断腸亭日乗 (永井荷風 岩波版)を読む⑰ 2.26事件
2.26事件は擾乱と記されていて、2.26事件とは記されていない。命名がずーと後になってのものであるからであろうが、この名前を用いないと読んでいて炭酸の抜けたサイダーみたいな感じがする。しかも、見物に行きたいけど雪が降り積もるのでやめたとか、次の日銀座の人出は普段より多かったとか、牛肉屋で大いに談笑したとか書いてある。戒厳令ってこんなものなのかと疑ってしまう。この時からわずか九年くらいで敗戦を迎えるのにのんびりしたもので、食べるものも潤沢にあったようだ。戦前は真っ暗闇だったとついつい思ってしまうけどそうでもない。これは戦争でひどい目に遭った人がそれを知らない世代に話すのに、ひどい目のところを喋ってその数年前以前には結構いい生活をしていたことは喋らないからだろう。ついついそうなるのは分かるけど公平ではない。
この擾乱を見物に行って、首相(実際は人違いだったようだけど)の最後がどのようであったかを群衆から聞いたと書いてある。ならば事変のかなり正確な裏話もうわさで聞いていたはずなのにそれは書いていない。そこを書いてほしかった。いまだにあれこれ推察はあるけど決定版が出ていない。荷風さん世間のことには関心を寄せないというようなことをどこかに書いていたのに、結構普通の野次馬なところがある人である。
同年三月十八日、「一橋の中学校にてたびたび喧嘩したる寺内壽一陸軍大臣となる。」と記載がある。喧嘩したのではなく一方的にやられたはずである。なにしろ軍人上がりの首相寺内正毅の長男であるから、軟弱な荷風をいじめたはずである。いじめるときの作戦の立て方は多分うまかっただろうと予想される。3月27日にはこの「余と寺内大将とは….喧嘩をなしたることなど記載されし由」と週刊朝日に書かれたらしいから、40年前におこったこの喧嘩はかなり有名な事件であったようだ。本当ならここで週刊朝日に対しても一言いうところだと思うけどそれが無いのは、このころから後難を恐れて自粛しだしたとみられる。
この時荷風さん58歳、体調悪くて遺言書いたころである。
寺内壽一さんは1946年南方で病死したけどそのとき荷風さんどんな感想を持ったか知りたいものだ。いじめられた方は一生根に持つからものすごい罵詈雑言があると思うのだが、遺憾ながら日記には探しきれなかった。