ヨーロッパの王と大思想家たちの真実(副島隆彦 秀和システム)②
著者はデカルトは○○によって暗殺されたと断言されている。(そんなアホなこととかいうと著者に叱られそうだからそれは言わない。)暗殺されたということは危険な人物とされたからであろう。敵対する政敵ならともかく哲学者を暗殺するとは変である。ついでにデカルトの頭蓋骨はパリのどこかにあるらしくてその写真まで添えられている。不思議な風習である。読み終わってからずいぶん経って、やっとそのことで思い当たることがある。
わたくしはもう何十年も前に、これは勉強せねばとデカルトの「方法序説」をバラの水で手を三度洗ってから本を重々しく開く(という気分で)読んだことがある。読んでがっかりした。デカルトの考えてることはわたくしの考えてることと全く同じである。それを勿体を付けた文体で表現してあるだけでデカルトの「方法序説」には何の新味もない、あれが名著とはとても思えなかった。当時の(今もだけど)わたくしはデカルトの創造した考え方(この世には物質とそれを感じるもの(これを霊というらしい。この呼び方または訳語には異議ありであるが。)の二つしかない、神はいない。)の中で生きていた。だからデカルトの「方法序説」には何の新味も感じられなかったのである。
しかし今回この本を読んでやっと背景を飲み込めた。神がすべての世の中で方法序説を発表することは命懸けのことであったろう。今とは全く違うのである。そこが理解できていなかった。その命懸けのことをしたのだからデカルトはエライ。なるほどである。これがやっと分かった。デカルトの時代背景を知らなさ過ぎたのである。日本の鎌倉とか室町時代と同じように思ってしまっていた。兼好法師を読んでも、鴨長明を読んでもなるほどそんな人いるよなと同意できる。多分だけど、鎌倉室町の時代に生まれたとしても気持ちの上では生活できるんじゃないかと思う。どうやら西洋ではデカルトの頃、気持ちの上での大変化がおこったようなのである。以降のヒトは以前の時代を気持ちの上で理解できないようになったとみられる。
それにつけても、わが日本はいい国である。(我が国に限らず東洋はいいところである。)神様はたくさんいて、あんまりあれこれ強制なさらない。現にわたしは、戎さんと大国さんお稲荷さんを信仰していて、三者とも深い拝礼はするが生まれついてのケチなのでお賽銭は上げたことがないのにお咎めがない。時々病気の時は、薬師さんの方を拝むことがあるが、(そうしてこの時ばかりはお賽銭をはずむが)このことについて戎さん大国さんお稲荷さんともに苦情を持ち込まれたことがない。