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学校教育に三角関数が必要か?

2022-12-29 21:31:43 | 歴史

表題の問いかけに対する答えを先に言っておけば

「必要である」

となる。高校時代には「三角関数が分かったからって世の中に出て役に立つとでもいうのか?」と思いたくなるのは無理なからぬこと。まぁ、そんなことに苦しめられる時間を他の事に当てたほうが人生に有益ではないか?って思った方の感性自体は決して不健全なものではありません。では、その理由を社会という人間の集団と個々人の人生の2つの観点から述べてみましょう。

まずは社会的な観点から・・・

現代文明に生きる私たちは電気を使って様々な機械を動かして生活しています。原始時代のうちに人類が滅亡しなかったことを想えば機械や電気が人類にとって絶対に必要なものではないってことは分かります。かといって現代人が現代文明の恩恵を全部捨てて生きていくことは無理でしょう。

そうした機械や電気を御するには三角関数を使わないわけにはいかない。

すなわち、そうしたことを必要とする職種の滅亡が見込めない限り誰かが三角関数を使いこなせなければならないわけでどこかで何らかの形で三角関数の教育が行われていることの必要性はあるわけです。

じゃあ、最初にそのババクジ引く人を決めておけば学校での勉強の苦痛をミニマムに抑えられるんじゃね?って思いたくなるのも分からなくはない。これは江戸時代の初期に行われた制度設計に近い考え方ですね。身分が固定されていて、個々人の可能性は絶望的に封じられる代わりに社会が安定して競争に神経をすり減らすこともなくなる。ただ、現代社会で鎖国して身分を固定して日本が生き残れるかというと答えは際限なくNO!に近いでしょうね。

実際に島国で他国や他民族との関わりをかなり抑えることが出来た幸運な我々日本人と違って、2000年近く絶えずキリスト教社会から虐殺や偏見にさらされてきたユダヤ人は教育を非常に重んじてきた。才能ある人を伸ばす教育を重視すれば落ちこぼれは置いてけぼりになる、進学塾で落ちこぼれを人間扱いせずに容赦なく切って捨てるのはその典型です。かといって落ちこぼれを出さないように授業を進めると才能ある子供が能力を伸ばす機会がなくなってしまう。ところが、ユダヤ人は才能ある子供を伸ばして落ちこぼれをフォローするわけです。これは彼らに個々人に対する人権意識が強いわけではなくって集団が生き延びるためにそうしなくてはならなかった。キリスト教社会で偏見にさらされていた彼らは才能に秀でたものを多く出してより多くの富を稼ぎ出して存在基盤を確かにしなくてはならなかった。一方で何かあるごとにユダヤ人はキリスト教社会で虐殺の危機にさらされてきたわけですが、キリスト教社会はユダヤ人の落ちこぼれだけを狙って虐殺するわけでなく、どの階層が虐殺の対象にされるかわかったものじゃない。そうなると生き残ったのが落ちこぼればっかりでも彼らの手で集団の再建をする必要があった。そうなると腐ったミカンを捨てるかのごとき落ちこぼれを置いてけぼりにする教育をしていては民族滅亡の危機を迎える。そうしてユダヤ人の高度な教育のスタイルが確立され、世界史を振り返れば人類に大きな影響を及ぼした人物にユダヤ人が多いことも頷けます。

では現代の日本ではどうか?

もう、島国で鎖国して他国との競争や影響を排除して生き延びるなんて夢物語にすがらないほうがいいでしょう。国際的な競争に我々日本人は勝ち残らなくっちゃならない。そうなるとあらゆる分野で才能に秀でた人を見つけていく必要がある。かといって身分を固定しても血筋が才能や人格を生み出すわけじゃないことを歴史は語っているわけです。特に三角関数が使われるのは技術の分野で、ここに欠陥が生じると経済と国防に深刻な影響を及ぼして国力を低下させます。そうならないためにあらゆる階層から三角関数を使う職種に秀でた人物を見出せるように、なるべく広い階層に三角関数の教育を受ける機会を持たせる必要があるわけです。

でも自分は社会人だけど三角関数分からないもんw

って言われる方へ。それでいいんです。自分がその手の職種じゃなかったってことで、三角関数が分かった人がその手の事を必要とする職種に就いて、自分はその文明の恩恵を享受するってことでいいんです。生まれた人間のゲノムを見極めて三角関数の教育を受けさせる階層とそうでない階層を仕分ける技術でもない限り、その手の教育を受けてみる。でも結局分からなかった。だから他の人はともかく自分はその手の事を必要としない職種に就く、何も問題ないことです。

 

次に個人的な観点から・・・

若い内から自分の才能を限定せずにあらゆる可能性は試したほうがいいでしょう。また、年を取るほど人生の軌道から弾かれたときの復帰は難しくなります。今まで一生懸命誠実に黙々と生きてきたんだ!と言ってもきれいごと抜きで結局何かを任せよう、結婚、再就職や転職とか言うときに学歴・資格・職歴などで人間の価値は測られてしまいます。そのこと自体が正しい事とは思えませんが、現実の社会がそのようになっていることを踏まえて人生の備えを準備しておいた方がいいってものです。

例えば私なんかは電気関係の職種にあるわけですが、電気系の資格でもそれなりのものが欲しければ三角関数の知識が必要になってくるわけです。若い内なら頭も柔軟で相した知識も入ってくるわけですが、年を取ると学びも鈍るわけで、そうなってから吠え面かいても後の祭りで食っていける保証を得たいなら、能力のカードを出来るだけ多く持っておくことに越したことはありません。

 

ってことで、学校に通っているなら学校の勉強を真面目にしておくことは社会からの要請でもあり、個人レベルの人生の備えにもなってるってことなわけです。学校に行ってる時に「こんなもん何の役に立つねんw」って思いたくなるのは分かるんですが、真面目に勉強しておかないとここでアホなブログ書いてるおっさんのようになってから「若い時にもっと勉強しておけばよかった!」ってほざいてもどうにもなりませんよwってことです。

でも、それ以上に足ることを知って、美味しいカレー作りと魚釣りと気持ちのいい睡眠を追いかけつつ、妻と毎日他愛もない話や下品な話をしながらケタケタ笑って暮らす生き方もそれはそれで乙なものですけどねw

失ったものを嘆くより、目の前の楽しみを拾う人生の方が健全ってもので、若い時の怠惰が祟っていてもそれなりに愉快に人生を過ごす余地はどこかに残されているものです。

 

 


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