映画 探偵マーロック
これを本で読むと登場人物の名前を憶え切らないうちに読み終わってしまって何が何やら分からないので映画で見ることにした。どうもカタカナ名前はいけない。(むかし黒岩涙香は外国小説を翻訳するときに人物に漢字名を付けた。あれに習ってくれると一遍で覚えるのだけど。)映画では名前は覚えられないが顔で覚えるから何とかついていける。それでも込み入っていて理解がうまく行かないが程よく込み入っているところが快感のタネになるという、倒錯した心理状態で帰ってきた。
相変わらずアメリカ社会はバックグラウンドミュージックに暴力のある所で、フィクションとは認識していてもちょっと我らには移民できそうに無いところだとの認識を新たにした。儲けたいのはお互い様だけどなにもあそこまで命を張ることはあるまい。儲けることに中毒しているんじゃないのか。西部開拓に命を張ったのは理解しているが、もうそろそろ落ち着いてお金持ちの風格を出すことを考えたらどうなんだと言いたくなる。「小人は身をもって利に殉じる」状態じゃないかと脇役だけではない主役の探偵にも言いたくなる。「富者は疾行して多く財を積むもそのことごとくを用いるを得ず。」ともいう、アメリカ自身がここでいう富者になってないか。
さて日本にマーロックさんが出張してきたらどんな映画になるだろうか。キット強い同調圧力に従う日本人を描くだろう。日本のバックグラウンドミュージックは同調圧力であろう。アメリカ社会にある暴力的傾向を我々が不思議に思うように、日本社会にある同調圧力に従う傾向をアメリカ人は不思議に思うであろう。お互い何とかしないといけないところですな。
ハリウッドの内部はなかなか難しい社会になっているようだ。我が日本の芸能界も難しいところと漏れ聞く。なぜそうなるのかだれか解説してくれないかな。芸能界は権力機構のすぐそばにあるものだからかもしれない。権力機構は統治の一手段として(映画を含む)芸能界を用いる。甘粕大尉は満州で映画会社を経営した。芸能界に身を置くといろいろ利権が転がり込んだりするのであろう。そう言えば、秦の始皇帝のお母さんは踊り子出身だというし、わが源の義経の奥さんも白拍子の踊り子であったという。権力機構との関係は微妙だけどケインズの奥さんもバレーダンサーであった。探偵マーロックには関係ないけどそんなことを考えながらこの映画を見た。