本日が最初の授業だった。科目は「現代メディア課題研究」。実は、私の到着がギリギリで、すでに科目登録が終了していたため、教務主任の教授から前夜、「学生が少なくても失望しないように。次の学期からしっかりやればいい」と聞かされた。私の科目が校内サイトで閲覧可能となったのは、つい数日前だという。私は「1人でもいれば全力を投じる」と答えたが、内心は不安もあった。確かに8日、汕頭大学に着き、翌日から雇用契約や居留証明にかかわる諸手続きを取り始めたばかり。校内のホテルから宿舎に引っ越したのが昨日だ。
あまりにも早い中国式に引っ張られ、ここまで来たが、走りながら、時には歩きながら考えるのもまた中国式だ。流れに任せすべてを受け入れよう。授業の準備は十分すぎるほどやってきたので、何も心配することはない。
朝8時~10時の授業だったが、教室を確認するため7時には到着した。門を開ける守衛の男性が、「先生、まだ早いよ」と驚いた様子だった。
「新米なもので、早めに来たんです」
「学生よりまじめだね」
こんなやり取りをして、とりあえずは教室に腰かけた。ガランとした教室が、これからの未知の世界につながっていると思うと、ワクワクしてきた。
30分前に1人の女子学生が教室に来て、「先生、おはようございます」と声をかけてくれた。小柄で、眼鏡をかけた聡明そうな学生だった。正直言って、少なくとも1人は来てくれた、授業は成立する、とホッとした。すると始業間近、次々と学生が入ってきた。入学したての1年生には見えない。たちまち20人を超え、通常クラス並みの学生がそろった、後で聞いて分かったが、聴講に来たのは2、3年生で、先週末から私の授業日程が校内サイトで通知され、「元記者の日本人教授」に興味を持ったのだという。
この日は、「最も真実が犠牲になる」戦争報道の歴史、現状をテーマに選んだ。一番に困難な問題をまず最初に提起しようと思ったからだ。その前に、自己紹介を兼ね、「自由とは何か?」について語った。内容は以前、このブログに書いたとおりだ。
独立した思考、人格の独立があってこそ、人の真似ではない、独自の視野を広げることができる。視野を広げ、相対的に物事を比較することができて初めて、バランスの取れた判断をすることができる。常に懐疑の精神を忘れないことで、盲信を避けることができる。こうした土台の上に、自由を語り、享受することができるのではないか。「自由」が未解決の課題であることは、中国もまた同じではないのか・・・。1限目の授業の最後、私はこう問いかけて締めくくりとした。熱心に質問をしてくる学生たちがいた。
「自由とパンの関係はどうなるのか?」「知識人は自由という概念を理解したのに、どうして庶民まで伝わらなかったのか?」
真剣なまなざしを見て、選んだテーマに誤りはなかったと感じた。中国であれ、日本であれ、「自由」の訳語について正しい回答を求める営みは続いている。沈黙し、大勢に流される人々と、自由を求めて奮闘する人々と、どちらが尊いかを語るのに国境はない。
汕頭大学では、他の大学でも同様だろうが、初回の授業はあくまで試聴であって、合わなければ別の授業に切り替えが可能で、2回目からが正規の授業になる。この日の学生とこのまま付き合いが続くかどうかはわからないが、出席した学生全員に名前を書いてもらった。最後、「この名簿は私が最初に授業をした記念の品だ」と言うと、拍手が起こった。
後で学生助手を通じ、「大学のサイトで紹介されている授業の内容は以前の古いものなので、加藤先生の最新の授業計画を送ってほしい」とリクエストがあった。おそらく日本ではまずあり得ないのではないか。こんなしたたかで正直な学生たちが、とてもいとおしく思えてきた。
あまりにも早い中国式に引っ張られ、ここまで来たが、走りながら、時には歩きながら考えるのもまた中国式だ。流れに任せすべてを受け入れよう。授業の準備は十分すぎるほどやってきたので、何も心配することはない。
朝8時~10時の授業だったが、教室を確認するため7時には到着した。門を開ける守衛の男性が、「先生、まだ早いよ」と驚いた様子だった。
「新米なもので、早めに来たんです」
「学生よりまじめだね」
こんなやり取りをして、とりあえずは教室に腰かけた。ガランとした教室が、これからの未知の世界につながっていると思うと、ワクワクしてきた。
30分前に1人の女子学生が教室に来て、「先生、おはようございます」と声をかけてくれた。小柄で、眼鏡をかけた聡明そうな学生だった。正直言って、少なくとも1人は来てくれた、授業は成立する、とホッとした。すると始業間近、次々と学生が入ってきた。入学したての1年生には見えない。たちまち20人を超え、通常クラス並みの学生がそろった、後で聞いて分かったが、聴講に来たのは2、3年生で、先週末から私の授業日程が校内サイトで通知され、「元記者の日本人教授」に興味を持ったのだという。
この日は、「最も真実が犠牲になる」戦争報道の歴史、現状をテーマに選んだ。一番に困難な問題をまず最初に提起しようと思ったからだ。その前に、自己紹介を兼ね、「自由とは何か?」について語った。内容は以前、このブログに書いたとおりだ。
独立した思考、人格の独立があってこそ、人の真似ではない、独自の視野を広げることができる。視野を広げ、相対的に物事を比較することができて初めて、バランスの取れた判断をすることができる。常に懐疑の精神を忘れないことで、盲信を避けることができる。こうした土台の上に、自由を語り、享受することができるのではないか。「自由」が未解決の課題であることは、中国もまた同じではないのか・・・。1限目の授業の最後、私はこう問いかけて締めくくりとした。熱心に質問をしてくる学生たちがいた。
「自由とパンの関係はどうなるのか?」「知識人は自由という概念を理解したのに、どうして庶民まで伝わらなかったのか?」
真剣なまなざしを見て、選んだテーマに誤りはなかったと感じた。中国であれ、日本であれ、「自由」の訳語について正しい回答を求める営みは続いている。沈黙し、大勢に流される人々と、自由を求めて奮闘する人々と、どちらが尊いかを語るのに国境はない。
汕頭大学では、他の大学でも同様だろうが、初回の授業はあくまで試聴であって、合わなければ別の授業に切り替えが可能で、2回目からが正規の授業になる。この日の学生とこのまま付き合いが続くかどうかはわからないが、出席した学生全員に名前を書いてもらった。最後、「この名簿は私が最初に授業をした記念の品だ」と言うと、拍手が起こった。
後で学生助手を通じ、「大学のサイトで紹介されている授業の内容は以前の古いものなので、加藤先生の最新の授業計画を送ってほしい」とリクエストがあった。おそらく日本ではまずあり得ないのではないか。こんなしたたかで正直な学生たちが、とてもいとおしく思えてきた。