本の感想

本の感想など

やさしい論語CD版

2024-03-26 23:54:27 | 日記

やさしい論語CD版

 知らなかったが、論語を教える塾があるそうである。その塾が、論語素読のCD版を発行するという。わたくしは昔悩むところがあって、感心にも論語を読もうと思い立ったことがある。本を読むのは面倒なので、耳から聞いて悩みを解決しようと大枚をはたいてカセットを購入して論語の素読を聞いたが何の役にも立たなかった。楽をして勉強しようとは、とんでもない試みであった。

今考えるに、耳で勉強しようというのは相手に対する尊敬の気持ちが湧かないのだと思う。漢文とそれを読む人の顔が見えないといけないようである。しかも、試したことないから分からないが液晶画面にそれらが映っている程度では、尊敬の念は薄くて効果はたいしたことないだろうと思われる。是非とも生の立派な風采のセンセイに接して素読を聞きたいものである。どうやらひとどうしは風や匂いが伝わるほどの直接でないと通じないものがありそうである。わたくしは、素読CDを買って勉強することまたは子供に聞かそうというのはたぶんうまく行かないだろうと思う。是非とも論語を教える塾の方へ行くか、子供を入れたいと思う方である。(もちろん尊敬できる先生であることが第一である。知識は尊敬の樋のみを伝わって伝わるものである。)

昔の日本には、腹巻まいてステテコ姿で世の中カネやというようなこと言ってるオジサンでも、たまには論語のまたは老子の一節を口ずさむひとがいたのである。ましてやごく普通のヒトなら日に一度は口すさんでいたかもしれない。(同様に女性は短歌を詠む人がいた。)共同体の共通理解として、漢文のまたは短歌の知識があるとずいぶん住みやすい世の中になるかもしれない。近頃はどうもギスギスしている。

 

漢文塾を開いておられる方は、安岡正篤のお孫さんであるという。安岡正篤なら知らないわけではない。高名な陽明学者で、同じく悩んでいたころ本を買って読んだことがある。題名も中身も忘れてしまったが真剣に読んだことは覚えているからなにか得るものがあったと今になっても信じている。

なにより「終戦の詔」の起草者として有名である。当時日本は焼け野原になったというが、このくらい凄い文章を書く人は生き残っていたんだと思ったことがある。文はヒトでもあるし、社会全体の雰囲気を醸成する大事な構成要素である。漢学塾の繫栄を期待している。

我らはあまりにもアメリカ型の社会にしすぎたのである。あまり幸せを感じていないので、立ち止まりたい。ならばひとまず昔の日本の共同体がどうであったかに戻ろうとするであろう。吉田兼好や鴨長明に戻る人もいるかもしれないが、もっと昔の論語に戻ろうとする人が多いはずである。


映画 ゴジラ1.0

2024-03-23 22:23:24 | 日記

映画 ゴジラ1.0

 海外で賞を得たというのでさぞや凄いんだろうと見に行ってひどい目に会った。特撮の技術と音楽はよかったが、余程費用と時間を倹約したのだろう、俳優の演技がなっていないB級の映画であった。時間をかけて役作りしないとあれでは、まるでNHKの朝ドラである。朝ドラは、昔はご主人と子供を送り出した主婦が茶碗を洗いながら背中で聞くドラマである。その伝統あって今でもあれを座って鑑賞する人はいないように作ってある。

 映画というのは、高い金を払ってわざわざ暗いところに虜になりに来るものである。日常を忘れてそれでも日常の家庭生活や仕事の人間関係の悩みの棚卸をして、次の日からの自分の感情を自分でどう誘導するかを考える大事な時間である。観客が何らかの気づきを得られないような映画はゴミである。日常を忘れるためには、ぜひともこれは凄いという演技でないといけない。俳優は、無名でいいからしっかり演技のできるヒトを選び時間をかけて撮影することである。(ゴジラだけは演技が上手い)

 脚本家ももっと言葉を磨かないと駄目である。あの場面であの間抜けな言葉を使うのか。脚本家は、万葉集から井原西鶴まで通じてその場その場で必要な語彙を次々繰り出していく必要があるのに、全編甘いメロドラマ風である。なんだかやっつけ仕事みたいになっているのは時間が無かったせいとみられる。

 「特攻」という重いテーマを題材にしている。しかし、最後はハーピーエンドに作ってある。このテーマをこんなお子様向けの映画に使ってはいけない。このテーマを用いるなら相当の覚悟で制作者も何年も苦吟して本気で作らないといけない。その時は見るほうも娯楽ではなく本気で見ないといけない。またハッピーエンドは、いけない。ありとキリギリスの最後を「ありはキリギリスを助けました。」では何の教訓にもならないのと同じである。イソップは残虐と言われても、残虐の中に教訓があるのである。お子様向けでも教訓を含ませないと駄目である。悲劇と喜劇だと、悲劇の方がはるかに格が高いのは、教訓が入っているからであろう。

 「特攻」を扱った映画が、外国で賞を得た。この意味は大きい。日本を取り巻く環境に大変化が起こっていることをひしひし感じながら、この作り方が安っぽい映画を見て時間損した。

 


「映画 オッペンハイマー」の予習

2024-03-22 11:41:28 | 日記

「映画 オッペンハイマー」の予習

 むかし 二コラ・テスラの伝記映画を見て訳が分からなかったことがあった。フリーエナジーとかいうのでタダで電気呉れるんか、そんなうまい話あるんかとか疑問を感じているうちに、物語がどんどん進むので筋を追えなくなって入場料と時間を損した気になった。同じ轍を踏みたくないので今回はしっかり予習してから行く。

 私は新聞の死亡欄を読むことを趣味にしているが、オッペンハイマーの死亡欄には○○を研究中に研究室で亡くなったとわざわざ書いてあった。さりげないけど悪意のある書き方である。これは原爆製造をした人であるからであろう。

 大変な秀才で、若いころドイツの量子力学の創設者であるハイゼンベルグのもとで日本の仁科芳雄らとともに研究したとある。仁科も日本に帰ってから戦時中に原爆の研究をしたはずだから、仁科とはいわば兄弟にあたる。ハイゼンベルグもドイツに残って原爆の開発をしたのかどうかは知らないが、本人でなくとも別のヒトがやっていた可能性は高そうである。日米独が競争で開発して米国が勝ったということであろう。オッペンハイマーが他の人々より賢かったというのではなく、米国の物量が抜きんでて凄かったと言うだけではないのかと思う。

 その後、原爆の惨禍を見て悩むところがこの映画の見せ所になるはずである。ただし、西洋のヒトであるから悩み方は我々とは多分異なるはずである。我々は老荘の考えが少しは身についているからいざとなれば自分で自分をごまかしてしまうことができる。私が同じような立場になれば、「和光同塵」と大きく書いた額を部屋の中に掲げて気を紛らわせたりするであろう。または、「機械あれば必ず機事あり。機事あれば必ず機心あり。」の額になるかもしれない。ごまかすというのは、本来の老荘からは邪道であるがこの際はいい毒消しになるのではないか。

 しかし西洋のヒトである。しかも頭がいい。ずいぶんな悩みであったと想像される。そこの演技ができるかどうかである。その際の周囲の反応も日本とは異なるであろうが、見どころになるだろう。

 こうやって調べていくと、近代兵器または新しいモノはアメリカ発祥とばかり思っていたがその淵源はドイツにありそうなものも多い。ロケットはドイツが成功してソ連アメリカに広まった。コンピューターはフォンノイマンだからドイツのヒトがアメリカに渡って開発した。ハイゼンベルグ発明の量子力学は、あんまり実用化されなかったが最近は量子コンピューターとか言って脚光を浴びるようになってきた。他に目立たないけどアンモニアの合成もある。

 我が国の仁科芳雄は、その後つぶされそうになった理化学研究所を何とかしようと奔走したらしい。岡本理研ごむや圧力釜の製造で何とか糊口をしのいだとあるが、オッペンハイマーの競作として映画化すると面白そうである。仁科芳雄の悩みは、日本的な悩みであって我々は予習しなくても見ることが出来そうである。


映画 砂の惑星part2

2024-03-19 10:04:17 | 日記

映画 砂の惑星part2

 前作を見てないので理解できないだろうと予想しながら見ると果たして予想通りであった。スターウォーズはキリスト教文化圏外のヒトも十分楽しめる荒唐無稽な物語であるが、こちらは真面目に作った物語であるから観客も真面目に見たが理解ができない。おそらく聖書にある出エジプトの物語が下敷きになって作られた「少年の成長物語」と見ることができる。東洋人には真価が分からない映画である。

スターウォーズも同じく「少年の成長物語」だけど、面白おかしく作ってあるし第一様々な考えるヒントが盛り込まれていた。湾岸戦争の始まるずーと前に、映画では兵士の戦闘服が薄い黄土色になっていた。それから数年後に始まった湾岸戦争で戦闘服が砂漠の保護色になっているのを見て、あの頃からアメリカは湾岸戦争を準備していたかと思い当たった。しかも映画の中でヌケヌケと予言してしまっている。さらにドローンやロボットによる戦争も予言している。(まだ実現していないがもうすぐ実現するであろう。)もう鉄の時代ではないドローンやロボットを動かすための半導体の時代であると1980年の頃に予言してしまっている。

同じような予言がどこかにないかと見たが、わたくしには見当たらなかった。これは主人公の成長物語で、わが国の桃太郎を真面目に作画したものである。桃太郎もいいけどわらしべ長者や浦島太郎もあって状況に応じていろいろの生き方をしたいものである。桃太郎だけでは苦しくてたまらない。西洋人の自我の強さ(良しあしは別にして)は一つの物語だけによって育つところにありそうである。西洋のヒトとなにか付き合いきれないものを感じるのは、人生のすべてがこの「砂の惑星」風になっているからであろう。

よほど過酷な自然の中で苦労してやっていかねばならなかったのであろう。その点は同情するが、わが国の神話「天の岩戸」の物語でも読んで、神様の前で気楽に仲良くするととってもいいことがあるというお話にふれてもらいたいものである。観客が少ないのかもしれないが、このような日本古来の物語の映画化を試みてもらいたいものである。わたしなら絶対見る。

砂の惑星では、東洋人にはこのようにややこしい事情があってあまりいいとは言えなかった。しかし絵画やオペラとして見ると完成度の高い作品である。ちょうどお能を見て、ちょっと訳が分からないけど音楽や舞のしぐさが良かったと思うのと同じような良さがあった。


映画 あわれなるもの③

2024-03-17 12:13:59 | 日記

映画 あわれなるもの③

 この映画の意味を何度も考えているけどなかなか分からない。ただ若い女性に支持されて名作とされているから、なんらかの世の中の変化を象徴していると考えられる。しっかり考える必要がある。社会の大きな変化にはうまいこと乗って行かないと、損しそうな気がする。

 いい悪いは別にして昭和の女性は、働きのいい男を見つけることが人生の勝敗を決めた。良い馬を見つけて乗りこなすことである。可愛く振る舞うのはよい馬を見つけるための作戦である。次に厚生労働省の労働人口増大(によるGDP増大)の陰謀にうまうまと乗せられて男と競ってばりばり仕事をするようになった。これで幸せを感じるヒト半分そうでもない人半分だろう。 しかしここで行き過ぎがおこって、女が男を家畜(この場合は羊)にする勢いになったというのがこの映画の主張するところではないか。男はウマからヒツジに格下げになった。ウマも辛いがヒツジはもっと辛そうである。(この映画には臓器移植をする男がでてくるがこれは神と呼ばれていて、男のうちに入れてはならない。)

 

 真偽は定かでないが、ギリシアの昔多くの都市国家がお互い競合したという。アテネは交易、スパルタは軍事、バッカスは酒と歌によって、アマゾンは女性だけの連帯と狩りや他の部族との闘争によってそれぞれ覇を競ったという。(ここにバッカスの路線が分かりづらいが今のフランスに似た芸術の力をもって戦うの意味と見ることができる。)最後はアテネが制覇するから交易によって栄えるのが一番宜しいという意味の寓話とわたしは思っている。

 ここでこの映画のようになると、われわれは行き過ぎになってアマゾンみたいになりそうな気がする。これではかえって社会全体の力を削ぐことになる。アマゾンは多くのポリスの中で早くにダメになったのではないか。最後まで残ったのはアテネとスパルタと聞いている。

 我が国でも、室町末期までは出雲の阿国の例もあることだし女性も大いに働き活発であったと聞き及ぶ。それを多分江戸幕府の天海和尚だろうが、策を弄して女性が家の中にいるようにしむけてしまった。この呪いを解かねばならないというのは良いことだが、呪いを解き過ぎてちょっとやりすぎというのがわたしの考えである。右に振れた振り子はあまりにも大きく左に振れる。ほどほどにしないと却って社会全体の発展する力を削ぐことにならないか。