密教と呪術が動かした日本史(武光誠著 リイド文庫 平成19年初版)②
講談本が平安時代を取り上げること少ないので、この時代について普通のヒトは知ることが少ない。この本を読んでなぜ講談本が取り上げないかが分かった。呪いとか加持祈祷が真面目に取り上げられていたから、現代人には「自分のことに引き付けて読む」ことがやりにくいのだと思う。自分と同じような感性を持っている人が出てこないと、読んで面白くないし第一自分の人生の何かの参考にならない。(面白いとは、自分のトクになるかもしれないときに湧いて出る感情だろう。)
それに加えてこの時代の権力闘争の様子が分かりづらい。なぜ分かりづらいのかを次のように考えてみた。私は、アメリカ風の強いもの正義の味方は最後には勝利するという単純なイディオロギーに頭がいかれてしまっているために、この単純なお話に落とし込めないような物語を理解する能力が退化してしまったのが原因である。正義も悪もない、強い弱いもコロコロ移り変わる平安時代を理解することは無理のようである。
この本で初めて平安の権力闘争の一斑を垣間見て面白いと感じた。大きな戦力を集めることができにくくて暴力による戦いがやりにくかったのであろう、次のような作戦を取ったと考えられる。(一部に私の想像が混じる。)
- 夜盗の親分に話を付けて敵方の屋敷を荒らしまわる。
- 妖怪、物の怪の噂を街の中に触れて回り世の中に不安をまき散らす。
- 自分の屋敷は、僧に頼んで加持祈祷してもらう。勿論夜盗の親分には自分とこにはこないように話を付けておく。
- 天皇とこへ行って、自分とこは祈祷してもらったから安全でしたと言う。心配していた天皇は自分も祈祷を頼むという。
このようにして天皇に食い込んでいった。賢い方法を思いついたもんだ。次に密教僧が権力をつかむのはこうしたのだそうである。菅原道真が雷神になって自分の敵対勢力を倒した後の頃である。
- 高僧が修行中に倒れて13日間死後の世界をさまよったという。(この間飲まず食わずだから苦しかったと想像するが)
- 生き返って道真は良いところに居て元気であるが、いじめた何某は何とか地獄でこんな目にあってるなどの話をする。
不安に駆られている世の人々は、これを信じてしまい僧に大金を払ってでも祈祷してもらったという。天皇の祈祷もするから権力に近づくことができる。賢いヒトにはかなわない。利用していたはずの藤原氏も今度は利用される側になったか。本来祈祷する側であったはずの天皇側も取り込んだのがポイントである。
将棋でも野球でもルールがあってルールの範囲内で争うことになっている。もし私が自由にルールを決められるなら、「玉は単独で裸である。王は盤面上に置かない。王の側の持ち駒は無限である。」というルールを作ってもちろん王の方になるから、必勝間違いない。藤原氏も密教僧も戦いのルールを決める側についたので勝った。同じようなことが現代の永田町でやってるのではないのかな。
近代的な頭脳ではわかりずらいのと、「スペクタクル」にならないのでこの時代の小説はないのであろう。しかし、少し前の大きな会社の中で行われていたであろう権力闘争は、暴力を使わない争いであったので織田信長以降の小説より平安の権力闘争の方が読んで役立つのではなかろうか。だれか書いてくれないかな。