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本の感想

本の感想など

お釈迦様のようになれない

2025-05-11 12:37:24 | 日記

お釈迦様のようになれない

 ネットはありがたいもので、最近仏陀の言葉(現代風に書き換えたものであろう)を聞いた。正確に思い出せないが、「賢い人は嫌なことをされても仕返しなんかしないもんだ。静かに離れていくのがいい。仕返しする時間がもったいない。」といった内容であった気がする。これは今ブラック企業に働いている人の心に寄り添うように発せられた言葉であろう。

 理念としては大変いいのだがどうも実際的でない。まず静かに離れていくことがのがむつかしい。生活の場である職場をそう簡単に離れられない。仕返しすることを簡単に忘れられる人はいいが、たいていの人はそうではないと考えられる。器の小さい私などは朝晩どうやってやっつけてやろうかと想を練ることになる。練ることは大変な労力と時間の無駄になっている。

 キリスト教にも似たような教えがあるように聞き及ぶ。イスラム教には同じような教えがあるのだろうか。思うにお釈迦さんのいた北インドからキリストさんのいた中央アジア西の端にかけては戦乱絶え間のない地域であり、折角征服してもすぐ仕返しされるような場所ではなかったのか。ならばお互い仕返ししないようにしようじゃないかという思想を流布したくなるのもわかる。お釈迦さんは当時その地で流行していた思想を集大成したのではないかと思われる。その北インドから中央アジア西の端にかけて当時流行の思想を、今の日本のブラック企業の中で呻吟している人々に説いても果たして心打つものだろうか。もっと現代にあった思想の必要を強く感じる。やられたらやり返すといった思想である。しかし大掛かりにやるとまた別の弊害が出るだろう。

 

 奈良の藤原氏の氏寺である興福寺の南円堂には運慶のお父さんの康慶作の不空羂索観音菩薩坐像がおさめられているが、滅多に拝むことができないのは残念である。その横に一言観音さまのお堂がある。同じく藤原氏の神社である春日大社の横には一言主の命のお堂がある。思うに藤原氏はこの一言主の命という人に相当なことをしたのではないか。申し訳なく思ってまたは祟りを恐れて二か所にごめんなさいの建物を建てて子孫にも申し訳ないと思えと命じている。(またはごめんなさいのふりだけでもして、今後もうまい事やっていくんだよと命じている。)その後も権力伸長の際には、菅原氏を痛めつけてしまったのでその祟りを恐れて大きな神社(天神さん)を建てている。もっと他にも踏みつけにした勢力があったと思うが、目に見える形でのごめんなさいはこの二つだけではないか。

 わが国の文化としては、やられたら「上手に祟ってやる」であろう。仕返しをするのは大掛かりになるのでちょっと難しいし、そのあとの反動もまたあるだろう。ここはちょっとひどいと思っている人々は皆々天神さんになって祟ってやるときである。また今勝っている方も「人々の祟りを恐れる」ことが(そのふりではなく)必要な場面ではなかろうか。

 どう考えてもお釈迦さんのようになれないわたくしは、上のように考えてみた。なお、今は使う人がほとんどいないが物を作りそこなってダメになることを「お釈迦になる」という。これは、お釈迦さんの一族(シャカ族)があまりにも思弁に徹したため周囲からの攻撃に耐えられなくなり滅亡したことを由来とする。立派な理想は駄目である。自分を守るために上手に祟ることが必要である。


日本昔話 こけしと竹とんぼ

2025-05-05 11:59:59 | 日記

日本昔話 こけしと竹とんぼ

 むかしむかしおとうさんとおかあさんが山の中に住んでいました。昔のことですからスマホもテレビも新聞もありません。流通している少しのお金はありましたが、今みたいに銀行はありません。

おかあさんは毎日男の子と女の子のためにご飯を作りました。自分の分を減らしてでも二人の子がひもじい思いをしないようにと心を砕いて作りました。おとうさんは秋の深まったころ、男の子のために竹とんぼを作りました。その子は刈り取の終わった田畑を竹とんぼを追いかけました。冬になって外に出られなくなっても、土間で竹とんぼを追いかけました。お父さんはまた女の子のために大きな赤い着物を着たこけしを作ってあげました。女の子は毎晩こけしを抱いて眠りました。その次の冬もまたその次の冬も同じこけしを抱いて眠りました。毎年冬になって雪が降って暗い家の中から出られなくなっても、雪の重みで屋根がみしみし音を立てるようになっても四人の毎日はとても楽しいものだったのです。病気や冷害や借金取りの恐ろしさはありましたが。

 

 幾世代かをへて、あれだけ子供好きだったのに大勢の人が子供嫌いになりました。学者は「子供より楽しいものが身に周りにあるから。」と分析しました。それもありますがそれだけではありません。男も女も「楽しいことはいけないことだ。苦労して給料を稼ぐのがことがイイことなのだ。」という思想に毒されてしまったことが原因なのです。今、「人生大いに楽しまなくては。」なんて大きな声でしゃべると白眼視です。冷たい抜け目ない目をして働くことが正しいことなのです。抜け目ない人は自分の一番の楽しみをさえ犠牲にして平気なのではと疑います。


断腸亭日乗でよむ昭和十年の世相

2025-05-03 23:36:25 | 日記

断腸亭日乗でよむ昭和十年の世相

 昭和9年より悪くなってるのではないかといろいろ探したが 経済上の事態が悪化したようにも思えない書きっぷりである。ラジオ嫌いのはずだからそこからは知識をとり入れないはずである。新聞はたまに記載があるから読んでいたと思うがあまり熱心な読者ではないようだ。ほぼ毎日銀座の同じ店でご飯を食べてるが値段と客の入りについての記載がない。荷風さんお金持ちだから多少の値上げは気にならないのかもしれない。

 6月19日に「カフェ喫茶店に出入りする花売りハンケチ売りのごとき乞食ことしになりて次第に多くなりたり。子供を連れたる・・・・」とある。大恐慌の影響は出ているはずである。当時のアメリカなどの関税政策がブロック経済を呼び起こし工業生産品の豊作貧乏で世界中で失業が増加したしわ寄せが、荷風さんの目の前の花売りになって表れたとみられる。

 12月19日に「夜九時戸口を叩くものあり。何人なるやと問ふに・・・・・・・・金子借用いたしたくと云ふなり。夜間持ち合わせなしとて断りぬ。」とある。今度は車代も渡さなかった。これは借りに来たのが男だったからで、前回車代を渡したのは女性だったからと推測される。ただし前回の女性が妙齢であったかどうかはわからない。しかし、このことをもって世相が悪くなったとは言えないだろう。

 10月27日に壮士の横行を述べた後に「昭和6,7年らいの世態を見るに文久慶応の世と異なるところなし。」とある。これはこの記載の少し前に明治維新前のイギリス外交官アーネストサトウの本を読んだりしているから、重ね合わせてそうみているだけかもしれないがなかなか先を見通している。二・二六事件まで半年ないのであるから、荷風さんの時代を見る目は確かであった。この一文がなければこの日記はただの三味線好きな風流人の書いたものになって忘れ去られるだろう。

 アーティストはこうでなくてはいけない。自身は非力でも時代に警鐘を鳴らす人でないといけない。単に色ボケ爺ではなかった。ただしこの日記が当時公表されたように思われないから世間の人には役には立たなかったけど。それからでは対策にどうすればいいのかも書いていないからその意味でも役立たない。

 みみずくやビーバーは3年先の災害を予測してその準備を始めるという。動物にはその直感があるという。人にはどうもなさそうである。荷風さんにはかろうじてあったということか。


断腸亭日乗で昭和9年の世相を読む 

2025-05-01 22:43:08 | 日記

断腸亭日乗で昭和9年の世相を読む 

 アメリカの大暴落は昭和4年に始まり昭和9年に底に達したのでいよいよ日本の世相は暗くなっているはずだと期待して読んだが、荷風さん相変わらず銀座のどこそこへ行った、何々を食べたという話とご自身の大好きな女性の話が出てくる。なぜこんな話を書くのか理解に苦しむ。自分の日記がのちの人に読まれることを想定しているにもかかわらず相手の女性の名前まで書いている。ご自分の恥にならないのかと心配する。自分はこんなに立派だ良いことをした努力したと書くのが普通だと思うが、まるでさかさまの秘密にしたいことばっかり書く露悪趣味のヒトである。尤もそうだからこそ読み継がれている。自慢話を書いたらば、誰にも読まれないだろう。

 さて日記の中から無理して不景気な話を拾うと、昭和8年大みそかに顔を知ってるだけの女性の訪問をうけ借金の申し込みを受けたとある。荷風さんかなりの金持ちと世間から思われていたとみられる。お車代を渡して難を逃れたという。本当のケチなら車代渡すという発想もしなかったはずだから、この人本当はケチではないと思う。どちらかというと好人物ではないか。ただ景気が良くても大みそかに借金の申し込みはありうるからこれは世相が暗くなった証拠とはならない。

 二月二日、「カフェの女給すれ違う傘の陰より人の袖をひくもの少なからず。」現在に通じる世相であるが、これも世相が暗くなった証拠というより荷風さんが好きだった場面を嬉しそうに描いただけともみられる。しかし同月三日「余が定期預金の全額を株券に替ふべき事を委託す。蓋し平価切下げの災厄に処せむと欲するなり。」とある。平価切下げとは円の価値の政策による下げという意味かと思う。インフレが進んでいるかそれが始まるという予兆であったと思われる。

 同月七日「近頃景気はいかがかと問うに・・・・・大連の快楽という料理屋の主人などは・・・・・一度に女十人くらい連れて行くと云ふ・・・・・」大連に出稼ぎにいく女性を日本から連れて行ったという。「快楽」とはまたミモふたもないネーミングである。現在もこういう出稼ぎがあるという話であるから、これは当時の日本の状況が悪かったという傍証にはなるだろう。しかし荷風さんの日記からだとどうしてもこういう風俗がらみの話題だけから読み取らねばならない。

 八月三日やっと見つかった。失業した車夫に強請られた話を書いた後に、「近年銀座通りには種々なる浮浪人無頼漢徘徊セリ。衰世の状況推して知るべし。」とある。荷風さんは浅草の次に銀座がお好きなようでここに衰世の状況をかぎ取っておられる。同月二十四日「(軍部より)禁灯の令出ず。」とある。銀座の店が閉まり光が消えたらしい。これはこの日だけであったようだ。(ただしこれは不景気とは関係なさそう)

十一月四日、「銀座通りの景況日を追うて物寂しく、・・・・・・・銀座通りの景気最盛なりしは昭和六年より翌七年軍人暴行の頃なりしが如し。・・・」これは決定的な記述で、たった二年ぐらいで景気は大変悪くなったようである。その原因の考察がないのが残念であるが、状況は現代と似ているといえば似ているであろう。昭和九年と現在は結構似たところがある。