本の感想

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戦後昭和の思い出(成熟について)

2024-07-28 09:07:58 | 日記

戦後昭和の思い出(成熟について)

昔の子供は早くから成熟していたと記憶する。テレビがやっと各家庭に入ってきたころの話である。テレビは却って子供を子供のままにするのかもしれない。大人まで子供になってしまう。

昭和30年台はまだ戦争の余燼が残っていた。例えば当時小学5年生であった私の担任の大西先生(仮名)は、シベリア抑留から帰ってきた元陸軍少尉であった。あまりやる気のないヒトでかつ学力にかなり問題があったが、シベリアで怖い思いをしてきたのであろうと、クラスの児童も保護者もそれに同情してやる気のないのを非難するものはいなかった。今なら保護者が黙っていないが当時はおおらかであった。

夏休みあけに学校へ行くとこの暑いのに紺の三つ揃えを着た校長がクラスに居て、しばらくは自分が担任をすると言った。校長は服装が立派だが、大西先生よりもっとやる気のないヒトでわれわれは授業中皆で雑巾投げをして人生を楽しんだ。大西先生には種々同情すべき点があったが校長先生には同情の余地はなかった。そのうえ大西先生ほどでもないが、学力に問題があって児童に馬鹿にされるところもあった。この程度のヒトが校長をやっていることに驚いたが、可哀そうだから大きな問題にしなかった。

9月のいつの頃か、授業を休みにして大西先生のお墓参りに行くことになって皆でぞろぞろと歩いて出かけたことがある。道すがら級友の一人が親から聞いたのであろう。

「先生は女のヒト二人に言い寄られたので、便所で首を吊ったんや。」

私は、なぜ二人に言い寄られると首を吊ることになるのかが理解できないのと、なぜ便所なのか理解できなかった。当時は全部汲み取りであるから夏などは臭くてハエも飛び回ってる、どうせなら風通しの良い座敷もあるはずであると思った。

別の級友は次々に

「先生は男前やったからな」(確かに美男子であった)とか

「この世代は男の数が少ないからな」とか

極めつけは

「便所や風呂場は柱の間隔が狭いから、梁がたたわみにくいんや。ひろーい部屋で紐かけたら梁がたわんでしもて大変なんや。」という。

みな家で大人の話していることを聞いているのである。テレビが無くても決して退屈な日々というわけではなかった。

ただし私はなぜ便所であるかは理解できても、いまだに二人から言い寄られるとあんなことになるのかは理解できないままである。


映画 無名

2024-07-25 09:18:22 | 日記

映画 無名

 多分 香港中国日本の合作映画だけど、資本は中国ではないかと思われる。旧日本軍のことをかなり悪く描くから日本では絶対ヒットしないだろう。フィルムノワール(黒映画)の分野に分類される映画で、私はイライラするときストーリーは何でもいいから黒映画を見たくなるのでこれを見に行った。抑えた色調の引き締まった映像と音楽と俳優の演技によって観客を酔わせるもので、ストーリーに何かの思想考え方を盛り込んでおいてこの考えかたいかがですかと問いかける映画ではない。演歌でも交響曲でもいいがよい音楽を聴くと頭がすっきりする、それと同様の効果がある。

中国映画は本来もっと面白いものだと思うが、いいものが日本に輸入されないからかそれともいいものを作らなくなったせいか近頃いいものを見ない。この「無名」もそんなに力こぶの入った映画でもなく、はじめからB級映画を狙っているようだが、B級としては大成功した映画とみられる。ちょうど980円のラーメンを頼んだところ1500円くらいの値打ちのラーメンが出てきて大喜びした感がある。ラーメンだったら次の日また同じお店に行ってということはできるが、映画はそういう訳に行かないところが観客興行主ともにつらいところである。

国民党と共産党と日本軍のスパイ合戦で、ストーリーは複雑だからどうでもいいつもりで見ていた。(これからどこかへ行ってスパイ稼業をしないといけないヒトは理解する必要があるのかもしれないが、そのつもりのないヒトは気楽に見て一幅の絵画を鑑賞するのと同じ気分で見るのが良いと思う。)

見ながらこう考えた。自分のしたいことは「竹林の七賢」のようになって、「清談」でもしてのんびり日を送りたいのである。なんで大きな組織に忠誠を誓わされてきつい仕事(しかも仕事の中身については手かせ足かせで自由に決定できない。)をしないといけない羽目に陥ったのか?「竹林の七賢」みたいになるのはちょっと無理としても、せめて仕事の段取り位は自分で決めたいものだ。(これについて面倒くさいことを言ってくる上司同僚は本当に嫌だ。)それに忠誠を誓う相手も、自由に決めたいもので現状極めて不自由だ。こんな現代人にぴったりの映画がフィルムノワール(黒映画)ではないか。

スパイだから仕事の段取りは自分で決められる。どうしても二重スパイみたいになるから組織に対する忠誠はあるのか無いのか自分でも分からなくなる。鬱陶しい上司同僚は血だるまにしてしまう。ついでに謎めいた美女も出てくる。

これを見ると大抵の現代人は頭すっきりするはずである。ただし今の生活仕事に大満足している人は何が面白いのか理解に苦しむであろう。私は頭すっきりしたから不満が一杯の方に分類されそうである。


小説   三代目

2024-07-21 00:40:36 | 日記

小説   三代目

 久保田万一は商才のある男で、戦前家具屋をひらいて大儲けした。その子万太郎は、戦争で焼けてしまったお店を再開して万一と同じくらいの儲けをだした。ただしその晩年、結婚に際して家具を買い求める風習が廃れて商売が傾くとみると直ちに店を畳んで、その店の土地を売って楽隠居した。タダの隠居ではない、郊外に瀟洒な一軒家を購入してどこからか第二夫人を探してきて第二夫人と一緒に住んだ。勿論万太郎に対する世の中の評判は良いものではなかった。そういえば万太郎の父万一も晩年戦争の始まる少し前まで 第二夫人とともに過ごした。ただしそのころはそうすることは 立派なことと表立って賞賛はされないまでも、「甲斐性のある男」として羨望の眼で見られたのである。不思議なことに万一も万太郎も、第二夫人がいることで第一夫人に苦情を言われたことは一回もなかった。

 万太郎の子万蔵は、何不自由ない青年時代を送ったが継ぐべき商売もなくなったので、やむなく役所へ就職してもう30年は経とうかという頃の話である。万蔵の二人の息子も東京遊学を終えて一人は海外でもう一人は北海道で職を得てホッとしたころ、長く一人で暮らしていた万蔵の叔母が亡くなった。叔母はいったん他家に嫁いだが、事情あってすぐに一人暮らしを始めて長かった。万一は不憫な我が子に相当の支援をしたようで叔母はかなりの財産を残したが、それらはすべて万蔵が引き継ぐことになった。

 ある日のこと、久保田万蔵は新聞に大富豪である郷田万蔵氏が30歳も若いお嫁さんを貰うという三面記事を見つけた。久保田万蔵は、苗字こそ異なるが同じ名前で同じような年齢でありながら、なぜこうも人生違うのかと憤懣やるかたない思いである。

久保田万蔵の嫁は、料理を一切しないヒトで万蔵はスーパーマーケットのお惣菜のみの生活がもう30年も続いている。万蔵の母親は、戦前の女学校で家庭料理を教えられた人である。万蔵は戦前から伝わる日本の味で育ってきた。万蔵は時々、旨いものを食べたいと独りごとを言うことさえあった。今まで家の中での波乱を避けて口に出さなかったが一遍くらいこの不満を口に出してもいいのではないか。あの相続した叔母さんの家にそんなに若くなくてもいいから毎日料理してくれる第二夫人を迎えて一緒に住むことにしても許されるんじゃないか。できれば若くてきれいな人であるに越したことはないが、それはできればということである。

万蔵は勇気を出して、その新聞を嫁に示して「自分はこれからこういうことをするから協力をするように。」と伝えた。ただしその声は少し震えていた。万蔵の嫁はその記事を読んでケラケラ笑って「できるものならやってみなさいよ。」と応じた。

「おれがどんだけ持ってるか知らないであいつはかわいそうだな、おれのオジーちゃんもおとーちゃんもできたんだぞ。人生の最後に少しくらいいい思いをしてもバチはあたるまい。いままで散々苦労したから少しは良い思いもしないと。」

と思いながら、第二夫人を探す算段をどうしようかと考えていた最中の出来事である。

その日、郷田万蔵氏が何者かに薬殺されたとのニュースが役所の中でもちきりであった。家に帰ると、7時のニュースがこのことを大きく報じていた。そのニュースの声を背景に、嫁さんは夕刊一面に大きく郷田万蔵氏の死を伝える見出しのある新聞紙を筒状にして、もう片方の手をポンポンと叩いている。ちょうど巡査が警棒で手を叩くのと同じような姿である。そうしてこういうのである。

「あんたハンたしかこの前、この人みたいな目に遭いたいとかゆーてはりましたな。」

万蔵は嫁さんの眼が、昔見た映画「西太后」の登場人物の眼と同じてあることを見逃さなかった。

爾来、万蔵は家に入る前には小さな庭にトリカブトの花が咲いていないか、家の床下に真っ赤なキノコが生えていないかをひどく気にするようになった。

 幸いにも、万蔵はその後も長く生きた。しかし相続したおばさんの家に灯がともることはなかった。万蔵の没後その家は、万蔵の嫁によって処分され嫁はその代金で世界一周の船旅に出たという話である。


花妖譚(司馬遼太郎 文春文庫 2009年)

2024-07-16 23:37:05 | 日記

花妖譚(司馬遼太郎 文春文庫 2009年)

 1956年57年ころの司馬さんの初期の短編集で、花が重要なワードになっている小説10編を集める。はじめネタ振りをしておいて後半謎解きをして、最後余韻のある詩的なコトバで締めくくる(これは森鴎外の歴史小説に見られる)という司馬さんの短編小説の手法がこの頃すでに完成されていたことがわかる。妖怪の登場する物語(例えば白椿)がお好きなようで、読者は妖怪の繰り出す手品の中に取り込まれるようにして物語の中に取り込まれていく。

 司馬さんの長編小説は、どうしても新聞小説の欠点を持つが(実際はどうだか知らないが夏目漱石の長編小説も新聞小説ではないかと思う。山場がない小説になってしまう。)司馬さんの短編小説は気合の入った作品になっていることが多い。司馬さんは読みごたえのある短編小説の名手だと思う。さらに、詩的なコトバで読者を酔わせる。井上靖も詩的だけどちょっと現実離れしすぎていて歴史小説としては嘘くさく感じてしまうが、司馬さんの小説は現実とも対応するレベルの詩想がある。

 これらの短編には若いはつらつとした感性は感じるが、これでドーダという驕った感じがしない作品である。「こんなもんでいかがでしょうか。」という気分を感じる。仏師運慶の一番若い時の作品が奈良の忍辱山円成寺の大日如来像であるが、はつらつとした感性とともにドーダ凄いだろうという気分を感じる。司馬さんと運慶両者大違いである。どちらがいいどちらの態度が立派とは評価できないけど。

 

 1956年は金閣寺が放火された年で、司馬さんは京都でこの記事を書いていたはずである。当時の新聞記者はのんびりしていて副業も可であったと見える。さらにこの短編を読むにはそれなりの古典の教養が必要である。戦後間もないころなのに、日本にはこのような教養のある読者層があったことに驚く。終戦後すぐの時代が、案外(物資はともかく)文化は豊かな時代であっただろうことが偲ばれる作品である。このような文章を読める人々が居たにもかかわらずなぜ戦争がおこったのか。


映画 オペラ座の怪人

2024-07-13 00:31:53 | 日記

映画 オペラ座の怪人

 もう20年くらい前の映画だと思うがCGのない時代によくこれだけの映像を撮ったと感心する。あの時代は映画造りの良心があった時代だった。どうして撮影したのか、だれがこの撮影方法の案を出したのかとそればっかり考えていた。

 日本ではこんな大人の純愛は流行らない。何かありもしないシラジラしい作り物に感じてしまう。曾根崎心中お初徳兵衛の話があるじゃないか、あれで皆泣いたじゃないかと言うかもしれないが、あれは状況を説明する近松の名文のリズムに泣いたのである。徳兵衛は大坂の商家に雇われている、大阪の商家では、当時の三十を超えてもなかなか結婚はゆるされない慣習であった。それなら、大人の純愛も起こりうるから世間はこの話をありうるとしただけである。ああ自分もあんな純愛してみたいとは、だれも思わなかった。

自分のことは棚に上げておいて、他人の心情の中に一時的に入り込んでおいて、その他人の心で今の自分を見て今の自分の反省をするという離れ業をしたいがために、物語を聞きに行ったのである。我が国では、恨みを持つことなら流行る。お菊さんもお岩さんも起こりうる話として皆没入したのではないか。没入しながらも日常の自分を冷静に見返りをして、次の日から自分はもう少し上手に生きようと決心したはずである。

 西洋でもこんな大人の純愛はおかしいと思ったはずと推察されるのになぜ流行ったのか。しかも状況の設定は荒唐無稽である。お初徳兵衛は実話であるから滅多に起きないこととはいえ まだ感情移入できる。しかしオペラ座で実際に怪人は出てきそうにない。こんな状況設定では、観衆は他人の心情の中に入り込めそうにないのに若い女性は見事に入っている。つられて若くもない他の観衆も没入する。

 ポイントはオペラ座にあって怪人にはないと考える。劇場は、女優に光を当てる場である。ヒトは(犬猫は決してそう思わないが)ライトにあたりたいと冀う(こいねがう)動物である。オペラ座では、怪人のおかげで女優に光が当たった。その光が当たった女優に感情移入できるしするのである。

もし、これが牛小屋の屋根裏に怪人が住み着いていて乳搾りの女性と恋に落ちても、観客は感情移入できないしその映画はヒットしなかっただろう。同じように、紡績工場の屋根裏に怪人が住み着いていて女工さんと恋に落ちてもダメである。女性は恋に落ちたいとは思っていない、光に当たりたいと思っている。

人々の中にライトに当たりたいという願いがあることを見抜いたことが、原作の凄いところである。