行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

「日本はなぜみなが進んでごみ分別に協力するのか」という中国人学生の質問

2016-12-14 13:14:26 | 日記
先日、授業が終わると、2人の学生が寄ってきて、「これから学内のごみ分別宣伝コンテストの表彰式をやるので、是非、参加して欲しい」と誘われた。各大学生のイノベーション(創新)能力を高める国家プロジェクトがあり、その一環として、ごみ分別に使用する効果的なステッカーのデザインを募集した。優秀作には100元前後の賞金が贈られるが、その授与を行うのだという。私には出席と同時に、日本のごみ分別の経験を話してほしいとの要望も加わった。いつも前もって準備ができないものかと思うのだが、走りながら考える中国流のメリットでもあるので、顔を出すことにした。

日本と言えば、少子高齢化で社会の活力を欠いているという現実のほか、環境保護では先を歩んでいるとの認識が強い。

「授業中、先生が日本人だということに気付いたので、ごみ分別の会にはピッタリのゲストだと思いついたのです」

学生の話は正直だ。ごみの分別は生産者から消費者、収集からリサイクル処理まで一貫した工程が不可欠だ。学内のステッカーだけではどうにもならないが、少なくとも、学生の意識を高める効果はある。徐々に意識は高まっているが、社会のシステムが出来上がっていないため、なかなか根付かない。ただ地道な努力をしているうちに、突然、強制的な政策が打ち出され、一気呵成に実現していくのがこの国のやり方だ。この先、どう変わっていくのか目が離せない。

「日本はなぜみなが進んごみ分別に協力するのか」と問われた。日本も数十年前は、まとめて埋め立てていただけだ。埋め立て場所がなくなり、焼却施設の立地が困難になり、またオイルショックで資源の有効活用に目が向くようになって、ようやく行政と、企業、民間による取り組みが始まった。学校でも環境保護教育に力が入れられ、民間による資源回収運動も拡大した。多くの曲折を経、今なお模索の段階である。胸を張って話せるほどではない。困難な歩みを共有し、協力していくことが、地球規模の環境問題を解決するうえで意義を有する、と答えるしかない。

期末課題に「身近なニュースから社会、世界を語る」というテーマを与えた。最初に提出した女子学生の作品は「一握りの紙くず」だった。バスで見かけた光景を通じ、住民の環境意識を論じたものだ。

バスの走行中、乗客のある女性が一握りの紙くずを窓から放り投げた。乗り合わせた女子学生が、「これが汕頭(スワトウ)人か」とあきれながらも、無視して携帯をいじくり始めた。すると運転手が現地方言で叱り始めた。

「何やってるんだ!バスの中にごみ箱があるだろう。なぜそこに捨てないんだ。外に捨てるのはよくない!」

すると女性は、

「バスの中に捨てたんじゃない。窓の外に捨てたんだ。ごみ箱があるなんて知らなかった!」

2人のやり取りが終わると、バスの中は再び平静に戻った。そこで彼女は考えた。

「よく汕頭人の公衆マナーは悪いというけれど、私はなぜ、あの女性に注意をできなかったのか。私も汕頭人としてこの街を愛しているというのならば、見て見ぬふりをした私にも責任があるのではないか」

自分を反省すると同時に、彼女は法律やルールよりも、その根本にある道徳意識が重要だという認識にたどりつく。ごみのポイ捨てはいけない、ごみを分別しようといくら叫んでも、それを守ろうとする意識がなければ絵に描いた餅でしかない。彼女に言わせれば、「道徳は家で、道徳はそれを支える柱だ」という。いくら外観が立派な家を建てても、柱が細ければ、いつの日か家はつぶれてしまう。順法精神の欠如は、道徳観のマヒである。後者の方がより深刻だ、と彼女は書いた。

そして彼女はさらに論を進める。もし大人がごみをポイ捨てするのを子どもが見たら、全く白紙状態の子どもは、その行為が当たり前だと認識し、まねるだろう。だとすれば、社会の一人一人が模範を示し、子どもの白いキャンバスに美しい絵を描かなければならない。注意をせずに見過ごした自分は、大人の社会的な責任を果たしていないことになる。

若い目が育ってきている。それをどう育てていくか。環境先進国と仰がれる日本はきっと多くの協力ができるのではないか。