お釈迦様のようになれない
ネットはありがたいもので、最近仏陀の言葉(現代風に書き換えたものであろう)を聞いた。正確に思い出せないが、「賢い人は嫌なことをされても仕返しなんかしないもんだ。静かに離れていくのがいい。仕返しする時間がもったいない。」といった内容であった気がする。これは今ブラック企業に働いている人の心に寄り添うように発せられた言葉であろう。
理念としては大変いいのだがどうも実際的でない。まず静かに離れていくことがのがむつかしい。生活の場である職場をそう簡単に離れられない。仕返しすることを簡単に忘れられる人はいいが、たいていの人はそうではないと考えられる。器の小さい私などは朝晩どうやってやっつけてやろうかと想を練ることになる。練ることは大変な労力と時間の無駄になっている。
キリスト教にも似たような教えがあるように聞き及ぶ。イスラム教には同じような教えがあるのだろうか。思うにお釈迦さんのいた北インドからキリストさんのいた中央アジア西の端にかけては戦乱絶え間のない地域であり、折角征服してもすぐ仕返しされるような場所ではなかったのか。ならばお互い仕返ししないようにしようじゃないかという思想を流布したくなるのもわかる。お釈迦さんは当時その地で流行していた思想を集大成したのではないかと思われる。その北インドから中央アジア西の端にかけて当時流行の思想を、今の日本のブラック企業の中で呻吟している人々に説いても果たして心打つものだろうか。もっと現代にあった思想の必要を強く感じる。やられたらやり返すといった思想である。しかし大掛かりにやるとまた別の弊害が出るだろう。
奈良の藤原氏の氏寺である興福寺の南円堂には運慶のお父さんの康慶作の不空羂索観音菩薩坐像がおさめられているが、滅多に拝むことができないのは残念である。その横に一言観音さまのお堂がある。同じく藤原氏の神社である春日大社の横には一言主の命のお堂がある。思うに藤原氏はこの一言主の命という人に相当なことをしたのではないか。申し訳なく思ってまたは祟りを恐れて二か所にごめんなさいの建物を建てて子孫にも申し訳ないと思えと命じている。(またはごめんなさいのふりだけでもして、今後もうまい事やっていくんだよと命じている。)その後も権力伸長の際には、菅原氏を痛めつけてしまったのでその祟りを恐れて大きな神社(天神さん)を建てている。もっと他にも踏みつけにした勢力があったと思うが、目に見える形でのごめんなさいはこの二つだけではないか。
わが国の文化としては、やられたら「上手に祟ってやる」であろう。仕返しをするのは大掛かりになるのでちょっと難しいし、そのあとの反動もまたあるだろう。ここはちょっとひどいと思っている人々は皆々天神さんになって祟ってやるときである。また今勝っている方も「人々の祟りを恐れる」ことが(そのふりではなく)必要な場面ではなかろうか。
どう考えてもお釈迦さんのようになれないわたくしは、上のように考えてみた。なお、今は使う人がほとんどいないが物を作りそこなってダメになることを「お釈迦になる」という。これは、お釈迦さんの一族(シャカ族)があまりにも思弁に徹したため周囲からの攻撃に耐えられなくなり滅亡したことを由来とする。立派な理想は駄目である。自分を守るために上手に祟ることが必要である。