本の感想

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日出づる国 中国の開国と日本(宮﨑市定全集22)を読みながら考えた。

2022-12-31 18:40:06 | 日記

日出づる国 中国の開国と日本(宮﨑市定全集22)を読みながら考えた。

 最初中国文明と日本の文明とは全く異なるものである。両者は対等の付き合いをするような文書を差し上げたことでさすがに隋の煬帝はお怒りになったが、そのほかの時代はそんなにお怒りでもない、臣下がうまいこと両方の顔を立てるようにとりなした。特に元寇の前にフビライから送られた文書はかなり丁寧な言葉を使っているというようなお話であった。ところが後段になって明治以降我が国は清に対して西洋諸国とは一線を画した態度で臨みそれは清国から高く評価されているというようなところから急に文章のテンションが高くなって「日本のみがその外に立って、独特の日本的体制を維持し、絶えず中国的体制に向かって反省を求め来たったことは・・・・・」というように甚だ時代錯誤の文章になってきている。

 最後まで読んでわかった。これは1943年(昭和18年)8月に書かれた文章で日本が大東亜国を作る夢をまだ持っていたころの文章である。こういうことからは離れた立場にあるべき歴史学者先生にしては、こんな文章を書くのはちょっと失敗になるんじゃないかと思いながらこう考えた。

 敗戦の2年前でもまだ中国を植民地化する夢を日本全体で共有していたとみられる。日米開戦の決断はなぜなされたのかは今でも議論になることが多いけど、まさか軍事のプロが数字の計算を間違えるはずがない。そこを間違えたのはひょっとして手早く中国を植民地化しそこの資源を対米戦に使うという計算を入れたのではないか、と市定先生のちょっと冷静でない文章を読みながら感じた。ちょうど宝くじを5000万円分買ってこれだけ買ったんだから1億円は当たるはずだと思い込んでまだ当選番号の発表もないのに1億円の家を買いに行くようなものである。

 孫子の一節に「廟算して算多きは勝ち算少なきは負ける。」とあります。廟というからには、先祖の位牌が並んだところでそろばんをはじき、敵有利の玉と当方有利の玉の多い少ないを単純に比較するだけで勝敗の予想はつくはずです。作戦の妙とか兵士の根性とかも玉の内にいれてもいいけどそれは合理的に説明がつく程度にしないといけません。その予想を間違えた根本は、まだとってもいない植民地の資源を勝ち玉にいれてしまったせいではないかとこの文章を読みながら思ったのです。

 この廟算というのは、戦争と関係ないところでも大事なものと考えます。自分の家の仏壇を拝むと良いことがあるのはご先祖の位牌を見ながら無意識のうちに仕事や何やかやの作戦をたてたり普段の生活の反省をしたりするからだと考えられます。市定先生のちょっと並外れた力こぶの入った文章を読みながら、廟算は極めて大事な行為だとの結論に漂着しました。


日いづる国 雷を天神と言うこと (宮﨑市定全集22)を読みながら考えた

2022-12-30 18:06:27 | 日記

日いづる国 雷を天神と言うこと (宮﨑市定全集22)を読みながら考えた。

 予想される通り天神さんの話から始まって、中国雷州にまで至る蘊蓄が述べられている。菅原道真を迫害した人は大抵雷でひどい目に遭ったらしいが、中には源光という人は泥の中に没して非業の死を遂げたとあります。全員が雷というわけでもなさそうです。

 ああ面白かったで終わりそうだった最後にこんな一文があります。

「苟も中国で名官となるには淫祠征伐は是非やらねばならぬことであり・・・・・」ここでいう淫祠とは雷を祭る祠のことで、中国では皇帝より派遣された官僚というのは地元の祠を征伐し皇帝の徳を有難いものだと教えて回ることが仕事だったようです。そう言うことであの巨大な土地が一つの国になったということだったのか。昔の中国の官僚とは巨大な富を一代で築くことができるそうで、ぜひあやかりたいものだと思っていたが他人が大事にしている信仰を取り上げる淫祠征伐という仕事はあんまりやりたくない。科挙に通ればいいだけとはいかぬようで、どうやらただで富は手に入らないようだ。

 わたくしが高校生であったときに世界史の教師が科挙の制度を説明しながら「大学入試はこの科挙の制度と同じだ。科挙に合格すれば天下の美女が寄ってくるし巨万の富が手に入る。」と盛んにアジ演説をした。そうかよーしと我利勉して合格したのに、天下の美女も巨万の富も転がり込むことはなかった。齢18にして立ち直れない詐欺に遭ったようなものである。爾来ヒトの言うことは必ず裏があると思うことにしている。もっとも合格するだけではいけなくて、ここでいう淫祠征伐という仕事をやらなかったせいであるかもしれない。

 昔の中国の皇帝は、昔のローマ教皇と似たところがあって部下を派遣して各地を同じ信仰に染め上げることで統治する方策をとったと考えられる。だったらローマ教皇の部下の方も儲かったのかどうかそこを知りたいものだ。唯決定的の違いは一方は血族による相続で一方は選挙による移譲をする。それから教皇または皇帝の住むところには大変な量の美術品が集まるところは似ている。

 日本とイギリスはこの官僚の(または部下手下と言うべきか)の派遣を受けなかったので淫祠征伐があまり進んでいないのではないか。それからインドはもっとも淫祠征伐されていないところだろう。淫祠征伐されたほうが住みよいかされてないほうがいいのかは難しい問題であると思う。実際に暮らしてみないとわからないだろう。

 

 


馬廠長日記(宮﨑市定全集22)を読みながら考えた。

2022-12-29 11:26:44 | 日記

馬廠長日記(宮﨑市定全集22)を読みながら考えた。

 昭和7年2月24日から5月16日までの3か月ほどの日記である。この間市定さんは軍隊に応召されて上海などへ赴いた。病気になった馬を管理する仕事だそうで60人ほどの人間を統べる仕事のようで階級は書いておられないが軍刀を買って持っていたそうだから将校であったのだろう。そう言えば孫悟空の与えられた仕事も馬の世話だったがこちらの方は途中で腹を立ててやめてしまった。当時の軍隊のことだからもちろん市定さんは最後までお仕事をなさっている。

 しかし当時第三高等学校か京都大学かは書いてないが教授をいきなり応召して馬の世話とは勿体ない人間の使い方をするもんだ。当時の軍隊が頭数を揃えることに固執した頭の固い組織であったことを物語るような話である。今の世の中でも企業同士の争いは、その運営の巧拙を競うようなものでその巧拙は働くヒトの才能ややる気をどう引き出すかにかかっている。こんなヒトの使い方をしている組織には勝ち目はないであろう。

 しかも日記によれば、今日はどこそこへ連絡に行って歩く距離が長くてというような話が一杯である。嫌味や皮肉を書かなかったのはさすがである。わたしならついつい書いてしまって、それが見つかりえらい目に合うかもしれないところである。

 さて、淡々とした日記を読みながら私は自分の小学校や中学校のことを思い出した。どうでもいいようなまたは無駄としか思えないような指示や命令がつぎつぎ出されるがとりあえずそれをこなしていれば、安全安心な生活である。創意工夫はしてはいけないし反抗したりしてもいけないがその場を取り繕っておけば、なんとかやっていける。この生活と全く同じ生活がこの日記に書かれている生活である。それもそのはず、当時の小中には軍隊から戻ってきたヒトが先生の中にたくさんいた。

 ただわたしの小さいころの会社も役所も、この軍隊を手本にして運営されているようなところがあって効率より指示を守ることが仕事みたいなところがあった。だからこんな教育でも間に合ったと考えられる。しかし、今は会社も役所も様変わりだし自営でやって行こうという人も激増している。こんな教育ではいけないはずである。そのいけないことを今の教育は力こぶをいれてやっているような気がする。

 この日記を読んで、たった二十年三十年のことだけど世の中の変化の大きさに驚くところがある。いい悪いは別にして。


幕末の攘夷論と開国論 (宮﨑市定全集22)を読みながら考えた。

2022-12-28 16:09:15 | 日記

幕末の攘夷論と開国論 (宮﨑市定全集22)を読みながら考えた。

 佐久間象山とは、昔日本史で習った人だけど何をした人か忘れてしまっていた。開国論を唱えてそこを幕府に見込まれ京都で公家たちに開国論を説いて回っている最中に暗殺された人だという。自分の主張と幕府の主張がたまたま一致していたためにいいように使われてしまった。あの時代に言いたいこと言えたから幸せだったのかそれとも不幸せだったのかよくわからないヒトだ。どうも思想というのは、取り扱いが厄介なものらしい。

 今頃になってやっと攘夷論が理解できた。鎖国体制にあるから密貿易で儲かる。開国されたら密貿易の利権を失うようなものだから、攘夷論といういかにもこっちの言うことが筋が通ってますよという理屈を並べ立てて昔に戻せと言い募った。当たり前だけどいったん開国して貿易利権が幕府の手に渡ったら幕府がそれを手放すはずがない、理屈で世の中が動くはずがない。そこで今度は、幕府を倒す挙に出た。その時せっかく筋が通っていると自慢の理屈を正義の旗印にして倒そうとした。倒した後は自慢の正義では今度が自分たちが儲からなくなるのだからさっさと正義の旗を降ろしてしまう。

 人々が何を言ってるかは聞いても仕方のないことなんだな、どの利権を欲しがっているかを見ることが重要なんだなと思わせる事件であった。お猿さんがボスの座を争うときに、おれの方が筋が通ることを喋ってると言いますか?どうも人間は言葉を発明してからというもの言葉に囚われてしまうところがある。さらにいけないことに論理的整合性に美しさを感じるところがある。ちょうど平面幾何の問題がすーと解けた時の気持ち良さに中毒するところがある。

 仕事をして物をつくったりするときは言葉は大事で論理的整合性に中毒するところも大事だけど、会社の中で出世するときには言葉も論理の美しさも関係ない争いをしないといけないということのようだ。市定先生によると「ちょっと脳の弱い」象山を殺傷した某は、明治になっても三条実美にいつ攘夷をおやりになりますかと毎日尋ねてずいぶん疎まれたという話である。

 してみると言葉の正しさや論理の美しさが大事と思ってる人は、「ちょっと脳の弱い」人になるのか。わたくしは、中学の時幾何の問題を解くのが得意であったのでこれは気を付けねばいけない。言葉でモノを考えては間違う。ヒトがなにを欲しがっているのかをよーく見ないといけない。

 これは歴史家のごく短い講演録だと思うけど、読んで自分のことの反省ができて有難い文章だった。


上野の山で西郷さんの像と天海和尚の髪塚をみる③

2022-12-26 22:10:35 | 日記

上野の山で西郷さんの像と天海和尚の髪塚をみる③

 この髪塚からあまり遠くないところに美術館や博物館が立ち並んでいる一帯があって上野文化村と称するらしい。美術館や博物館は一国の国力のバロメーターであるからこれが充実しているかどうかは、昔なら鉄鋼の生産高今なら車の生産高などと並ぶ大事なポイントで等閑にしてはいけない。

 この文化村の一つ国立東京博物館の奥に、「法隆寺館」という名前であったかどうかの記憶が定かではないが法隆寺の文物だけを集めた広壮な建物があるのには驚いた。わたくしには法隆寺はなじみの寺で小中高3度遠足で行かされた。小は記憶にないが、中高は百済観音を拝観したのでよく覚えている。わたくしは東大寺を知っているので、法隆寺は地味で目玉商品のないお寺であるなと甚だ失敬な感想を持っていた。その法隆寺にここで出会うとは驚きであった。ただ法隆寺館の中は、建物は大きいのに多くの陳列があるわけではなくちょっと寂しい。法隆寺の文献が多く収蔵されているようで内外の日本の古代史を研究する人に資料を提供する目的の館かもしれない。

 これが東京の国立博物館の敷地内にあるとは多分日本の始まりは法隆寺にありと認めたということだろうと考えてみた。ただいろいろ反論やらがありそうなのであまり宣伝しないで静かに資料だけを集めてあるのではないか。聖徳太子はいなかったという説まであって面倒だから静かに建物だけ建てておくという感じである。

 素人にはこの法隆寺の財政基盤がなかなかわかりづらい。古代このあたりの特産は材木であったと考えられる。ヤマトとは山の戸という意味で山の入り口を意味すると考えられる。これに大和と書くのは、多分枕詞がその地を表す習慣に基づいているんじゃないのか。大いに和やかなる山の戸・・・・という風に山の戸という地名を言うときは必ずこの枕詞を付けていたんじゃないのか。そのうちに枕詞が地名そのものになってしまった。もっともこの地が大いに和やかであったかどうかは、はなはなだ疑わしい。なにしろ権力の集中するところだから闘争も派手であったと考えられる。法隆寺はその材木を大和川にいかだに流して売りに出していたのか。または船に加工して売っていたのか。船に加工すれば軍事にも交易にも使えるからかなり高値で売れたであろう。しかし売るのはいいけど、貨幣経済になっていないときに決済はどうしたのか。いろいろ疑問は湧いてくる。

 聖徳太子が7人の訴えを同時に聞いたという逸話があります。なんぼなんでも7人が一斉にわーわー言ってきたらそれを聞き分けるのは無理だろう。これは、太子は7か国語を自在に操って取引をしたと解釈するのがいいのではないか。それに太子が当時の大和川の河口であったと考えられる場所に四天王寺を建てたのもよくわかる。瀬戸内海を渡ってきた買い付け商人に入り口を示すためまたはちょっと上陸してもらって休んでいただくために赤く塗られた鳥居と接待する建物があると便利であろう。

 してみると、法隆寺も四天王寺もその始まりは宗教施設ではないような気がする。人々が足摺してほしがるものを製造販売することが儲けるコツであろう。わたしは、中国の古代国家では多分塩であったと思う。日本はよほどの内陸でなければ塩は簡単に流通するので、何だろうと常々思っていた。もしわたしの推理が正しければ船と言うことになる。そしてその製造流通を抑えたものが王者になる。

 現代ではそれが何であるのか。