行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

中国人学生の期末論文を読みながら考えたこと

2016-12-25 20:30:46 | 日記
中国の大学は秋季と春季に分かれ、今は秋季の期末を迎えている。論文の提出やテスト対策で、学生たちは連日、寝る暇もなく机に向かっている。私が担当する2クラスのうちの一つでは、身近な出来事をニュースとし、そのニュース価値を探る中で、各自の社会認識、世界観、人生観を探索する課題を出した。

インターネット社会に育った若者たちは、あらゆる課題に対し、安易にネットから答えを引き出そうとする傾向がある。文献もすべてに目を通すのではなく、電子書籍の検索で引っかかった個所を引用し、効率よく見栄えの良い論文を仕上げる。要領よくまとまっているが、奥行きがなく、独自性が見当たらない。自分の頭で考えたものでなければ、いくら文章を量産しても、頭には残らない。時間と労力の無駄だ。だから私は、自分の頭で考え、自分の頭の中でしか答えを出せない課題の出し方を工夫した。

「ネットの検索からではなく、自分の頭の中から答えを引き出すように。自分のものである限り、それには等しい価値がある」

私が繰り返し伝えてきた言葉だ。

論旨が不明確なもの、独自性がないもの、思考の深みが足りないものには、よりよい答えが出せるよう、個別に面談を繰り返している。すっかり忘れていたが今日はクリスマスだった。学生たちは遊びに出かけたい気持ちを抑えて、勉強をしている。午後、期末課題について議論をした学生は、去り際、リンゴをプレゼントしてくれた。中国でも西洋の習慣が急速に浸透しているが、リンゴの贈り物は初めてだった。



町中で目にした急ピッチの工事現場から、尊重されない労働者の権利に思いを致し、全体の利益と個人の利益とのバランスを論じた学生がいた。地方出身のある学生は、大学のある潮汕地区の人々が、経済的に遅れながらも失わずに持っている独自の優越感を通じ、文化的な自信が経済成長によるのではなく、文化そのものの価値にあることに気付いた経験を語った。地元の学生は、タイ輸入品フェアでアルバイトをした際、地元住民の保守的な購買スタイルを感じ、そこから保守的気質の歴史的、地理的背景を探った。

「正面(プラス)報道」と「負面(マイナス)報道」の概念を用いた学生には、二分化の弊害を説いた。中国の当局が「社会の安定」を口実にしばしば使う分類だ。だが、「社会にマイナスな影響を与えるニュースは負面報道ではないのか」と頑として譲らない。そこで聞いてみた。

「だれがプラス、マイナスの影響を判断するのか?」
「政府にとってマイナスなことが、庶民にとってはプラスということもあるのではないか?」
「短期的なマイナスが、長期的なプラスである場合はどうするのか?」

こんな問答を繰り返しながら、一歩一歩新たな認識を築いていく。長い教育によってできあがった画一的な思考に幅と奥行きを与え、視野を広げる作業は忍耐を要する。相手の思考回路、感受性に合わせながら、焦らず、まだか弱い芽に水を与えるように見守っていく。息の長い作業だが、着実に芽が育っていくさまは、こちらにも希望の光を与えてくれる。学びとは二人三脚の作業なのだとつくづく感じる。国境はない。そんなことも、若い芽たちは教えてくれる。