本の感想

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小説 怖い厄年の話

2024-02-12 12:40:15 | 小説

小説 怖い厄年の話

 もう今からニ、三十年も前の話である。その年数えで四十二歳の厄男である安原真は、職場の皆に厄払いの善哉を振る舞った。ちょうどその振る舞った日の夜、旧知の県立A高校の校長からこちらに転勤して腕を振るわないかというお誘いの電話があった。安原は、県立B高校に大学卒業以来二十年近く勤めている物理の教師である。県立B高校は何の困りごともない職場であったが、最近買い換えた家からひどく通勤時間がかかる。その点自宅近くのA高校は魅力的であった。

何度かの交渉ののち、安原は転勤を受け入れ残りの二十年ほどを県立A高校で過ごそうと決心するに至った。四月一日A高校に赴任した安原は、まず教員が皆異様に若いのにも関わらず疲れ切った顔をしていることに驚いた。事情を尋ねると、生徒が荒れている学校なので若いのを採用してもどんどん辞めていくという。転勤は失敗と思ったが、数年辛抱してまた別の学校へ転勤するからしばらくは我慢するつもりであった。ただ毎朝安原の弁当を作る安原の夫人は、早起きしなくて済むようになったのでずいぶん楽になった。

安原が赴任した年の五月の連休明けの頃である。生活指導主任の大岡が胃に穴が開く病気で急遽入院になった。学校では喫煙や盗難だけではない、暴力沙汰や違法薬物など多くの事件が起こるのでそれに対応する主任は大変な激務である。そこで、急遽生活指導主任を選挙する職員会議が催された。当時は学校の主任は職員間の互選で選ぶのが普通であった。およそ、学校の教師というのは組織運営に関して何の技能も能力も持たない者たちである。意欲さえないのである。生徒から学級委員を選挙で選ぶように、自分たちの主任を選挙で選ぼうというのである。

ここでさらに具合の悪いことに、次の生活指導主任の候補に碌なのがいなかったことが災いのタネになった。候補は、数か月前に生徒を説教中に突然怒り出して暴力事件を起こしたまだ二十代の教師でであった。生徒は大けがをしたが、校長が八方手を尽くして事件が顕在化するのを防いだ。七十人近くいる職員のなかでこの教師を支持するのはゴクわずかであった。大抵の職員は、今度来た安原は年齢もいいし風采もよかったので、安原に票を入れようという相談があちこちでなされていた。安原は迂闊にもそのことを知らなかった。

選挙では、一回でそれも大差をつけて安原が選出された。安原は自分は困難校の経験がないこと、また生活指導主任の経験もないことを理由に涙ながらの抗議をしたが、選挙規定では選挙結果について異議申し立てを許さないとの文言があったので抗議は聞いてもらえなかった。安原は、数日ののち辞表を提出した。次の日再び選挙があって今度は暴力沙汰を起こした若いのが主任に選出された。校長は次の物理の非常勤講師の依頼に忙殺されることになった。安原を勧誘した校長も、安原へ投票した多くの教員も自分は何も悪いことをしたとは思わないでまた平常の仕事に戻った。校長も、投票した教員も自分の善意を無にされたと密かに安原を恨む所さえあったようである。

 

それからの安原は実に気の毒であった。辞職とその理由を夫人に告げると、夫人は腹を立てて二人の子供を連れて実家に戻ってしまった。それから、数週間の間安原は家に一人で住んでいたようだが姿を消してしまった。家に食べるものは何も残っていなかったが、たぶん厄除けの際に配った残りであろう、数袋の善哉のパックが開封されないまま残されていたという話である。

 

なお、県立高校における主任選挙制度はこの事件から二十年ほどしてやっと廃止された。この選挙制度は、校長への権力集中を防ぐために戦後導入された制度であった。


小説 清玄坊の出奔②

2024-01-10 14:08:02 | 小説

小説 清玄坊の出奔②

黒川の決断は実に早かった。市役所は自分の隣に住んでいるヒトが大卒で行っているから一緒になるのが嫌で寺に行くと決めた。次の日は土曜日であったので朝からその墨で書かれた紙を持って寺に出かけた。寺の入り口には拝観料五百円を徴収する係の若い女のヒトが座っているので紙を見せて来意を告げると、奥の方から作務衣を着た髪の毛を普通に伸ばした初老のヒトが出てきて案内されたところは、受付の裏にある事務室である。

大きなソファに腰かけて、作務衣の人は聞かれもしないのに真っ先に自分は何とかという有名な国立大学の法学部を出て大きな銀行に勤めていたが、事情あってこの寺の事務長になったんだと聞かれもしないのにしゃべりだした。まだ心が幼かった黒川は、この作務衣のヒトの心境を理解することができない。作務衣のヒトは、黒川に自慢しても無駄ということが分かるまでずいぶんな時間を浪費した。

この長い時間の浪費の挙句に

「仕事は、ご住職が朝昼晩三回のお勤めをするときに、衣装を着せたりお勤めをなさっているときに姿勢を正して斜め後ろに正座しているのが主な仕事であとは多少の掃除の仕事がある。お経はおいおい読めるように勉強してくれたらいい。給料は安いがいい仕事だぞ、詳しくは兄弟子に聞くがいい。どうだやるか。やるなら早速今日の昼からやってほしいんだが。前のが、駆け落ちしていなくなってしまったからヒトが居なくて困っている。やるなら今日の分から日割りで給料をだすがどうだ。うん名前は清玄坊がいい。玄とは玄妙の玄の字を使う。うちはみな苗字の一時を取るんだ、しかし黒川の黒を使う訳に行かんからな。」

と名前まで一気に考えてくれた。黒川は、まさか今日からやるわけにもいかないので、正式に退職した後で再び来るとだけ返事して帰った。

その後黒川が退職して、割り増しといってもささやかなものだが退職金を受け取った次の日の朝のことである。その日の朝から寺で勤めることになっていたのだが、黒川の姿は忽然と消えた。同時に寺の拝観料受付の女の子も消えた。作務衣のヒトは大騒ぎしたが、黒川の母親はなぜか泰然自若としていた。二人が駆け落ちであることは確実であった。母親は居場所を知っているに違いないのだがそれを喋ることは決してなかった。

ところで作務衣のヒトは、年に数回いや十数回かもしれない、東京の歓楽街をほっつき歩くのが唯一の楽しみであった。寺から離れているので知り合いには会わないであろう。東京の有名な国立大学を卒業し、メガバンクに就職したのである。本当なら今頃は本社に残ってバリバリ仕事をしているか、たとえ天下りでももっといいところへ行っているはずの身であるのにこんな仕事をしているのがみじめで、そのみじめを忘れるために歓楽街を歩くのである。大学入試前の模擬試験では全国二位の成績であったのにである。

それから三年ほどしたころのことである。いつものようにほっつき歩いているある夕方、歓楽街の目立つ場所に、大きな看板があって「清玄坊拉麺店」とある。大きくて清潔な店で、お客が数人並んで待っているほど流行っている。この時作務衣の人(と言ってもこの時は作務衣を着ているわけではないが)は、その入り口で並んで待っているお客をさばいている黒い服を着ている人物が黒川に似ているんだが、そんなはずはないと自分に言い聞かせる努力をした。

次の日の朝早く、作務衣のヒトは(こんどは作務衣を着て)門前の黒川の家がどうなっているのか見に行ったところ、家は取り壊されて猫のひたいほどの土地に草がわずかに生えているだけであった。近所の土産物屋の前を掃除しているおばさんに尋ねると、東京に出ていった息子さんが成功したのでお母さんを呼び寄せ、今は東京のどこかに住んでいるはずだということであった。この時作務衣のヒトは、自分の人生が失敗であったと思い込んで、深く落ち込んだ。小さいころから毎晩夜遅くまで塾に通ったのは何の役にも立っていないではないかと愕然とした。作務衣のヒトの給料は決して低くはなかったし、この大きな寺を一人で切りまわしていたので世間からは仕事のできるヒトとされていたのにである。

作務衣のヒトが、辞表を出していなくなったのはその日の夕方である。初老の妻だけがひとり淋しく家に残されたという。


小説 新坊ちゃん① 高校生の頃

2023-06-27 15:04:52 | 小説

小説 新坊ちゃん① 高校生の頃

 高校生の頃私は将棋が強かった。紙で拵えた将棋でクラスの大抵のと勝負して負けたことがなかったが一人だけどうしても勝てないのが居た。話に聞くところでは先祖代々暦の製作にかかわっていた人材を輩出したお家とかであった。暦の製作が将棋とは関係あるようにも思わないが彼にはとにかくよく負けた。勝ったことは一度あるきりである。勉強はいい加減にやっていたが数学だけは得意だった。しかしこの将棋の強いのは、私より数学がよくできた。この男はその後どこかの大学の教授になったらしい。

 父親は何も言わない人だったが、母親は私を医者にすることを望んでことあるごとに医学部へ行けと言っていた。しかし国公立しか授業料は出さないという。近所のだれだれは医学部へ行く決心をしたそうだ、お前も決心をせよとかの話をご飯を食べながらしていた。私は血を見るのは大嫌いであったのでなるつもりはなかったが、行かないと言うと次の日からご飯のおかずが減るのは確実であったのでいい加減に答えをごまかしておいた。母親は立派に世の中の役に立つ人間に育てようというのではない、単に儲かる業界だからという気持であった。その子供の私は親のそういう気持ちに反発してという心掛けではない、単に血を見るのが嫌なだけであった。

 そんなわけで大学進学の時は本当に揉めた。本当は文系へ行って経済学部くらいでお気楽な大学生活を送りたかったのだが、当時の私の友人はこぞってお前は営業とか一切できないから理系に行けと勧める。それでうかうかと高校の三年の時理系へ行ったのが間違いの始まりであった。私は多くのヒトの言うとおりにして碌なことがないことを人生の最初の方で学習してしまった。理系の中でも工学部は面倒くさそうでやる気が起きなかった。数学はまあ得意であったので軽い気持ちで数学でもやるかと思ったのがすべての失敗の始まりである。

 西洋の格言に「ノンシャラスはいけない」というのがあるらしい。ノンシャラスとは気にしないの意味で、わたしはあんまりにもノンシャラスに自分の人生を考えてしまった。わたしには実は数学の才能は無かった。


小説 新坊ちゃん

2023-06-27 15:02:49 | 小説

小説 新坊ちゃん 

まずこのお話は全部フィクションであることを特にお断りしておく。

たとえよく似た人物が居たとしてもそれは偶然である。わたしは拙文を書いている間どういう訳か胸中大変爽快であった。

 

序章 よっちゃんのこと

 私が小学2年の頃二軒隣りの大きな家によっちゃんと呼ばれていた男のヒトが住んでいた。佳三と書くらしいがだれもよしぞうとは呼ばなかった。小さい子供ではない、私の父親と同じくらいの歳で子供はいなかった。いつもぶらぶらしていて仕事はしていなささそうだった。

 ある寒い冬の日の朝のことである。学校に行くために家を出ると、よっちゃんの家の前の道路に茶色地に黒の縦縞の入った布団ひとかさねと白地に紺の縦縞の湯飲みひとつが放り出されていた。布団が土の上にあるのであるから汚れて勿体ないなと思いながら登校したのでよく覚えている。

 お昼過ぎに帰宅した時には、布団も湯飲みもなかった。母親にあの布団勿体ないなと言うと、母親はいつもは怖い顔しているのにこの日だけはにやにやしながら

「オマエも遊んでばっかりいたらアないなことになるねんで。」

とだけ言った。

アないなことの意味は分からなかったが、ここを追及するとまたいらざる母親のお怒りを誘発しそうであるから黙っておいた。しかし近所の遊び仲間に聞くと、よっちゃんは婿養子であったがあんまり遊び歩いたために離縁になったという話であった。たしかにその後よっちゃんの顔は見たことないし表札からもいつの間にか佳三の名前は消えていた。

わたしは小さいころから勤労精神のない人間で、それまでよっちゃんのようにぶらぶらした生活を送りたいと考えていたのであるが、この事件でわたしの人生観はかなりの変更を被った。

その後いつのことであったか、何かの折に母親がひどく腹を立ててわたしの布団を玄関から放り出しそうになった時は本当に怖かった。この時はとなりのおばさんがとりなしてくれたので、放り出されなくて済んだ。そんなわけでおばさんには今でも感謝している。同時に母親のように気性の激しい人はどうも苦手になった。