁殖が背景にあるは間違いない。飼い主が殖え過ぎた犬を捨てていることも大きな原因だ。動物への過剰な愛護精神が、野良犬の繁殖を助けている面も指摘できるだろう。中国は今、ペットブームである。一方、飼い主の行き届かないマナーがしばしば批判されている。豊かになった社会、変化する価値観、追いつかない都市管理・・・都市化に特有な現象である。

こういう視点で取材をしていけば、社会の根底にある真相に光を当てる記事が書けるのではないか。公共性、公益性こそニュース・バリューの欠くべからざる要素であることを忘れてはならない。次の授業ではこんな問いかけをしてみようと思う。どんな反応があるのだろうか。