行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

「日中関係悪化の責任はどちらにあるか?」という中国紙主催のシンポジウム

2016-12-12 22:36:10 | 日記
今日、北京にいる旧知の中国紙記者から携帯電話に連絡があり、是非、新聞社主催のシンポジウムに参加してほしいという依頼があった。籍を置く大学は外部への寄稿や講演を奨励しているので、ためらいもなく承諾し、シンポジウム担当者からの具体的な説明を待った。すぐに電話が来た。日中韓関係に関するテーマで、本来、中国人学者のみを予定していたが、日韓にも声をかけようということになったというだった。

そこまではよかった。テーマは何なのかと尋ねると、「日中韓、特に日中関係が緊張した責任はだれにあるのか」だという。「日本人だからといって日本の立場に立つ必要もなく、中国にいるからといって中国の味方をする必要もない」と補足までするので、私はその言葉をさえぎって、「だれのせいだということじゃなくて、現状の原因や背景を分析するのなら意味があるが・・・責任を言ったらみんなの責任としか言いようがない」と答えると、「では、だれの責任が重いのか、それを話してもらえればいい」と追っかけてくる。このままシンポジウムを開いても、どうみてもまともな議論にはならない。

私は試みに聞いてみた。
「日中関係というけれど、その定義は?」

相手は黙ってしまった。私は言葉を続けた。

「みんなは政府の関係や政治指導者の会談を念頭に置くかもしれないが、経済だって、文化芸術の民間交流だってある。私は大学で中国人学生と相対し、まさに日々、日中関係と直面している。私が描く日中関係というものは、もっと広い概念だ。わざわざ北京まで行って、そんな狭い話をするつもりはない。私はむしろ、メディアがそういう軽薄なテーマの会議を開くことには批判的な立場だ。メディアは政治とは距離を置くべきだ」

すると相手はむきになって、こう反論した。

「日中関係が悪いのは客観的な事実で、否定できない。その責任はだれにあるのかを探ろうというのがわれわれの考え方だ」

そこで尋ねてみる。

「日系企業が中国にどれだけあって、どれだけの従業員を雇用しているか知ってるか。上海にどれだけの日本料理屋、日本ブランド店があるか知ってるか。毎年どれだけの中国人が日本に旅行に行っているか知っているか」

すると反論がかえってくる。

「経済や文化はそうかも知れないが、日中関係が緊張しているのは否定できない。それは世界がみな認めることじゃないのか」

どうしても「緊張」していないと商売ができないらしい。こうなるともうお手上げだ。悪いのだとしたらどう改善するかを話し合うのが、メディアの社会的責任ではないのか。「だれが悪い」「いやあいつが悪い」と激論を交わし、テレビのトークショーのように刺激的な話題を作りたいのだろう。すでに上司が決めた方針だろうから、下の者はそれをおうむ返しのように繰り返すしかない。インターネットが話題性の高いニュース(中にはデマも多いのだが)でアクセス数を稼ぐものだから、新聞まで同じ浅薄な商業主義に染まっている。これは他国においても多少なりともみられるお粗末な現象だ。

私が「メディアはそういう無意味な論争をするのではなく、むしろ政治から距離を置き、冷静な分析や提言をすべきではないのか」と諭すと、相手の担当者は「少し上司と相談して返事をする」と電話を切った。断りのメッセージである。

果たしてどんなシンポジウムが行われ、それがどんな記事になるのか。想像がつくだけに、やるせない気持ちになる。メディアが取材ではなく、自らニュースを作ることをメディア・イベントと呼ぶ。これは典型である。メディアの権威は、こうした功利的な、商業主義丸出しの、公共性や公益性を全く考えない行為によってますます落ちていく。良心的な記者の勇気ある言動も、利得しか考えないこうした行為が帳消しにしてしまう。その罪は重いと言わざるを得ない。

最初に話を持ってきた知り合いの記者から、「ふさわしくないテーマで申し訳ない。いろいろな声を取り入れればよいのだが・・・」とお詫びのメールが送られてきたが、私は、担当者に伝わるように次のメッセージを返信した。

「だれの責任か。結局、それはメディアの責任じゃないのか」

この反省がないと、政治を変える力は生まれない。