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関ヶ原の復習 三中老とは何か

2018年05月06日 | 日記
豊臣政権はさして体制の整ったものではなく、権力は秀吉に集中していましたが、五奉行、五大老制はよく知られています。もっとも「制度」として確立していたかは疑問のあるところです。

この二者のいわば「仲介役」として「三中老」というものがあったという人もいます。「徳川実記」などにも出てくるようですが、徳川実記は19世紀前半の成立ですからあてにはなりません。

この「三中老」説を「一応信じる」として、それが誰かと言うと、

生駒親正、堀尾吉晴、中村一氏の三名です。それぞれの生まれ年は、1526年ぐらい、1543年、中村一氏は不明ですが、1540年ぐらいかなと(勝手に)考えます。

五奉行は「彼らより若い」と考えがちですが、浅野長政は1547生まれですから、そんなに違いません。

生駒親正は讃岐高松藩17万石初代藩主です。この藩は4代目でお家騒動を起こし、転封。実質改易です。出羽矢島に移され、生駒氏はやがて旗本寄合となって、明治まで存続します。

堀尾吉晴はドラマでは「茂助」とよく呼ばれています。遠江浜松城主12万石、豊臣姓も下賜されています。堀尾家は東軍だったため、戦後は出雲松江24万石までのぼりつめます。
しかし、三代目に嗣子がいなかったため改易。堀尾氏の一族は生き残りますが、堀尾吉晴直系は三代で終わりです。

中村一氏の幼名は孫平次。駿府付中14万石。がやがて改易される点では堀尾氏と同じです。改易されますが、氏族には人が多く、それぞれ主君を得て氏族そのものは存続します。

堀尾吉晴は「功名が辻」では生瀬勝久さんが演じました。中村一氏はロンハーの敦が演じた。生駒親正は嶋崎伸夫さんが演じたようですが、記憶にありません。あのドラマでは堀尾、中村、山内一豊の3名が「中老格」を演じていたので、生駒親正は出番が少なかったのでしょう。

ドラマ化、小説化の視点でみるならば、

中老という制度は「たぶんなかった」でしょうが、彼らが古くからの秀吉配下であったことはたしかです。それなりの発言権はあったと思います。

一番面白いのは堀尾家でしょう。二代目は堀尾忠氏で、関ヶ原には「この若者」が参戦しました。「家康に城も領地もあけわたす」という有名な山内一豊の発言は、「本当は堀尾吉晴の発案であったが、息子の忠氏が気後れして迷っているうちに、山内一豊にその功績をとって代わられた」とされています。

が、違うでしょう。ともに具申したに違いありません。なぜならさしたる武勲もないにもかかわらず、堀尾忠氏は松江で24万石という大封を与えられているからです。それに対して一豊は土佐一国とされますが、当初の幕府の計算では、その石高はせいぜい十万石に過ぎません。堀尾家が明治まで存続したなら、堀尾家の「功名物語」も作られたでしょうが、江戸初期に無嗣により改易されてしまいます。改易さえなければ、高名な戦国大名の一人になっていただろうし、一部では今でも堀尾茂助は有名な大名です。

ちなみに岩国織田家の出身でもあります。信長に滅ぼされた岩国織田家。その点からもドラマになる家かと思います。





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