本の感想

本の感想など

映画ベネデッタを見る。③ 見ながら一休さんを思い出す

2023-02-28 12:59:06 | #映画

映画ベネデッタを見る。③ 見ながら一休さんを思い出す

 中世の修道院には、何か訳があったのでしょうがお金持ちの家の子が送り込まれるところから映画は始まります。そこでいきなり我が国の一休和尚を思い出しました。天皇の落としだねとして寺に預けられたのですからベネデッタと同じ境遇と見られます。

ところで修道院はどうやら戦乱の世の中で、争う勢力がまあこの中ではお互いに不可侵でやって行こうじゃないかと紳士協定を結んだ場なのか、修道院がこの中で争うものは破門にするとか言い出したのかわかりませんがスイスみたいに中立の場であったようです。奇しくもわが日本の中世でも寺院は中立地帯でかつ事情ある子供を受け入れる場であったようです。両者連絡を取り合ったわけでもないのに社会の中で同じような機能を果たすとはよくよく不思議なことです。もともと宗教には今は目立たないけどそういう機能があったと考えられます。

さらに修道院の中ではワインやチーズを作っていた。我が日本の寺院でも酒や味噌を作っていた。(どうやら発酵食品は製造ノウハウが複雑で自給自足できなかったようです。)ここまで一緒ならわが日本の寺院の中でもこの映画の中で写されているような権力闘争や吝嗇や宗教家としてはやってはいけない堕落があったとしても不思議ではない。一休さんは(絵本の方ではなく、本当の方です。)このご自分の堕落の方をあからさまに書いたことで有名である。印税が入るわけでもないのになぜこんなことを書いたのか不思議で仕方なかったが、この中世フランス舞台の映画を見ながら謎が解けた。

一休さんはいいとこの生まれだから権力闘争しなくてもいい立場にあるし、仕送りもたっぷりあっただろうから吝嗇する必要もなかった。ただまあ暇だったし堕落だけはあったと考えられる。周囲は権力闘争吝嗇堕落だらけであっただろう。一休さんは、ちょっとやり過ぎじゃないかと周囲に反省を求めたかった。直接週刊文春みたいに告発しても周囲の反発を買うばかりでうまくいきそうにない。ならば、自分も堕落してその様を書いて皆に回し読みさせればどうかという高等戦術に出たのではないか。これだと自分のことを書いているのだから世間は非難のしようがない。いちゃもんを付けてきた高僧には「なにもあんたがやってるとは言ってませんよ。」と言えば済むことです。実際のところは恥ずべきところあって誰もいちゃもんを付けに来なかったと推察されます。

もちろんこんなことすると一休さんはそれ以上の出世は望めません。しかしこうしてでも仲間を諫めたかったとみられる。こういう頭の回転のできる人のことを頓智のある人というのであろう。まさか子供向けにこの話をするわけにもいかないので、一休さんの子供向けのお話としてまたは頓智とはなんであるかの説明としてあのような逸話が作られたとみられる。

長年の一休さんの疑問が解けたのはいいが、いま日本人全部がどうもおかしい労働の状態にはまり込んでいる状態を打破するような頓智が私の脳みそでは出てこない。相手の説の矛盾に切り込んで相手を論破するのが頓智です。今の社会のおかしいところを真正面から議論を挑んでも無理でしょう。ここは是非一休さんにお出まし願いたいところです。

よい映画はいくらでもその場面から離れて想像があちこちに飛んで行って実に面白い。ただし、頓智は出すに至らなかったのは残念である。もう一回見たら出るのかもしれない。


映画ベネデッタを見る。② 第二のルネッサンスこれから始まるのか

2023-02-27 13:14:36 | #映画

映画ベネデッタを見る。② 第二のルネッサンスこれから始まるのか

 この映画の最大のメッセージは、女のヒトも組織の中では権力闘争するということではなく教皇大使(こんな職位は多分実際にはないと思う。教皇代理くらいの意味だと思う。)が民衆に倒されてしまう場面であろう。権力闘争をする女性たちの混乱を収拾するために登場した教皇大使が倒されてしまう。全体のストーリーからはやや独立している付け足しの話である。こういう付け足しの場面にこそ言いたいことが含まれていると思う。

実際の歴史ではペストが流行った後「神は人々を救済しなかった。」として神に対する不信が人々の心に芽生えこれがルネッサンスを準備したとされる。神よりも自分の隣近所にいる人間の気持ちも大事にしようと人間中心主義が始まったとされる。映画ではもっと過激に教皇大使が民衆に押し倒されてしまう。

 この場面を見ながら、この時期にこんな場面を挿入するとは自分たちは第二回目のルネッサンスをこれから始めるとの宣言をしているようなもんだろう。私はこの場面を見て「あ、あんな大きい石投げられたらそら痛いやろ。」と呑気に見た。しかし当時は各人の心の中の価値の体系を決めてくれる人に対して石を投げたのであるから大変な事件だったはずである。信仰の深さから言って現在の日本中の全神社仏閣に大きな石が投げ込まれるのとはけた違いの大事である。もう自分たちはあんたの言うことを聴かないとの意思表示である。ペストの時にもうあんたの言うことなんか聴かないと決心したがどうも徹底してない気がする、今度こそあんたのいうこと聴かないぞと宣言する場面ではないか。

 このことからヨーロッパでは、人々の心に関してどうも巨大な変化が起きているのではないかと推察される。日本ではまた元に戻ると思っているが、少なくともフランスイタリアではもう元に戻らないでこれから人々の心が大変化を遂げるだろうと見ているのである。神の支配はさらに薄くなると見ているのである。

 ところで私は宗教はヒトが自然から遠ざかることから発生したと考えてきた。犬猫やコオロギキリギリスが普通に持っている本能が薄れてきたのでそれを補完するために宗教を必要とするようになったと思う。この映画の中でも盛んに「神の御心」とか言っているのは(何が自分の最善手かが分からなくなってしまったので)自分はどうしたらいいですかと尋ねているようなもんだ。都市化されるとさらに本能が薄れるのでわれわれはさらに神の御心を必要とするようになるんじゃないのか。であるのにその神さんに石を投げるとは罰当たりな時代に逆行する行為な気がする。

 そこでさらにこう考えた。薄まった本能を補完するのは古い神では間に合わないでこれから始まるAIになるんじゃなかろうか。AIにお伺いをたてて物事を決める時代が始まりそうである。新しい神様に取り換えるということなのか。古い時代を舞台にしている映画であるが、そんな新しいことを考えるほど濃密な時間を過ごせた。


映画ベネデッタを見る。①

2023-02-26 18:43:35 | 日記

映画ベネデッタを見る。①

 どうもフランスのキリスト教を扱う映画は見ても東洋人にはしっくりこないところがある。聖なる印とか幻想か実際かもわからないがキリストさんを見るとかましてやそのキリストさんと結婚するとか、はてはキリストの妻になったから出世をするとか、さらにはそういうことを喋ると火あぶりになるとかはなはだ理解に苦しむようなことが一杯出てくる。遺憾ながらストーリーに引き込まれることはないが、それでも見ながら様々なことに思いを巡らせた。いろんなことが思い浮かぶというのがいい映画であるからそういう意味ではとてもいい映画であった。

 まずこの映画の中の修道院の中では権力闘争が露骨である。(これは日本の寺院の中でも露骨であったらしいからあっても可笑しくはない。)普通だったら一つの閉じた集団の中でその第一位二位三位と順位をつける争いはあんまりやりすぎると弊害があるけど、何もしないで順送りで決めると戦う人がトップに立てないからその組織が他の組織と戦えなくなってしまう。戦ってトップの座に就いたものだけが他の集団と戦える気力があると認められてトップに就く、そこまではいい。しかし修道院や寺院は他の寺院と争うための組織ではなく勝ち負けが必要ないのでそこでは権力闘争はないと外部の人はついつい思ってしまう。しかしわが身を傷つけてでも出世しようという人に満ち満ちた世界であるとこの映画は映し出す。同じくどんなことしてでも仕返ししてやろうという人もいる。

 さらには、修道院はヒトに「欲深いことはいけないことです。」と教える組織であるからついついここに居る人は大変立派で無欲な人であると思ってしまう。しかしのっけから子供を預かるのにこれだけ寄こせと言う値段交渉からこの映画は始まる。何も知らないナイーブな人がついつい思い込んでいることをひっくり返すことも(ほかにも言いたいことは一杯ありそうである。)この映画の作者の意図であろう。デカメロンと同じくペストが流行った時代背景の映画であるからボカッチオと同じ意図で作成されているとみられる。

 ここに描かれていることは、ちょうど学校で先生が朝礼台に登って児童生徒にいじめがいかにいけないかを長々と説教する、やっと説教が終わって職員室に戻って今度は先生同士が激烈ないじめをするようなものである。それはないだろうということが行われている。皆さんが信仰している神さんてこんなもんですよと言っているのである。まあ適当に付き合ってあげてくださいねというのが言いたいことなんだと思う。


崖上のスパイ(張 芸謀監督作品)を見ながら昔を思い出した。③

2023-02-21 11:35:17 | 日記

崖上のスパイ(張 芸謀監督作品)を見ながら昔を思い出した。③

 1930年代ハルピン(この当時の街並みが多分CGだと思うが実にうまくできている。)が舞台になってるから当然その時代の政治勢力が出てくるはずであると思ってみていた。そこに何らかのメッセージがあるはずだと思って見ていた。しかし一番最初にごく小さく日本軍という言葉が出てくるだけで、あと一切出てこない。日本軍だって言葉だけで実物は登場しない。ソ連という言葉も出てくるが実物は出てこないしそこで訓練を受けたという設定だけで、毀誉褒貶しているわけではない。単に面倒なことを避けたとみることもできるが、この一切触れないという姿勢がメッセージではないのかといろいろ考えてみるけどよくわからない。

 お話変わって映画Star warsはお子様向けのファンタジーだと思って全部を見たわけではありません。しかし、その一番最後で巨大な宇宙船が燃え尽きるシーンに多分ワグナーの神々の黄昏が歌われています。なんでここでこの北欧神話が歌われるのかとか、これはヒットラーが大好きでかつなくなる直前に聞いた曲ではないのかとかを思い合わせると何らかの作者のメッセージが込められているはずと考えられます。多分全編を見てかつ西洋思想や西洋史に詳しい人ならわかるんだと思います。お子様向けとか思わないで全編真剣に見ておけばよかったと反省することしきりです。

 大昔にパールハーバーというB級の映画がありました。(はじめA級のつもりだったんでしょうが失敗したとみられます。)この中で昭和17年に東京に飛来するアメリカ軍の爆撃機のパイロットが出てきます。昭和17年当時は多分空母から出撃して、帰還できないから中国に着陸するのですがこのパイロットが飛行機に乗る前に「中国で会おう」と語り合う場面がやたらに強調されています。日本の頭上を越えて中国へ行こうというのですから、目的は日本ではなく中国であると言っているようなものです。ということは、当時のアメリカの志は中国にあって日本にはなかったということではなかったかと想像できます。当時の日米は単に植民地の取り合いをしていただけではないのか。(思想信条の違いによる戦争とじは後でつけた理屈ではないか。)当時の日本は一撃で講和に持ち込めると睨んだろう。あとになってから鬼畜米英とかのキャッチフレーズを並べ立てたのでわからんようになった。

 会社経営しててこらあかんとなったら前の経営陣やめてもらうことで何とでもなる。けど軍隊の場合はお互い鉄砲持ってるからこらあかんとなっても戦争継続派、もう止めや派で内戦になるのは必至であるから内戦を避けるためにこんなあほらしいキャッチフレーズひねったりするんやなというようなことを考えながらこの駄作の映画を見た記憶がある。

 崖上のスパイは大変な力作でここにも何らかのメッセージがありそうだけどそれが何であるのか今のところさっぱりわからない。

 

 


崖上のスパイ(張 芸謀監督作品)を見る②

2023-02-16 13:08:21 | 日記

崖上のスパイ(張 芸謀監督作品)を見る②

 ストーリーは複雑でややこしくて私のような単純な頭では理解できない。家に帰って一晩寝て明け方にそういうことかなとやっと理解したつもりになる。こういうややこしいのはヨーロッパ映画の特色でハリウッドの映画には少ないしイギリス映画にも少なそうな気がする。日本映画にはまずない。中国はヨーロッパと同じ大陸国家であることがこのことから分かる。同じ漢字を使って筆談できるからと言って両者同じ文化では絶対にないだろう。

 大陸では複雑に入り組んだ集団があってかつ外部からいくらでも異民族が入ってくるともう何でもありの争いになる。島国でも複雑に入り組んだ集団があるけどまず外部からいくらでも面倒なのが入ってくるという心配がない。そうするとお互い争いはなんでもありにはしないで相手側に秘密のスパイを送り込むのはやめときましょうという騎士道を暗黙の裡に認めてしまうということか。

 だから日本では、せいぜいが松尾芭蕉や世阿弥が敵情を探りに行く(噂だけど)程度のスパイになってしまう。大陸ではどうやらナンバー2が敵のスパイであるというようなことが一杯あるらしい。ハリウッドの映画を見てもヨーロッパほどややこしいにはあまりお目にかからない。ハリウッドはいざとなるとええい面倒くさいと腕にものを言わすタイプが多い。

イギリスの映画は極めて特色があってアラビアのロレンスや007に見られるように遠く海外の集団に生涯をかけて潜り込むのが特色である。国内集団の中でややこしいことをする映画もあるのかもしれないがあまりお目にかかったことがない。昔アラビアのロレンスの映画を見ながら三浦按針(ウイリアム・アダムス)はきっとロレンスの先輩にあたるんだろうと思ったことがある。家康は老獪な人であるから当然それを見抜いて利用したのだろう。このあたりの機微は面白そうなのに映画にも小説にもなっていないのは不思議なことだ。日本はイギリスと同じ海洋国家だから007を作ってもいいのじゃないかと思っていたら思い出した、もう何十年も前の快傑ハリマオというのがそれにあたるかもしれない。多分最初の原作快傑ハリマオは戦意高揚のための映画であっただろう。ならば007もそうなのかなど疑うところは尽きない。

ただ、崖上のスパイがヨーロッパの映画と異なるのは母親と子との場面を取り入れているところにある。ここは東洋文化圏であるとわかって全編サスペンス仕立てだけどホッとするところでもある。この母親役の女優さんの演技は名演技である。他にも脇役に名演技のヒトを配置している。この演技は多分京劇の時代から磨き抜かれてきた舞台芸術が今の映画に生かされているということか。

 映画の質は国力の反映であると聞いたことがある。ならば日本も近頃GDPが伸びないのなんだのと元気がないので、そうでもないとハリマオでも何でもいいからCGを駆使してまたはしなくてもいいから、凄いのを作ってほしいもんだ。最近の日本の映画は安手に作って薄い利益を上げていこうというまるで麻雀のピンフ上がりばっかり狙う作品が多いのでさっぱり面白くない。