2023年1月27日(金)
24日(火)朝から奈良へと行きましたが、コアロッドで地底の金探査と空洞探査を終え、比賣神社をゆっくり見ることもなく写真だけは取り終えて待ってもらっていたタクシーに乗り込みました。誰かのうれし涙でしょうか、そのとたん小雨が降ってきました。
その日の夜、自宅でブログを書いていて、現場では見ていなかった新聞の記事を見つけて・・読んでいて・・! 白蛇が首に・・という記事にドッキリ!!
この記事には大変なドラマの情景が浮かんでくるようでした。その日は夜12時を回っても空海コードを結び付けながら頭の中では、「そこが淡海三船の墓である決定的コードを探せ・・」と次々にデータを乗せて行きました。そして・・「これだ!」と決定的データが乗せられた時にはもう午前2時を過ぎていました。そして翌朝目が覚めると神戸の街並みは、電車も一切動かない一面白い世界でした。
・・
記事の中で、
飛鳥の宮に身を寄せた十市は、戦いから6年後の678年4月7日。宮中で突然死ぬ。日本書紀はそれ以上の説明をしていないが、私は自殺ではないかと思う。父の正妻である後の持統天皇は十市に冷たかったろう。苦悩が重なり、生きる望みを失ったに違いない。
・・と、書き綴っている。
この行に私は大変憤りを感じる。
まず、持統天皇に全く無礼である。筆者は天武、持統、十市、葛野王 4人の生、没年を照らし合わせていない。葛野王は、9歳で母、十市皇女と別れている。そして爺ちゃんである天武天皇とは17歳で別れている。持統天皇と葛野王は、24歳の差で、持統天皇が703年に亡くなって3年後に37歳でこの世を去った。
持統天皇は、草壁皇子同然に我が子のように育てたはずである。
そして、そのように葛野王も私に話しかけてくる。そのことと葛野王がもっと強く私に言ってくるのは、「私の母は、自殺なんかしていません。いくら辛くても自分から自分の命を絶つような人ではありませんでした。毒殺されたのです」と。・・このことを、現代の私達に伝えるために、葛野王の墓の麓にある葛尾で日本国民に伝える為に、「名張毒ぶどう酒事件」で表出されたのでした。そして「その事件現場こそ、私達の御先祖様である第29代欽明天皇の墓なのです」と、葛野王は語りかけてくるのです。
全ては向こうの世界からの台本を、この世に出てくるときに「ではその台本を演じさせていただきます」と、皆さんが約束の上でそれぞれ演じられたことでしょう。
辛くても・・苦しくても・・、神様から頂いた台本通りに皆様が演じきられたのだと私は思っています。 ただただ台本通りに・・と言えば、私は責めを負いますでしょうか。
翌朝は、一面雪景色で電車も動いていませんでした。