迷建築「ノアの箱家」

ひょんなことからNOAに選ばれし者として迷建築「ノアの箱家」に住むことになったKOKKOの笑ってあきれる自宅建築奮戦記

迷建築「ノアの箱家」物語⑪

2010-07-14 18:58:14 | 迷建築「ノアの箱家」物語

NOAの設計士は名建築家だろうけれど、私の方はコンテナの迷人である。


 迷建築「ノアの箱家」の迷建築ぶりを記録しておくため、7月7日付けの「ノアの箱家」⑩の続きを書いておこう。

 先に、「NOAにとって竹についてはありえる話だったろうが、闇が好き、トイレは外がいいなどという私のライフスタイルは、正直のところびっくりだったのではないだろうか。」と書いた。

けれども、実際のところ、NOAにとっても私のやろうとしている“竹”はイメージしにくかったようだ。

“現物が全て”と考える方なので、作品がない中で語るのは陳腐としか言いようがなく、私としてはあまり気が進まなかったが、NOAの丁寧な対応が嬉しくて、しっかり語ってしまった。

    

    「当初はまるまる切っただけの竹が中心になる。
    日々形を変化させていくので、毎日見ていると、生きて動いているように見える。
    伸びたり、縮んだり、右向いたり、左向いたり、ぐるぐる回ったリ、
    膨らんだり、へこんだり、屋根を横断して庭に流れ込んだり、
    家を取り囲んだり・・・。
    樫田の住居については、
    「え?あれ、何?」と私の竹を見て不思議に思った人達が寄ってきて、
    勝手に動かしはじめるのを願っている。
    ただ、今回は自分自身のインスタレーションを
    写真化(記録用としてではなく)していくことが大きな目標。」と。
 
 が、それでもピンと来なかったようで、「写真を送ってきて下さい。」
“竹”ではなく、“木”のインスタレーションの写真を送ったら、
「今、自邸でしようとしていることが分かりました。」
と返答してきた。
 
 
ものを創ることは生きること
趣味ではなく、慰みでもない。
そうしなければならない必然性に駆り立てられる。
 
私のつぶやき。
私の叫び。
私の笑い。
私の怒り。
私の歌。
私の歓び。
私の慟哭。
私の祈り。
 
 
問題は、その私の想いが何処まで人に届くかということだ。
 
十数年前、沖縄から北海道まで1年間かけて個展(写真)をした。
北海道新聞で2ページぶち抜きの記事になった時、ギャラリーのオーナーが私のホテルまでやって来て、
「うちのギャラリーは基本的に絵画と彫刻をメインにやってきました。写真の個展をするのはあなたが初めてです。自分も常連客も写真には慣れていない。写真の見方が分からない。明日から見に来る人が増えます。写真に説明を付けて下さい。北海道新聞に載るということの意味、しかもあんなに大きく載った。そのことの意味を考えて下さい。」と言った。
 
断った。
 
私は、作品を言葉で説明するのは好まない。
タイトルをつけることもあまり好きではない。
作品が全てだ。
もしも相手に何も伝わらなかったなら、「はい、それまでよ」だ。
作品を見て相手に伝わるものがないとしたら、理由は二つのうちのどれかだ。
①創る側の力不足
②見る側の力不足
 
双方のアンテナの周波数が一致した時、何かが生じる。
時に感動が生まれる。
出会いの妙だ。
いい出会いを得たいなら、双方のアンテナ感度を高くする以外にない。
いいものを見たい。
いいものを聴きたい。
いつも、いいものにふれて暮らしていたい。
そうすることで、私のアンテナの感度は高まり、いい出会いを得ることができる。
そう思ってきた私にとって、ギャラリーのオーナーの言葉はすぐには承知しかねる言葉だった。
 
オーナーは、かなりの長時間をかけて説得してきた。
一晩考えて、翌日、
「撮影場所と写っている人の名前だけなら書きます」と返答した。
ポスターとチラシに書いた言葉にすでに私の想いは集約されている。
しかも北海道新聞にも私の言葉と解説が載っている。
もうこれ以上語りたくない。
これ以上喋らなければならないとしたら、写真なんていらない。
初めから喋るだけでいい。
説明を加えることによって、むしろ逆に見る側の眼(受けとめ方)が私の意図からかけ離れていく可能性がある。
だったら、私の写真が泣くじゃないか。
絶対泣かせるわけにはいかない。
自分の作品を守りたい一心だった。
 
同じように、“竹”も解説したくはない。
かろうじてタイトルがあるかないかぐらいにとどめておきたいと思っている。
 
コンテナの南側の大ガラスの部屋は、竹が遊ぶ場所のひとつだ。
大工さんたち工事関係者は、全員が「居間」と思っている。
たしかに・・・人が来た時は「居間」としても使える。
だが、食事の多くは屋外テラスを活用することになる。
あくまで、ギャラリーである。
だから、何も置かない。
置きたくない。
 
もの創りとしての建築
 用のためのものというより眼の保養として、建築物を見るのは好きだ。
フランク・ロイド・ライトの「落水荘」は、京都市立近代美術館でビデオまで買って眺める始末だった。
(用という点では、落水荘は今一のようだ。土砂が家の中まで入り込んでしまう設計上の弱点がある)
建築を用のためのものとして見ることは少なかった。
あくまで、意匠への関心というところか。
 
美しいものを見るのは快感だ。
NOAがくれた「ノアの箱家」は決して美しい物とはいえない鉄むき出しの家として誕生するが、それでも設計士は自分の発想・感性を一瞬のフル回転で私の“竹”のためにアイデアを閃かせてくれたに違いない。
その“四角いドーナツ”が私にピタッと来た。
びゅんびゅんインスピレーションが湧いてくる。
 
ものを創る人間は皆、自分の創るものを大事にする。
自分の設計したものが傾くかもしれないと知りつつ建てられてしまうのは痛打の思いのはずだ。
“四角いドーナツ”を死守しよう。
で、基礎屋にも笑われてしまうような地盤補強をした。
ものを創る人間が誰かが創ったものに感動した時、応える方法はこれしかない。
義理ではない。
あくまで、“四角いドーナツ”が気に入っているからである。
  
NOAがくれた「ノアの箱家」を美しい家にしていこう。
お金をかけることは出来ないけれど、時間をかけて少しずつ、少しずつ・・・。