本の感想

本の感想など

日銀失墜、円暴落の危機(幻冬舎 藤巻健史、2015年1月、当時で本体1100円)

2024-05-27 11:06:42 | 日記

日銀失墜、円暴落の危機(幻冬舎 藤巻健史、2015年1月、当時で本体1100円)

 ちかごろ著者の主張通り円安とインフレになったので10年近く前にブックオフで買ったこの本を読む気になった。この人の本は、いままで数冊読んだがみな同じ中身であることに驚く。(表紙は違うのだが)この本はブックオフで110円で買った。今回も多分同じだろうと思ったが、果たして同じである。ブックオフでは、普通まず400円くらいの値段にしておいて売れないとみると100円の値札がそのうえから貼られるのであるが、これは400円を経ないでいきなり100円の値札である。ブックオフは本の値決めがなかなかしっかりしている。

 まず前半は、いかに日銀が危ないかを述べる。 難しい専門用語を並べ立てて読者を煙に巻く。それからインフレの恐怖を諸外国の実例を持ち出して読者を脅す。さらに預金封鎖と財産税の恐怖を過去の(こちらは日本の)歴史を持ち出して脅す。著者は国会議員である。こんなこと書いていていいのかと思ってしまう。書いてる暇があれば対策をたてるのが先じゃないのか。

 さて、読者がとるべき対策が後半である。前半とは打って変わってこちらはよくわかる。ドルを買えと主張する。もし10年前に著者の言うようにドルに替えておけば、金利も高いから結構利益が出たであろう。惜しいことをした。しかし、著者の主張によれば財産税の恐怖があるのであるから、せっかくの利益が税金になってしまうような気がする。そうすると、ドルを買うより美味しいものにして自分のお腹に入れてしまうのが一番いいんじゃないかとこの本に嫌味を言いたくなってくる。おなかに入ったものに対しては税金がかからない。

 藤巻さんの本を近頃本屋で見ないけど折角予言通りインフレがおこり円安になったのであるから、藤巻さんには信用が出た。是非次の対策本を書いていただきたい。(もっと素人向けの言葉を使ってであるが)

 それから、わたしの見落としかもしれないが、藤巻さんの本が文庫本になっているのを見たことがない。折角予言通りになりつつあるのであるから、文庫本に入れてはいかがか。

それとも1100円の値段にするのであるからもっと企画段階で練らないといけない本である。練っていないから恥ずかしくて文庫本に入れられないのか。


富岡鉄斎展(京都国立現代美術館)

2024-05-23 23:18:37 | 日記

富岡鉄斎展(京都国立現代美術館)

 私はむかし、自分の保身と出世のためにヒトを踏みつけにして何ら痛痒を感じない厚顔無恥な上司同僚と、自分の利益を引き出すためにどんなにヒトを利用しても平気な顧客にうんざりしたことがなんどもある。そういう時、ブックオフで贖った富岡鉄斎の画集の中ののんびりした人物を見るのを常にしていた。それは少年少女が贔屓の美女美男俳優のブロマイドを見て、今に自分もこのような華やかな世界にという思いを抱くのと同様である。今に自分もこのあほらしい連中と縁を切って自然の中でのんびりした生活を送ってやるの決意表明である。いまだにあのあほらしい連中にむかっ腹が立つので、本物の鉄斎を見に行って腹の虫をおさめようと京都まで出かけた。

 中国の山水画とは全く異なる描き方である。また大観のように朦朧とした空気を描かない。山や岩や森はそのままに写さないで、よく自分の頭の中に納めておいて十分発酵したところでやっと思い出して描いたという印象の絵画である。(だからこの世のどこにもないような岩山や森を描いている。)しかも大きな画面に細密に描くので迫力がある。人物画はほとんどないが、あるとすると寒山拾得風の欲のない風情である。鉄斎の岩山と森と欲のない人物を見るとホッとする。

 それなら鉄斎は欲のないヒトであったかと言うとそうではないだろう。攘夷の志士梅田雲浜と交際したというから激情型のヒトであったとみられる。(ミケランジェロも政治運動にかかわったというから、芸術家の中にはこのタイプのヒトも多くいそうである。)激情型のヒトの絵を見てホッとするのは道理に合わない、ホッとしたいなら直接自然を見に行く方が合理的なような気もするが、やはり鉄斎のクネクネと曲がったような岩山を見てホッとしたのである。激情型のストロングマンの描いた絵を見て一緒に強くなりたい気分がこちらにあるのだと推量する。ホットするだけではなく、信念を持った強く生きるヒトからパワーを貰いたいのである。

 自分の絵はまず「賛」から読んでくれと発言したらしいが、観客の中に「賛」を読んでいる人はまずいなかった。旧字体の漢字の意味を我々はもう取れなくなっている。意味は遺憾ながら分からないが、鉄斎が画家である前に詩人であったことは見て取れる。そうして恐るべきことに人生の一時期だけ詩人であったのではない、生涯を通して詩人であったようだ。だから絵に独特の脱俗の味わいがあってそれが一生変化しなかったとみられる。これが「強いヒト」の成り立ちであろう。鉄斎にナントかあやかりたいものである。やれ外車だタワマンだと他人にマウントをとれる立場に立つことが、「強いヒト」の条件だと思い違いをしているひとが本当に多くなった。これが、世の中の雰囲気を悪くするだけではなく、思い違いをしている本人の人生を破壊していることを、鉄斎さんにお叱りいただきたいものである。

 

 展覧会のタイトルは「最後の文人画家」というのである。それはいけない。「万巻の書を読み万里の道を往く」文人画家はもうこの人で終わりというわけではない。これからもこのような芸術家に活躍してもらわないといけない。「巨大な文人画家」とするのがよいタイトルの付け方である。

 


地獄極楽巡り図 河鍋暁斎 (静嘉堂文庫美術館)

2024-05-16 18:16:59 | 日記

地獄極楽巡り図 河鍋暁斎 (静嘉堂文庫美術館)

 暁斎のパトロンであったおそらくは裕福であった商人のお嬢さんが十四歳で亡くなったのを、悼んで作られた漫画である。もちろん画料を受け取っての仕事だと考えられる。こんな楽しい漫画を見ると、遺族はずいぶん癒されたと想像される。

 なにしろお嬢さんは、特別待遇であったと見えてお釈迦さんご自身であちこち案内するのである。お釈迦さんはどこかの寺院に納まっている仏像のような偉そうな態度ではない、旅行の添乗員のような恭しい表情でお嬢さんのそばに立っている。お釈迦さんをこんな表情に描くのは相当の画力である。お釈迦さんが閻魔大王をお嬢さんに紹介した時の閻魔の平身低頭するときの態度表情は、特に優れている。ちょうど普段は何かと偉そうで態度の悪い課長と一緒に怖い部長の前に出ていった時の、課長の態度表情を彷彿させる。

 お嬢さんを接待するときの閻魔の顔がまたいいものである。嫌だけどここは接待に努めないといけないとの表情を見事に映している。ちゃんとしないとお釈迦に叱られて、閻魔の地位を追われては大変と思っているのであろう。お釈迦さんや閻魔さんにここまで大事にされたらまああの子も幸せなんだろうとして癒されるのである。もちろんこのアイデアも大事であるが、お釈迦さんや閻魔さんの表情を描く暁斎の力がものをいっている。一冊それも十数枚の漫画だけど、気合の入った絵である。全力でパトロンを慰めようとの意欲がみなぎっている。または、釈迦閻魔までも茶にして笑い飛ばしてしまう反権力の気分も横溢している。

 

 少し前、時の総理大臣が国立漫画博物館を建てたいと提案したことがあった。野党どころか自民党内からも反対されてつぶれたようだが、もしできていれば真っ先に入れるべき漫画であろう。国立の機関に反権力のアートを入れるのは果たしていいことなのかどうかはまた別問題だが、私は入れるべきだと思う。

 明治初年の芸術家は気骨があった。こんなところまでも、反権力の雰囲気を出してきている。本気で反権力の漫画を描いたらさぞや凄かろう。アートはヒトの心を慰めるものであると同時に、時代を批判する毒を持たねばならない。役立つ漫画はどこかに毒を潜ませているものであろう。この絵は、慰めは十分ある。しかしお釈迦さんや閻魔さんの表情に時代を批判する毒を載せて、わかるヒトだけわかってくださいと言ってるようなところがある。その載せ方が見事である。


河鍋暁斎による松浦武四郎の涅槃図(静嘉堂文庫美術館)

2024-05-16 09:16:08 | 日記

河鍋暁斎による松浦武四郎の涅槃図(静嘉堂文庫美術館)

 松浦武四郎は幕末から明治にかけての北海道の探検家で、その後官を辞して古物の収集家になったという。武四郎の晩年、友人の河鍋暁斎に依頼して自分を釈迦に見立てて涅槃図を描いてもらったという絵を見にいった。実際の涅槃図では遠くから集まった弟子が嘆き悲しむのであるが、武四郎の涅槃図では武四郎の集めた古物が嘆き悲しむ姿を描くという趣向になっている。古物と言っても天神さんの絵やお多福の像などであって、これが寝っ転がっている武四郎の周囲で悲しそうな顔をしている。こんな楽しい漫画みたいな絵画はいくら見ていても見飽きない。もちろん暁斎の画力が卓越したものであるから楽しいのであるが。

 画料20円であったという。一両が一円になったはずで幕末なら一両今の5から7万円くらいか。明治はインフレも進んだはずで今の100万円前後か。こんな楽しい絵がこの値段なら私も依頼したいものである。ただし、私の場合悲しんでくれる古物がないから絵にならない。腕に覚えのある画家が、こんな副業をやってみるのは良いかもしれない。壺や茶碗のコレクターの涅槃図を描いて差し上げる仕事である。涅槃図そのものにも、価値が出てこの武四郎の絵のように美術館に多くの人が鑑賞しに来るかもしれない。子孫は、収蔵品の他に涅槃図まで受け継げるので大喜びであろう。

 

 この絵だけではなく、実際に集めた古物も展示してある。その中に西行法師の像もあって、はじめて西行の顔がひどく柔和で優しいことを知った。漂泊の思い立ちがたく縋る我が子(女の子)を蹴飛ばして家を出たひととはとても思えない。たぶん朝廷に命じられて西国(西行という名前に痕跡がある)の探索に出かけたのであろう。松尾芭蕉や観阿弥世阿弥と同じような立場ではなかったか。尤も本人が探索者である必要はなく弟子や護衛の者がその任についたはずである。西行の像を大事にしたところを見ると、武四郎もたぶん北海道探索を命じられた隠密であったろう。ちょうど007やアラビアのローレンスみたいな立場であったのではないか。ついつい江戸時代末期の政権はもう大混乱していて力がなくなってきていたみたいに思っているけど、武四郎のような人材を育てて派遣する力がまだあったのである。また、そんな厳しい仕事に従事した人が、晩年このような楽しい絵の中に納まるようなヒトであったことに何とも言えない風雅を感じる。

 実際の涅槃図では、お釈迦さんが涅槃に入ったときにおかあさんの摩耶夫人が雲に乗って現われお薬を投げるという趣向になっているが、武四郎の涅槃図ではあろうことか𠮷原の花魁が手下の女性を引き連れ雲に乗ってやってくる。肝心の武四郎の妻は黒の紋付を着て足元で泣き崩れている。(妻はごく地味に小さく描かれ花魁は華やかで大きい)こう描こうと提案したのは暁斎に違いない。厚かましく堂々としているところが笑えるところである。

 明治の初めの日本はこんなにも風雅に富んでいた。いつから引きつった顔をして笑いのない時代に突入したのか。引退したもとサラリーマンが毎日げらげら笑っているか?

 


デ・キリコ展(東京都立美術館)

2024-05-15 09:50:47 | 日記

デ・キリコ展(東京都立美術館)

 ヒトのいないか、またはいたとしても感情表情のないのっぺらぼうの顔で描いている独特の絵を見に行った。はじめ都会の憂鬱を表していてこれは都市文明に対する批判だと思っていた。美術館で初めて解説を読んで知ったことだが、この作者の絵の焦点はあちこちにあるらしい。そういえば、焦点が定まらないせいか見ていてさらに不安感が出てくる。不安なのは絵の題材だけによるのではなく、画面のあちこちを見てしまい見るところが定まらないことからくる不安定さからくるとみられる。

 お金を払って不安な気分になりに行くとは怪訝である。それを大勢の人が熱心に鑑賞するのは不思議である。この絵を何らかの思想が盛られている、それは貴重なメッセージであると思って見ると疲れるだけであって、これはデザイン画であると見ると良い。焦点があちこちにあるのだから女性のブラウスやネッカチーフのデザインにぴったりで色の使い方もインパクトがある。着こなしはたいそう難しくて、大都会の中だけで有効で田舎の結婚式にこれを着てでていくのはいけないだろう。田舎なら紅葉や桜の柄の和服であろう。キリコの絵は、大都会の中で映えるデザインである。

 我が国で同じ作風は、東山魁夷であろう。感情がなく憂鬱な印象を与えるが長く見ていると引き込まれるものがあってこれもまた良いんじゃないかとの気分になれる。ただ魁夷の絵は題材が緑の自然だからいいけど、キリコの絵は都会だから見慣れるまで時間がずいぶんかかる。

 しかし、キリコはニーチェと親交があったというからやはりキリコの絵には何らかの思想を盛っていることは間違いないだろう。ニーチェはギリシャ美学から出発して(奇しくもキリコはギリシャのヒト)反キリストの思想を打ち立てたと理解しているが、それは普通の日本人には感覚として理解できないのではないかと思う。西洋のヒトがどっぷりつかっている文化が理解できないのであるからコトバの上での理解でしかありえない。ちょうど私が、「戎さんだけではどうも力不足である、七福神全員のお力を借りねばいけない。」との説を出したとして大抵の日本人は笑いながら感覚として理解するが、西洋のヒトには何のことやら分からないであろう。それと同じことである。私にはニーチェの言ってることが感覚として分からないから、この絵に盛られているであろう思想が感覚として理解できない。

 しかし西洋文明の行き詰まりを表現したいのではないかとは推察される。ルネッサンス産業革命となかなか華々しかったが、最近は新機軸を打ち出せないままである。そりゃ空っぽの大都会ということになりますわなと嫌味を言いたくなってくる。しかし、わが日本もそのまねをしてきたのであるから空っぽの憂鬱な大都会ではないか。

 この絵を見た後所用あって、東京丸の内を歩いたが道行く人が皆華やかな装いでいかにも仕事できそう、年収は二千万に近いという自信に満ち溢れた表情である。道行く人の顔を見ながら、養老孟さんなら自然がないところがいけないとおっしゃるだろうが、私は腹の底からの笑いがないところがいけないと思った。この人々はお家に帰ってもこの表情なのか。そんならあんまり楽しい人生ではないような気がする。

 

キリコの絵にも笑いがないのである。その笑いのないところが、文明批判になってないか?ここ丸の内に来てやっとキリコの絵が文明批判であるらしいことが推測された。