2019年7月1日(月)
真言宗豊山派 大慈山乙訓寺(だいじざんおとくにでら)は長谷寺の末寺で、推古天皇の 勅願で聖徳太子が開いたといわれる乙訓地方最古の寺です。
延暦4年(785)に長岡京の 都造りの中心人物であった藤原種継(たねつぐ)暗殺の疑いで早良親王が幽閉された寺でも あります。また、弘仁2年(811)には空海(弘法大師)が別当に任じられ、訪れた最澄と 密教について法論を交わしたとされています。 ・・長岡京市観光協会webサイトより
乙巳の変で殺された蘇我入鹿は聖徳太子として崇められました。
その暗殺の宮に居た、のちの斉明天皇の子が天武天皇です。
そして・・天武天皇の父こそ蘇我入鹿なのです。
蘇我入鹿の墓は松尾寺の補陀落山でしたが、その松尾寺から乙訓寺までの距離と天武天皇の墓である衣笠山までは共に凡そ34㎞と同距離です。
この二等辺三角形の図形を「見よ!」と言ってます。
蘇我入鹿の墓には、法隆寺の西円堂から手を合わすように設計されていました。
愛した男性が目の前で殺害されるという乙巳の変はあまりにも惨いショッキングな場面です。
この場面にこそ歴史の真実がありました。
蘇我入鹿を暗殺したのは、これまた斉明天皇の子である中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)です。
歴史では天智天皇の弟が天武天皇となっていますが、実はその逆が真実ということです。
天武天皇が天智天皇より先に生まれています。生みの親は同じですが、父親が違うのです。
天智天皇と藤原鎌足の利害関係は完全に一致していました。
ですから、その後の壬申の乱は起こるべくして起きるのでした。
蘇我入鹿は、マリアの墓やイエスの陵墓や生野の地下神殿など全て知っていましたね。
下の図形も綺麗な二等辺三角形を描いています。