遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『『教行信証』を読む 親鸞の世界へ』  山折哲雄  岩波新書

2023-06-20 17:54:29 | 親鸞関連
 長らく書棚に眠っていた本をやっと読んだ。本書は2010年8月に刊行された。手許の本は同年10月の第2刷である。今、何刷になっているのかは知らない。
 親鸞聖人の畢生の著作を『教行信証』という略称で私はまず知った。正式書名は『顕浄土真実教行証文類』という。未だ覚えられない名称である。手許には、親鸞著・金子大栄校訂『教行信証』岩波文庫(2010年5月第54刷)もある。これも略称を使っている。また、市販書籍を検索すると「教行信証」の略称を使っているものがけっこう見られる。
 この春、京都国立博物館で特別展「親鸞 -生涯と名宝」が開催された。この特別展で初めて、親鸞直筆の『顕浄土真実教行証文類』(坂東本)を拝見した。親鸞が生涯くり返し推考を重ねた跡がはっきりと見られる草稿の実物である。この現物ほかを鑑賞したことも、本書を引っ張り出してきて読む動機づけになった。
 唯円が書き遺した『歎異抄』を介して親鸞の言葉を読むのと比べると、親鸞著『教行信証』はやはり敷居が高い気がしてなかなか近づけなかった。

 さて、本書は親鸞著『教行信証』の内容の全体をどのようにとらえるかについて、『教行信証』の内容の要所を押さえてながら、著者の読みときの仮説を論じている。読後印象は「親鸞の世界へ」の導入書というところ。『教行信証』の内容自体の入門レベルの解説書とも一線を画していると思う。一方で、『教行信証』の骨子を大凡押さえることはできる。『教行信証』の基本ガイドブックの役割は兼ねていると言える。

 「はじめ」の記述から、まず読者を引き付ける箇所がある。著者は鎌倉時代のいわば新興宗教群のリーダーたちの主要著書を最初に例示する。法然の『選択本願念仏集』、道元の『正法眼藏』、日蓮の『立正安国論』。これらのタイトルは、彼らの主張する主題、命題が書名に表出されている。法然は「われは念仏を選択する」、道元は「正法」を命題とする、日蓮は法華経で国を安泰にする、とその主張は明確である。一方、親鸞の主著は、その略称が『教行信証』である。正式書名は上記の通り『顕浄土真実教行証文類』。著者はこのタイトルからは親鸞が何を主張しようとしたのかが読み取れないと疑問を呈する。また正式書名の中には「信」という一字が含まれていない。この疑問は、読者にも「なぜ?」という意識を芽生えさせるだろう。私は、言われてみれば・・・と思った。

 ならば、略称はどこに由来するのか。「総序」と称される冒頭の文の末尾に、「顕真実教 一」「顕真実行 二」「顕真実信 三」「顕真実証 四」「顕真仏土 五」「顕化身土 六」と項目が列挙されてている。顕真実○の○の字を取り出すと、「教行信証」になる。そこで、著者はこの略称が親鸞のめざす主題を表しているのかと問いかける。「目次仕立ての表記にすぎないようにみえる」(pix)とすら語る。わかりやすいアプローチである。

 本書の目次構成をご紹介しながら、著者の主張の一端と読後印象をご紹介しよう。
< 第一章 総序 -主題と目標- >
 著者はこの「総序」で親鸞は海上浄土というイメージと悪人成仏という二つの主題を明らかにし、悪を転じて徳をなす正智を明らかにするという目標を掲げたと読みとく。その目標実現の道筋が、教・行・信・証なのだと。
 興味深いのは、正式書名と総序との内容全体を考察し、親鸞の著作構想が徐々に軌道修正されていったという観点で論じていくことである。
 「『教行証』という三段階システムから『教行信証』の四段階システムへの展開、そしてさらに『真仏土』と『化身土』という二命題の増補、である」(p35)と。この後、著者はこの仮説を論じて行くことになる。
 第一章で興味深い点がさらに3つある。
1)親鸞は『大無量寿経』を「真実の教 浄土真宗」と総序で明記した。
2)著者が『古事記』『古今和歌集』『平家物語』それぞれと『教行信証』とを対比して考察していること。
3)無常観について、親鸞と蓮如の間には断絶があると著者が解釈している点。

< 第二章 依拠すべき原点と念仏 -「教」から「行」へ- >
 まず興味深いのは、著者が略称『教行信証』というタイトルにこだわって行く点である。なぜ「目次」のようなネーミングにしたのかという点。「親鸞自身の思考の推移を追ってその本質の議論(主題)に近づいていくほかはない」(p42)という立ち位置から著者は『教行信証』を読みといていこうとする。「ふたつの主題のさらなる主題化」(p45)、つまり「主題の主題化」が本書を通じて論じられていく。ここからミステリー調のアプローチが始まる。
 二種の廻向(往相と還相)をまず読みといていく。ここにこう記されているという説明だけではなく、著者のスタンスは、常に「総序」の二主題一目標に引き戻りながら論じて行くのでおもしろい。そして親鸞が『大無量寿経』を拠り所と宣言した点を一歩掘り下げていく。親鸞が生涯の師と崇めた法然は「念仏」を選択すると主張するにとどめた。法然と親鸞との対比分析を興味深く読めた。たぶん「念仏」についての思考を一歩推し進め、深化させることに親鸞が挑戦したということなのだろう。
 著者は七高僧の論点を抽出し、親鸞の考えを論じることで、「正信念仏偈」を親鸞の信仰のマニフェストと位置づけている。

< 第三章 難問に苦悩する親鸞 -「信」Ⅰ- >
 正式書名は『顕浄土真実教行証文類』である。この書名には、「信」の一字がない。行の中に「信」を抱え込んだ「行信一体」と捉えれば「教行証」で収まる。著者はここで「行信一体」の議論では片のつかない難問が存在したことに親鸞が気づき、著作構想の軌道修正を図ったのではないかと推論する。その論証として、「信」巻に親鸞が「序文」を付した意図を読みとくことから始めていく。
 「五逆と誹謗正法」をめぐる親鸞自身の疑問を解決する必要に迫られたことが、この序を書かせ、「信」巻を論述させる結果となったと著者は説く。ここで、親鸞が『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』の経文を大量に引用しつつ、論じていかざるを得なくなった背景を推察していく。本書が私にとっては『教行信証』への一冊目なので、関心を抱きながら読み進めることになった。
 親鸞により「一貫して取り上げられていた主題が『アジャセ逆害』の問題であり、アジャセのごとき『難治の者』の救済に関わる問題」(p123)つまり「悪人往生」という課題がそこにある。著者は「除外規定」をめぐる「大無量寿経」の相対化を親鸞が試みたのだと読みといている。『大無量寿経』の第十八願に記された「除外規定」には素朴な疑問を抱いていたので、この読みときにはなるほどと思う側面がある。

< 第四章 見過ごされてきた不幸な事実 -「信」Ⅱ- >
 本書で初めて知ったのだが、「坂東本」には反故落書きがあるという。この落書きを無視していいのかどうかを、落書きの原文を明記したうえで、著者は論じている。
 道元を引き合いに出して論じているので、著者は「親鸞が生きていた時代の大きなうねり」(p148) を感じさせる証拠として無視してはならないと主張しているものと受けとめた。

< 第五章 未解決の課題 -「証」から「真仏土」- >
 往相として、「浄土への旅が成就したことを明らかな形で示すステージが『証』(悟り)の段階にほかならない」(p164) とする。そして、それは「浄土から穢土へのあらたな旅だちを誘う逆流の合図」(p165)であり、「還相」への折り返し地点だと言う。
 著者は「証」巻の前半で「往相」論が総括され、後半で「還相」とは何かを、親鸞の言を引用して読みといている。しかし、「証」そのものについての説明には踏み込んでいないと感じた。親鸞自身がその点どのように論じているのか本書では不詳。著者は専ら往相・還相に焦点を当てている。
 「真仏土」とは何か、についても冒頭の原文と訳を示すに留まる。その定義から、著者は「凡夫、凡愚の者のおもむくべき浄土は、どこか。『化身土』である、というのが親鸞の出した解答だった」(p184)という結論を説明するにとどまる。

< 第六章 幻想の浄土 -「化身土」- >
 「化身土」は幻想の浄土であり、親鸞が『観無量寿経』を引用し論じていると説く。そこが「悪人往生」への道筋とする。著者は「親鸞自身がその主題の核心に分け入っていくために悪戦苦闘している」(p192) とさらりと述べるだけである。「化身土」の議論は難解なようだ。入門レベルの読者には歯が立たないということか。
 著者は「懺悔三品」のテーマの解説に移っていく。懺悔する心の有り様に、悪人往生の主題があるということらしい。「懺悔三品」の意味を理解するのに役立つ解説である。 この章の末尾で「化身土」巻の最後に記された親鸞の信仰告白「三顧転入」に触れている。
 著者はこの巻で、親鸞が「重層的で螺旋状の論理」(p194)を展開し、悪戦苦闘している点を指摘している。
 私には、「化身土」巻の要所はどこかが理解できたものの、「化身土」自体についてはぼんやりイメージできる程度にすぎない。その点、少し残念である。

< 第七章 葛藤と自覚 -「化身土」から「後序」へ- >
 要は、「悪人往生と凡愚往生を約束する究極のターミナルが『化身土』である」(p217)らしい。この章では、『教行信証』のこれまでの流れを整理要約した上で、当時の「末法」意識にふれていき、親鸞が引用した持戒と破戒を中心テーマとする『末法灯明記』の引用箇所が読み解かれている。
 最後に「後序」の構成と内容を解説している。そこに親鸞の心情が表白されているという。

「あとがき」
 著者は最後に2つ、興味深い問題提起をしている。
1.「懺悔三品」は親鸞の思想を主題化するうえで不可欠の鍵概念ではないか。
2.『教行信証』というテキストは、親鸞にあっては未だ変貌をとげつづける「未完の作品」なのではないか。

 幾度も「総序」に立ち戻りながら、著者が己の推論と読みときを重ねて行くアプローチに引きつけられながら読み終えた。『教行信証』の知識ゼロでも、読み進めることができる書である。
 今まで『歎異抄』にとどまっていたが、本書を契機に『教行信証』へ一歩近づくことができた気がする。少し敷居が下がったかもしれない。

 ご一読ありがとうございます。

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『親鸞を読む』  山折哲雄  岩波新書
「遊心逍遙記」に掲載した<親鸞聖人関連>本の読後印象記一覧 最終版
                     2022年12月現在  7冊

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