戦後昭和の思い出(成熟について)
昔の子供は早くから成熟していたと記憶する。テレビがやっと各家庭に入ってきたころの話である。テレビは却って子供を子供のままにするのかもしれない。大人まで子供になってしまう。
昭和30年台はまだ戦争の余燼が残っていた。例えば当時小学5年生であった私の担任の大西先生(仮名)は、シベリア抑留から帰ってきた元陸軍少尉であった。あまりやる気のないヒトでかつ学力にかなり問題があったが、シベリアで怖い思いをしてきたのであろうと、クラスの児童も保護者もそれに同情してやる気のないのを非難するものはいなかった。今なら保護者が黙っていないが当時はおおらかであった。
夏休みあけに学校へ行くとこの暑いのに紺の三つ揃えを着た校長がクラスに居て、しばらくは自分が担任をすると言った。校長は服装が立派だが、大西先生よりもっとやる気のないヒトでわれわれは授業中皆で雑巾投げをして人生を楽しんだ。大西先生には種々同情すべき点があったが校長先生には同情の余地はなかった。そのうえ大西先生ほどでもないが、学力に問題があって児童に馬鹿にされるところもあった。この程度のヒトが校長をやっていることに驚いたが、可哀そうだから大きな問題にしなかった。
9月のいつの頃か、授業を休みにして大西先生のお墓参りに行くことになって皆でぞろぞろと歩いて出かけたことがある。道すがら級友の一人が親から聞いたのであろう。
「先生は女のヒト二人に言い寄られたので、便所で首を吊ったんや。」
私は、なぜ二人に言い寄られると首を吊ることになるのかが理解できないのと、なぜ便所なのか理解できなかった。当時は全部汲み取りであるから夏などは臭くてハエも飛び回ってる、どうせなら風通しの良い座敷もあるはずであると思った。
別の級友は次々に
「先生は男前やったからな」(確かに美男子であった)とか
「この世代は男の数が少ないからな」とか
極めつけは
「便所や風呂場は柱の間隔が狭いから、梁がたたわみにくいんや。ひろーい部屋で紐かけたら梁がたわんでしもて大変なんや。」という。
みな家で大人の話していることを聞いているのである。テレビが無くても決して退屈な日々というわけではなかった。
ただし私はなぜ便所であるかは理解できても、いまだに二人から言い寄られるとあんなことになるのかは理解できないままである。