行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

静かな夜に懐かしい人を想う韋応物の詩

2016-12-10 02:07:31 | 日記
唐代、自然を詠んだ詩人4人を「王孟韋柳(おう・もう・い・りゅう)と呼ぶ、と知り合いに教えられた。盛唐の王維と孟浩然、そして中唐の韋応物と柳宗元の4人だ。韋応物は韋蘇州とも呼ばれる。

岩波文庫の『中国名詩選』には3首が収められている。夜の詩が際立つ。しんと静まり返った時間に、故郷や懐かしい人を想う。秋の夜、旧友に贈った詩がある。

懐君属秋夜 君を懐(おも)うて秋夜に属す、
散歩詠涼天 散歩しつつ涼天に詠す。
山空松子落 山空(むな)しうして松子(しょうし)落つ
幽人應未眠 幽人(ゆうじん) 応(まさ)に未だ眠らざるべし。

涼しい秋の夜に散歩をしていると、森閑とした山の中で、松かさの落ちる音がする。わずかな音が静寂を引き立てる。そして友もまた眠らずに、自分のことを想ってくれているのではないかと想像する。

韋応物を思い出したのは、知人が彼の詩「全椒の山中道士に寄せる」を送ってよこしたからだ。

今朝郡斎冷、忽念山中客。
澗底束荊薪、帰来煮白石。
欲持一瓢酒、遠慰風雨夕。
落葉満空山、何処尋行跡。

今朝の書斎は寒く、そのためか突然、山中に隠遁するあの人を想いだした。あなたはきっと谷川の底で薪を拾い、家に帰って粗末な食べ物を作るのでしょう。一升瓶を抱え、遠くで雨風をしのいでいるあなたを慰めに行きたいが、落ち葉が山道をふさいでしまい、どこを探せばよいのかわからなくなってしまった。

山中はいつも森閑としている。人は自然の中で、その恵みにのみ支えられて暮らしている。人は自然に生かされ、自然の一部となって溶け込み、その姿さえも隠れて見えないほどだ。だがいつの間にか人は山を捨て、自然からかけ離れた存在になってしまった。自然はともにあるのではなく、外にあって支配する対象となった。松かさの落ちる音も聞こえず、酒をぶら下げて歩く趣も失われた。

江戸時代の陽明学者、熊沢蕃山はこう言っている。

「万物一体とは、天地万物みな大虚の一気より生じたるものなるゆえに、仁者は一本一草をも、その時なく、その理なくては切らず候」

宋学が教える「天人合一」とはこのことであろう。