映画 暗殺の森(ベルナルド=ベルリッチ監督)
普通映画でも小説でも主人公に観客読者が同化して、一時的に違う者になりきってその眼で日常の自分を視ることで日常の自分を反省することに意味があるとわたしは考えている。悩みや迷いがなくなるとまでは言えないがその直後は軽くなった気がする。従って映画でも小説でもなるたけ格好良く勇ましい方が宜しい。もちろん美女にモテるのも大いに望ましい。
しかしこの映画の主人公は複雑な性格でしかも根性なしになっているのでとても観客が同化できそうに無い、従って普段の自分を反省するよすがになりにくい。反面教師にすることはできるかもしれないが、反面教師にできるような人物は日常自分の周囲にうじゃうじゃごまんといるからおカネを払ってわざわざ暗いところへ虜になって見に行く必要はない。
この映画は極めて難解で、わざわざ解説者が映画の前後に解説をしてくれている。この解説を手掛かりに私なりに考えるところはこうである。
主人公は小さいころ心に重大な傷を受けているために考えることが混乱し、皆と同じであるような振りをして生きていこうとした。当時皆と同じというのはファシズムであったのでそうである振りをしようとした。しかしギリギリ最後のところで何がなにやら分からなくなってしまった。(決して反ファシズムの立場をとったというわけではない。また重大な心の傷というのが実は思い過ごしであったこともエピローグとして語られている。)
どうもヨーロッパの映画にはこういう重い心理分析または精神分析を伴う作り方をするものが散見される。余程子育ての際に問題の起こりやすい文化ではないかと邪推したくなる。しかしわが日本も最近は小さいころの心の重大な傷を受ける可能性が出てきたのではないかと、最近の芸能界の騒動を見ていると思うところがないわけではない。ならばこの映画も日本で受容されるかもしれない。
解説者によると、ベルリッチ監督のファシズムに対する思いとベルリッチ監督自身の師匠に対する思いとが二重に投影しているのではないかとの説がある。そんなややこしいものを娯楽を欲しがっている人に提供するのはなーと思ってしまう。ベルリッチ監督の自分の精神分析になんで付き合わされるのか。今日は監督ぼに付き合ってあげようという覚悟で見に行く映画であって自分の心を軽くするために見行く映画ではない。
もう五十年くらい前とは思えないカメラとライティング技術で西洋絵画の美術館に二時間居たような良い気分にはなれた。