本の感想

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なぜ入社してすぐやめる人が増えるのか

2024-10-03 23:32:30 | 日記

なぜ入社してすぐやめる人が増えるのか

 テレビで上のテーマの放送があり、「今の若者は自分の個性を大切にするように教育されているから、自分を活かせないと看ると会社を辞めるに躊躇しない。」が原因であるとしていた。異議ありである。自分の個性を大切にするように教育するのは、戦後すぐの教育からである。しかし、その世代の人が躊躇なく会社を辞めることはなかった。(いないわけではなかったが、やめる人は十分の準備をして大抵は自営業に近い仕事を選んだ。)いったんやめた人を再び雇う人材の市場はなかった。それが今は転職のコマーシャルはテレビの中に電車のなかの宣伝に満ち溢れている。今は転職してもいいとの風潮が世を覆っているのである。昔の世代は自分を活かせないと感じながら勤めたのである。昔は苦界に身を沈めると自嘲しながら勤める人が多くいた。どちらがいいとか望ましいとかは別である。

昔の人が辞めなかったのはそれだけではない、会社は様々な楽しみや利得を社員に提供したのである。社員は夜遅くまで働いたあと縄のれんの向こう側で、上司の悪口や会社の方針を諫める会話を楽しめたのである。または、社内人事の噂話に興じることができたのである。人は週刊誌ネタが大好きである。それも自分のごく近くにいる人のネタが大好きである。ここに眼をつけてこういう社員管理の仕方を思いついた人が昔いたのである。外に出られなくして仲間内で楽しめるゲームをする。そうして50歳55歳くらいまで引っ張るのである。

ここで女性が社会進出した。女性はこの会社に遊んでもらう人生を「その手は喰わない。」と拒否したのである。会社は社員管理の大事な手法を失ってしまった。会社は社員を愛すること赤子の如くし、(いざとなれば)社員を棄てること糞土の如くするものである。その愛するところが(女性社員が見破ってしまったので)なくなったのである。糞土のように社員をリストラするところだけが残っているのである。

私の見るところ、若い人が陸続として会社を辞めるのは、転職市場ができたことと会社が社員を愛さなくなった(または愛しているふりさえもしなくなった)ためであろう。個性を大切にするように教育されているからではない。

 


小説 日本むかし話 サルの敵討ち

2024-09-28 22:04:50 | 日記

小説 日本むかし話 サルの敵討ち

 むかし我が家は山に囲まれた山村にあった。我が家の隣には伝兵衛君というのがおかーさんと二人で住んでおった。真面目な働き者であったが、なにか人にからかわれるようなところがあっていけないことであったがわたしもからかったことが何度もあった。山にはサルの群れが住んでいたが、賢いサルたちでどんなに寒くて山のモノなりが悪い時でも里に下りてきて悪さをすることはなかった。しかし川の水場にだけは姿を現すことがあった。

さて、ある日伝兵衛君は川の水場でいつも群れで行動するサルには滅多にないことだが子ずれの母親サルと出会った。からかわれることの多い伝兵衛君はむしゃくしゃした気分だったんだろう、その二頭のサルにそのあたりに転がっていた石を投げつけた。気の毒に気晴らしに投げつけた石は子ザルに当たって大けがを負わせてしまった。母サルは子ザルを背中に負うて恨めしそうな目で伝兵衛君を見据えると山の方へ帰っていった。

その夜のことである。伝兵衛君の家の屋根に百匹以上は居たであろう多くのサルが取りつき、屋根瓦を全部揺らして緩めてしまった。伝兵衛君はいらざることをしたばっかりに、近いうちに街に出て左官屋さんに来てもらわねばならなくなったことを残念におもった。

しかし悲劇はそこからであった。伝兵衛君が街に出るよりも前に、大きな台風が村を襲った。他の家々は大丈夫であったが、伝兵衛君の家は雨が家の中に滝のように流れ込んでとても住み続けることが出来なくなってしまった。そこでおかーさんとずいぶん相談したんだろうと思うが、伝兵衛君は田畑を売って当時明治新政府というのができて江戸から東京と名を改めた街に出て二人で暮らし始めた。

私は何年も経ってから伝兵衛君から聞いていた住所を尋ねていったことがあるが、もうどこかへ引っ越したあとであった。東京に出ていって大成功を収める人は勿論いるが、失敗する人のほうが多い。何の準備もなく出ていったのである、失敗したのではないかと想像せられる。

からかいやすいヒトをからかったりするのはよくあることである。またむしゃくしゃして、ヒトをいじめることもよくあることである。しかし時としてこのような重大な結果を招くのである。みなみな余程気を付けねばならない教訓である。

わたしは、伝兵衛君に仕返しされるのではないかと台風の夜などは今でも心配になることがある。


映画 ジョーカー② 変なところだけどここに感激した

2024-09-22 23:46:44 | 日記

映画 ジョーカー② 変なところだけどここに感激した

 印象に残る映画であった。はじめそれはアメリカ文化の行き詰まりを写したところだと考えていた。アメリカの行く末を予言しているのか、ならば今後の参考にしないといけない。映画産業はアメリカの基幹産業である、そこがこのように言うのである。しかし 別のところにも見どころがありそうに思って長いことと考えていた。

 見どころは主役ジョーカーの全身を使った演技ではないか。顔に絵を描いているから表情の演技は大きくはない。セリフに特に凄く考えさせられるというものもない。全身を用いた姿勢の演技が凄い。おそらく歌舞伎でも京劇でもオペラでもバレーでも舞台芸術は、表情ではなく全身で何かを表現するものなんだろう。観客はその表現力に感激するものと思う。

 ところが映画ではアップの場面が多用されるので、ついつい観客は表情による演技に気持ちが向いてしまう。それはそれでいいが、映画でも姿勢による演技ができるし、また観客がその表現力に感激するところがあっていい。私はジョーカーの体による表現力の凄さに感激したのだと思う。

 そういえば、いい映画は脇役に舞台芸術の俳優を使って観客を酔わせる工夫がある。ロメオとジュリエットでは僧侶の役、チャンイーモウ監督の紅夢では、提灯を懸けて回る仕事をする役のヒトがそれぞれオペラ京劇の役者さんだろうと思うが、身のこなしが見事である。主役は「華」が必要なので舞台芸術の俳優さんを使わないようだけど、レッドサンではアランドロンと共演した三船敏郎が、身のこなしでは明らかにアランドロンに勝っていた。

 観客はそんな映画を見て何の得があるのか。ヒトとヒトとのコミュニケーションは、コトバや表情だけではない、全身で伝えるものであると学習するのである。われわれはあまりにも言葉に頼りすぎていることを、藁の底から理解できるのである。さすがに 明日から全身で表すよき表現者になろうとは思わないが、他のヒトを理解するのにその全身を見ようという気にはなる。それとともに歌舞伎やバレーお能や京劇も見行こうという気にもなる。いずれも音楽を聴くことが目的みたいになっているけど、決してそれだけではない。役者さんの体の姿勢から我々は何かが学べるはずである。


映画 ヒットマン

2024-09-18 21:26:25 | 日記

映画 ヒットマン

(古くからある西部劇を含んで)アメリカ映画を見て感じる違和感がどこにあるのかがやっとわかった。登場人物は自分の気持ちを語らないのである。またはその感情を描かないのである。テンポの良いストーリー展開と会話が観客には小気味いいけど、登場人物の誰にも感情移入できないままラストを迎えることになる。例えばテニスのラリーを見ていても、どちらかを応援するから感情移入しそうなものである。応援する選手のいないテニスのラリーを見ているようなものである。いい悪いではなく、それがアメリカの流儀なんだろう。 

ちょうどスマホの設計みたいなもので、頭のいい人が設計してある。しかしその人の個性は一切ない。名前のない作品である。あれだけの設計でありながら尾形光琳も葛飾北斎の署名もない。アメリカ社会に住むことは、快適なのかそうでないのかは意見が分かれそうである。ただ他の文化に染まった者がアメリカに移住すると難しそうである。真っ白な状態で移住しないと駄目である。

われわれは、都会に住んでいても何百年前の田舎の人間関係を引きずっているのであろう。だからどうしても仲間内で自分語りをしたくなるし、しないとやっていけないと考えられる。しかし近世の農業社会を経験しないでいきなり都市にぞろぞろ流れ込んで、さあみんなで都市生活しましょうと言っても、どうしていいやら分からないのであろう。だから法律とカネしか言うことがなくなる。(この映画でも盛んに出てきた)法律とカネが糊の役割を果たす。われわれは、社会の安定のために居酒屋を必要としているがアメリカはどうであろう多分ないのではないか。その代わり法廷がある。それにわれわれはおとり捜査というとかなり特殊で滅多にないものと思っているが、アメリカでは、(この映画に従えば)日常茶飯事のようである。(私の感覚では)おとり捜査は気分が悪かった。

この映画を見て、我々はアメリカ型の社会制度をもうこれ以上受け入れるべきではないと強く感じた。今まであれは自由でよいものだと思い込んでいた。自由が良いものだと思いこんでいた。適当に束縛されているほうが自分の感情を持てるのでいいのかもしれない。自由だと身を守るのに精いっぱいになってしまって自分の感覚とか感じとかを味わう時間が無くなってしまうという警告をしているのかと思う。

たぶん何人ものシナリオライターが精いっぱいの知恵を絞って会話のラリーを書いたのだろう。頭の体操になるストーリー展開であるし見せ場もある。しかも、アメリカに行ってはいけない、住むなんてとんでもないという教訓を得られる映画である。

むかし夏目漱石が小説の研究をアメリカではなくイギリスに行ったのは正解である。かの国には人物の心を描くという伝統が育たない国である。(いけないことだと言ってませんから念のため)


映画 ジョーカー

2024-09-16 21:56:27 | 日記

映画 ジョーカー

明るく振る舞うことの虚しさ(個人)といったものがテーマと見てもいいけど、私は人々は皆明るく振る舞ってるけどこの文明は衰退して止められません(社会全体)と受けとった。初出は2019年秋で2024年秋にリバイバルするのはなにか意味があるのかとそればかり考えて見たのでストーリーを追えなかった。5年間のインターバルに意味があるのか。「我々は空騒ぎで隠そうとしているけど、衰退は隠せない。」が多分言いたいことであろう。

その原因が何であるかといった分析も、ではどうすべきかというメッセージもない。ただただもう駄目だという暗い映画である。こういう映画が上演されてお客が入ることに今の世相が現れている。

逃げたいのだけどどう逃げればいいのかも分からない。見るのが苦しいけど見ながら考えねばならない映画であろう。私の場合考えて答えは今のところ見つからなかった。