行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

犬が人を噛んでもニュースになることがある・・・数字のトリック

2016-09-25 10:26:36 | 日記
「狗咬人不是新闻 人咬狗才是新闻」(犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛めばニュースになる)

ニュースの性格を表す際にしばしば引用される「When a dog bites a man that is not news, but when a man bites a dog that is news.」は、世界で引用されている。19世紀末、『ニューヨーク・サン』の編集者が残したとされる言葉だが、時代を超え、現代のインターネット社会においても、その定義は生きている。いわゆるニュース・バリューを定義する際の「異常性」「非日常性」をわかりやすく言い当てたのだ。

「ニュース事例研究」の授業でも、ニュースの定義について触れた際、この言葉を引用した。



だがニュースの定義はますますあいまいになっている。一週間後の同じクラスの前日、9月20日の昼間、この言葉を裏切る事件が北京で起きた。オフィスビルや外資系ホテルが立ち並ぶ北京朝陽区の中心部で、十数人が体長40センチほどの白い犬にかまれ、近くの疾病予防管理センターで狂犬病ワクチンの接種を受けたというのだ。



この重大ニュースはたちまち携帯で北京じゅうに広まり、噛まれた傷口を写した画像まで出回った。

犬が人間一人を噛んだだけではニュースにならないが、それが管理の行き届いた大都市のオフィス街で起きれば「非日常性」を生み、被害者が増えれば「異常性」につながり、ニュースに化ける。こう定義に但し書きを付け加えなければならない。

こんなことを考えながら授業に臨み、前日のニュースについて尋ねたところ、学生はみなポカンとしていた。早朝で寝ぼけていたのではない。そもそも知らなかったのだ。インターネット社会のニュース選択は、自分が関心を持つものに偏る傾向が強い。ニュース・バリューの分類で言えば、身近であること、「近接性」「親密性」が突出する。だから北京から2000キロ離れ、そもそも地方の独立性が強い汕頭には伝わらないのだ。

だがそれだけではない。授業の休憩時、ある学生が「先生、犬が人を噛むなんて珍しくないよ」と話しかけてきた。何気なく聞いていたが、調べてみると、目立たないが、犬に噛まれた事件がたくさんある。北京では昨年の国慶節休暇期間(10月1~7日)、犬に噛まれた被害者は4000人近くにのぼる、と『北京青年報』が伝えている(2015年10月9日)。



要するに、ふだんのニュースに気づいていない錯覚、あるいは意図的な無視もまた、新たなニュースを再生産する。日本の新聞が、他紙がすでに報道した目立たないニュースを、自分の新聞では報じられていないので、あたかも特ダネであるかのように記事を大扱いして読者を”だます”ことがあるが、それも似たようなものかも知れない。賞味期間切れの食品を再加工して出荷するようなものだ。

ニュースの定義はかくもあいまい、恣意的なものなのである。数字のトリックに騙されると、表層的なファーストフード化したニュースに振り回されることになる。

先日の北京の事件では、動物愛護人士が「犬の虐待に対する報復だ」とする根拠薄弱な”ニュース”を発信し、騒ぎを大きくした。結局はデマだと落ち着いたようだが、野放図な野良犬の繁殖に苛立つ市民が虐待に走るケースは多い。いずれにせよ、犬に噛まれる事件の多発に、野良犬の繁殖が背景にあるは間違いない。飼い主が殖え過ぎた犬を捨てていることも大きな原因だ。動物への過剰な愛護精神が、野良犬の繁殖を助けている面も指摘できるだろう。中国は今、ペットブームである。一方、飼い主の行き届かないマナーがしばしば批判されている。豊かになった社会、変化する価値観、追いつかない都市管理・・・都市化に特有な現象である。

こういう視点で取材をしていけば、社会の根底にある真相に光を当てる記事が書けるのではないか。公共性、公益性こそニュース・バリューの欠くべからざる要素であることを忘れてはならない。次の授業ではこんな問いかけをしてみようと思う。どんな反応があるのだろうか。