本の感想

本の感想など

断腸亭日乗 (永井荷風 岩波版)を読む⑦ 案外2人は似ているのか

2022-10-16 14:50:46 | 日記

断腸亭日乗 (永井荷風 岩波版)を読む⑦ 案外2人は似ているのか

 戦後家に関して不遇であちこち転々としたとき、ラジヲの音がうるさくてたまらんとあちこちに記載がある。噂では三島由紀夫は音に敏感で書斎は特に音がしないように設計したと聞きます。お二人は遠いか近いかは知らないのですが、血縁にあると聞いたことがあります。

 そういえば、能や歌舞伎を好んだこと、漢詩文に巧みであったか造詣が深かったこと、自分の紡いだ美のなかに住み続けたこと、何より親に言われたからかどうか大学卒業後数年間は会社勤めをしたこと。(荷風は横浜正銀少し前の東京銀行、三島は大蔵省)似ているところを探せばいくらでも出てくる。

 似ていないところはもちろん、一方は軍人政府を詩的な皮肉で繰り返し繰り返しダメ出しをし(私はこの皮肉がこの日記の中で一番塩味の効いたおいしいところだと感じています。)、一方は軍人を賛美する団体を自ら作ったところにあります。しかし、ご両者ともスポットライトを浴びていたいとする強い願望による行為だとみると同じじゃないでしょうか。必ずしも自分の作品がではなく、自分の人生そのものがです。荷風さんは作品(日記)にはしたけれど、作り物ではなく自分の人生そのものを練りこむようにして書いてあります。

 そこで、想像するのですがお二人とも小中学校のころに軟弱であるとしていじめにあったのではないか。いじめにあうと、すべてのクラスメートから自ら進んで浮き上がった存在になることで身を守ろうとします。これを「不思議ちゃんになる」と言うようです。荷風さんの奇人変人というのはこの浮き上がろうとする努力が癖になってずーと続いたのではなかったかと思うところがあります。それで腹いせにむかしいじめた奴が多くいる軍人政府の悪口を書き続けた。生まれつきの奇人変人ではなくそのように振る舞うことが自分を守ることだった、いつのまにかそれがトレードマークになったので変えるわけにもいかずマークを付け続けたのではないでしょうか。

 一方の三島さんは、みずから進んでいじめた側に同化する努力をした。その努力が行き過ぎた。ホームランでいいところ場外大ホームランにしてしまった、そんな気がするのです。いじめは軍隊にかぎらず人の出入りが自由でない社会構造の下ではよく見られる事象で、なぜ発生するかの研究には役立たないかもしれないが、いじめられた側がどういう反応をするかの研究にこの日記が役立たないかと思うところがあります。

 


断腸亭日乗 (永井荷風 岩波版)を読む⑥ なぜ3度目の結婚をしなかったのか

2022-10-16 12:01:39 | 日記

断腸亭日乗 (永井荷風 岩波版)を読む⑥ なぜ3度目の結婚をしなかったのか

 荷風さんは3度目の結婚をするチャンスは何べんもあったのになぜしなかったのか。しておればあの老後の日を追ってだんだん文字数が少なくなっていく日記を書かなくて済んだ。どこかで家族の手厚い看病を受けることになって日記は書かなくなっただろう。それを支える経済力は十分にあった。

 第一に考えられるのは、八重次さんへの慕情があったらしいこと。夢に八重次を見たとの記載がある。しかし気の毒なことに、荷風さん死後に刊行された追悼文集に八重次さんが寄稿して中身はひどくさばさばしたものだった。このあたりが、多くの男性読者の血涙を流させるところなのか。これがリアルな物語だから読む価値ありと見るところか。しかも古臭いとはいえ流麗な文章でつづられている。

 第二に考えられるのは、もう懲り懲りしたから孤独に生きていく決心をしたこと。(ここも多くの男性読者の同感を得るところか。日記の売れ行きには貢献したのではないか。)そのくせ花柳界には出入りして浮名を流していた。昭和2年だから荷風50代に差し掛かったころの関根うたさんとのいざこざは関根さん可哀そうに何とかならんのかと読者の手に汗を握らせる。関根さんは荷風没後も墓参りをかかさなかったというから、本当に勿体ないことをした。

 このあとも小説を書きたかったから、結婚すれば書けなくなると思ったのかもしれない。花柳界から足が遠のくので、小説のネタを取れなくなるおそれはある。わたしならこう言ったと思う。

「結婚してもあそこへは行かねばいかん。あれは、商品の仕入れに相当するんや。行かんかったらお店に商品を並べられないようになってしまう。小説書いたら印税の半分は渡すけど、半分は次の仕入れに使う。それでもいいか。」

 荷風さんはこうは言わなかったようで、その時関根さんは気がふれたふりをしたようだ。ここがまた手に汗握るところで、なまなましくて面白い。しかし、同じく追悼文集に関根さんが寄稿してあの時は気がふれたふりをしたと書いている。それを見破れなかったのだから、この人小説書くほどの人を見る力量があるのかどうか疑わしい。詩人でお坊ちゃんなだけと見える。しかし、そこがまたこの日記の魅力になっている。

 他人の日記を読んでいるのではない。その中にほかならぬ自分の顔を読んで恥ずかしくもあるが、反省することがあってそれは自分の人生に裨益するところが確かにある。単に面白いだけではなかった。