kaeruのつぶやき

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酒田から象潟へ、「露骨さ」について。

2014-02-07 22:29:25 | kaeruの「おくのほそ道」

 「マンネリ」について、ちょっと。

 藤を詠む場合は「花を詠み、それも(揺れて)覚束ない様を」または気持ち

としては「鬱陶しい感情」を詠むこと、これが季語としての「藤」に求められた

いたことでした。そして綿々と詠まれ日本人の藤に対する美意識をかたちづ

くってき、それが「藤の本意・本情」でした。

 これに対し宗祇が挑戦をします、その句が

  関こえてここは藤しろみさか哉  

で地名を詠みこんでいます。

(美濃の関にやって来たが、白い花が真っ盛りだ。私の故郷紀伊国の名所

藤しろみさかが、ここにもあるようだ)=復本一郎氏訳

 ここに芭蕉も共感していたと復本さんは評して

 あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ   を評しているわけです。

「ちょっと」が長くなりました、以下は短く。

 

 俳諧との「諧」は「諧謔」の諧で、〔「諧」も「謔」も、たわいもないことを言って

人を笑わせる意〕で、俳諧は滑稽さを追求してきました。そのなかで、芭蕉の

弟子の去来が  

 夕涼み疝気をおこしてかへりけり  

と詠みました。

夕涼み最中に腹痛が起こり家に飛んで帰った、というわけです。

 これについて、芭蕉が大笑いし「(俳諧の滑稽さは)これとは違うのだなー」

と言ったことを述べ、同じ「夕涼み」を詠みながら芭蕉の示した滑稽さの句と

して復本さんが示したのが

 あつみ山吹浦かけて夕すゞみ   

 です。

温海山(あつみやま)と吹浦の地名を詠み込むことで、「滑稽」の一句としてい

ます。

 芭蕉が示した滑稽さは、言葉のみの戯れだったり、去来の句のように「露

骨」なものではなく、「誠の滑稽」によってこそマンネリを超えていくものだと

いう理解があった、と思います。