かごめかごめの真実とは

空海様が私に教えてくれた秘密の暗号

白蛇が・・涙をながして・・、そして一面白い世界に

2023-01-27 00:33:06 | かごめかごめの真実とは

2023年1月27日(金)

24日(火)朝から奈良へと行きましたが、コアロッドで地底の金探査と空洞探査を終え、比賣神社をゆっくり見ることもなく写真だけは取り終えて待ってもらっていたタクシーに乗り込みました。誰かのうれし涙でしょうか、そのとたん小雨が降ってきました。

その日の夜、自宅でブログを書いていて、現場では見ていなかった新聞の記事を見つけて・・読んでいて・・! 白蛇が首に・・という記事にドッキリ!!

この記事には大変なドラマの情景が浮かんでくるようでした。その日は夜12時を回っても空海コードを結び付けながら頭の中では、「そこが淡海三船の墓である決定的コードを探せ・・」と次々にデータを乗せて行きました。そして・・「これだ!」と決定的データが乗せられた時にはもう午前2時を過ぎていました。そして翌朝目が覚めると神戸の街並みは、電車も一切動かない一面白い世界でした。

・・

記事の中で、

飛鳥の宮に身を寄せた十市は、戦いから6年後の678年4月7日。宮中で突然死ぬ。日本書紀はそれ以上の説明をしていないが、私は自殺ではないかと思う。父の正妻である後の持統天皇は十市に冷たかったろう。苦悩が重なり、生きる望みを失ったに違いない。

・・と、書き綴っている。

この行に私は大変憤りを感じる。

まず、持統天皇に全く無礼である。筆者は天武、持統、十市、葛野王  4人の生、没年を照らし合わせていない。葛野王は、9歳で母、十市皇女と別れている。そして爺ちゃんである天武天皇とは17歳で別れている。持統天皇と葛野王は、24歳の差で、持統天皇が703年に亡くなって3年後に37歳でこの世を去った。

持統天皇は、草壁皇子同然に我が子のように育てたはずである。

そして、そのように葛野王も私に話しかけてくる。そのことと葛野王がもっと強く私に言ってくるのは、「私の母は、自殺なんかしていません。いくら辛くても自分から自分の命を絶つような人ではありませんでした。毒殺されたのです」と。・・このことを、現代の私達に伝えるために、葛野王の墓の麓にある葛尾で日本国民に伝える為に、「名張毒ぶどう酒事件」で表出されたのでした。そして「その事件現場こそ、私達の御先祖様である第29代欽明天皇の墓なのです」と、葛野王は語りかけてくるのです。

全ては向こうの世界からの台本を、この世に出てくるときに「ではその台本を演じさせていただきます」と、皆さんが約束の上でそれぞれ演じられたことでしょう。

辛くても・・苦しくても・・、神様から頂いた台本通りに皆様が演じきられたのだと私は思っています。 ただただ台本通りに・・と言えば、私は責めを負いますでしょうか。

翌朝は、一面雪景色で電車も動いていませんでした。


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いつか行ってみたい海住山寺

2021-04-05 04:07:13 | かごめかごめの真実とは

2021年4月5日(月)

いつか行ってみたい海住山寺京都府木津川市加茂町)。

目を閉じて静かにたたずめば、元明天皇や聖武天皇に会えるような気がします。

以前、凄い!凄い!!と海住山寺の重要な役割を教えられていましたが、ここにきて又、海住山寺です。

下の図形の三角形の中の★の場所が海住山寺ですが、天武天皇と持統天皇との間に生まれた草壁皇子の墓と、皇子の子の文武天皇のお墓の位置を見事に教えています。

海住山寺五重塔から文武天皇陵までと文武天皇の墓(竜ヶ尾山)までは、共に36㎞で二等辺三角形を描きます。

また、文武天皇陵の北900m地点に持統天皇・天武天皇陵がありますが、その二人の陵までと、天武と持統との子供である草壁皇子の墓である三上山(近江富士)までは、海住山寺五重塔から共に34㎞で二等辺三角形を描きます。

もちろんそこからの繋がりで、天武天皇の墓聖武天皇の墓の位置も分かるようになっています。

日本の礎を築いてきた古代大王、天皇達の墓参を日本国の長たちは行っているのだろうか・・。

空海や、ご先祖様たちの堪忍袋の緒が切れそうですがぁ・・。

それにしても空海コードは凄い!

海住山寺の五重塔(ウィキペディアより)


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鬼の俎・雪隠

2020-02-23 06:06:06 | かごめかごめの真実とは

2020年2月23日(日)

持統天皇陵から周りの風景を見終わって車に乗り込み、

「運転手さん、このあたりに鬼の俎ってありませんでしたかね」と私。

「一度だけ行ったことがありますが・・」と、不安げな声の運転手さん。

途中、案内板を見ていた運転手さんに、「こちらの道をまっすぐ行くとすぐですね」と私。

 

鬼の俎と雪隠は、先ほど立ち寄った持統天皇陵がすぐ先に見える場所でした。

鬼の俎の場所は、実は・・、蘇我入鹿が最後に息を引き取った場所なのでした。

蘇我入鹿の墓は、松尾寺の補陀落山でしたねぇ。  感慨深いものがありましたが、明日香は太古の昔と今もさほど

 

TRACES OF THE PHOENIX 

神一厘の仕組みが始まっている。

 


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談山神社から明日香を通って持統天皇陵へも立ち寄って・・

2020-02-21 06:06:06 | かごめかごめの真実とは

2020年2月21日(金)

聖林寺から談山神社へ。・・と言っても入り口だけ。

その日の目的地点は、空海様所縁の別の二寺でしたから、先を急がねばなりません。

「談山神社は後日、ゆっくり来ます」と運転手さんに告げて、すぐさま出発。

そして、峠越えで明日香を通って・・。

途中、「すみません、あの山、古墳ですね」と私。

誰もいない古墳は、天武天皇・持統天皇陵でした。

 

天武天皇の墓は、ここじゃないのにな~~」とつぶやきながらのワタシでした。

 

 

TRACES OF THE PHOENIX 

この情報は〇〇ヤ問題を開放し、世界を真の平和へと導く。


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私は、神を呪う!・・と言う無常の人生を藤原不比等君は体験している

2019-12-19 06:07:36 | かごめかごめの真実とは

 2019年12月19日(木)

私は先日の「藤原不比等公のお墓参り」ツアーには皆さんをその場所へと案内しました

大変有意義な一日でした。

でも・・、あれから益々、毎日、不比等君からでしょうか・・、空海さまからでしょうか、何者かの代理になったように地理院地図と向き合っています。

向き合っては睡魔に襲われ眠り込み、起きては地理院地図に向かい合う日々が続いています。

 

下の図には、3人の名前が基本形の綺麗な2:1:√3で表されています。

壬申の乱で滅ぼされた大友皇子(第39代 弘文天皇)

古事記や日本書紀の編纂に携わった太安万侶

そして、第40代 天武天皇 、41代 持統天皇、42代 文武天皇、43代 元明天皇に仕えた藤原不比等

今でもこの3人は、仲良く語らっているように強い絆を感じます。

上の図で、書写山円教寺摩尼殿から大友皇子終焉の地であると言われる鞍掛神社までと、太安万侶の墓までは同距離です。

又、大和郡山市にある外川八幡神社から大友皇子終焉の地までと藤原不比等の墓までも同距離です。

そして、書写山円教寺摩尼殿と外川八幡神社と大友皇子終焉の地までは直角三角形を描き、書写山円教寺摩尼殿と外川八幡神社と藤原不比等の墓も直角三角形を描きます。

 

そして下の図は、藤原不比等の墓と外川八幡神社との関係から正三角形となる点を求めると、神戸市北区の山に「双子山」。

京都に空海さま所縁の乙訓寺がありますが、双子山と藤原不比等の墓は見事に直角三角形を描きます。

 

大友皇子終焉の地と藤原不比等の墓と弘文天皇陵の三点は直角三角形を描きます。

大友皇子終焉の地と藤原不比等の墓と天智天皇陵の三点も直角三角形を描きます。

そして・・、不比等の墓と天智天皇陵との三点で直角三角形になる点に「神呪寺」があります。

 

これらの図形の関係性から、あなたは藤原不比等君の叫びが聞こえますでしょうか。

 三津谷くん、前田さん、何を言ってるか分かりますかぁ!?  

ヒントは、外川八幡神社の地に眠っている方は、記紀編纂に関わった人物です。

そしてその方と不比等君は双子と言ってますよ。

このドラマは、必ず皆さんが辿り着くご先祖様のお一人の無常の人生を教えています。


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浄見原神社

2019-11-23 04:20:21 | かごめかごめの真実とは

2019年11月23日(土)

16日の夜は 宮滝温泉まつや さんでの宿泊でした。

私達だけに用意していただいた特別な時空間でした。

「御馳走して待っていました。どうぞくつろいでお召し上がりくださいませ」

「さぁさぁ、アマゴもどうぞ。 地酒も用意してお待ちしていました。 どうぞどうぞ・・」と、すすめられるままにおよばれしました。

もう皆さん、ワイワイ、ガヤガヤとおくつろぎのご様子でしたね。

 

「皆さ~~ん、明日は6:45分、玄関前集合で~~す!」 

 

男性の方々は、朝は5時半頃にはもう皆さん起きて居られましたねぇ。

朝は食事なしで、7時前にはお宿を出発して、浄見原神社へ。

 

        

「みなさん、持統天皇が天武天皇を偲んで眺めた腰掛岩です。どうぞお座りください!」と、私。

天武天皇の亡骸が埋められた衣笠山山頂に朝の光が・・。 どこか懐かしいような綺麗な日本の原風景がそこにはありました。

お月様も皆さんを見守ってくれていました。

 


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現人神さまたちは、一人一人が目覚め、鳳凰のように蘇ることを促しています

2019-10-26 05:09:40 | かごめかごめの真実とは

2019年10月26日(土)

イエス・キリストの墓と藤原不比等の墓と、上島は、綺麗な2:1:√3の直角三角形を描きます。

本当に綺麗です。

イエス・キリストの墓と上島と東大寺大仏殿は、直角三角形を描きます。

不比等君は、応神天皇の墓も仁徳天皇の墓も・・、全てを知っていましたねぇ。


空海さまは、高野を開いた後も、毎月一回必ず荒神岳へと登った意味は、荒神社の真北に桓武天皇が眠って居たからだと、そのことだけを今まで私は思っていましたが、もう一つ重要なことが在ったようです。

荒神社から不比等君にも応神天皇にも、イエスやイエス王家の方々に祈りをささげていたということでしたね。

不比等君は、斉明天皇や天武天皇・持統天皇らから切なる思いを託され記紀に纏め、それらの願いを桓武天皇で若き最澄、空海を使って忠実に実行しました。

又、藤原武智麻呂も父を尊敬し思いを受け継いでいることがお墓の位置でくみ取れます。

これらイエス王家の血を受け継ぐ藤原家の方々は、真実を悟られることなく真実を語り継がせていますね。

もうそろそろ、真実を表に出す時が近づいているようです。

読者の方々の身体には、まちがいなく不比等君のDNAもイエス・キリストの血も受け継がれています。

あまりにも凄すぎます。

真の世界平和は、イエス・キリストが活躍した舞台が日本であり、兵庫県の中央の山地に墓があり、そこにモーセの御霊も祀り、世界人類の御先祖の神々も祀っている王家の丘があることを世に知らしめることにあります。

この世は、この世に居た人たちから見つめられている虚の世界であり実の世界です。

真実を捻じ曲げて、又は体裁を繕ってみてもお見通しの世界です。

この世に居られた私たちの御先祖の御先祖様である現人神さまたちは、一人一人が目覚め、鳳凰のように蘇ることを促しています。

 


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泊まったお宿は 宮滝温泉 まつや

2019-06-10 14:51:13 | かごめかごめの真実とは

2019年6月11日(火) 吉野宮へ その2

8日(土) 武部さんとの待ち合わせ時間は、夕方の6:00に吉野神宮駅でした。

私たちは、神戸を15時頃に出てJRを乗り継いて、大阪阿倍野橋から近鉄南大阪線特急・吉野行に乗って、吉野神宮駅に着いたのは17:23分でした。

改札口を出ると、もう武部さんが待ってくれていました。

「武部さん、途中でコンビニに寄ってもらいたいんですが・・」と私。

翌日、天武天皇の墓と母、斉明天皇の本当の墓に行くのに、墓守をしている方々に日本酒と甘いものでも持って行かなくては・・、忘れては大変です。

コンビニに寄ってから、準備万端で武部さんが運転する車は、目指すお宿の広々とした駐車場へと吸い込まれる様にして止まりました。

泊まったお宿は 宮滝温泉 まつや さんでした。 これもドラマの設定のお宿だったようです。

「先にゆっくりお風呂に入られるでしょうから、その後7時から夕食になります」・・と、2階へと上がって右手の「滝」の間へと案内されました。

田中さんはその右手の「鴨」の間でした。

私は、窓から見える景色のどのあたりの先に天武天皇の墓が位置するのか、又、かすかに山の頭頂部だけでも見えないかと、楽しみにしていました。

・・ので、部屋に入るなり少々興奮気味に外を眺め、リュックから愛用のコンパスグラスを出して、事前に地理院地図から求めていた凡そ100度の方角を見つめました。

「ああ~~、やっぱり山影になっているなぁ・・」。

・・でも、それまで数日、雨模様が続き、その日もどんより曇り空でした。

それが、突然私たちを祝福するかのように、おそらくその日初めてで最後の光を天武天皇の墓を遮っている山あたりに、明るい陽射しで照らしてくれました。

自然のいとなみにも意志があるといつも思う私です。

感動の瞬間でした。

そしてその風景を又又、お風呂から静かに眺めていました。

「明日、そちらへ向かいます・・」と。


食事は、新鮮な、アユ、あゆ、鮎料理。 

泊りの客は、私たちだけで、でも整然と並んだテーブルとイスを見ていると、あたかも共に過去の人たちが並んで座っているような気になりました。

屏風が立てられた前の席には天皇が座っていて、私たちは宴席に呼ばれているような・・、武将たちがずらりと並んでいるような・・。

「お料理はお口にあいますでしょうか」

「とっておきの地酒もご用意させました。八咫烏です、どうぞどうぞ・・」

「いや~~、実に美味しいですねぇ!私は鮎が大好物でして・・」

「それは好かったぁ、どうぞおかわりを!」

「甘えて良いんですか!?」

「どうぞどうぞ、いくらでも召し上がってくだされ沢山用意していますから・・」と聞こえてくるようで、私たちは天皇の宴席に招かれたようでした。

・・すると突然女将さんが、

女将さん:「ここには昔、宮がありましてね、持統天皇も31回ほど通われているんですよ」

私  :「えっ! 持統天皇が31回もですか!」

女将さん:「そうなんです、近くに宮滝遺跡もありますよ」

私  :「そうだったんですかぁ!私たちは、天武天皇のお墓参りに来たんです」

女将さん:「???????」

私  :「天武天皇のお墓は、ここから東に見える谷合の向こうの山の裏にあるんです。持統天皇が何度も来られたことも納得できます」

女将さん:「そうなんですかぁ、謎がいっぺんに繋がりました」

・・事前に宮滝がどんな歴史ある舞台とも何も知らずに来て、凄い情報を聞かされて、感動が確信となってゆく素晴らしい瞬間でした。

女将さん:「ではごゆっくりと・・朝食は7時にご用意させていただきます」

・・と、その後突然、私が箸入れに書かれていた歌の内容をいろいろ聞いていたのでと、

ご主人 :「有名な先生が作られた歌です、私が歌わせていただきます」

・・と、それこそ昔は宴席には歌はつきもので、間違いなく古代天皇たちの宴席に呼ばれたようでした。

そのような思いで周りを眺めると、間違いなく向こうの中央には天皇が居て、武官たちが居並んでいて・・、静かな山深い宮滝の里に、いつもと違う明かりが灯り川の流れの音に弾んだ宴の声が響きあっていたことでしょう。 つづく

                    

まつや さんの家紋は、日本十大家紋と呼ばれる有名な家紋の一つの「片喰紋(かたばみもん)」から派生した「丸に剣片喰紋」でしたね。

 

 

 


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桓武天皇の墓と早良親王の墓を教える桓武伊和神社

2018-11-12 06:44:08 | かごめかごめの真実とは

2018年11月12日(月)

 岩上神社 巖石神社へと古代史研究家の市川慎さんに連れて行ってもらった日、意外な名前の神社にも連れて行ってもらいました。

桓武伊和神社です。

桓武天皇を祀る神社に出会ったのは初めてでした。

この神社には、早良親王も祀られていて、石碑の由来にはここ都多が、桓武天皇と早良親王の母である高野新笠の出身地とも記されています。

んん~~ん、不思議な神社です。大変な場所かもしれません。

以前に早良親王の墓だという淡路島へも行っていたことがありましたので、いつもながら地理院地図にポイントすると不思議にいろいろと関連性が浮かび上がってきました。

昨年、台風で舞殿が壊されたことで春日神社の秘密を教えられましたが、ここにきて一層その意味を教えられます。

春日神社の本殿に手を合わすと、桓武天皇の墓である高雄山(428.4m)を拝むようになっていますし、御参りして帰る途中に二つの鳥居がありますが、二つとも角度が違います。

この二つの鳥居の先が桓武伊和神社と伊和神社になっています。

そして、桓武伊和神社のご本尊さまが見つめている先に、石宝殿古墳があり、淡路の早良親王の墓から石宝殿古墳と伊和神社までの距離は同距離です。

石宝殿古墳の真北には、桓武天皇の墓である高雄山があります。

南北ラインで思い出すのは、天武天皇・持統天皇陵の真北に天智天皇の墓があるという兄弟親子の南北ラインと、桓武天皇の墓とを結んだ先に平安南道があります。

桓武天皇も兄弟の南北ラインをお墓で形成しているとすれば、石宝殿古墳は早良親王の墓となります。

その南北ラインに直角に西へ行ったところに春日神社があり、その延長部に伊和神社が位置しています。

これらの関連性が偶然に布置する確率ってありうるのでしょうか。

これはもう計算に計算されつくしたものです。

桓武天皇が生前、自分が眠る山と決めた高雄山の真南に早良親王の墓を作らせたと聞こえてきます。

お墓の位置をたどると、又、お墓の位置を探すことも先祖のルーツもお墓のネットワークから知ることができます。

先人達の知恵は、半端ではありません。 凄すぎます!!

                   

 


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大化の改新・壬申の乱の時代を生きた天皇達と、その流れを汲む第50代桓武天皇が、その時代の天皇家のルーツは平安南道だと教えている

2017-05-22 11:13:35 | かごめかごめの真実とは

2015年5月22日(月)

ミサイル発射地点は平安南道(ピョンアンナムド)。

 北朝鮮は21日午後4時59分ごろ、西部の平安南道(ピョンアンナムド)・北倉(プクチャン)付近から東方向に向けて弾道ミサイル1発を発射した。

高度約560キロまで上がって約500キロ飛行し、日本の排他的経済水域(EEZ)外の日本海に落下した。国連安全保障理事会北朝鮮への圧力強化を検討する中、核・ミサイル開発を続ける意思を明確にした。

・・と、各新聞報道。

このミサイルの発射地点である平安南道(ピョンアンナムド)は、大化の改新壬申の乱の時代を生きた天皇達が、天皇家のルーツは平安南道だと、陵墓の位置で教えている。

天武天皇・持統天皇の陵墓の真北に天智天皇の陵墓があります。

そして、第50代桓武天皇の亡骸は、密かに神護寺がある高雄山の山頂に埋められました。

その場所の標高は、428,4m。 桓武天皇は、「シニワシナイ、魂は死ぬことなく永遠だ!」と言っています。

天武天皇・天智天皇、そして桓武天皇へとラインを伸ばして、その先行きつくところが平安南道です。

桓武天皇は、奈良から京都へと遷都しました。  その都を、平安京と名付けました。

  平安京とミサイルが発射された北朝鮮の平安。 

そしてそのニュースは、私達に日本の歴史と北朝鮮の歴史には天皇家という根幹の部分で大いに繋がりがあることを、その時代の天皇達の御霊が叫んでいるようです。

そのことを後世の人達に伝えるために、第50代桓武天皇も亡骸をその重要な地点に埋めることで教えていました。

北朝鮮を世界の異端児にして、力で打倒することは容易いことかもしれませんが、そのようなことをすれば、その後の世界は、水を失った砂漠と化すのでしょう。

そうあってはなりません。 

ここまでくれば、日本の歴史、朝鮮半島の歴史、中国の歴史を正しく知ることを、それぞれの国民が急がなければなりません。

そこには、「AD30年の偽り」を知ることから始まります。

そして、本当の歴史を共有し、ご先祖は共に同じであることを知り、共にご先祖様に手を合わすことから世界の平和は始まります。

その為には、天皇と天皇家の人達が勇気を持って、世界平和への一歩を踏み出さなければなりません。

そして国民は、勇気ある天皇を全力で守らなければなりません。

それができないのであれば、もう・・・・。


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卑弥呼の「卑」について教えて下さい

2016-12-02 17:47:26 | 邪馬壹国

2016年12月3日(土)

「中国のお友達に卑弥呼の「卑」の文字を見てどう思うか聞いてもらえませんか」と、2週間ほどアメリカに行ってて帰って来たばかりのFさんに居酒屋で話すと即座に聞いてくれました。

「謙遜の意味で使うようですね」

「神様とも・・、梵語とも言ってますよ」

「少なくとも、いやしいとか悪い意味でないと言ってますね。悪くないと・・」とFさん。

「そうですかぁ!嬉しいですねぇ」と私。

「そう言えば、石碑の碑に卑しいなどの意味などないでしょう」

「そうですよねぇ、誰かがどこかで漢字の意味をすり替えていますね」と私。

日本神話に登場する女神、石長姫(イワナガヒメ)は、古事記では石長比売。

日本書記、先代旧事本記では磐長姫(イワナガヒメ)の名で登場しますが、このイワナガヒメが可哀そうな呼ばれかたをされているようです。

私はイワナガヒメを卑弥呼であると教えられています。

この国が分裂しそうになったときに、命をかけてそれを阻止した大王イエス・キリストの直系である偉大な卑弥呼おばさんを、醜いだのイヤシイだのと・・、あまりにも可哀そうです。

「恩を知りなさい」と恩智神社の位置までもそのことを教えていましたよ。

石長姫神社と磐長姫神社を結んで、卑弥呼の陵墓や王家の人達が眠る聖地の場所なども教えていました。

いよいよ、イエス・キリストと卑弥呼の復活の時が近づいているようです。

 

古代日本の歴史を紐解くとき、紀元前のユダヤ(イスラエル)の統合、分裂の歴史をあてはめないと、記紀などで表された意図は受け取れません。

『魏志倭人伝』に合わない日本の史書

「邪馬台国」は、西晋の陳寿(ちんじゅ・233~297)の編纂した『三国志』(成立は280年以降と言われる)という中国の正史の中の「魏書(ぎしょ)」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条(うがんせんぴとういでんわじんのじょう)、通称『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に登場する国の名前だ。

つまり、中国の歴史書に記された日本の歴史なのである。紀元239年、倭国の女王卑弥呼(ひみこ)が魏に使節を送り、240年には魏からの使節が倭国に来た。『魏志倭人伝』は、主にこの時の魏の使節の見聞を元に書かれたと思われる。

その後、243年に倭国の使節が再び魏を訪れ、247年には再び魏の使節が倭国を訪れている。このとき、魏の使節は卑弥呼の死に遭遇し、『魏志倭人伝』には、その前後の様子も記述されている。

問題は、この「中国の史書に書かれた日本」と「日本の史書に書かれた日本」がぴったりと合わないことである。日本で古代の正史とされているのは、『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)だ。

『日本書紀』には、神功皇后の条に唐突に『魏志倭人伝』からの引用があって、神功皇后を卑弥呼にあてようという『書記』の編纂者の意図が見られるが、前後に引用されている百済史との年代の矛盾が指摘されている。『書記』の編纂者は『三国志』を参照できる立場にあって、これをなんとか当てはめようという苦肉の策をとったのだろうが、引用のみで済ませて、日本側からの記述がまったくないのも不自然だ。

要するに、合わないのだ。『古事記』、『日本書紀』には、編纂当時の政治状況が大きく反映しており、その当時の天皇家が日本を治めることの正当性と正統性を主張する意図で編まれているため、それに合わない国内のものは抹殺(焚書)し、国外のものは先の引用のようにごまかすか無視しているのだ。

つまり「邪馬壹国」も「卑弥呼」も、日本の正史には登場しないと言っていい。

果たして、どこにあったのか? 大和朝廷との関係はどうなっているのか?

この謎は解けるのだろうか?

http://blog.goo.ne.jp/kagome1248/e/ccb1bc825aa7d88c6429a7b5d2f60a98

 

私には、魏志倭人伝は100%矛盾はないと聞こえてきます。

生野、神河町の情景と陵墓の大きさなど全て一致しています。

又、卑弥呼の三文字の出所も倭人伝からの文字ですが、作者の陳寿は、そのいやらしいとか軽蔑の意味で使っていないと聞こえます。

むしろ全くその逆で使っていると聞こえます。

イエスキリストは、キルギス生まれで、高句麗の第三代大武神王であり、我が国の初代大王です。

その時代、現在の日本や韓国、北朝鮮、中国などの国境線は無い共和圏で、大いにイエスは世界から信頼を得ていたと思います。

その大王の死後、我が国は78年ほどの長きに渡って戦場となりました。

そしてイエス大王の死後100年目に卑弥呼が女王として共立されました。

卑弥呼22歳の時でした。

卑弥呼はイエスの直系で5代目です。 

その直系の姫御子を「いやしい」とかの意味では陳寿は絶対に使っていません。

 

現在の生野は、本当はイヤと読みます。

卑弥呼に組しなかった狗奴国の男王は 卑弥弓呼 と書かれています。

・・この呼び方をどう思われますでしょうか。

私が教えられている狗奴国は、主に現在の徳島県と和歌山県です。

徳島には平家の里で有名な祖谷がありますが、これもイヤです。

紀伊半島を渡ったら熊野・・これもイヤと読みます。

生野 祖谷 熊野を結ぶと これらはイヤトライアングル と言って 正三角形を描きます。

イヤとはヘブライ=アイヌ語で、宝物を長期保存するという意味があります。

徳島の粗谷地方に残る謎の神楽歌は、ヒミコが眠る本当のイヤのことを教えていました。

http://blog.goo.ne.jp/kagome1248/e/2ac789bd47a8664ca4efa445fb409deb

イヤトライアングルは、初代大王イエスとその仲間たちで創っています。

「卑弥呼」と「卑弥弓呼」の呼び名には、これらの意味が隠されているようですよ。

 

紀元前660年は、北のエフライム王と10士族たちが日本に来て、第二ウガヤ王朝としてスタートした時代です。

因幡の白ウサギの話のウサギさんはウガヤの王様で、大国主命は、そのウガヤの流れであることを教えています。

余談ですが、ガマの穂綿にくるまれば・・は、「ガマ出せ!」「王だというのであれば、あぐらをかいていないで、人より倍も三倍もガマ出せ!」

そうすれば、又、元のように皆から信頼が得られることを、大国主は教えていました。

ちなみに「ガマだす」とは・・、私が生まれ育った熊本芦北地方では、「働く」と言う意味で、「一所懸命ガマ出せ!」は「一心不乱に働きなさい」という意味で使われていたように記憶しています。

 

記紀には、邪馬壹(台)国 も卑弥呼の文字もないという意味は、ここにこそ何千年もに及ぶユダヤの北と南の覇権争いが読み取れます。

天智・天武・・持統天皇や藤原不比等たちの釈然としない葛藤が伝わってきます。

藤原家の本当のルーツが、倭国大乱の元になっていることを世の方々はご存じありません。

日本の七福神と中国の千山の九福神の謎解きは、このことを教えていました。

これらのことを4冊目の本には書き入れたいと思っています。

 

現代でも「卑弥呼」の三文字を中国の人達は、少なくとも日本人が「いやしい」と言うような軽蔑した意味あいなど持っていません。

「いやしい」という意味あいだと吹聴した「卑しい人達」の謀略に乗せられてはなりません。


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