ことしのGWも後半に入った。当該期間中、史蹟めぐりに
遠出したこともあった。天草からの帰途、フェリーで何回も
待たされた想い出もある━対象は、当長崎市内に横綱丸
山とともに墓石群に在る最高位小結の雲早山森之助。
雲早山の江戸本場所最終は文政六(1823)年冬だが、大
阪では翌七年六月番附に西小結として載っているらしい。
歿年月日が文政八年旧一月二日なので、現役急逝だと
思ったら、史蹟研究会代表世話役竹ヶ戸梅右衞門関から
江戸の最後から1年経過しているので引退後のあつかい
云々。
『江戸……名鑑』に拠れば、山城國…の成恩院に墓が
在ると云う。でも、なんで当地長崎に墓石が…。丸山同様、
長崎巡業中に亡くなったのではないのか?
遠出したこともあった。天草からの帰途、フェリーで何回も
待たされた想い出もある━対象は、当長崎市内に横綱丸
山とともに墓石群に在る最高位小結の雲早山森之助。
雲早山の江戸本場所最終は文政六(1823)年冬だが、大
阪では翌七年六月番附に西小結として載っているらしい。
歿年月日が文政八年旧一月二日なので、現役急逝だと
思ったら、史蹟研究会代表世話役竹ヶ戸梅右衞門関から
江戸の最後から1年経過しているので引退後のあつかい
云々。
『江戸……名鑑』に拠れば、山城國…の成恩院に墓が
在ると云う。でも、なんで当地長崎に墓石が…。丸山同様、
長崎巡業中に亡くなったのではないのか?
「江戸時代相撲名鑑」に墓が京都府大山崎村 成恩院にありとなっていますが、何と勘違いなさっているのか、現大山崎町には雲草山の墓も成恩院という寺もありません。