本の感想

本の感想など

映画 探偵マーロック

2023-06-18 18:30:20 | #映画

映画 探偵マーロック

 これを本で読むと登場人物の名前を憶え切らないうちに読み終わってしまって何が何やら分からないので映画で見ることにした。どうもカタカナ名前はいけない。(むかし黒岩涙香は外国小説を翻訳するときに人物に漢字名を付けた。あれに習ってくれると一遍で覚えるのだけど。)映画では名前は覚えられないが顔で覚えるから何とかついていける。それでも込み入っていて理解がうまく行かないが程よく込み入っているところが快感のタネになるという、倒錯した心理状態で帰ってきた。

 相変わらずアメリカ社会はバックグラウンドミュージックに暴力のある所で、フィクションとは認識していてもちょっと我らには移民できそうに無いところだとの認識を新たにした。儲けたいのはお互い様だけどなにもあそこまで命を張ることはあるまい。儲けることに中毒しているんじゃないのか。西部開拓に命を張ったのは理解しているが、もうそろそろ落ち着いてお金持ちの風格を出すことを考えたらどうなんだと言いたくなる。「小人は身をもって利に殉じる」状態じゃないかと脇役だけではない主役の探偵にも言いたくなる。「富者は疾行して多く財を積むもそのことごとくを用いるを得ず。」ともいう、アメリカ自身がここでいう富者になってないか。

 さて日本にマーロックさんが出張してきたらどんな映画になるだろうか。キット強い同調圧力に従う日本人を描くだろう。日本のバックグラウンドミュージックは同調圧力であろう。アメリカ社会にある暴力的傾向を我々が不思議に思うように、日本社会にある同調圧力に従う傾向をアメリカ人は不思議に思うであろう。お互い何とかしないといけないところですな。

 

  ハリウッドの内部はなかなか難しい社会になっているようだ。我が日本の芸能界も難しいところと漏れ聞く。なぜそうなるのかだれか解説してくれないかな。芸能界は権力機構のすぐそばにあるものだからかもしれない。権力機構は統治の一手段として(映画を含む)芸能界を用いる。甘粕大尉は満州で映画会社を経営した。芸能界に身を置くといろいろ利権が転がり込んだりするのであろう。そう言えば、秦の始皇帝のお母さんは踊り子出身だというし、わが源の義経の奥さんも白拍子の踊り子であったという。権力機構との関係は微妙だけどケインズの奥さんもバレーダンサーであった。探偵マーロックには関係ないけどそんなことを考えながらこの映画を見た。


映画ベネデッタを見る。③ 見ながら一休さんを思い出す

2023-02-28 12:59:06 | #映画

映画ベネデッタを見る。③ 見ながら一休さんを思い出す

 中世の修道院には、何か訳があったのでしょうがお金持ちの家の子が送り込まれるところから映画は始まります。そこでいきなり我が国の一休和尚を思い出しました。天皇の落としだねとして寺に預けられたのですからベネデッタと同じ境遇と見られます。

ところで修道院はどうやら戦乱の世の中で、争う勢力がまあこの中ではお互いに不可侵でやって行こうじゃないかと紳士協定を結んだ場なのか、修道院がこの中で争うものは破門にするとか言い出したのかわかりませんがスイスみたいに中立の場であったようです。奇しくもわが日本の中世でも寺院は中立地帯でかつ事情ある子供を受け入れる場であったようです。両者連絡を取り合ったわけでもないのに社会の中で同じような機能を果たすとはよくよく不思議なことです。もともと宗教には今は目立たないけどそういう機能があったと考えられます。

さらに修道院の中ではワインやチーズを作っていた。我が日本の寺院でも酒や味噌を作っていた。(どうやら発酵食品は製造ノウハウが複雑で自給自足できなかったようです。)ここまで一緒ならわが日本の寺院の中でもこの映画の中で写されているような権力闘争や吝嗇や宗教家としてはやってはいけない堕落があったとしても不思議ではない。一休さんは(絵本の方ではなく、本当の方です。)このご自分の堕落の方をあからさまに書いたことで有名である。印税が入るわけでもないのになぜこんなことを書いたのか不思議で仕方なかったが、この中世フランス舞台の映画を見ながら謎が解けた。

一休さんはいいとこの生まれだから権力闘争しなくてもいい立場にあるし、仕送りもたっぷりあっただろうから吝嗇する必要もなかった。ただまあ暇だったし堕落だけはあったと考えられる。周囲は権力闘争吝嗇堕落だらけであっただろう。一休さんは、ちょっとやり過ぎじゃないかと周囲に反省を求めたかった。直接週刊文春みたいに告発しても周囲の反発を買うばかりでうまくいきそうにない。ならば、自分も堕落してその様を書いて皆に回し読みさせればどうかという高等戦術に出たのではないか。これだと自分のことを書いているのだから世間は非難のしようがない。いちゃもんを付けてきた高僧には「なにもあんたがやってるとは言ってませんよ。」と言えば済むことです。実際のところは恥ずべきところあって誰もいちゃもんを付けに来なかったと推察されます。

もちろんこんなことすると一休さんはそれ以上の出世は望めません。しかしこうしてでも仲間を諫めたかったとみられる。こういう頭の回転のできる人のことを頓智のある人というのであろう。まさか子供向けにこの話をするわけにもいかないので、一休さんの子供向けのお話としてまたは頓智とはなんであるかの説明としてあのような逸話が作られたとみられる。

長年の一休さんの疑問が解けたのはいいが、いま日本人全部がどうもおかしい労働の状態にはまり込んでいる状態を打破するような頓智が私の脳みそでは出てこない。相手の説の矛盾に切り込んで相手を論破するのが頓智です。今の社会のおかしいところを真正面から議論を挑んでも無理でしょう。ここは是非一休さんにお出まし願いたいところです。

よい映画はいくらでもその場面から離れて想像があちこちに飛んで行って実に面白い。ただし、頓智は出すに至らなかったのは残念である。もう一回見たら出るのかもしれない。


映画ベネデッタを見る。② 第二のルネッサンスこれから始まるのか

2023-02-27 13:14:36 | #映画

映画ベネデッタを見る。② 第二のルネッサンスこれから始まるのか

 この映画の最大のメッセージは、女のヒトも組織の中では権力闘争するということではなく教皇大使(こんな職位は多分実際にはないと思う。教皇代理くらいの意味だと思う。)が民衆に倒されてしまう場面であろう。権力闘争をする女性たちの混乱を収拾するために登場した教皇大使が倒されてしまう。全体のストーリーからはやや独立している付け足しの話である。こういう付け足しの場面にこそ言いたいことが含まれていると思う。

実際の歴史ではペストが流行った後「神は人々を救済しなかった。」として神に対する不信が人々の心に芽生えこれがルネッサンスを準備したとされる。神よりも自分の隣近所にいる人間の気持ちも大事にしようと人間中心主義が始まったとされる。映画ではもっと過激に教皇大使が民衆に押し倒されてしまう。

 この場面を見ながら、この時期にこんな場面を挿入するとは自分たちは第二回目のルネッサンスをこれから始めるとの宣言をしているようなもんだろう。私はこの場面を見て「あ、あんな大きい石投げられたらそら痛いやろ。」と呑気に見た。しかし当時は各人の心の中の価値の体系を決めてくれる人に対して石を投げたのであるから大変な事件だったはずである。信仰の深さから言って現在の日本中の全神社仏閣に大きな石が投げ込まれるのとはけた違いの大事である。もう自分たちはあんたの言うことを聴かないとの意思表示である。ペストの時にもうあんたの言うことなんか聴かないと決心したがどうも徹底してない気がする、今度こそあんたのいうこと聴かないぞと宣言する場面ではないか。

 このことからヨーロッパでは、人々の心に関してどうも巨大な変化が起きているのではないかと推察される。日本ではまた元に戻ると思っているが、少なくともフランスイタリアではもう元に戻らないでこれから人々の心が大変化を遂げるだろうと見ているのである。神の支配はさらに薄くなると見ているのである。

 ところで私は宗教はヒトが自然から遠ざかることから発生したと考えてきた。犬猫やコオロギキリギリスが普通に持っている本能が薄れてきたのでそれを補完するために宗教を必要とするようになったと思う。この映画の中でも盛んに「神の御心」とか言っているのは(何が自分の最善手かが分からなくなってしまったので)自分はどうしたらいいですかと尋ねているようなもんだ。都市化されるとさらに本能が薄れるのでわれわれはさらに神の御心を必要とするようになるんじゃないのか。であるのにその神さんに石を投げるとは罰当たりな時代に逆行する行為な気がする。

 そこでさらにこう考えた。薄まった本能を補完するのは古い神では間に合わないでこれから始まるAIになるんじゃなかろうか。AIにお伺いをたてて物事を決める時代が始まりそうである。新しい神様に取り換えるということなのか。古い時代を舞台にしている映画であるが、そんな新しいことを考えるほど濃密な時間を過ごせた。