2020年2月23日(日)
持統天皇陵から周りの風景を見終わって車に乗り込み、
「運転手さん、このあたりに鬼の俎ってありませんでしたかね」と私。
「一度だけ行ったことがありますが・・」と、不安げな声の運転手さん。
途中、案内板を見ていた運転手さんに、「こちらの道をまっすぐ行くとすぐですね」と私。
鬼の俎と雪隠は、先ほど立ち寄った持統天皇陵がすぐ先に見える場所でした。
鬼の俎の場所は、実は・・、蘇我入鹿が最後に息を引き取った場所なのでした。
蘇我入鹿の墓は、松尾寺の補陀落山でしたねぇ。 感慨深いものがありましたが、明日香は太古の昔と今もさほど
TRACES OF THE PHOENIX
『神一厘の仕組み』が始まっている。
2020年1月9日(木)
イエス・キリストの墓から蘇我入鹿の墓までと、一番霊山寺までの距離は、共に107㎞と同距離で二等辺三角形を描きます。
蘇我入鹿の墓と桓武天皇の墓と日光寺は、基本形である2:1:√3の直角三角形を描きます。
桓武天皇を祀る桓武伊和神社と桓武天皇の墓と一番霊山寺は、1:1:√2に近い直角三角形を描きます。
そして・・、八十八番大窪寺と蘇我入鹿の墓と、謎である鬼の俎(まないた)は直角三角形を描きます。
私 :「蘇我入鹿さんは鬼の俎のあたりで息を引き取られたのですか」
主:「どうして分かりましたか」
私 :「蘇我入鹿さんのお墓は松尾寺の補陀落山でしたね」
主:「んん~~ん、どうして・・!?」
私 :「八十八番大窪寺で手を合わす先はイエス終焉の地でしたね。八十八番は最後の地を教えるんですよね」
「八十八番大窪寺と蘇我入鹿の墓と鬼の俎は直角三角形を描くんですよね。・・そうでしょう」
主:「よく分かりましたね」
私 :「ところで、桓武天皇は桓武伊和神社あたりで亡くなったという言い伝えがありますが、違うようですね」
主:「どうしてですか」
私 :「八十八番大窪寺とは図形が描けないんですね。でも一番霊山寺と桓武天皇の墓とでは見事に1:1:√2の直角三角形が描けます」
「スタートの1番ですから、桓武伊和神社あたりで桓武天皇はお生まれになったと教えていますね」
主:「よく分かりましたねぇ」
私 :「図形から、イエス・キリストも桓武天皇もそうです!と太鼓判を押しているかのようです」
主:「でも・・よく解けましたねぇ」
・・と、会話していると・・、何か気になって事務所の外を見ると、一瞬だけ晴れて大きな虹が・・・。
誰かが見ていますねぇ。 聞いています。
そして、必ずグッドタイミングで虹などを見せて「OKです!」とサインをくれます。
「皆さん、外に虹ですよ」と、私。
「わぁ~~綺麗!!」と、皆さんがワイワイガヤガヤ。
この体験を重ねると、実に楽しく嬉しくなります。
見えない何者かの存在が喜ぶ様を見る時、それはそれは嬉しくも心が喜びに包まれます。
「ありがとうございます。これで良いのですね」と私。
・・すると、一瞬の虹も消えてもとのどんよりとした冬空に戻りました。
この世は、目に見えない世界から見られている世界です!
2019年12月20日(金)
古事記編纂に携わった稗田阿礼は暗殺され、亡骸は外川八幡神社に葬られました。
無惨な殺され方をした蘇我入鹿の亡骸は、松尾寺の補陀落山でした。
稗田阿礼が育てられた場所は、賣太神社(めたじんじゃ)がある稗田環濠集落でした。
そして稗田阿礼の亡骸を葬る場所は、蘇我入鹿の墓と賣太神社と等距離になる場所が選定されました。
その場所が外川八幡神社です。
これらのこと全てを知っている行基さんは、蘇我入鹿と稗田阿礼と直角三角形になる場所にお墓を造りました。
藤原不比等の墓と稗田阿礼と神戸市北区の山中にある双子山は、綺麗な直角三角形を描きます。
そして、行基の発願で起工された久修園院(くしゅうおんいん)は、不比等と阿礼が眠る中間点に位置しています。
久修園院もそうでしたが、空海さま所縁の乙訓寺も藤原不比等の墓と双子山とで直角三角形を描きます。
「藤原不比等と稗田阿礼は双子の兄弟だった!」と私たちに教えています。
乙訓寺が造られ、空海さまも呼ばれたことは重大です。
伊保さん、いつも遠くからありがとうございます。
私たちは、素晴らしい旅路を歩んでいますよ。
2019年7月1日(月)
真言宗豊山派 大慈山乙訓寺(だいじざんおとくにでら)は長谷寺の末寺で、推古天皇の 勅願で聖徳太子が開いたといわれる乙訓地方最古の寺です。
延暦4年(785)に長岡京の 都造りの中心人物であった藤原種継(たねつぐ)暗殺の疑いで早良親王が幽閉された寺でも あります。また、弘仁2年(811)には空海(弘法大師)が別当に任じられ、訪れた最澄と 密教について法論を交わしたとされています。 ・・長岡京市観光協会webサイトより
乙巳の変で殺された蘇我入鹿は聖徳太子として崇められました。
その暗殺の宮に居た、のちの斉明天皇の子が天武天皇です。
そして・・天武天皇の父こそ蘇我入鹿なのです。
蘇我入鹿の墓は松尾寺の補陀落山でしたが、その松尾寺から乙訓寺までの距離と天武天皇の墓である衣笠山までは共に凡そ34㎞と同距離です。
この二等辺三角形の図形を「見よ!」と言ってます。
蘇我入鹿の墓には、法隆寺の西円堂から手を合わすように設計されていました。
愛した男性が目の前で殺害されるという乙巳の変はあまりにも惨いショッキングな場面です。
この場面にこそ歴史の真実がありました。
蘇我入鹿を暗殺したのは、これまた斉明天皇の子である中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)です。
歴史では天智天皇の弟が天武天皇となっていますが、実はその逆が真実ということです。
天武天皇が天智天皇より先に生まれています。生みの親は同じですが、父親が違うのです。
天智天皇と藤原鎌足の利害関係は完全に一致していました。
ですから、その後の壬申の乱は起こるべくして起きるのでした。
蘇我入鹿は、マリアの墓やイエスの陵墓や生野の地下神殿など全て知っていましたね。
下の図形も綺麗な二等辺三角形を描いています。
2019年6月17日(月)
私は今までこれほどに大きくて重要な方位を教える見事な磐座を見たことがない。
岡山県赤磐市の岩神神社の磐座も重要な場所を教える立派な方位石でしたが、奈良県吉野町矢治の岩神神社の磐座は圧巻である。
私はコンパスグラスで計測してきた角度を地理院地図に落とし込んで、岩は何を私達に教えているのかを調べると・・・。
もう見事である。
向かって一番大きな面は、コンパスグラスで337度である。
この角度の方向には、大和郡山の松尾寺の補陀落山である。
ここには、聖徳太子=蘇我入鹿の墓がある。
又、向かって右手の面は90度である。
この方角には、天武天皇の墓である衣笠山の麓の清谷寺を教えている。
そして、向かって左端には岩が割れているが、この割れが教える角度は64度である。
この方角には、天武天皇の墓である衣笠山を遥拝する浄見原神社がある。
又、浄見原神社がある山の三角点も64度に位置していて、その三角点と岩神神社の磐座と、天武天皇の墓である衣笠山の三角点は、見事にケプラー三角形を描いている。
岩神神社の磐座から1.74㎞東に天武天皇の墓、西に1.74㎞に宮滝遺跡。
この地域の神社やお寺も計画された配置になっている。
そして、天武天皇のもとで古事記や日本書紀の編纂に携わった藤原不比等の墓と、天武天皇の墓と平安京建設に大いに関わった秦河勝の墓の三点も、ケプラー三角形を描いている。
又、天武天皇の実母である斉明天皇の墓(比定されている天皇陵ではない)と、天武天皇の墓と、高野山の弘法大師廟は、見事に2:1:√3の直角三角形を描いている。
これらは、全て計算されつくした位置決めになっている。
そしてそれらの墓は、全て兵庫県神崎郡神河町南小田の標高836m地点にある、大国主命=イエス・キリストの本当の墓に繋がるように三角法で霊ライン網が構築されている。
そしてこれらは、時代と共に幾重にも幾重にも賢者達の墓が三角法で重ねられている。
岩神神社の磐座は、天武天皇の墓とその父である蘇我入鹿の墓を教える重要な方位石である。
この磐座を造らせたのは、天武天皇の産みの親 斉明天皇である。
浄見原神社から見る天武天皇が眠る衣笠山は、雄大で実に美しく愛おしい・・!
2019年3月9日(土)
行基の墓と、蘇我入鹿の墓(松尾寺の補陀落山)と、国家の寺で七重の塔もあったという大安寺内の杉山古墳は、2:1:√3の見事な直角三角形を描きます。
偶然でしょうか。
いえいえ違いますよ、この形は、綺麗な意味ある計画的配置です。
行基さんは、蘇我入鹿の血を引いていると語っているようです。
そして、大安寺内の杉山古墳に眠る方は、蘇我入鹿に非常に近い関係の人だと言っていますね。
いったい誰!?
今日、行基さんと入鹿さんのお墓参りに縁ある方々と総勢34名で参ります。 天気は快晴!です。
東京、神奈川、熊本、高知、広島、岐阜、など遠方からも早朝から沢山の方々が集われます。
皆さんを代表して、今まで誰もしなかったお墓参りをしてまいります。 合掌!
2017年6月15日(木)
下の図は、聖徳太子=蘇我入鹿の墓を教えた図です。
蘇我入鹿の墓である松尾寺の補陀落山から、姫路にある書写山円教寺の摩尼堂までの距離と伊勢にある佐美長神社までの距離は102㎞と同距離です。
又、仏岩があるという滋賀県の岩阿砂利山から、書写山円教寺までと佐美長神社までとは、ほぼ127㎞と同距離です。
高野山金剛峯寺金堂から、書写山円教寺までと佐美長神社までとは、ほぼ113㎞~114㎞と同距離です。
入鹿の墓と仏岩と書写山の摩尼堂の三点を結ぶと、ほぼ大矩に近い綺麗な直角三角形を描きます。
仏岩と高野山金堂を結んだラインと、書写山の摩尼堂と佐美長神社を結んだ交点が、聖徳太子と言われた蘇我入鹿の墓である松尾寺の補陀落山です。
見事な設計です。
仏岩に誰かが待って居られるご様子にて・・・!
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) 08:22
参院本会議で組織犯罪処罰法改正案についての法務委員会の「中間報告」をする秋野公造委員長。奥は伊達忠一議長=国会内で2017年6月15日午前3時37分、小出洋平撮影
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犯罪を計画段階から処罰できるようにする「共謀罪」の趣旨を含む改正組織的犯罪処罰法が15日朝、参院本会議で成立した。自民、公明両党が参院法務委員会での審議を打ち切り、15日未明に始まった参院本会議で直接採決する「中間報告」を強行。与党や日本維新の会の賛成多数で可決した。投票総数235票のうち、賛成が165票、反対が70票だった。
・・・
この強行採決の真の目的が分かっている人が居てるのだろうか。
いずれにしても・・、さぁ、残された時間は決められたようです。
「時間が無い、急げ!」と当初から言っていたことが現実となってくる日が目に見えるようです。
・・・
改正法は6月21日に公布され、7月11日に施行される見込み。
2017年6月14日(水)
蘇我入鹿は、モーセ、イエス(神武天皇)、第四代 懿徳天皇(イエスの四男)、女王卑弥呼、応神天皇、仁徳天皇・・の血を受け継いでいる。
これだけの王統を受け継いだ人がこの世にいるだろうか。
もう、堂々と聖徳太子は蘇我入鹿だったと言うことにしようではありませんか。
法隆寺の西円堂で手を合わせると、松尾寺にある蘇我入鹿の墓に手を合わせるようになっています。 そこが聖徳太子の墓です。
政府が聖徳太子の名を歴史から消そうとしていますが、これは抹消させてはなりません。
そして、第四代懿徳天皇のお墓は、神河町にある卑弥呼の陵墓を、こと座のベガにした琴を形成する一つの星の位置にありました。
その懿徳天皇の墓と、蘇我入鹿の墓と、モーセの陵墓の3点は、見事に3:4:5の大矩の直角三角形を描きます。 基本形です。
兵庫県神崎郡神河町にあるイエス王家の丘は、800mから1000mほどの山頂にありますが、この一帯には女王卑弥呼の陵墓をはじめ、我が国の初代大王イエス・キリストの親族のお墓が沢山祀られています。
峰山高原の名称も、そのことを教えています。
ミネとはヘブライ語でお墓のことなのです。
スキー場や太陽光発電など、むやみやたらに乱開発していたら、大変なことになります。
事業計画に対して云々言えた立場ではありませんが、王家のお墓は守る必要があるのではと危惧します。
この世は神々の営みの世界だからです・・。
意図的に隠されたイエス王家の人達と、その真実を知っていた人達のお墓がどんどんと、自分が眠っている場所を教えだしたようです。
「小さな嘘はすぐバレルが、大きな嘘は時間がかかって必ずバレル」と神様が言っていましたが、その時に来たと言うことのようです。
バレル・・と言えば、そうですそうです。ヘブライ語でも全く日本と同じ意味でしたねぇ。
いくら時代時代の為政者がこの国の本当の歴史を隠ぺいし続けてきたことでしょうが、この我が国の大地に、遺体を入れた場所の一点一点に意味をもたせた三角法で、歴史の真実を残していました。
邪馬壹国の女王卑弥呼は、イエス王家の墓守と祀りごとが仕事でした。
政治政体が現在の奈良で、国事国体が現在の兵庫県の中央部、播磨国風土記に記された「埴岡の里」でした。
そろそろ日本国民が目覚めなければならないときに来たということです。
ここまでくれば、歴史の真実の立証はさほど難しくはなさそうです。
高野山の弘法大師霊廟と桓武天皇の遺体を入れた高雄山との関係や、京都御所との関係などなど、偶然ではありえない確率での三角図法。
先人達の御霊が教えてくれることには偽りがありませんから・・、立証できます!
青い丸の地点が懿徳天皇の墓です。
赤い丸の位置が蘇我入鹿の墓がある松尾寺です。